デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
13節 土木・築港・土地会社
3款 田園都市株式会社
■綱文

第53巻 p.370-373(DK530061k) ページ画像

大正10年3月16日(1921年)

是日栄一、報知新聞記者ノ来訪ニ接シ、田園都市建設ノ動機及ビ其計画等ニツキ語ル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK530061k-0001)
第53巻 p.370 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
三月十六日 曇 軽寒
○上略 報知新聞社員来リ田園都市会社ノ事ヲ談ス


竜門雑誌 第三九五号・第五一―五二頁大正一〇年四月 ○田園都市計画に就て(DK530061k-0002)
第53巻 p.370-371 ページ画像

竜門雑誌 第三九五号・第五一―五二頁大正一〇年四月
○田園都市計画に就て 左は報知新聞記者が青淵先生を訪問して、田園都市計画に関する意見を聴収し、三月十七日の同紙に掲載せるものなり。
 渋沢子爵が実業界を引退したのは今から既に十年も前の事だが、其れからの子爵は只管「東京の将来」と云ふ事のみを思ひ続けて来た殊に八年前三度目の欧米視察を終へて帰朝した子爵は「東京」が只乱雑に膨脹して行くばかりで、其処に系統も調和も無いのをまざまざと見出すと凝然としては居られなかつた、子爵が田園都市の計画を思ひ立つたのは此の時である、「私が三十年からの長い併し貧しい経験に徴して見ても判ることだが」と今朝飛鳥山の子爵邸を訪ねると、高貴か何かの平常着に白縮緬の帯を無造作に巻き付けて快く話し出す、「一体事務所と住宅とが一つ場所と云ふ事は甚だ不自然だと思ふのである、例へば家の前の方が店になつて居て、奥の方に家族が居ると云ふやうなのはねと」笑ふ、「其処で何うしても事務所と住宅とは截然と別にしてしまはねばならない事になる、すると今の東京の有様では所詮斯う云ふ贅沢な事は出来ない、私が田園都市の建設を思ひ立つたのは是からである、殊に東京は紐育とか倫敦のやうに上に発展することは出来ない状態にある、仮へば七階の建築物を建てるとか又は十階の会社を建てるとか云ふ事は思ひも及ばぬ、勢ひ横に広がるより外ない」子爵は元気よく話し続ける、「さうすると、差し当り府下の方に膨脹して行くやうになる、が只調和も系統もなく膨脹して行くのでは、非常に都市の衛生とか或は美観とか云ふものを害ふ事になるのは判り切つた事である、私が折角骨を折つて今度府下に四十三万坪程の地を得たから、其れを広く一般に開放して、理想的の田園都市を建設して見たいと思ふのである」と、此処に府下と云ふのは荏原郡の千束平塚村に繋つて居る八万坪と碑衾村の七万坪とそれから多摩川に沿つた廿六万坪である、「是等の地所は何れも所有者が進んで低廉に売り渡してくれたので、今住宅難に苦しむで居る中流階級の人々に十年とか又は十五年の年賦で極めて安く売つて、理想的の都市を造るやうにしたい、只で貸すこともいゝが其れでは乱雑にもなるし、全く整理維持が出来ないから、其処で相談の上安く年賦で売ることに決めたのである、而して将来決して地価の値上げをしない事にした」と、既に此の三月初旬
 - 第53巻 p.371 -ページ画像 
迄に申込者が六十人程もあつたと云ふ程だし、其れに伴つて田園都市会社が子爵の肝煎りで出来上つた、「併し此処に住む人には一つの条件がある、其れは此処に住む人は総てが同時に団欒し合ふ事が出来、又楽しむ事が出来るやうに家を建てるといふ事であつて、例へば隣の家の桃や桜の花は此方からも見得るといふやうにする、而して皆なが同時に楽しむ事が出来る様にする、此れが一番大切な事である、しかし是れのみでは未だ理想的ではない、先づ交通機関を設ける、上下水道の設備、それから灯火、一大遊園地や公園」と子爵は熱心に「更に学校・電気鉄道の敷設・電信電話局・動物園と云つた風に立派な都市を造る積りである」と、畢り子爵の理想は此土地を米国のユニヴアサル・シテイの様にしやうと云ふのである。


