デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
13節 土木・築港・土地会社
3款 田園都市株式会社
■綱文

第53巻 p.391-399(DK530065k) ページ画像

昭和3年5月5日(1928年)

是日栄一、当会社解散記念トシテ、当会社社長矢野恒太ヨリ金一封及ビ銀製フルーツ・セット一組ヲ贈ラル。


■資料

田園都市株式会社株主書類(DK530065k-0001)
第53巻 p.392 ページ画像

田園都市株式会社株主書類         (渋沢子爵家所蔵)
(朱書)
(写) 記
一金壱封    (在裡品ハ金壱千円の小切手ナリ)
一銀製フルーツ・セツト壱組
右解散記念トシテ贈呈仕候也
  昭和三年五月五日      田園都市株式会社
                  社長 矢野恒太
    子爵 渋沢栄一殿
  備考、本書は飛鳥山邸へ直接届きたるものにて、増田は子爵より之を示され礼状を出す様と申付けられたり、尚右金壱千円は飛鳥山邸令夫人保管され子爵並令夫人にて適宜ニ使用せらるゝ筈と子爵より承はる 明六
    昭和三年六月四日


(増田明六) 日誌 昭和三年(DK530065k-0002)
第53巻 p.392 ページ画像

(増田明六) 日誌 昭和三年      (増田正純氏所蔵)
五月廿九日 火 晴               出勤
朝子爵の御召ニ依り飛鳥山邸に参上した、田園都市会社より同社解散記念として寄送品を受けた礼状を出す様と命せられた
○下略


渋沢栄一書翰控 矢野恒太宛 昭和三年六月七日(DK530065k-0003)
第53巻 p.392 ページ画像

渋沢栄一書翰控 矢野恒太宛昭和三年六月七日 (渋沢子爵家所蔵)
  (奉書巻紙ニて郵書と為す)            明六
拝啓 時下益御清適賀上候、然ハ今般御社株主総会に於て解散を決議せられ候趣ニて、其解散御記念として左記の通御贈与被下御厚意難有正ニ拝受仕候
 一金壱千円
 一銀製フルーツ・セツト壱組
御社が首尾能設立当初の目的を達し所謂有終の美を収めて解散を告くるニ到られしハ、創立者の一人として又爾来多少とも御援助致来候小生としては衷心よりお悦申居候と同時に、其此処に至れるは貴台始め重役各位並職員御一同の不断御精励の結果と深く感謝の意を表候次第ニ御座候
小生去四月下旬以降病気の為め引籠《(続カ)》き引籠り加養罷在候次第ニて、御挨拶も延引ニ相及ひ恐縮之至ニ御座候 以上 敬具
  昭和三年六月七日
                      渋沢栄一
   田園都市株式会社
    社長 矢野恒太殿


集会日時通知表 昭和四年(DK530065k-0004)
第53巻 p.392 ページ画像

集会日時通知表 昭和四年          (渋沢子爵家所蔵)
十月廿三日 水 午後四時 渋沢秀雄様催
             旧田園都市関係諸氏招待会(飛鳥山邸)


竜門雑誌 第四九四号・第八五頁昭和四年一一月 青淵先生動静大要(DK530065k-0005)
第53巻 p.392-393 ページ画像

竜門雑誌 第四九四号・第八五頁昭和四年一一月
 - 第53巻 p.393 -ページ画像 
    青淵先生動静大要
      十月中
廿三日 渋沢秀雄氏催旧田園都市関係者招待会(曖依村荘)


(篠原三千郎)書翰 渋沢栄一宛(昭和四年)一〇月二六日(DK530065k-0006)
第53巻 p.393 ページ画像

(篠原三千郎)書翰 渋沢栄一宛(昭和四年)一〇月二六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
                 (朱書)
                 「10/28篠原三千郎氏来状」
拝啓 秋冷之候ニ候処尊堂益々御清祥慶賀此事に奉存候、扨て先夜は旧田園都市関係者一同と御寵招に預かり誠に難有厚く御礼申上候、申す迄もなく右会社之成功は一に老子爵閣下之威望の下に達成せられ、吾等之与る所極めて薄きに拘らす、特に御手厚き御招宴と御慰労之御詞とを賜はり感佩在罷候
先夜は御風気之様御見受申上候処、最早御全癒之事とは存し候へ共、為邦家御自愛専一に奉祈上候、乍略儀以書中右御礼迄匆々如斯御座候
                           敬具
  十月廿六日
                  篠原三千郎拝
    渋沢子爵閣下



