デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
18節 其他ノ商工業
7款 株式会社三越呉服店
■綱文

第54巻 p.75-78(DK540023k) ページ画像

大正12年8月3日(1923年)

是日栄一、当店ニ於テ、三越石垣会会員ノタメニ講演ヲナス。


■資料

(増田明六)日誌 大正一二年(DK540023k-0001)
第54巻 p.75 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年       (増田正純氏所蔵)
五月十六日 水 少雨
定刻出勤
○中略
本日の来訪者如左
○中略
三越石垣会幹事岩崎英祐・同宮崎運平両氏 子爵ニ同会の為ニ御講話を請の件
○下略


集会日時通知表 大正一二年(DK540023k-0002)
第54巻 p.75 ページ画像

集会日時通知表  大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
八月三日 金 午後六半時 三越呉服店石垣会々員ノ為ニ御講演(同店北入口ヨリ御入場)


三越講演集 三越石垣会編 第一輯・第二四三―二五〇頁 大正一五年三月刊 【論語と算盤 論語と算盤 (大正十二年八月三日)】(DK540023k-0003)
第54巻 p.75-78 ページ画像

三越講演集 三越石垣会編  第一輯・第二四三―二五〇頁 大正一五年三月刊
    論語と算盤
                  子爵渋沢栄一氏
                  (大正十二年八月三日)
 今夕は突然の事で、皆さんにお話いたすやうな演題もなければ、用意もないのでしたが、幸ひよい機会でありますから、私の持論と致して居りまする「論語と算盤」とに就いて一言お話いたして見度いと思ひます。
 それに先立つて私の生立を申しますと、私は農家の生れでありまし
 - 第54巻 p.76 -ページ画像 
て、二十四歳までは百姓の生活をした人間でありますが、少年時代から殊に好んで漢籍を愛読いたしました。私が十四歳の時には、浦賀にコモドル・ペルリが来て、世の中は攘夷論で大分騒々しくなつて来ました。二十一歳のとき京都に遊びまして、其の時鋤鍬を捨てゝ武士になつて国家の為めに尽さうと考へ、一ツ橋家へ奉公する事となりました。間もなく公子のお供をして仏蘭西へ参りました。滞欧中は商工方面を種々視察して居りましたが、将軍家には政権を朝廷へ返上いたされましたので帰朝いたす事になりました、帰朝後大隈侯や伊藤・井上などの方々の推挙で大蔵省へ出仕いたす事になりましたが、はからずも大蔵卿大久保利通と意見の衝突の為め、井上大蔵大輔と共に官途を辞しました。それから実業家たる堅い志望を起しまして、明治六年第一国立銀行を創立いたしました、其他東京商業会議所、東京株式取引所の創設、東京海上保険会社、銀行集会所及手形交換所、東京興信所などの事業にも関係し尽力致して参りました。今其の既往を回想致しますと誠に感慨の深いものがあります。しかし余談はさて置きまして演題に移りますが、私が所蔵して居りまする画帖の中に、論語と算盤とを一緒に描いた一軸があります、旧来の思想から考へて見ますと、論語と算盤とは如何にも不調和の画題に思はれまして、是れには何か社会を諷刺的にでも描いたのではないかと観察をされる外に、此の二つが調和致すものだと云ふ事は多くの人の気が付かない所だと思ひます。古い漢学者などの思想から謂ひますと、論語は道徳上の経典でありますのに、算盤は之と全く反対な貨殖の道の道具でありますからどうして此の二つが相容れられる事が出来るだらうと考へられるのであります。然し私の見ます処は、久しい以前から論語と算盤とは一致しなければならないものであると云ふ私の持論なのであります。さうして度々それに関した意見を人に語り又社会に向つても発表致した事もありまするから、すでにお聞きになられた方もあるかもしれません。何時の頃でしたか、三島中洲博士に私が此の所蔵の軸物を見せて、私の意見を御話致した事があります。ところが三島博士も私の意見と全く同じでありまして、其後に博士は「論語算盤論」を作られて私に示された事がありました。さて私はどうして論語と算盤との一致を考へますかといふに、論語が孔子の言行録であります事は、今更ら申上ぐるまでもないことでありますが、其の論語の中から孔子の性格を良く窺ふ事が出来ます。一体孔子は容易に本音を吐かぬ人でありまして、常に事物の半面だけを語つて、全を悟り得させる事を力めて居られました様に思はれます。其の中でも門下の諸士に説かれた教訓の数々には、大抵この側面観に依つて反省を促して居られたのであります。それは今例を挙げてお話し致すまでもない事と思ひますが、同じ『仁』といふことを弟子に説いて聞かせるにしても、甲に説いた処と、乙に訓へた処と又は丙に語り示した処とはまつたく異つたもので、其の人の性格を見て其れに適応する様に説き聞かせたものであります。俗に申します『人を見て法を説け』といふ事があるが、孔子の教訓法はまつたく其れであつたのです。ところが孔子の此の教育法が却つて後の人から誤解されまして、知らず識らずの間に孔子教の本領を誤つて伝