田園都市案内 田園都市株式会社編 第一―七頁大正一二年一月刊(DK530061k-0003)
第53巻 p.371-373 ページ画像

田園都市案内 田園都市株式会社編 第一―七頁大正一二年一月刊
    一 田園都市会社の事業
◇ 田園都市の理想 田園都市と云ふ言葉はその起源から考えて見ますと、今日我国で用ひられてゐる意味は少しその趣を異にしてゐるやうに思はれます。本社の如きも田園都市株式会社と云ふ商号を用ひて居りますものの、英国で田園都市と銘を打つて創めた事業の内容に比べますと大分相違した点もありますから、玆に簡略ながら田園都市と云ふことに就て一言申述べやうと存じます。
 一体此種類の事業は欧米諸国に於て十九世紀以降工業の勃興が著しくなつた結果、都市の人口過剰とか労働者の生活悪化とか云ふやうな恐るべき弊害が生じて参りました為め、之が対応策として労働者の住宅改善と云ふ問題が永い間種々攻究されて参つたのであります。現在私共が国内の大都会で目撃してゐるやうに、西洋でも新工場がドシドシ大都会に接続して造られたのであります。勢い此処に通勤する労働者は都市の場末に蝟集せざるを得ません。従つて都市としては過群状態に陥り、労働者としては不衛生な生活を営む結果になりました。是等に基因して労働者に及ぼす神身の害悪は、或は死亡率を増大し、或は飲酒博奕の悪癖を助長し、延ひて各種の悲劇や犯罪を産むに至つたのであります。そこで欧米の識者はこの欠陥を補ふ為めに色々と研究を重ねた揚句、大都市から数十里隔つた原野に新しい工業市を建設して、労働者の為めに安価な住宅を提供する計画を始じめたのであります。その結果、労働者は工場を中心として出来上つた新市街の住宅地域に保健的な生活を営んで、所謂ホームに対する愛著の念を覚え得ると同時に、唯さへ過群状態に陥つてゐる大都市の場末に、又々人口の過集を惹起するの危険を避け得られると云ふ利益があるのです。そして、この企に田園都市と云ふ名称を冠して大規模に実行したのが倫敦を去る三十五哩ばかりのレツチウオースに建設された工業中心の住宅地で、千九百三年九月一日に設立された第一田園都市株式会社の経営に係るものであります。この会社は英人エベニーザー・ハワードが自著の書物の中に田園都市と称へて説いた処の理想を兎に角にも具体化した第一の試でありますが、ハワードの説く処に依れば田園の長所と都市のそれとを結合した新工業市を造れば、例へば都会に於ける空気
 - 第53巻 p.372 -ページ画像 
の濁つてゐること、採光の充分でないこと、天然の風物に接し得ないこと等の短所は之を田園が補ふ一方、交通の便が悪いとか、社交的設備がないとか、日常の用達に不便であるとかいふ田園の短所は新市街の施設に依つて完備される結果、田園都市に居住するものは他の都へ用達に出掛けないでも事足りると云ふ意味に於て、自給自足の都市を建設することが出来る。然らば工業の勃興に依つて起る害毒は一切除かれた上に、田園都市居住者は天然の美を楽みながら都市の便益を受け得られるといふ楽土の現出を理想としたものであります。
 今試に上に述べた様な意義に於ける田園都市の要件として具備しなければならぬ地域を挙げますと凡そ左の四つであります。
 一、商業地域(市街中心地)生活上欠くべからざる日用品・食料品其他の店舗並に社交・娯楽等に必要な設備ある地域。
 二、工業地域 工場所在の地域。
 三、住宅地域 工場通勤者を主とする居住者の住宅所在の地域。
 四、農業地帯 上述の三地域を囲繞する耕作地帯。該地帯は田園都市の田園たる美観と実益とを供する傍、将来都市の周囲に建込んで来る住宅に対して緩衝地帯となるもの。
 是れに依つて観るも田園都市なるものは、元来労働者の生活改善を目的として居るものであることが能く解りますが、都会生活の脅威を受けて生活の不安を痛感するもの豈に労働者のみではありません。殊に吾国の如き都市設備の不完全な所では一層其感深きものがあります都会生活の必要を感じ乍ら、而かも其生活に満足し得ないのは貴族富豪階級を除き現在多数者の心理ではないでせうか。私共は之等の人々の為めにも田園都市を造りたいと思ひます。さり乍ら都市集中の趨勢激しき今日、大都市を離れて生活資料を自給し得る新都市を建設するのは至難のことであります。故に一方に於て大都会の生活の一部を為すと共に、他方に於て文明の利便と田園の風致とを兼備する大都市附属の住宅地ありとせば、如何に満足多きことでありませう。此の目的に添ふ住宅地の要件としては私共は凡そ次のことを要求したいと思ひます。
 一、土地高燥にして大気清純なること。
 二、地質良好にして樹木多きこと。
 三、面積は少くとも拾万坪を有すること。
 四、一時間以内に都会の中心地に到達し得べき交通機関を有すること。
 五、電信・電話・電灯・瓦斯水道等の設備完整せること。
 六、病院・学校・倶楽部等の設備あること。
 七、消費組合の如き社会的施設をも有すること。
 右の如き住宅地を単に郊外市と呼捨てるのは余りに物足りなく思ひます。天然と文明、田園と都市の長所を結合せる意味に於て同じく田園都市と呼ぶも強ち不当ではあるまいと思ひます。そして我社の田園都市は即ち此種類のものなのであります。つまり我社の建設しつゝある新市街は、本来の田園都市の地的要素として第二に掲げました工業地域に易うるに東京市といふ大工場を所有してゐるとも見られる訳で
 - 第53巻 p.373 -ページ画像 
しかもこの大工場への通勤を便ならしむる高速度の電車が時間の上で距離を短縮致しますから、所謂田園都市に於ては工業地域の工場へ通勤する労働者の住宅地を主眼とするに反して、我が田園都市に於ては東京市と云ふ大工場へ通勤される智識階級の住宅地を眼目と致します結果、勢ひ生活程度の高い瀟洒な郊外新住宅が建設されて行くことは自然の数であると存じます。そして経済上・衛生上将又道徳上、漸次に悪化されつゝある市内生活の脅威に対する緩和剤としても一臂の力添を致すことも出来やうかと考える次第で御座います。
○下略