〔参考〕渋沢栄一書翰 八十島親徳宛明治四一年八月一三日(DK530065k-0007)
第53巻 p.393 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛明治四一年八月一三日 (八十島親義氏所蔵)
○上略 又例之畑弥右衛門と申人竜門社ニ入社し、且竜門雑誌中老生之演説又ハ談話有之候分可成一覧致度と申出有之候ニ付、貴所ニ頼入候ハハ心配可致旨申通候筈口約之儘失念仕候、是又申出候際可然御取扱可被下候○下略
  八月十三日
                      渋沢栄一
    八十島親徳様
         梧下
○下略
   ○封筒ニ「於函館谷頭勝田屋」ト記セリ。



〔参考〕渋沢栄一書翰 大橋半七郎宛(明治四五年)三月二五日(DK530065k-0008)
第53巻 p.393-394 ページ画像

渋沢栄一書翰 大橋半七郎宛(明治四五年)三月二五日 (大橋半七郎氏所蔵)
爾来益御清適御坐可被成抃賀之至ニ候、過日ハ御細書被下御令息之義ニ付縷々御申越相成拝承仕候、佐々木氏へも同様之来書有之候由ニ付而ハ、御本人出京面会を得候上ニて何分之御助力可仕と存候
玆ニ一書を以て御紹介申上且御心添相願候義ハ、此書状持参之人ハ越中人ニて、十数年前より朝鮮地方ニ於て事業経営致来候畑弥右衛門と申者ニて、老生別ニ利害関係等ハ毫も無之候得共、数年来時々来訪せられ、経済上又ハ社会上之事共ニ付愚見を叩き候を唯一之楽事と致候とて、出京之際ニハ必す両三回之訪問も有之、至極親善之間柄と相成候、尤も同人ハ朝鮮ニ於て竜山と申土地ニ放資せしも、其事業ニハ終ニ失敗し否運ニ遭遇せし由ニ候も、性質勤勉且誠実之人にて、債権者ニ対し正直之行為を以て償還之義務を果し候為め、損毛を受候人々まても同情を表し候由ニ御坐候、而して畑氏ハ今般感する処あるを以て
 - 第53巻 p.394 -ページ画像 
衆議院議員之候補ニ相立候決心ニて、朝鮮ニ於る多数之助力者を得候より、先頃来出京ニて其段老生へも申談有之候間、従来御熟知之如く老生ハ政事界ニハ全く無関係の身柄ニ候得共、畑氏之人物前陳之如く正誠忠実ニして頗る精力家ニも有之候ニ付、自然今日之弊風矯正候事も出来可致歟と、乃ち其需ニ応して二・三之添書抔も相認候次第ニて過日既ニ高広氏其他二・三氏へ書状もさし出候義ニ御坐候、就而ハ貴台畑氏御面会之上篤と其心事をも御聞合被成、幸ニ御同意ニ候ハヽ、高広君其外へも御引合被下候様頼上候、尚委細本人より可申上候得共前段爾来之事情御諒納被下候為め匆々如此御坐候 拝具
  三月廿五日
                      渋沢栄一
    大橋盟兄坐下
大橋半七郎様 親展 渋沢栄一
(後筆) 「大正元年」 三月廿五日 畑弥右衛門氏 持参



〔参考〕竜門雑誌 第四七八号・第八三頁昭和三年七月 ○諸家の青淵先生観(上) 子爵と論語 韋編三絶の例 矢野恒太(DK530065k-0009)
第53巻 p.394 ページ画像

