デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
16節 ホテル
1款 株式会社帝国ホテル
■綱文

第53巻 p.540-551(DK530106k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当会社取締役会長大倉喜七郎ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―四七頁 昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK530106k-0001)
第53巻 p.540-541 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―四七頁 昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
 - 第53巻 p.541 -ページ画像 
○中略
 一、青山斎場着棺  午前九時四十分。
 一、葬儀開始    午前十時。
 一、葬儀終了    午前十一時三十分。
 一、告別式     午後一時開始三時終了。
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
虔而故二位勲一等子爵渋沢栄一閣下ノ英霊ニ白ス、閣下齢九秩ヲ踰ヘテ猶矍鑠、夙ニ身ヲ経済界ニ置キ、常ニ大局ニ著眼シ、思ヲ一世ノ趨勢ニ効シ、幾多ノ英才ヲ養成シ、各種ノ事業ヲ興起シ、良ク其成果ヲ挙ケシム、閣下ハ実ニ我国経済界ノ先覚者タリ、指導者タリ、事業界ノ創造者タリ、大成者タルノミナラス、其ノ徳風ノ高キ、其ノ胸懐ノ広キ、万人之ヲ欽仰スルコト師ノ如ク、之ヲ景慕スルコト父ノ如ク、而シテ閣下ノ偉績ト盛名トハ炳乎トシテ千古ニ照耀スルモノアリ、我株式会社帝国ホテルノ経営カ亦閣下ノ賢労ニ負フ所洵ニ鮮シトセス、顧レハ明治二十年閣下慧眼以テ本事業ノ創立ヲ議リ、踰ヘテ二十三年秋ノ交、之カ開業以来理事長トシテ能ク事ニ処シ、後取締役同会長ニ任シ、其間喜賓会ヲ組織シテ之カ副会頭トナリ、早ク外客誘致ヲ唱導シ、意ヲ国交ノ輯睦ニ致セル等、鋭意本事業目的ノ達成ヲ図リ、屡欧米ヲ視察シテ以テ改善ヲ遂ケラル、就中明治四十年ニ於テハメトロポールホテルヲ合併シ、是カ組織ヲ革メ、加フルニ資金ヲ増額シ、漸ク当社伸展ノ基礎ヲ確立セラレ、明治四十二年以後相談役トナリ、後年又ライト式建築ヲ採用シテ其ノ功ヲ竣ハリ、内容外観悉ク備ハルニ至リ、以テ今日ニ迄フ、実ニ四十有余年ノ久シキニ亘ル、予今此ノ事ヲ継キ、深ク其ノ偉績ヲ懐ヒ欽慕シテ歇マサル所ナリ、輓近人心ノ帰趨経済界ノ潮流、共ニ憂フヘキモノ寔ニ多ク、閣下ニ俟ツヘキモノ愈多カリシニ、終ニ病ヲ以テ溘焉飛鳥山ノ邸ニ薨セラル、本邦経済界ノ損失之ニ過クルモノナク、洵ニ痛惜ニ勝ヘサルナリ
玆ニ葬送ノ典ニ会シ、恭シク哀悼ノ微忱ヲ表ス
  昭和六年十一月十五日
             株式会社帝国ホテル取締役会長
                   男爵大倉喜七郎