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK530061k-0004)
第53巻 p.373 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
三月十七日 晴 寒
午前七時半起床入浴朝飧例ノ如ク○中略 畑弥右衛門・小杉某二氏来リ田園都市ノ事ヲ談ス
○下略


集会日時通知表 大正一〇年(DK530061k-0005)
第53巻 p.373 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
八月三日 水 午前十時 田園都市会社重役会(同社)


集会日時通知表 大正一一年(DK530061k-0006)
第53巻 p.373 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
二月廿五日 土 午前十時 田園都市会社ノ件 同社楼上
   ○中略。
四月三十日 日 午前十一時 田園都市会社ノ件(同社)
   ○中略。
十月廿一日 土 夕後五時 田園都市会社諸氏招待会(飛鳥山邸)
   ○中略。
十一月六日 月 午前八時頃カラ 畑弥右衛門氏来約(飛鳥山邸)


(増田明六) 日誌 大正一一年(DK530061k-0007)
第53巻 p.373 ページ画像

(増田明六) 日誌 大正一一年     (増田正純氏所蔵)
十一月十一日 土 晴
○上略
竹田正智氏来訪、故伊藤登喜造氏遺族ニ関する件、畑弥右衛門計画土地会社ニ関スル件、田園都市会社枕木ニ関する件ニ付てなり
○下略


渋沢栄一 日記 大正一二年(DK530061k-0008)
第53巻 p.373 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
一月六日 晴 寒
○上略 午後七時帰宅、夜飧後、竹田政智氏ト田園都市会社ノ事ヲ談ス、来十一日ニハ小林相談役出京スヘキニ付来京ヲ待テ一会ヲ催スヘキ事ヲ指示ス、明石照男来リ、石川島造船所ノ件及田園都市ノ事ヲ内話ス
一月七日 晴 寒
○上略 明石照男来リテ田園都市会社ノ事及石川島造船所ノ事ヲ談ス○下略