デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
1節 朝鮮
5款 朝鮮軽便鉄道株式会社(朝鮮中央鉄道株式会社)
■綱文

第54巻 p.386-403(DK540079k) ページ画像

大正5年4月29日(1916年)

是日、帝国鉄道協会ニ於テ、当会社創立総会開カル。栄一、当会社設立ニツキ援助シ、株主トナル。大正八年、当会社ハ朝鮮中央鉄道株式会社ト改称ス。


■資料

朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務経過報告 刊(DK540079k-0001)
第54巻 p.386-388 ページ画像

朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務経過報告  刊
    創立事務経過概要
一、明治四十四年七月二十六日、朝鮮瓦斯電気株式会社、蔚山・慶州経由東莱・大邱間、慶州・浦項間ニ軽便鉄道敷設ノ出願ヲ為ス
一、明治四十五年二月二十六日、朝鮮瓦斯電気株式会社、蔚山・長生浦間ニ軽便鉄道敷設ノ出願ヲ為ス
一、明治四十五年七月二日、敷設許可書及命令書ヲ下附セラル
一、大正三年三月十一日、朝鮮瓦斯電気株式会社重役会ノ決議ヲ以テ大屋権平・牟田口元学両氏ノ間ニ朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務所ヲ設置スルコト、大正三年三月末日迄ニ会社創立ニ関スル計画ヲ定ムルコト、大正三年四月末日迄ニ発起人総会ヲ開キ会社創立ノ成否ヲ確定スルコト、発起人総会ニ於テ会社設立確実ト認メタルトキハ総督府ハ朝鮮瓦斯電気株式会社ニ延長線延期ノ許可ヲ与フル予定ノコト、朝鮮軽便鉄道株式会社ハ朝鮮瓦斯電気株式会社ガ許可セラレタル敷設権ヲ引受ケ、及釜山鎮・東莱間ノ既設線ヲモ買収スルコトノ覚書ヲ取換シタリ
一、同年三月十五日、朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務所ヲ東京市麹町区内幸町壱丁目四番地ニ設置シ、事務員一名ヲ置ク
一、同年三月二十四日、牟田口元学・佐藤潤象、総督府出張所ニ於テ児玉総督府総務局長ニ面会シ、軽便鉄道補助ニ関スル説明書ノ提示ヲ受ク
一、同年三月三十日、会社設立ニ関スル趣意書並事業目論見書ヲ作成ス
一、同年四月七日、同気倶楽部ニ於テ発起人総会ヲ開キ、牟田口元学中野武営・郷誠之助・小野金六・渡辺嘉一・園田実徳・武和三郎・小泉策太郎・磯部保次・佐藤潤象ノ十氏会合ス
一、同年五月十五日、牟田口元学・佐藤潤象ノ二氏釜山停車場ホテルニ有力者五十七名ヲ招待シテ、朝鮮軽便鉄道株式会社発起ニ関スル賛同ヲ求ム
