デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
13節 土木・築港・土地会社
6款 仙石原地所株式会社 箱根温泉供給株式会社
■綱文

第53巻 p.428-431(DK530070k) ページ画像

昭和3年7月26日(1928年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、阪谷芳郎・渋沢秀雄・渋沢敬三・田中文蔵・佐々田彰夫・益田太郎・益田信世ノ七名ヲ発起人トシテ、仙石原地所株式会社創立総会開カル。阪谷芳郎・渋沢秀雄取締役ニ、増田明六監査役ニ選任セラル。


■資料

集会日時通知表 昭和三年(DK530070k-0001)
第53巻 p.428 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
七月廿六日 木 午前十時 仙石原地所株式会社創立総会(事務所)


(増田明六)日誌 昭和三年(DK530070k-0002)
第53巻 p.428 ページ画像

(増田明六)日誌 昭和三年       (増田正純氏所蔵)
七月廿六日 木 晴                出勤
午前十時仙石原地所会社の創立総会に出席した、其席で監査役ニ選任快諾した
同社は渋沢・三井・益田孝男三氏共有地を株式会社ニ変更したのである、発起人は渋沢家より阪谷男爵・渋沢秀雄・渋沢敬三の三氏、三井家より田中文蔵・佐々田彰夫の二氏、益田家より益田太郎・益田信世の二氏、合ハせて七人であつた、重役としてハ渋沢家より阪谷男・渋沢秀雄両氏取締役、増田明六監査役、三井家より田中・佐々田の両氏取締役ニ益田家より益田太郎氏取締役ニ・同信世氏監査役ニ当選したのである
○下略
   ○中略。
八月廿八日 火 時々雨              出勤
出勤早々から来客に詰め掛けられた
○中略
3高橋清正氏 仙石原地処会社地処分筆ニ関する委任状作成の為めである
○下略
   ○中略。
九月二十日 木 雨                出勤
○上略
本日の来訪者と要談
○中略
3阪谷男爵・佐々田彰夫氏 仙石原地処会社の件
○下略


竜門雑誌 第五三六号・第一二八―一三三頁 昭和八年五月 大湧谷を中心として 奥箱根に捜る青淵先生の面影 白石喜太郎(DK530070k-0003)
第53巻 p.428-431 ページ画像

