デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
1節 朝鮮
3款 韓国興業株式会社(朝鮮興業株式会社)
■綱文

第54巻 p.380-383(DK540077k) ページ画像

大正8年5月14日(1919年)

是ヨリ先、当会社、明治四十三年四月二十九日開催ノ株主総会ノ議決ヲ経テ、韓国拓殖株式会社ヲ合併シ、大正二年四月二十六日開催ノ株主総会ノ議決ニヨリ、商号ヲ朝鮮興業株式会社ト改ム。

是日栄一、当会社創立以来ノ功労ニ対シ、当会社ヨリ屏風一双ヲ贈ラル。


■資料

朝鮮興業株式会社二十五年誌 同社編 第六頁昭和四年一〇月刊(DK540077k-0001)
第54巻 p.380 ページ画像

朝鮮興業株式会社二十五年誌 同社編  第六頁昭和四年一〇月刊
    第二章 資本金及株式
○上略
 明治四十三年四月二十九日株主総会に於て、韓国拓殖株式会社を合併し○下略
  ○韓国拓殖株式会社ニツイテハ、本資料第十六巻所収「其他ノ会社」中「韓国拓殖株式会社」参照。


朝鮮興業株式会社二十五年誌 同社編 第四頁昭和四年一〇月刊(DK540077k-0002)
第54巻 p.380 ページ画像

朝鮮興業株式会社二十五年誌 同社編  第四頁昭和四年一〇月刊
    第一章 創立及沿革
○上略
 当社の商号は創立当時韓国興業株式会社と称したるも、日韓併合の結果韓国の名称を廃止せられたるを以て、大正二年四月二十六日株主総会に於て朝鮮興業株式会社と変更したり
○下略


竜門雑誌 第二九九号・第二八―三三頁大正二年四月 ○朝鮮経営の懐古 青淵先生(DK540077k-0003)
第54巻 p.380-381 ページ画像

竜門雑誌  第二九九号・第二八―三三頁大正二年四月
    ○朝鮮経営の懐古
                      青淵先生
 本篇は朝鮮公論記者の訪問に対し、青淵先生が語られたるものにて四月一日発行の同誌上に掲載せるものなり(編者識)
○中略
 △其他産業の施設 前に述べた運輸・金融の外に、三十八年頃、私は朝鮮の土地の改良を図り度いと考へて、韓国興業会社を創設するに際し、私の姻戚の者が社長となり、私も其の相談対手になつて居ります。之は朝鮮の生産力を増加し度いといふ事業で、鉄道の如く短時日で成功するものではありませぬ。元来朝鮮人は一年に一作で安んじて居りますが、之れを改正して内地の様に二作にして、朝鮮の地方を富ませやうと思ひますが、まだ一々思ふ様にも行かず、又私の手も届かねば致し方はありませぬ。また朝鮮の生産業としては養蚕を改良しな
 - 第54巻 p.381 -ページ画像 
ければなりませぬ。養蚕は日本よりも古いのであるが、桑が悪いから従つて生糸も悪い、また種産法も不充分だらうし、種々の方面から之れを改良しなければなりませぬ。畢竟養蚕は桑樹が変じて糸となるのである。恰も人の食物がよくなければ其の人の健康もよくないと同じ事で、第一桑の改良を図らねばならぬが、朝鮮の釜山と馬山との間に三良津といふ処がある。洛東江に沿うて至極養蚕に適当して居る土地であるから、頻に奨励してやつて居るが、まだ微々たるものである。兎に角、将来耕作の進歩、養蚕の発達に努めやうと考へて居る、興業会社も既に一万町歩余を持つて居る。今之を売却するならば大分な利益になるだらうが、目前の利に拘泥せずして、少々づゝでも進んで行く事に勉めて居る。朝鮮の生産力の充実といふ方面からして、耕作物の改良は誠に必要の事であります。○下略


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540077k-0004)
第54巻 p.381 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
五月十四日 晴 軽寒
午前六時起床○中略 大橋新太郎氏来リ、朝鮮興業会社創立ノ際尽力セシニ付、陳謝ノ意ヲ表スルトテ、屏風一双ノ代物ヲ贈リ来ル○下略