一、同年五月二十八日、同気倶楽部ニ於テ発起人総会ヲ開キ、創立委員ヲ選定シ、互選ヲ以テ委員長ヲ定メタリ、創立委員長ニ牟田口元学、創立委員ニ中野武営・郷誠之助・小野金六・園田実徳・渡辺嘉
 - 第54巻 p.387 -ページ画像 
一・武和三郎・小泉策太郎・磯部保次・佐藤潤象ノ諸氏選任セラル尚将来創立委員ヲ増加スル必要アルトキハ、其選任ハ総テ創立委員会ニ一任スベキコトヲ決議セリ
一、同年五月三十日、牟田口創立委員長ハ朝鮮貴族ヲ築地精養軒ニ招待シ、軽便鉄道敷設ニ関スル賛同ヲ求メタリ、当日出席シタル諸氏ハ児玉総務局長・佐々木慶尚南道長官・李慶尚北道長官・侯爵朴泳孝・伯爵李完用・子爵趙重応・子爵閣丙奭・男爵朴箕陽ノ諸氏並ニ創立委員九名
一、同年七月、朝鮮瓦斯電気株式会社取締役会長牟田口元学、常務取締役佐藤潤象ノ二氏ト、朝鮮軽便鉄道株式会社発起人総代中野武営郷誠之助・小野金六ノ三氏トノ間ニ仮契約ヲ為シ、朝鮮瓦斯電気株式会社ハ既設釜山鎮・東莱間軽便鉄道特許営業権及蔚山・慶州・浦項間、蔚山・長生浦間ノ軽便鉄道敷設特許権ヲ放棄シ、右ニ属スル地所・建物・機関車・客車・貨車・軌条・電話・器具器械・貯蔵品ヲ金弐拾五万円ヲ以テ朝鮮軽便鉄道株式会社ニ譲渡スルコトヲ条件トセリ
一、同年八月二十九日、朝鮮瓦斯電気株式会社株主総会ニ於テ、朝鮮軽便鉄道株式会社発起人総代トノ間ニ締結シタル仮契約ヲ承認セリ
一、同年九月九日、日独間ノ宣戦詔勅煥発セラレタルニ依リ、創立委員ノ協議ヲ以テ株式募集及創立事務ニ関スル件ハ当分之ヲ延期スルコトヽセリ
一、同年九月十九日、佐藤創立委員ハ牟田口委員長ノ口演筆記ヲ携ヘ朝鮮各地ノ発起人及賛成者ニ創立事務中止ノ通知ヲナシタリ
一、大正四年六月二十三日、第一回創立委員会ヲ紅葉館ニ開キ、創立事務再開ヲ決議シ、発起人及賛成者ノ割当株ヲ定メ、且株数ニ応ジテ証拠金ヲ徴スルノ件ヲ決定ス
一、同年九月三十日、第二回委員会ヲ生命保険協会ニ於テ開キ、安藤保太郎・中野実・石丸竜太郎ノ三氏ヲ創立委員ニ追加シ、創立費トシテ発起人ヨリ一人ニ付金壱百円宛ヲ出金スルコト、創立事務ノタメ有給事務員又ハ嘱託員ヲ傭人ルヽノ件ヲ委員長ニ一任スルコト、創立事務ノタメ出張ノ必要アルトキハ委員長ノ定ムル旅費規定ニ拠リ旅費ヲ給与スルコト、取引銀行ヲ定ムルコト、佐藤潤象・安藤保太郎ノ二氏ヲ常務委員ニ挙グルコトヲ決定ス、尚創立事務所ヲ芝区新桜田町十九番地ニ移転セリ
一、同年十一月五日、第三回委員会ヲ創立事務所ニ開キ、朝鮮瓦斯電気株式会社トノ契約ニ関スル交渉ノ件、並ニ目論見書変更及定款決定ノ件ヲ決議セリ
一、同年十一月二十四日、創立事務所ニ於テ第四回委員会ヲ開キ、軽便鉄道敷設許可申請ノ件 銀行取引ノ件ヲ決ス
