デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
8節 鉄鋼
6款 株式会社浅野小倉製鋼所対東京製綱株式会社紛議仲裁
■綱文

第53巻 p.63-69(DK530015k) ページ画像

大正8年6月26日(1919年)

是ヨリ先、東京製綱株式会社ハ其分工場タル小倉製鋼所ヲ浅野総一郎ニ売却セシニ、之ガ契約履行ニ関シ紛議ヲ生ジ、両者ヨリ栄一ニ裁定ヲ請フ。栄一、両者ノ意見ヲ聴取シ、是日、渋沢事務所ニ浅野総一郎及ビ東京製綱株式会社取締役会長山田昌邦ヲ招致シ、裁定書ヲ交付シテ其趣旨ヲ説明ス。両者之ヲ諾ス。


■資料

(東京製綱株式会社) 報告書 第六三回 大正七年一二月刊(DK530015k-0001)
第53巻 p.63-64 ページ画像

(東京製綱株式会社) 報告書 第六三回 大正七年一二月刊
    株主総会
十月二十一日臨時株主総会ヲ東京地学協会ニ於テ開キ、左記目的事項ニ就キ附議シ、何レモ原案ノ通リ可決シタリ
    臨時株主総会ノ目的事項
第壱号議案
 一、小倉製鋼所ノ事業及財産ヲ権利義務ト共ニ、現投資額ニ対シ相当ノ利益ヲ収メテ希望者ニ譲渡ス事
 前項財産ノ譲渡ニ関スル一切ノ事項ハ取締役及監査役ニ一任スル事
二、小倉製鋼所譲受人ハ資本金壱千五百万円ヲ以テ新タニ株式会社ヲ創立シ、資本金ノ中金五百万円ヲ限度トシテ、東京製綱株式会社株主ニ対シ優先引受ヲナサシムル事
  前項優先引受ヲナスヘキ新会社株式ノ応募手続ハ、総テ取締役及監査役ニ一任スルコト
   (理由)曩ニ小倉製鋼所ヲ起シテ線材製造ノ業ヲ始メ、今ヤ工事将ニ完成セントスルニ方リ、時勢ノ要求ハ汎ク一般ノ鉄鋼製造業ニ及ホスヲ有利ナリトスルニ至レリ、然レトモ本業タル製綱以外ノ事業ニ巨資ヲ投スルハ、当社トシテ少シク考量セサルヘカラス、玆ニ於テ別ニ一会社ヲ組織シ、線材製造ト共ニ移シテ以テ経営スルヲ得策トスルニ方リ、有力ナル経営希望者アルヲ以テ、既投ノ資本金ニ対シ相当ノ利益ヲ収メテ之ヲ譲渡シ、而シテ当会社ト特約シテ確実ニ一定数量ノ供給ヲ受ケル事トセントス、是レ当社カ採ルヘキ最モ有利ナル方針トシテ、本案ヲ提出スル所以ナリ
第弐号議案
 定款変更ノ件
  第弐条中左ノ工場ヲ削除ス
     福岡県小倉市許斐町
 - 第53巻 p.64 -ページ画像 
         小倉製鋼所

    小倉製鋼所売渡
十月二十一日臨時株主総会ニ於テ可決シタル小倉製鋼所売渡ノ件ハ、取締会《(役脱)》ノ決議ニ依リ、金九百参拾五万八千参百七円四拾五銭七厘ヲ以テ売却セリ
   ○右小倉製鋼所ヲ母体トシテ、大正七年十二月、株式会社浅野小倉製鋼所設立セラル。


浅野総一郎 浅野泰治郎浅野良三共著 第五四七―五四八頁大正一四年二月改訂七版刊(DK530015k-0002)
第53巻 p.64 ページ画像

浅野総一郎 浅野泰治郎浅野良三共著 第五四七―五四八頁大正一四年二月改訂七版刊
 ○第八章
    八製鋼
○上略
 大正七年十二月七日、総一郎《ちゝ》は資本金一千五百万円の浅野小倉製鋼所を創立した。
 大正六・七年に亘る米国の鋼鉄禁輸から、鋼材の自給と工業界救済の大抱負を有《も》つた総一郎は、大正七年十月、東京製鋼会社《(東京製綱)》から、小倉市所在の製鋼工場の事業及契約上一切の権利義務を買収し、翌々十二月七日に創立総会を開いて、本会社を創立したのである。然るに、欧洲の戦乱は、本会社創立と前後して終熄したので、米国の鋼鉄禁輸は解禁となり、鉄価はために俄然激落し、創業早々にして既に浅野小倉製鋼所は営業上の大打撃を蒙つたのである、○下略