 - 第54巻 p.77 -ページ画像 
へる様になつたのであります。あの「論語読みの論語知らず」なぞと嘲けつた言葉も孔子の教があまりに広汎であつたものでしたら、今日迄も誤り伝へられて居るのであります。
 これまで孔子の説を誤解して居た中でも、其の最も甚しいのは富貴の観念と、貨殖の思想であります、此の間違つた論語の解釈に依りますと『仁義王道』と『貨殖富貴』の二つは雪と墨で全く一つになる事が出来ないものであるとしてあります。さうしますると孔子は『富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、仁者とならうと心がけるならば富貴の念を捨てよ』と云ふ意味に説かれたかと云ひまするに決してさうではなかつたのです。却つて貨殖の道を説かれたのです。論語の中に『富と貴とはこれ人の欲する所也、其の道を以てせずして之を得れば処らざる也。貧と賤とはこれ人の悪む所也、其の道を以てせずして之を得れば去らざる也』といふ句があります。解釈のしやうに依りますと富貴を軽んじた所がある様に思はれますが、之をよく考へて見ますと決してさうではないのです、たゞ富貴に淫する者を誡められたまでゞあります。それを孔子は富貴を厭悪して居たと申すのは、如何にも誤りの甚しい事であると謂はねばなりません。孔子は、道理を以て得た富貴でなければ寧ろ貧賤の方がよいが、若し正しい道理を踏んで得た富貴ならば、少しも差支はないと云ふ意味なのであります。
 尚一例を挙げますと『富にして求むべくんば執鞭の士と雖も、我亦之を為さん、若し求む可からずんば吾が好む所に従はん』と云ふ句があります、これも富貴を賤んだ言葉の様に解釈されて居りますが、決してさうではなく、奸悪の手段方法を施してまでも貨殖するならば、寧ろ貧賤に甘んじて道を行ふ方がよいと云ふ意味なのであります。それですから道に適はぬ富は思ひ切るが良いが、必ずしも好んでまで貧賤に居れとは云ふのではないのです。
 此の孔子の教旨を世に誤つて伝へたのは朱子でありました。一体に宋朝時代の学者は異口同音に孔子は貨殖富貴を卑んだものゝやうに解釈しまして、貨殖の道を講ぜんと志すものは、到底聖賢の道を行ふ事が出来ないものであるとして仕舞つたのです。従つて仁義道徳に志すものはきつと貧賤に甘んずるといふ事が必要になつて、貨殖の道に志して富貴を得た者を不義者とまでして仕舞つたのであります。
 古への聖人は其の徳を以て其の位に居た人々でありまして、孔子も其の徳を充分に持つて居ましたが、不運の為に其の位を得る事が出来ませんでした。若しも孔子をして為政者の地位につかしめたならきつと、満腔の経倫的思想を遺憾なく発揮した事だらうと思はれます。孔子の根本主義は『大学』に説いて居ります『格物致知』と云ふことにあります。貨殖の道は一面経世の根本義であります。孔子は一個の道学者でなく、立派な経世家でありまして貨殖の道に対しては決して忽せにしなかつたのであります。
 皆さんの中には已に論語を読まれた方又は是れからお読みになられる方もある事と思ひますが、之れを読むに方つては、私は所謂『論語と算盤』との関係を心としまして、之れに依つて致富経国の大体を得んと志してこそ、初めて真に意義あるものとなるのであります。どう
 - 第54巻 p.78 -ページ画像 
かしますと論語を旧道徳の典型などと、旧時代の遺物などと謂つて顧みない者もありますが、此れは大きな間違であります。聖人の教は千古不磨のものでありまして、必ずしも時代に因つて用不用のものではありません。私が明治時代に生活して、そして論語の行為をとなへて来ましたが、今日迄は何等の不便を感じた事もありません。して見ますと旧時代の遺物でもなければ、旧道徳の典型でもないのです、今日に処して今日に行ひ得らるゝ所の処世訓言であります、貨殖致富に志ある皆さんは宜しく論語を以つて指針とせられん事を切望してやまない次第であります。(終)
 附記
  子爵の三越に於ける御講演速記は子爵親しく伊香保別墅に於て御校閲を賜はりしにも拘らず、かの大震火災の際遺憾ながら焼失せし為、今回特に子爵に懇請し、三越に於ける御講演と同趣旨なる「論語と算盤」なる玉稿を賜はれり。玆に子爵並に秘書役増田明六氏の御厚意を深謝す。