竜門雑誌 第五三六号・第一二八―一三三頁 昭和八年五月
    大湧谷を中心として
      ――奥箱根に捜る青淵先生の面影――
 - 第53巻 p.429 -ページ画像 
                      白石喜太郎
      一
  麦の緑、菜の花の黄、桃の紅、空麗かに、相模野の春
 春遅かりし昭和八年も卯月半ばを過ぎては、山も野も若葉に花に彩られ、ひた走る車窓に写る景色は新興大和絵である。戸塚を過ぐる頃より思ひもかけず花の雲曙の色に棚引くを見しが、辻堂に近づきし頃より、麦の緑夜来の雨に洗はれて目もさむるばかり、所々に冴えたる黄の浮き出でしは菜種畑、クリムゾンに近く稍重くるしく見らるゝは水蜜桃か、松の葉の暗緑と、藁屋根の茶褐とは何となく冬を思はするものあれど春の色は豊かに大野を染めて居る。静心なく散る桜を――正午に近き陽に照り映えて、半透明に光沢ある花片の散り行くを嬉しと見し湯本を後にし、抜けては潜る隧道の前後、薄紅に或は真白に桜は今を盛りに咲き誇れるを見た。
 宮の下まで続きし桜は小湧谷を境として絶え、強羅には蕾さへ求め難く、たゞ遠く「あせび」のつゝましく咲くを見るのみ。早雲山駅を後にすれば、途は直ちに爪先上りとなる。降り続きし雨の今日は名残りなく晴れ、真に「風日和煦」を実感する思があつた。
  草萌ゆる山路に暫したゝずめば、人声遠く陽炎の立つ
 遠く望みて目にするは冬の装ひ固き箱根外輪の山々ながら、仄かに慕ひ寄る春の気のそゞろ感ぜられるのは「季節」である。途大湧谷に入るに及んで、満目荒涼「春」を求めんよすがだにない。仰げば遠く大煮は白き煙を濛々と挙げ、末は遥か浮く白雲に連る。
  陽に映ゆる温泉の湯気は磨きてし真珠に似たる淡き七色
 大煮見んとて上り行く人、早雲山駅へと急ぐ人々、唯一筋に焼石原の如きが中を上下に静かに動き行く、若き女性の目も綾に衣ひらめかし行くは見る限り灰色にくすむが中の色彩である。時に「島の娘」が聞え、「丘を越へて」が口誦まれるのも若さの響であらう。
 踵を返して途を大湧谷の低部にとる。いつしか強羅道は遠くなり歌声も幽かになつた。かくて暫し、コール・タールを流したるが如きに会ふ。大湧谷に数多き温泉の一種にして俗に「黒湯」といふ。
  真漆を湛へし如き泉あり大湧谷の岩のはざまに
 「黒湯」と「白湯」の交錯せるほとり、ほのぼのと明け行く空にたとへつべき色彩の変化に興じ、時の移るを覚えざりしが、長き春の日もいつしか傾きしに驚き、道を急ぐ。
      二
  裸木の中の温泉の窓近くあせびの花の慎ましく咲く
 下湯場の夜は靄に明け、窓を払へば仄白くあせびの花夢の様であつた。春とは云へど名のみ、山の朝を慕ひ寄る微風に頰痛き思がする。灰色の空低く垂れ、笹の葉にそよぐ風のそゞろ冷き朝の途を上湯場へ急ぐ。
  喘ぎ喘きのぼり来れば山あひに温泉の宿の静かなる様
 物寂びたる山の宿を後にして、木の根こゞしき山路を辿り行けばいつしか、大湧谷頂上に立つ。大煮は近く力強き噴気を挙げ、強羅道に沿うて眼をやれば、点々として白く立昇る温泉のけむりのたへては続
 - 第53巻 p.430 -ページ画像 
く、蓋し箱根温泉供給会社の源泉地にして、仙石原・強羅・宮城野等奥箱根一帯へ供給する温泉路の心臓である。高く低く、太く細く、薄く濃く立昇る噴気を望みながら想はるゝは青淵先生のことである。
 「富国強兵」を標語とした明治、希望にかゞやく前途に勇躍した当時の日本の指導者の一人であつた青淵先生が、時代精神の発揚につとめ百般の事業を創始経営せられたことは更めて言ふまでもない。銀行に製紙に、紡績に、化学工業に、鉄道に、瓦斯に、さては又教育に、社会事業に優秀なる種子を蒔き、培ひ、守り、育てたことは人のよく知る所である。その中に、幾千百と数へられる先生の事業の中に「開墾」事業がある。遠く十勝の原野に手を着けた如き、青森に田を拓き畑を起し山林を経営せる如きが之である。此等開墾事業が着手以来数十年にして、漸く先生の所期に近つき或は猶遠きを見て、先生の事業に対する執着力の限りなき強きに今更ながら感嘆するものであるが、この箱根に於ても亦其例を見ることが出来る。
 先生が箱根地方にインテレストを有つたのは実に明治十二年であつた。当時常に相携へて新規事業の創始経営に当つた益田孝男爵と協議して奥箱根仙石原の経営を始めたのがそれである。