渋沢栄一 日記 大正八年(DK530015k-0003)
第53巻 p.64-66 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
四月二十八日
○上略
又同氏○浅野総一郎ハ東京製綱会社ト契約セル小倉鉄工場ノ事ニ関シテ種々ノ頼談アルニ依リ、山田昌邦氏ニ会見シテ再三其次第ヲ聴聞シ、目下一ノ調停案ヲ以テ浅野氏ニ示シ、同時ニ山田邸ニ紹介中ナリ
   ○中略。
五月六日 快晴 暖
午前○中略 十一時山田昌邦氏来ル、曾テ調停ヲ試ミタル小倉製鋼所ノ件ニ付其重役会ノ内容ヲ通知スル為メニ来レルナリ、依テ書類ヲ受取リ来ル十日帰京早々斡旋スヘキ事ヲ約ス○下略
   ○中略。
五月十二日 曇 暖
午前○中略 浅野良三氏ノ来訪ニ接シ、米大使ヨリ内話ノ船鉄交換ニ関スル仲裁ノ件及小倉関係ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
五月十五日 曇 軽寒
午前六時半起床入浴朝食畢リテ、浅野総一郎・良三父子ノ来訪アリ、新船舶ノ会社設立談及小倉製鉄所ノ事ニ付種々ノ談話ヲ為ス○下略
   ○中略。
五月二十一日 曇 軽寒
 - 第53巻 p.65 -ページ画像 
○上略
山田昌邦氏来リ、小倉製鉄所ノ事ニ付浅野氏トノ紛議調停ノ事ヲ協議ス、廿五日ヲ以テ帰京スルニ付、其後ニ於テ会見熟議ノ事ヲ約シテ帰京ス○下略
五月二十二日 曇 軽寒
○上略 午飧後他ノ揮毫ヲ試ム、横山徳次郎来リ、小倉製鉄所ノ困難ヲ説ク○下略
   ○栄一、是月一日ヨリ大磯ニアリ、十日一旦帰京、十七日再ビ大磯ニ赴キ二十五日迄滞在ス。
   ○中略。
五月二十六日 曇 暖
午前六時半起床入浴朝飧ヲ畢リテ、種々ノ来人ニ接ス、横山徳次郎・鈴木紋次郎・末金某等《(末兼某カ)》ノ三氏来リ、小倉製鉄所ノ談話アリ○下略
   ○中略。
五月二十八日 晴 暖
午前六時半起床入浴朝飧ヲ畢リテ多数ノ来客ニ接ス○中略 山田昌邦氏来リ、小倉製鋼所ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
五月三十日 晴 暖
午前六時半起床入浴朝食例ノ如クシテ後、八時家ヲ出テ事務所ニ抵リ小倉製鋼所ノ事ニ付、一方ハ山田昌邦・大倉喜八郎・赤松・戸村ノ四氏、一方ハ浅野総一郎・同良三・鈴木紋次郎・金子某ノ四氏ヲ会シテ紛議ノ仲裁ニ努ム、蓋シ同所ノ売買譲渡ニ関シテ両者間ニ意見ヲ異ニシ、種々ノ違却ヲ生セシ結果、甚シキハ訟訴ニモ立至ルヘキ有様ナルヨリ、客月以来中間ニ介在シテ調停ニ尽力中ナリシカ、此日ヲ以テ両者ヲ会合シテ各自ノ意見ヲ陳述セシメ、相譲歩シテ協議セシメント欲セシナリ、此日ハ双方共ニ各其意見ヲ充分吐露セシモ協定ニ至ラス、決局余ノ仲裁ヲ俟ツ事トシテ、大倉氏ト協議シテ其立案ノ事ヲ引受ケタリ
○下略
五月三十一日 晴 軽暑
午前六時半起床入浴朝飧ヲ畢リテ、浅野良三・末兼技師ノ来訪アリ、小倉製鋼所ノ件ニ付種々ノ談話アリ ○下略
   ○中略。
六月三日 晴 軽暑
○上略 横山徳次郎氏来リ、小倉製鋼所ノ事ニ付種々ノ陳情アリ○中略 午前十一時頃滝野川町役場ノ新築ヲ一覧シテ後事務所ニ抵リ、石井氏ニ会見シテ小倉製鋼所ノ仲裁ニ関スル内調査ノ事ヲ托ス○下略
   ○中略。
六月七日 晴 暑
○上略 午前九時事務所ニ抵リ、佐々木勇之助氏ノ来訪アリ、小倉製鉄所ノ仲裁意見ヲ協議ス、後大倉喜八郎氏来リ、同ク製鉄所ノ事ヲ協議ス
○下略
   ○中略。
 - 第53巻 p.66 -ページ画像 
六月十四日 曇又雨 冷気
午前六時起床入浴朝飧ヲ畢リテ髪ヲ理シ、又日誌ヲ編成ス、横山徳次郎氏来リ、小倉製鉄所ノ事ヲ告ク○下略
   ○中略。
六月二十四日 晴 暑
○上略 朝来小倉製鋼所ノ紛議仲裁ニ関スル裁定書ノ草案ヲ起稿ス、午後ニ至リ脱稿ス○下略
   ○中略。
六月二十六日 曇又雨 暑
○上略 午後三時兜町事務所ニ抵リ○中略 四時小倉製鋼所ノ事ニ関シ浅野総一郎・山田昌邦二氏ヲ招致シテ裁定書ヲ交付シ其趣旨ヲ説明ス、二氏共ニ書面ヲ受領シテ辞去ス○下略