〔参考〕青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年七月(DK530106k-0002)
第53巻 p.541-546 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会編  昭和二年七月
                    (渋沢子爵家所蔵)
    株式会社帝国ホテル
一、創立   二十三年十一月三日
一、資本金  二十六万五千円(創立当時)
       六百万円 (昭和二年六月末現在)
 - 第53巻 p.542 -ページ画像 
一、場所   東京市麹町区内山下町
一、創立目的 本社は内外貴賓を宿泊せしめ、其他貸席宴会及び之に附帯する業を目的とす。(定款総則第一条)
一、創立までの沿革 本社の創立は明治廿年の初め、当時の外務大臣井上伯爵は本邦の首府にして、外来賓客の需に応ずべき壮大の客館なきは、国際上欠典なりとの意見を以て、現在(明治廿三年)の株主諸氏其挙を賛成して創立のことを決定し、発起人総代二名則渋沢栄一・大倉喜八郎の両氏を撰挙して創立の事務委任したり、而て外務省用地麹町区内山下町一ノ一の内四千三百一坪六勺を同年八月より五十ケ年を限り無地代借用の允准を得、尋て地質を検査し其可なるを認め建築の計画に着手せしもの也。(第一回営業報告書)
       建築の事
       本社の建築は学理と実用とを斟酌して定めたるものにして、其請負日本土木会社に委す。(第一回報告書)
一、創立当時の関係人 渋沢栄一・大倉喜八郎・横山孫一郎の三理事
一、青淵先生との関係 創立計画者として理事長の役にあり
       創立と同時に取締役会長(明治四十二年六月六日辞任)
一、今日迄の沿革 イ 明治二十三年十一月三日開業
       ロ 同二十四年一月廿三日より三月卅一日まで舞踏室其他の数室を以て貴族院の仮議事堂に貸渡す。
       ハ 創立より拾五ケ年間日露戦捷に至るまでは良好ならず、殊に最初七・八ケ年間は殆ど毎決算期欠損を続け、明治卅年上半期に至つて初めて五分の配当を行ふ左に報告書中の営業概況を示す。
       ニ (二十七年上半期)当半期は一体に来客少数にして四・五月の交出入往来最も繁劇の時季と雖も、当社は遂に全室供用の盛況に至らず、概して営業閑散、不景気と云ふの外あらざるなり云々。
       卅年上半期五分の初配当は日清戦捷の結果によるものであることは左の営業概況を見て明である。
       ホ (廿九年上半期)戦捷後事業の勃興に伴ふて集会宴会の必要を促し、内外人共に集会宴会の度数を加へ通常食事客の数も前季より増加したり云々。
       其後は再び不振を続け、日露役によつて業態を盛り返すことが出来た。即ち
       ヘ 卅八年七月資本金を四十万円に増資す。
       ト 卅九年一月十日本館裏手に新築工事を起し、木造二階建家屋百八十坪廻廊六十坪、鉄骨平家建車寄五坪及木造平家建運動場及渡廊下七十坪を設ける、而して其営業概況は
       チ (卅九年上半期)本年来遊の外客は其数著しき増加を来し、当半季間常に客室満員の盛況を呈し、且つ比
 - 第53巻 p.543 -ページ画像 
較的上流の来客多かりしが為め、宿泊料の如きは例年に比し非常なる高率を収得し云々。
       卅九年十一月廿日メトロポール・ホテル(資本金二十万円)を買収合併して、株式会社帝国ホテル支店とすると共に、資本金を一躍百二十万円とす。
       リ 爾来戦後反動の不況季に入る。
       ヌ (四十一年上半期)当季間の営業成績は昨年上半期に比し遜色あるは、其源因米国財界の不振及同国大統領選挙の為め来遊するもの少数なりし為めなり云々。
       ル 四十三年十二月臨時総会の決議により支店メトロポール・ホテルを廃す。
       ヲ 欧洲大戦より業績革まる。(大正五年下半期報告書)大正五年十一月二十二日臨時株主総会を開き、新ホテル建築の件を附議し左の通り決議す。
       (内務大臣官邸敷地を借用して新ホテルを建築するに付、先づ内務省に寄附すべき内務大臣官邸及附属建物の建築をなし、次に同敷地跡に新ホテル建築の起工をなすこと。新ホテルは延建坪約六千坪とし、米国より技師到着次第之が設計に着手し、建築並に装飾・什器等一切の費用百卅一万円とす。)
       ワ 大正八年資本金を三百万円に増資して、別館増築に着手、十一年八月落成す、工費八百万円。
       カ 大正十一年四月火災によつて旧館焼失す。
       ヨ 同年資本金を倍増して六百万円とす。
 斯くて帝国ホテルの営業は現在に及んでゐる。