渋沢栄一 日記 大正九年(DK540077k-0005)
第54巻 p.381 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
二月十四日 晴 厳寒
午前七時半起床入浴シテ朝飧ス、後、長滝武司氏来訪、朝鮮興業会社ノ近状ヲ話ス○下略


竜門雑誌 第三九六号・第三七―三八頁大正一〇年五月 故尾高次郎君追悼の辞 佐々木勇之助君(DK540077k-0006)
第54巻 p.381-382 ページ画像

竜門雑誌  第三九六号・第三七―三八頁大正一〇年五月
    故尾高次郎君追悼の辞
                       佐々木 勇之助君
○上略 然るに丁度明治三十七年の春、今阪谷男爵から御話がありました朝鮮興業会社、是は明治三十七年の春に京城支店の清水泰吉君が丁度公用で出て参られました時分に、色々な話から、朝鮮の農業が甚だ振はない、目下地価も非常に安いから、農業会社を起して朝鮮の土地を買入れて、農事の改良をしたらどうだらうと云ふ話がございました。其時尾高君は、元と朝鮮に居られました時分から、頻に其の考があつたと云ふので直に賛同せられて、是非之をやらうではないかと云ふ話がありまして、私共も最も面白からうと云ふので渋沢子爵に伺ひました所が、子爵も大に之に御賛成下されましたから、それでは先づ農事会社を設立しやうではないかと云ふ事に決しまして、御懇意の服部金太郎君・大橋新太郎君等にも御賛助を願ひ、さうして尾高君をして其任に当らしむと云ふことになつて、三十七年の九月に設立せられましたのが、今の朝鮮興業会社でございます。創立当時は資本金僅かに百万円でございましたが、其後段々資本を増して、今は資本金も三百万円、朝鮮に於て一万二千町歩と云ふ大なる土地を持つ大会社となりました。是も亦尾高君の功績と言はなければならぬと思ひます。元来第一銀行では、支配人其他実務に当つて居ります者は、特別の事情がございましても、重役会の許しを得ませぬければ他の職業に従事するこ
 - 第54巻 p.382 -ページ画像 
とは出来ないと云ふ内規があります為に、尾高君も朝鮮興業会社の事業をやられると云ふことになると、第一銀行を罷めなければならぬと云ふことになります。併し同君は前にも申上げました通り、朝鮮に於て第一銀行の為に大なる功労のあつた御方でありましたから、翌年三十八年一月の株主総会に於て監査役に選任せられましたのでございます。監査役と云ふのは、皆様御承知の通り至つて閑職でございますので、一週間に一度の重役会に御出でになれば宜いのであります。さう云ふ閑職に就かれましてから、唯今申しました朝鮮興業会社・東洋生命保険会社其他の種々の会社に御関係になりましたのでございます。○下略
  ○右ハ大正十年三月十五日帝国ホテルニ於テ催サレタル「故尾高次郎及八十島親徳両君追悼会」ニ於ケル追悼辞ナリ。


(増田明六) 日誌 大正一四年(DK540077k-0007)
第54巻 p.382 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一四年      (増田正純氏所蔵)
四月廿五日 土
前十、朝鮮興業総会総会同社《(会社)》ニ於て開催
○下略


(増田明六) 日誌 昭和二年(DK540077k-0008)
第54巻 p.382 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和二年      (増田正純氏所蔵)
四月廿五日 月 晴                 出勤
前十、朝鮮興業会社の株主総会ニ出席、原案賛成の一人ニ加つた、凡て提案を一潟千里で可決、其間数分であつた○下略