集会日時通知表 大正八年(DK530015k-0004)
第53巻 p.66 ページ画像

集会日時通知表 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
三月一日  土  午後二時 浅野総一郎氏来約(兜町)
   ○中略。
四月廿五日 金  午前八半時 浅野良三・鈴木紋次郎両氏来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
四月廿九日 火  午後四時 浅野良三氏来約(兜町)
   ○中略。
五月十三日 火  午前九時 浅野良三氏来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
五月十五日 木  朝八時 浅野総一郎氏・浅野良三氏来約
   ○中略。
五月廿二日 木  横山徳次郎氏来訪(大磯明石邸)
   ○中略。
五月廿六日 月 午前八時  横山徳次郎・鈴木紋次郎・末兼要、三氏来約(アスカ山)
   ○中略。
五月廿八日 水 午前八時  山田昌邦氏来約(飛鳥山)
   ○中略。
五月三十日 金 午前八半時 山田昌邦氏・浅野良三氏等ト兜町ニ御会合ノ約
五月卅一日 土 午前八時  浅野良三・末兼両氏来約(飛鳥山)
   ○中略。
六月廿六日 木 午後四時  浅野・山田両氏来約(兜町)
   ○中略。
七月二日 水  午前八時  浅野総一郎氏来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
八月廿二日 金 午前九時  浅野良三氏来約(兜町)
   ○中略。
九月十五日 月 午後七時  浅野総一郎氏ヨリ御招待(田町同邸)
              (略服)
 - 第53巻 p.67 -ページ画像 