    帝国ホテル常務小林武次郎氏の談
                         昭和二年七月九日訪問
ホテルの創立は明治廿三年ですが、私が這入つたのは卅八年でした。来ると同時にホテルの営業上に種々の変遷があつた。何も私が来たから変遷が生ずる様になつたといふのではない。偶々事の生ぜんとするとき私が這入つて来たのです。
このホテルの創立についてゞすか、それは井上馨さんから相談を受けて、渋沢子爵と大倉喜八郎翁とが主唱計画されたんです。そして専ら実務に当られたのは横山孫一郎さんだつた様に聞いてゐます。その時子爵が理事長で、大倉さん・横山さんは理事でした。その外に今村某さんとか云ふ理事が居られた様だが、詳しいことは知らない。今庶務の人に紹介するから、そこで報告書に依つて見て下さい。
創立以来このホテルの成績は欠損続で、無論配当はしなかつた。この間に処して子爵は相当苦心されたのです。日清戦争後一寸は収益を揚げたことがあるかもしれないが、私が這入る前のことで、その辺の消息は審にしない。要するに日露戦争までは不振だつたのです。ところが戦後非常に景気がよくなつて、客が満員となり、客室の不足を告げたので、資本金を四十万円に増加してホテルを増築すると同時に、築
 - 第53巻 p.544 -ページ画像 
地にあつたメトロポール・ホテルを二十万円で買収して、再び資本金を百廿万円に増資したのです。ところが戦後の反動によつて世の中が不景気となつて、此のホテルの営業も次第に苦しくなつたので、遂にメトロポール・ホテルを手離したのです。此れは経常費の節約が主たる目的だつた。それからこの反動時代が過て、だんだん景気よくなつて、古いホテルが見すぼらしくなつて来た。これでは国際的に見つともないといふので、現在の敷地では手狭だから隣地に内務省の官宅があつたのを融通して貰はうといふことになり、子爵に交渉をお願したのです。このときは全く子爵御尽力のお蔭で、交渉が円満に片附いたのは子爵の御力でなければ出来なかつたことです。
それでも最初は内務省は全然交渉に応じなかつたので、子爵は宮内省から換地を出して貰はれてやつと内務省でも承知した様な次第です。内務省の方では交渉中に幾度も大臣が代るし、其の都度交渉も逆戻りしましたが、結局譲ることゝなつた。譲るには譲るが、その代りに官宅の移転建築費を出して呉れと云つて来たので、それを承認して霞ケ関に官宅を新築することにしました。其の費用は廿五万円だと思ふが確たることは覚えません。
現在の、霞ケ関の内務大臣の官宅がそれです。其の時の大臣の名ですか? よくは覚えがない、何でも許可が来たのは一木喜徳郎さんの名でしたが、霞ケ関の新官宅に這入られた最初の人は後藤さんだつたと記憶します。こんな工合で、子爵との御関係は、表面上は明治四十二年六月六日子爵が取締役会長を引退されたときでなくなつて居ますが其の後困難な問題が生ずれば子爵の御尽力を仰ぐ次第です。
其の後大正八年に現在の此の新館の新築に着手して、十一年に出来上り、今日になつて来てゐるといふ次第です。
以上は極く概略的な話です。尚詳しいことは第一回からの営業報告書がありますから、それによつて調べて見て下さい。

    帝国ホテル株式会社
      資本金膨脹状況
創立当時   二十六万五千円
明治卅九年  四十万円
同四十年   百二十万円(メトロポール・ホテルの合併)
大正八年   三百万円
同十一年   六百万円
      社名改称
有限責任帝国ホテル会社 (創立より明治廿六年まで)
帝国ホテル株式会社   (明治廿六年より同卅九年まで)
株式会社帝国ホテル   (明治四十年より現在)

    帝国ホテル現況(昭和二年七月)
一、所在地 東京市麹町区内山下町
一、資本金 六百万円
一、設備  建坪二千六百余坪、延坪一万坪、美術的ライト式三層楼
 - 第53巻 p.545 -ページ画像 
大広間・大食堂・グリル食堂・バー・売店等の外、約一千人を収容する大宴会場、約八百人を収容する演芸場あり、客室は六百人を収容し得。