竜門雑誌 第四八一号・第二七七―二七八頁昭和三年一〇月 渋沢子爵に就て 服部金太郎(DK540077k-0009)
第54巻 p.382 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第二七七―二七八頁昭和三年一〇月
    渋沢子爵に就て
                        服部金太郎
○上略 又余が関係したる事業にて、子爵の御尽力に依り成功せるものの中二つの土地会社がある。一は朝鮮興業会社、一は田園都市会社である。朝鮮興業会社は無論子爵の御尽力に依りて設立されたもので、社長には尾高次郎氏が推され、余は子爵の指名でホンの名のみの監査役にあつたが、当時済々多士の同社は其業績著しく挙り、尾高氏病歿後は大橋新太郎氏其後を襲ひ、引続き其経営宜しきを得たる為、社運益隆昌に趣き、現に同会社株式の価格は払込額の二十四割強に昂騰せる実況である。○中略 此等は子爵より見れば区々たる事業であらうけれども、共に斯の如き盛況を呈するに至つたのは、重役諸氏の経営宜しきを得たるは言ふ迄もないことであるが、其最大原因は、子爵が其の声望の隆と先見の明とを以て、之が勧奨後援をなされた多大の賜であるといふ事は争はれぬ事実である。
○下略


竜門雑誌 第四八一号・第一五三―一五四頁昭和三年一〇月 青淵先生と朝鮮の事業 佐々木清麿(DK540077k-0010)
第54巻 p.382-383 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第一五三―一五四頁昭和三年一〇月
    青淵先生と朝鮮の事業
                        佐々木清麿
○上略
 - 第54巻 p.383 -ページ画像 
    四、朝鮮興業会社
 明治三十七年、日露の戦役未だ終らず、砲煙なほ満洲の野を蔽ひ、鶏林八道の前途未だ俄かに測るべからざるの時に当り、青淵先生は朝鮮国農業開発の急務なるを念ひ、有志者十数人と議して、朝鮮内地に於て、土地の購入又は租借、土地担保の貸附、並に農事改良に関する事業を営むこと等の目的を以て、資本金一百万円の会社設立を発起せられ、同年九月六日東京に於て創立総会を開き、先生自ら議長となりて、取締役に尾高次郎氏外二名、監査役に土岐僙氏外一名を推薦せられしが、請によりて青淵先生は其監査に任ずることを承諾せられ、尾高次郎氏は専務取締役の任に当ることゝなつて、玆に会社の成立を見るに至れり、今の朝鮮興業会社是なり、翌年佐々木勇之助氏は其相談役に推され以て今に及べり、かくて当社事業の第一著手として明治三十八年四月京義鉄道の沿線黄州地方に於て、田畑約二千二百八十町歩を買収し、三十九年一月より四十年迄の間に於ては、京釜鉄道の沿線平沢・大田・三浪津、及び全羅南道木浦の各地方に於てそれぞれ耕地を買収して、専ら農場の施設に務めたり、当社が斯く分布的に土地の買入をなしたるは、南北の豊凶相補ひて、毎年の収獲に平均を保たしめん為なりしが、其予測に誤なかりしことは頗る幸とする処なり。
 明治四十二年六月、嘗て青淵先生が委員長として創立せられたる韓国倉庫会社を合併して、釜山に支店を設け、専ら倉庫業・運送業を営みたるが、此頃朝鮮政府に於て釜山に移出牛検疫所の設置を企画せしも、財源なきを以て当社に助力を求め来たり、因りて当社は其土地建物等の設備を引受け、完成の上之を無料にて貸上げ、其移出牛の飼養及び管理方の業務を取扱ふことゝなり、以て今日に至れるが、移出牛は年々頭数を増加し、今や相当の収益を挙ぐることを得て、相互の利益となれり。又明治四十三年七月には、当社と殆ど業務を同じくせる韓国拓殖会社を併合して其所有地を継承し、同時に慶山に支店を設くることゝなれり、斯くして当社の事業は次第に拡張整備し、其資本金も両会社合併の為めに五十万円を増し、大正二年四月には更に之を三百万とし、現在の払込済資本金は二百四十万円たり、而して所有の田畑は約壱万五千町歩、宅地十万三千余坪にして、最近は毎年一割八分の配当を継続す、蓋し農事経営会社中最も良好のものと云ふべし、青淵先生の恩徳は又こゝにも顕はる。
○下略
  ○韓国倉庫株式会社ニツイテハ、本資料第十六巻所収「韓国倉庫株式会社」参照。