 先づ経営したのは羊毛の輸入防遏を目的とした緬羊の飼養であつた風土・湿度の関係より美事に失敗してより、乳牛の飼育に転じ、交通の不便により採算に合ざる為之を放棄し、唯僅に植林を続けて大正時代を過した。かくて五十年を無駄に過して昭和に入り漸く「春」に遭ふべき機会が近づいた。宮内省の大湧谷開放と箱根温泉供給会社の設立の為である。我邦医学史に偉大なる足跡を印したベルツ博士が明治二十年長文の意見書を宮内大臣に提出し、大湧谷を中心としてバーデン・バーデンの如き大温泉郷を設け、大衆の衛生保健に資せんことを主張した。この意見に基き宮内省は大湧谷・姥子附近一帯の土地山林を漸次買上げ御料地に編入したが、ベルツの理想は実現するに至らず三・四の人々が温泉の払下げを受けるに過ぎなかつた。然るに昭和三年に至り本来の目的に副はんことゝ、温泉払下げ権利者統制の煩を避けん為宮内省に於て大湧谷の開放を決意し、之を基礎として「温泉供給」を目的とする会社を組織せんことを希望するに至つた。
 かくて昭和三年二月この宮内省の内議は林野局長官より内示せられ翌三月青淵先生は益田男爵・安川雄之助・渋沢敬三等の諸氏を渋沢事務所に招き之が対案を練つた。○中略
 この特殊の事業にあれ程の希望と期待を有たれた青淵先生に一見を請ふたらばと思ふ心は無理であらうか。不敏微力の吾等の小さな努力になるこの成績を微笑を以て瞥見だにしていたゞきたいと願ふは未練であらうか。立ちては消え、消えては昇る幾千百の煙の末に籠る青淵先生の深き心を想像しながら、はかなき人の世の運命を思ふこと深かつた。自ら心に描く影につれて、想ははてしなく続く。心なく吹き上ぐる風に我に返れば、白雲悠々、山の春は静かである。
  この嶺の高どに立ちて仰ぎ見る大空は猶遥かなりけり
      三
 道を御料林にとり姥子に向ふ。昼を静かに鳥の声さへなく、我が足
 - 第53巻 p.431 -ページ画像 
音の高く響く。
  昼暗き杉の林を分け行けば、葉末のしづく聞ゆる思ひす
 林の尽くる所草黄なる原に出で、原つきて雑木の間を分け、杉と雑木と原とを送り迎へていつしか展望濶き小丘に出でた。
 西方遥かに低く白銀に輝くは芦の湖、右に続いて展開するは仙石原原の尽くる辺より、急に丘陵起り、原を廻つて立ち、西、湖岸より東「長尾」に及び、更に「乙女」を経て金時山に続く。長尾までの斜面は長き植林の苦心を物語り黒きは杉、赤茶けたるは落葉松、長尾隧道下に鬱然たるは、明治十年代よりの無駄の累積として残されたる美事な杉林である。植林地帯を境として拡がる高原は緬羊に牧畜に、数十年の無駄を語る「仙石原」である。たゞ見る一体の草原、何の興趣もないが青淵先生多年の配慮を想ふては、無心の草も過ぎし昔を雄弁に物語るの感がある。野は次第に隆起して姥子近くに至つて山地となる途中横に濃き褐色の一線は湖尻へ自動車道、道に近く赤屋根の浮び出たるは仙石原温泉荘のクラブ・ハウスである。長き冬眠よりさめて、来ん春を迎へんとする仙石原の力強き歩みの第一のステツプである。更に近く眼下に灰白色に見ゆるは箱根温泉供給会社の倉庫である。
 たそがれの色いつしかせまるに驚き、途を急ぎ姥子を過ぎて倉庫に到り、自動車に搭じ、クラブ・ハウスを横に見て湖尻に急ぐ。
 右手低く榛の木煙る原の底、清き水の所々湧き出づる辺を想ひながらいつしか湖尻につき、小蒸汽の人となつた。
  楓若葉仄紅く霞み湖沿ひに残る雪かとあせび花咲く


竜門雑誌 第五六六号・第五頁 昭和一〇年一一月 青淵先生遺芳(DK530070k-0004)
第53巻 p.431 ページ画像

竜門雑誌 第五六六号・第五頁 昭和一〇年一一月
    青淵先生遺芳
○上略
私は百姓の出である
 昭和三年三月先生が益田男爵・安川雄之助・渋沢敬三等の諸氏を渋沢事務所に招き、「宮内省より大湧谷御料地開放」の内示に基き、温泉会社を創立することにつき、協議せられた記念すべき会合の席末を、私も汚す事になり、御集りの部屋に入つた時、先生は立て御意見をお述べになつた其最初の言葉であります。
  此言葉こそ、農業と牧畜とに関しては、八拾九歳に至る迄関心をお持ちになつて居ると云ふ御趣旨で、一面自己を何処迄も静に視て居らるゝ事や、其他種々の意味に於て座右誦唱の銘と思ひます
成名毎在窮苦日。敗事多因得意時。
  昭和三年十二月に幅としてお書き下さつたもので、修養にも処世の指針としても、之を守れとのお教であります。
                      東郷直
○下略