    故渋沢栄一子爵閣下ノホテル業ニ対スル年譜
一、明治二十年、時ノ外務大臣井上伯爵閣下ノ意見ニ従ヒテ帝国ホテルヲ創立セン事ヲ決意シ、大倉喜八郎氏其ノ他ノ株主ヲ東京銀行集会所ニ糾合シ、創立ニ関スル百般ノ事項ヲ熟議決定シ其工ヲ始ム。
一、明治二十三年十一月三日資本金二十六万円ノ有限責任帝国ホテル会社ヲ創立シ、理事長トナリテ営業全般ヲ総攬ス。後金五千円ノ増資ヲ行フ。
一、明治二十五年十一月三日天長節ノ夜会ニ鹿鳴館ニ於テ御料理ノ献立ニ奉仕スルノ光栄ニ浴セシム。
一、明治二十六年七月十七日定時株主総会ヲ開キ、理事長ヲ取締役会長ニ、理事ヲ取締役ト役員ノ名称ヲ変更シ、新タニ常務ノ制ヲ布キ同時ニ監査役二名ノ増員ヲナシ、社内ヲ充実ス
一、明治二十七年六月二十日地震襲来シ本館ヲ大破シ、其ノ復旧ナルヤ否ヤ、日支間ノ国交断絶シ、営業不振ニ陥リシ時、常務横山孫一郎ヲ激励シ不況挽回ニ傾頭尽心ス。其ノ策奏効シ戦後営業上見ル可キモノアリタリ。
一、明治三十年一月十二日皇太后陛下崩御アラセラレシカバ、同月二十九日横山孫一郎氏ヲシテ宮内省ニ出頭、弔詞ヲ奉呈セシメ、序デ赤坂御所ニ仕候シ天機ヲ奉伺セシム。又二月八日ノ御大葬当日ハ喧噪ニワタルヲ恐レ、特ニ臨時客ノ投宿ヲ謝絶セリ。
一、明治三十二年高架鉄道布設ト同時ニ鉄道作業局ヨリ敷地移転料トシテ金銭ヲ収授セシカバ、以之本館外観ノ整美ヲナス。
一、明治三十三年五月特旨ヲ以テ華族ニ列セラレ男爵ヲ授ケラル。其ノ間東京商業会議所内ニ本部ヲ有シ、蜂須賀茂韶侯ヲ会長トスル喜賓会ト計リ、外客ノ誘致ニ努ム。
一、明治三十四年相州久里浜ニ於ケルペルリ提督ノ遺跡ヲ保存セントスル米友協会ノ依頼ニヨリ、同地ニ於テ挙行セントスル紀念塔除幕式ノ祝宴ニ用スル御料理ノ仕出ヲナシ、其ノ帰途霊岸島ニ於テ殉職セシ給仕鈴木久太郎ノ慰霊ニ絶大ナル社葬ヲ営ム。
一、明治三十五年三月一日ヱミヱル・フレイグヲ営業部長トシテ招聘シ、社内諸設備ノ改善、職制ノ変更及人事ノ移動ヲ行ナハシメ、以テ会社ノ面目ヲ名実共ニ一新セシム。
一、明治三十八年十一月二十九日臨時株主総会ヲ開キ、一株金千円ヲ金五十円ニ変更シ、次イテ金拾参万五千円ノ増資案ヲ決議シ、其ノ払込ト同時ニ本館裏手ニ新館ノ建築ニ着手ス。
一、明治三十九年十一月三十日右増資額ノ払込ヲ完了シ、此所ニ資本金四拾万円トナル。其ノ間築地河岸ニ存立スル株式会社メトロポール・ホテルトノ合併問題起ル。
一、明治四十年一月二十五日定時株主総会ヲ開キ、合併契約ノ条項ニ
 - 第53巻 p.546 -ページ画像 
基キ積立金及別途積立金ノ分配並ビニ繰越金ノ割当、利益金ノ配当等ヲ行ヒ、有限責任帝国ホテル会社ヲ解散シ、新タニ株式会社帝国ホテルヲ創立ス。而シテ職制ヲ決定ス。同時ニ金八十万円ノ増資案ヲ協議ス。
   取締役会長   渋沢栄一男爵
   取締役     大倉喜八郎
    〃      原六郎
    〃      横山孫一郎
    〃      村井吉兵衛
    〃      若尾幾造
    〃      平沼延次郎
   監査役     浅野総一郎
    〃      喜谷市郎右衛門
    〃      田中経一郎
一、明治四十一年外国人ノ雇用ヲ全部解キ営業ノ不況ニ備フ
一、明治四十二年合併以来営業不振ノメトロポール・ホテルヲシーズン的ニ開業スル為メニ一時閉鎖シ、経費ノ過多ヲ防止シ、同年八月林愛作ヲ支配人トシテ入社セシメ此ノ難局ニ当ラシム。
  越ヘテ同年十月五日取締役会長男爵渋沢栄一氏辞任申出ニ付、大倉喜八郎氏其ノ後ヲ襲イテ取締役会長トナル。而シテ前会長ハ相談役トナリ、現会長ノ補弼ニ当ル、斯クシテ株式会社帝国ホテルノ営業ヲ継続シ行ク内、大正四年ニ大倉喜八郎氏男爵トナリ、翌五年十一月二十五日愈々ライト式建築案ヲ附議決定スルニ及ビテ相談役ハ敷地ノ買収、建築資金ノ調達等ニ奔走シ、其ノ工ヲ助ケ四年間ノ歳月ト金八百万円ノ費用ヲ以テ、古代ギリシヤノ石造建築ニ東洋風(支那)ヲ加味シタル間口四十九間、奥行七十三間二分ノ新館ヲ落成セシム。其ノ後専ラ帷幄ニアリテ現会長ヲ補ケ、男爵大倉喜八郎氏辞任後、会長大倉喜七郎氏ヲ指導シ、営業ノ指針トナリテ其ノ興隆ニ力ヲ致シ、陰ニ陽ニ社名ノ発揚ニ尽瘁セラレ来タリシ所、昭和六年十一月十一日午前一時五十分市外滝野川町飛鳥山ノ自邸ニ於テ遂ニ逝去セラル。