浅野小倉製鋼所関係書類(DK530015k-0005)
第53巻 p.67-68 ページ画像

浅野小倉製鋼所関係書類         (渋沢子爵家所蔵)
    裁定書(写)
東京製綱株式会社取締役会長山田昌邦君ト浅野総一郎君トノ間ニ締結セラレタル小倉製鋼所売買ノ件ハ、大正七年十月二十三日附ノ改正覚書ニ拠リテ履行スヘキ筈ナリシモ、爾後俄然トシテ世界ノ商況ニ大変化アリシニヨリ、売買両者ノ間ニ種々ノ紛議ヲ生シ、再三ノ交渉モ妥協ヲ見ルヲ得ス、終ニ老生ノ居中調停ヲ要スルニ至リ、去ル五月三十日ヲ以テ両者ノ主任者及関係ノ諸氏共ニ兜町ナル老生ノ事務所ニ会同シ、大倉男爵モ関係者トシテ参席セラレ、各自胸襟ヲ披キテ意見ヲ交換シ、相共ニ両者ノ協議ニ尽力シタルモ、詰リ両者ハ老生ノ裁定ニ一任スルコトニ同意シ、無条件仲裁ヲ依頼スル旨ヲ申出ラレタリ、蓋シ両者ノ心事ハ此係争ノ案件ヲシテ単ニ法理ノ裁定ニ委センヨリハ、寧ロ忠恕ノ互譲ヲ以テ之ヲ調停スルノ優レルニ如カストスルニアリテ、真ニ人情相愛ノ流露ト云フヘキナリ
是ヲ以テ老生ハ、従来両者トノ交誼上自ラ顧ルノ暇ナク敢テ之ニ応シ爾来右改正覚書及其他ノ書類又ハ各関係者ノ説明ニ依リテ係争ノ案件ヲ知悉シ、更ニ審思熟慮其事情ヲ斟酌シテ、玆ニ各項ヲ裁定スルコト左ノ如シ
第一 浅野小倉製鋼所株ハ半額五万株ヲ東京製綱株式会社ニ於テ引受ケ、此払込金壱百万円ハ浅野総一郎君ヨリ会社ニ取得シアル約束手形金弐百万円ノ内ヨリ振替ヘ支払フ事
 但他ノ約束手形金壱百万円ハ第二項・第三項ニ記載スル会社負担ノ金額ヲ控除シタル残高ノ半額ヲ大正九年十二月末日迄、他ノ半額ヲ大正十年五月末日迄支払ヲ延期スルモノトシ、其利子ハ年五分五厘ト定メ、浅野君ノ都合ヲ以テ期日前ノ返済ハ随意タルヘキ事
第二 三井物産株式会社ニ対スル契約原料引取ニ関シテハ、東京製綱株式会社ヨリ三井物産株式会社ヘ懇談シテ契約ノ解除ニ努メ、其差損金ハ三井物産・東京製綱・浅野ノ三者三分シテ負担スルモノトシ若シ此三分ノ示談行届カサルトキハ、三井物産ノ負担額ヲ控除シタル残額ヲ東京製綱株式会社ト浅野君ト折半シテ之ヲ負担スヘキ事
第三 工場現在品ノ受渡シニ付テハ、向後改貫ノ手数ヲ廃シ、其不足額ヲ概算金参拾万円ト認定シ、両者折半シテ之ヲ負担スヘキ事
第四 未払金五百五拾万八千余円ハ、左ノ割合ヲ以テ其支払方ヲ延期スル事
  大正九年   据置
  大正十年   据置
  大正十一年  内払金弐百万円
  大正十二年  内払金弐百万円
  大正十三年  残額全部払済
  但据置中及割払期間ヲ通シテ其利子ハ年額三分五厘トスル事
未払金ニ対スル本年末日迄ノ利子ハ、契約ノ規定ニ拠リテ年額五分五厘タルヘキ事
浅野君ノ都合ヲ以テ期日前ノ返済ハ第一項但書ノ通タルヘキ事
 - 第53巻 p.68 -ページ画像 
第五 浅野総一郎君ハ未払金ノ担保トシテ浅野小倉製鋼所ノ地所・建物・機械一切ヲ提供シ、尚ホ個人ニテ保証ノ責ニ任セラルヽ事
第六 東京製綱株式会社ニ於テ本工場ヲ創設シタル主要ノ目的ハ、ワイヤロツトノ製造ニアリシコト勿論ナレハ、向後浅野小倉製鋼所ニ於テモ充分ノ研究ヲ以テ該製品ノ完成ニ努メ、満足ノ製品ヲ得テ其価格モ舶来品ト同シキ時ハ、永ク両会社間ノ取引ヲ継続スヘキ事
右裁定ノ条項書面ヲ以テ玆ニ開陳致シ候也
  大正八年六月二十四日
                        渋沢栄一
    山田昌邦殿
    浅野総一郎殿
右渋沢男爵御裁定ノ通リ無相違履行可致候也
  大正八年六月三十日
            東京製綱株式会社
               取締役会長 山田昌邦
                     浅野総一郎