竜門雑誌 第四七八号・第八三頁昭和三年七月
 ○諸家の青淵先生観(上)
    子爵と論語
      ==韋編三絶の例==
                      矢野恒太
 渋沢子爵と同じく私も実業界に居るけれども、渋沢系統の事業には別に関係もせず、又、私の事業にも子爵は全く無関係に立つてゐた。
 所が、数年以前から、子爵が田園都市会社を発起せられた時、第一生命が株を引き受けることゝなつた。そのために子爵と直接関係はないが、子爵の令息が其の会社の重役となられたので、それで偶然事業の上で多少の関係が生じたが、これとても子爵は高い所から見て居られ、何も直接に口は出されなかつた。然るに市原前社長が逝去されたので、私は田園都市・東京横浜両鉄道の社長に推され先月まで任に在つた。これが渋沢子爵と事業を共にしたことにならうか。けれども私は先月以来右の各会社及び三井信託の重役等全く辞任することゝなつた。
 渋沢子爵は論語を読まれる。私もまた論語を読む。その関係から、斯文会でお目にかゝり、又湯島の聖堂の復興にも子爵は尽されたが、私もこれに関係した。其他公の会合で、政府から依頼された仕事を一緒にすることがある。
○下略

 - 第53巻 p.395 -ページ画像 


〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第二七七―二七八頁昭和三年一〇月 渋沢子爵に就て 服部金太郎(DK530065k-0010)
第53巻 p.395 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第二七七―二七八頁昭和三年一〇月
    渋沢子爵に就て
                        服部金太郎
○上略 又余が関係したる事業にて、子爵の御尽力に依り成功せるものの中二つの土地会社がある、一は朝鮮興業会社、一は田園都市会社である。朝鮮興業会社は無論子爵の御尽力に依りて設立されたもので、社長には尾高次郎氏が推され、余は子爵の指名でホンの名のみの監査役にあつたが、当時済々多士の同社は其業績著しく挙り、尾高氏病歿後は大橋新太郎氏其後を襲ひ、引続き其経営宜しきを得たる為、社運益隆昌に趣き、現に同会社株式の価格は払込額の二十四割強に昂騰せる実況である。而して又田園都市会社の如きは最初より子爵の勧奨と後援とに依りて設立せられたものであつて、現今社長は矢野恒太氏其任に当つて居られるが、是亦朝鮮興業会社よりより以上の良績を得て居るので、其株式の価格は実に払込額三倍半といふ異常な業績で、社運は弥増隆盛である。此等は子爵より見れば区々たる事業であらうけれども、共に斯の如き盛況を呈するに至つたのは、重役諸氏の経営宜しきを得たるは言ふ迄もないことであるが、其最大原因は、子爵が其の声望の隆と先見の明とを以て、之が勧奨後援をなされた多大の賜であるといふ事は争はれぬ事実である。
○下略



〔参考〕(河野光次)書翰 渋沢栄一宛(昭和未詳年)九月二六日(DK530065k-0011)
第53巻 p.395 ページ画像

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〔参考〕竜門雑誌 第四九八号・第三四―三六頁昭和五年三月 東京市に於ける社会施設の理想論 賀川豊彦(DK530065k-0012)
第53巻 p.396-397 ページ画像