〔参考〕今村清之助君事歴 足立栗園著 第二四九―二五四頁 明治三九年九月刊(DK530106k-0003)
第53巻 p.546-548 ページ画像

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〔参考〕竜門雑誌 第五一九号・第五一―五三頁 昭和六年一二月 追悼晩餐会席上に於て 男爵 大倉喜七郎(DK530106k-0004)
第53巻 p.548-549 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第五一―五三頁 昭和六年一二月
    追悼晩餐会席上に於て
                   男爵 大倉喜七郎
 私も二代目でございます。丁度私の先代喜八郎――と申しますと、親父を呼捨に致す次第でござますから、鶴彦翁と言はせて頂きたいと思ひます。此鶴彦翁も矢張九十二で逝きましてございます。思合せますと当青淵大人も矢張九十二で逝かれた次第でございます。私は先代が存命中に於きましても、青淵大人には色々お世話を頂きました。其一端を申上げたいと思ひます。又ダヾを捏ねましてございます、其事も此処で申上げたいと思ひます。
○中略
 又ダヾを捏ねましたと云ふことは最近の事でございます。能く皆様のお出下さいます帝国ホテルの事でございます。此ホテルが財界の不景気――世界的不景気の為に、御承知の通り一番水商売でございますから収入が減りましてございます、前期は赤い字が出さうになりました、それも少からざる数字が現れるのではないかと云ふ心配がありました。それで是はどうしても整理をしなければならないと思ひまして丁度此処にお出の渡辺得男君に重役となつて頂きました。是は実は教を受けたい為に、無理やりに私がお願してお引張り申上げたと云ふ形があるのであります。――今日は何も彼も打明けて申上げます。それで一つ根本的に整理をしなくちやならない。先程大橋さん――今は老人でゐらつしやいますが、青年の時代には元気に任せ随分思切つたことをなさいましたやうに伺ひましたが、矢張人事も改革しなくちやならないと云ふことを申上げて、どうか青淵大人と馬越翁とお二方に御相談申上げ、自分の案を出しまして、どうか御採用を願ひたいと云ふことを申上げました。さうして出しました案は、先づ第一に帝国ホテルの社長の馘首をやる、それから次に常務及常任監査役、それから追追怠けて居る者は御免を蒙る、と云ふ案を出しました、どうも私が社長でございますけれども、自分だけ残つて他を馘首と云ふ訳にも行きませぬし、何しろ常務と常任監査役を馘らうと云ふのでございますから、自分も首を馘られやう。併ながら若しお目鏡に叶つたら、繋いで頂かう。誠に横着の案でありますけれども、自分としてはダヾを捏ね
 - 第53巻 p.549 -ページ画像 
る以上は徹底的にダヾを捏ねると申上げまして、中へお這入りになつた渡辺得男君に大分御迷惑を掛けたやうな次第で、結局青淵大人から思ふやうにやつて見ろと云ふお言葉を頂きまして、さうして一先づ帝国ホテルの改革が出来たのであります。斯様に私がダヾを捏ねましたり、密に駈付けて教を受けたりする、私に取りましては大事な師でもあり、父亡き後は恰も父より以上にお慕ひ申上げた青淵翁が逝かれましたと云ふことは、実に私に取りましては父を亡くしまして未だ三年涙新なるときに再び青淵翁を送りましたことは、実に申上げる言葉もない位に、自分としても感じが深い次第でございます○下略



〔参考〕竜門雑誌 第五二一号・第一〇七―一一〇頁 昭和七年二月 追慕 犬丸徹三(DK530106k-0005)
第53巻 p.549-551 ページ画像

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