横山徳次郎談話筆記(DK530015k-0006)
第53巻 p.68-69 ページ画像

横山徳次郎談話筆記            (財団法人竜門社所蔵)
 欧洲戦乱が勃発して急に船舶の需要が増して来た時に、浅野総一郎氏は大規模な造船計画を立て、大正五年に浅野造船所を設立し、毎月一万噸位宛進水させやうと試みました。その為には鉄鈑の供給を受けねばならぬ。処がアメリカで鉄材の輸出を制限するのでどうしても自給せねば安全に事業は進められぬ。そこで大正六年に浅野製鉄所(前身浅野合資会社)を設けて製鈑事業を行ひ、原料の鋼塊は日本鋼管・富士製鋼両社から買ふ事にした処が、品質が粗悪で全然使用に堪えない。そこで自ら製鋼所を経営する必要を痛感したのです。新に製鋼所を作るにはどうしても一年掛る、処が東京製綱会社の小倉分工場を買へば、すぐに使へるし、且同社の傍系会社の日本銑鉄株式会社の工場も小倉に在つて、両者を買収すれば、銑鋼一貫作業を行ふ便宜もあるのでした。且進んで銑鉄の原料たる鉄鉱とコークスの供給に就ても研究を進めました。
 小倉製鋼所の買収の話は大正七年夏に始まつて、八月末現在の状態(所有製品・原料等一切を含む)で約壱千弐百万円(工場のみで九百三十万円、工場附属物・所有物品が約三百五十万円)で浅野総一郎氏個人で買収することゝなり、引継のため私が小倉に派遣されたのが此年十月、大戦の終る少し前でした。大戦の終つた時、浅野氏は嘆じて「夢があまりに早く覚めた」と言はれました。
 小倉へ出張して帳簿と現品とを比較すると、帳簿にあつて現品の無いもの、また数量の不足が夥しい。従つて東京製綱と面倒な交渉を進めつゝ、一方には契約書の趣旨に従つて同年十二月二十三日「株式会社浅野小倉製鋼所」を設立し、浅野氏は社長に、私が常務に就任しました。同時に浅野氏個人の債務は新設会社に移りました。
 新設会社と東京製綱の交渉は容易に進捗せず、加之鉄の価格暴落の為工場買入代金の支払は困難となり、実に面倒な事件になつて来まし
 - 第53巻 p.69 -ページ画像 
たので、私は両者の最も信頼する渋沢子爵に裁定をお願ひする事を提議致しました。東京製綱側の代表者赤松範一氏は「東京製綱会社はもとより、自分は個人として、先代以来子爵の少なからぬ眷顧に与つてゐるから、子爵の裁定には無条件で服せねばならぬ、と同時に自分は会社の取締役として株主の利益を擁護する責任がある。子爵を患はすことは、自分がこの両者の板挟みになるので、甚だ迷惑を感じる」と言はれましたが、子爵自身この騒ぎを傍観しては居られないと言つて乗気になつて居られるので、止むを得ず従つたやうな次第でした。
 子爵のこの問題に対する態度を伺ふに「大戦の影響に依る好況時に実業界で取結ばれた契約には、正気の沙汰と思はれないものが多い。この問題も正にそれで、平和の今日に契約そのまゝを履行させやうとするのは、狂人の所業を常人に強ふるものである。また別の譬を用ふれば、卓の端に置いたコツプを落して割つた場合に、落した方にのみ責任があるやうに言ふのと同じである。若しアホウ鳥がゐて小倉分工場を買つて呉れなかつたなら、戦後の東京製綱は今日の東京製綱たり得まない。また浅野は、一時の好況に際して造船所を作つた事が既に宜しくない。しかるに拡張また拡張を続ければ、後に大きな苦痛を受けるのは当然である。結局落度は両者にあるにも係はらず、両者共に得手勝手な事ばかり言つて、互に譲合はない態度を先づ改めなければいけない。自分は専ら中正の態度を以て之に望むのであるから、両者共に定めし不満足であろう。一方が満足し、一方が不満足ならば、公正な裁定とは言へない。公平な裁定には両者共に満足はしない筈である」と言はれました。
 小倉製鋼所が東京製綱の所有だつた時代に、古河鉱業・三井物産両社から多量の銑鉄買入契約を結び、浅野小倉製鋼所が引継ぎました。
之を全部背負込んでは、浅野小倉は破産せねばなりませんので、契約の解除に努めた結果、古河の方は承知して呉れましたが、三井の方はどうしても承知しないので、子爵は裁定書第二項に、この交渉に対する方針を示され、且三井物産に対しても、いろいろに話して下さつた結果、物産も子爵のお言葉に従つて、契約は解除し、それに伴ふ損失金を三者等分しました。之は新設会社にとつて、誠に有難いことでした。
○下略


渋沢栄一 日記 大正九年(DK530015k-0007)
第53巻 p.69 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
二月八日 曇 厳寒 朝来雪模様ニシテ寒威強ク、午後二時ヨリ雪降リ、夜ニ入ルモ歇マス、寒気甚シ
○上略 夜食後横山徳次郎・末兼要二氏来リテ、小倉製鋼所ノ経営状況ヲ談ス、又日本鋼管会社ニ於テ鋼塊製造ノ事ニ付種々ノ協議ヲ為ス、更東京製綱会社関係ノ工事ヲ談ス○下略