竜門雑誌 第四九八号・第三四―三六頁昭和五年三月
    東京市に於ける社会施設の理想論
                        賀川豊彦
○上略 月給百二・三十円から多くも三百円位の人は住宅組合を造ることが一番いゝと思ひます。(個人的経営にすると失敗する)日本の住宅組合は、くだらぬものが多いですが、之を旨くやつて行くには矢張市が干渉し、市が指導して住宅組合を造つてやるのが一番宜いと思ひます。さうして其住宅の経営は田園都市として、人口三万三千以上の都市は造らぬ。一体日本の都市は大き過ぎます。一番宜いのはハーバート・ナーが今から五十年程前に主張した所の、田園都市を造れば宜いと思ひます。所が日本では名前は田園都市だけれども、其実は田園都市ではありません。あれは田舎の貧民窟です。大阪附近の田園都市の如きは最も甚しい。東京の洗足の方面は少し田園都市のやうな風に行かうと思つたのでせうが、実際は田園都市になつてゐません。あんなものを造つたつて仕方がない。あれは田園の都市であつて、本当の田園都市ではありません。真の田園都市と云ふのは、少くも自分の畑から一年間を通じて青い物を取り得る所でなければなりませぬ。所が所謂田園都市には菜園と云ふものがありません。少くも一段なり二段なり、多い所は三段・四段位は畑の附いたものを持つやうにしなければなりませぬ。それには今のやうな方法でなく、自分で経営をしなければなりませぬ。初から利益を離れて、持分と云ふものを其処に住む人が決めて持つやうにし、金持があつても、丁度英吉利に於けるチョコレート会社のカントベリーがやつて居るやうに、或はロンツリーの経営したやうな方法を取つて、最初の持分は斯々である。出て行く人は利益を取つて売るなと云ふ所まで、ちやんと徹底しなければなりませぬ。之は日本では宣教師の団体が野尻湖で経営して居ります。あれは最初買つたときの価格以上に多く売れません。坪二円で買つたならば末代まで坪二円で売らなければならぬ、斯う云つた方法でやるならば家屋と云ふものは相当に旨く行くであらうと思ひます。それが田園都市であります。さうすれば菜園の附いた家に落付いて住むことが出来子供も家族も愉快に暮すことが出来ます。私は日本で田園都市として一番良いのは大名の町だと思ひます。日本に都市計画を以て造つた町は大名町であります。例へば松山の如き或は高知の如き徳山の如き、其他沢山ありますが、大抵田園都市です。一段歩位大抵屋敷の中に這入つて居ります。表は立派な士族屋敷ですが、裏は菜園であつて、そこに太陽が輝いて空気が清い。実際昔の大名と云ふものは考へたものです。薩摩の所謂都城と云ふのが田園都市であります。即ち士族が皆屯田兵となつて住込み、其屯田兵となつて住込んだ士族の連中が、維新の元勲になつたのです。毛利家に於ける隼人も同じことです。田園都市に住まぬと私は人間が発達しないと思ひます。田園都市も唯一毛作ではいけない、詰り本当の田園都市と云ふものは前申しました栗なり団栗なり胡桃なり或は柿なりを作り――(柿とか林檎とかは余り感心しませぬ、あれは嗜好品であつて腐るものです)田園都市から出来
 - 第53巻 p.397 -ページ画像 
るものは、二年続いても三年置いても腐らぬやうなものを作らなければなりませぬ。聖書の中に智恵の実を食つた人間を追払つたと云ふことがあります。胡桃・団栗など云ふものは腐りはしませぬから、何年置いても命の糧になる。それを初から作つて置いたら、神様は罰しない。澱粉・脂肪・蛋白などの全然ない林檎や柿や梨などを食ふものだから人間は堕落してしまつたのだと思ひます。私はもう一度本に復つて林檎や梨や柿を食ふことを止めて澱粉・脂肪・蛋白に富む木の実を食ふやうにしなくてはならぬと思ひます。だから田園都市にはさう云つたやうなものを植えて欲しい。聖書の中にそれを書いてあります。新約聖書ヨハネ黙示録の二十二章の初めに、真の都会と云ふものは、都会の真中に生命の河があり、河の両脇に生命の樹があつて、十二種の実を結び、其実は日毎に生じ其樹の葉は諸国の民を医すなりと書いてあります。是は理想の理想であります。地球の表面に毛のやうに生へて居つた樹を伐つてしまつて禿山にしてしまふ、さう云つたやうな平面の農業と云ふものは、文明に背馳して居ます。真の文明と云ふものは大体立体的に地球に刻み込むことであつて、それが本当の農業であります。だから農業は工業・商業と同じやうに立体化するのが一番宜いと思ひます。それには高い樹木を植えて、天然の脂肪・蛋白・澱粉を採るやうにすれば宜いのですから、結局永久農業は樹木であります。ですから田園都市に於ては真中に野菜を植えると同時に、他面に於ては樹木を植えるやうにして、嗜好品の蜜柑とか柿とか、さう云つたやうなものは出来るだけ周囲に植えたら宜いと思ひます。私はさう云ふ理想論を話してゐるのでありますが、勿論実際的に実行の出来る話ばかりして居るのです。
○下略



〔参考〕(畑弥右衛門)書翰 渋沢栄一宛(昭和五年)六月二九日(DK530065k-0013)
第53巻 p.397-398 ページ画像

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〔参考〕(畑弥右衛門)書翰 渋沢栄一宛昭和六年一月(DK530065k-0014)
第53巻 p.398-399 ページ画像

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〔参考〕竜門雑誌 第五七〇号・第四九頁昭和一一年三月 文学土産(その二) 一 大森にて(DK530065k-0015)
第53巻 p.399 ページ画像

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