一、同年十二月二十七日、第五回創立委員会ヲ偕楽園ニ開キ、石橋重朝・趙重応・山口太兵衛・大池忠助・迫間房太郎・小倉武之助・太田光熙・鄭在学ノ諸氏ヲ創立委員ニ追加スルコトヲ決定ス
一、同年十二月二十八日、株式募集ヲ紅葉屋商会・小池商店・福島商会ノ現物団ト交渉シ、之ガ承諾ヲ得タリ
 - 第54巻 p.388 -ページ画像 
一、大正五年一月一日附ヲ以テ、目論見書ニ掲ゲタル鉄道敷設許可申請書ヲ朝鮮総督ニ提出ス
一、同年一月二十一日、第六回創立委員会ヲ開キ、朝鮮瓦斯電気株式会社トノ仮契約ヲ解除シ、同会社ガ当会社ノ鉄道敷設出願ニ対シ異議ナキ旨ヲ総督府ニ申出デタルニ付キ、同会社ニ於テ曾テ支出シタル延長線測量費等ニ係ル費用金参万円ヲ交付スルコトヲ決定ス
一、同年二月十五日、鉄道敷設許可命令書下附セラル
一、同年二月十八日会社設立願許可セラル
一、同年二月十九日迄ニ株式申込証拠金壱株ニ付金弐円五拾銭ノ払込ヲナセリ
一、同年二月二十一日、第一回払込金取扱ヲ東京、朝鮮銀行東京支店安田銀行・帝国商業銀行・三十銀行・中央商業銀行、大阪、百三十銀行・第百銀行大阪支店・帝国商業銀行大阪支店、福岡、百三十銀行博多支店、京城、朝鮮銀行・百三十銀行京城支店、釜山、朝鮮銀行出張所・百三十銀行釜山支店ニ交渉シ其承諾ヲ得タリ
一、同年二月二十一日、第一回払込期日ヲ三月十日限リト定メ、各株式引受人ニ通知状ヲ発セリ
一、同年二月二十五日、築地精養軒ニ発起人総会ヲ開キ、定款改正、目論見書変更及鉄道敷設会社設立ノ出願並其許可、株式募集ノ結了払込期日ノ決定、朝鮮瓦斯電気株式会社ニ金参万円交付ノ件ヲ報告シ之ヲ承認セリ
一、同年三月十日迄ニ第一回株金払込壱株ニ付金拾弐円五拾銭ノ払込ヲナセリ
一、同年三月二十日ヲ以テ株金未払込株式引受者ニ対シ、四月五日迄ニ払込マザルトキハ失権スベキ旨ノ催告状ヲ発セリ
一、同年四月五日迄ニ失権催告状ヲ受領シナガラ第一回株金払込ヲナサヾルタメ失権トナリタルモノ二十六人ニシテ、此ノ株式数弐千九百参拾株ナリ
一、同年四月六日、創立委員長ハ商法第百三十条ニ拠リ、創立委員会ノ同志《(意)》ヲ以テ失権株式ニ対シ新ニ株主ヲ募集スルコトヲ決ス
一、同年四月十日、失権株式弐千九百参拾株ハ新ニ募集シタル引受人四名ニ於テ払込ヲ完了セリ
一、同年四月十日、第一回株式払込全部完了ス
一、同年四月十日、創立事務所ニ於テ創立委員会ヲ開キ、四月二十九日午後二時、麹町区有楽町壱丁目五番地帝国鉄道協会ニ於テ、創立総会開会ノ件ヲ決ス
一、同年四月十三日、株主ニ創立総会期日ヲ通告ス
右報告候也
  大正五年四月二十九日
             朝鮮軽便鉄道株式会社
                創立委員長 牟田口元学


朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務経過報告 刊(DK540079k-0002)
第54巻 p.388-390 ページ画像

朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務経過報告  刊
    朝鮮軽便鉄道株式会社定款
 - 第54巻 p.389 -ページ画像 
第一条 当会社ハ朝鮮軽便鉄道株式会社ト称シ、本社ヲ釜山ニ置ク
第二条 当会社ハ左ノ鉄道ノ運輸業ヲ営ムヲ目的トス
  一、大邱ヨリ慶州・蔚山ヲ経テ東莱ニ至ル軽便鉄道
  二、慶州・浦項間軽便鉄道
  三、蔚山・長生浦間軽便鉄道
第三条 当会社ノ資本ハ金参百万円トス
第四条 当会社ノ公告ハ本社所在地ニ於テ朝鮮総督府ガ公告ヲ為ス新聞ニ掲載ス
      第二章 株式
第五条 当会社ノ株式ハ六万株トシ、壱株ノ金額ヲ五拾円トス
第六条 当会社ノ株券ハ記名式トシ、壱株券・拾株券・五拾株券ノ三種トス
第七条 株金第一回ノ払込額ハ壱株ニ付金拾弐円五拾銭トシ、其後ノ払込時期及金額ハ取締役会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム
 払込ヲ怠リタル株主ハ、払込期限ノ翌日ヨリ該金額ニ対スル延滞日歩(百円ニ付金四 銭)及延滞ヨリ生ズル総テノ費用ヲ支払フベシ
第八条 株式ノ譲渡ニ因リ名義ノ書換ヲ請求スルモノハ、当会社所定ノ書式ニ依リ、双方連署ノ書面ニ其株券ヲ添ヘテ差出スベシ
 相続・遺贈又ハ法律上ノ手続ニ因ル株式取得ノ名義書換ヲ請求スルモノハ、当会社所定ノ書式ニ依リ、且其取得ヲ証スベキ書面ニ其株券ヲ添ヘテ差出スベシ、本条ノ場合ニ於ケル名義書換ノ手数料ハ株券壱枚ニ付金拾銭トス
第九条 株券ノ毀損又ハ分合ノ為メ新株券ノ交付ヲ請求スルモノハ、当会社所定ノ書式ニ依リ其株券ヲ添ヘテ差出スベシ
 株券ノ喪失ニ依リ再発行ヲ請求スルモノハ、当会社所定ノ書式ニ依リ、保証人弐名以上ノ連署ヲ以テ其請求ヲナスベシ、会社ハ請求者ノ費用ヲ以テ其旨ヲ参日以上公告シ、尚参拾日ヲ経テ他ヨリ故障ノ申出ナキトキハ新株券ヲ交付ス
 本条ノ場合ニ於ケル再発行ノ手数料ハ、株券壱枚ニ付金弐拾五銭トス
第十条 毎計算期最終日ノ翌日ヨリ其期ノ定時総会ヲ終ルマデ、株式ノ名義書換ヲ停止ス
第十一条 株主ハ住所及印鑑ヲ当会社ニ届置クベシ、氏名住所又ハ印鑑変更ノ場合亦同シ
      第三章 総会
第十二条 当会社ノ定時総会ハ毎年二月・八月ノ両度ニ之ヲ招集ス
第十三条 株主総会ノ議長ハ社長之ニ任ズ、社長事故アルトキハ他ノ取締役之ニ代ル、取締役総テ事故アルトキハ出席株主中ヨリ之ヲ選任ス
第十四条 総会ノ議事ハ、予メ通知シタル目的及事項ノ外ニ渉ルコトヲ得ズ
第十五条 総会ノ決議ニ際シ可否同数ナルトキハ、議長ノ決スル所ニ依ル
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 議長ハ会議ヲ延期シ、会場ヲ変更スルコトヲ得、但延期会議ノ議事ハ、前会議ニ於テ議了セザリシ事項ノ外ニ渉ルコトヲ得ズ
第十六条 株主ハ当会社ノ株主ニ限リ代理ヲ委託スルコトヲ得、但其委任状ハ当会社ニ差出スベシ
第十七条 株主総会ノ議事ハ其要領ヲ記録シ、議長及出席株主弐名以上之ニ連署シテ会社ニ備置クベシ
      第四章 役員
第十八条 当会社ノ役員ハ左ノ如シ
 取締役拾名以内 監査役五名以内
 取締役ノ互選ヲ以テ社長壱名、常務取締役弐名以内ヲ置ク
第十九条 取締役及監査役ハ、株主総会ニ於テ当会社株式壱百株以上ヲ所有スル株主中ヨリ之ヲ選任ス、得票同数ナルトキハ抽籖ヲ以テ之ヲ決ス
第二十条 役員ノ任期ハ取締役三ケ年、監査役二ケ年トス
第二十一条 取締役ガ監査役ニ供託スヘキ株数ハ壱百株トス
第二十二条 社長ハ会社ヲ代表シ、定款及取締役会ノ決議ニ基キ会社全般ノ業務ヲ統理ス
第二十三条 常務取締役ハ社長ヲ輔佐シ常務ニ従事ス
第二十四条 役員中欠員ヲ生ジタルトキハ、臨時株主総会ヲ開キ補欠選挙ヲ為ス、其補欠員ノ任期ハ前任者ノ残期トス、但法定員数ヲ欠カズ、現任者ニ於テ事務ニ差支ナシト認ムルトキハ、次ノ改選期マデ補欠選挙ヲ延期スルコトヲ得
第二十五条 社長ハ必要ト認ムルトキハ相談役ヲ嘱スルコトヲ得
      第五章 計算
第二十六条 当会社ノ計算期ハ毎六ケ月トシ一ケ年ヲ一月ヨリ六月マデ、七月ヨリ十二月マデノ二回ニ分ツ
第二十七条 毎期ノ総収入金ヨリ総支出金ヲ控除シタル金額ノ百分ノ五以上ヲ減損補塡金ニ、百分ノ十ヲ役員賞与金トシテ引去リタル残額ヲ純益トシ、左ノ順序ニ従ヒ分配ス
 一、準備積立金    純益金百分ノ五
 二、別途積立金    純益金百分ノ五以上
 三、株主配当金
   但計算ノ都合ニヨリ後期ニ繰越金ヲ為スコトヲ得
第二十八条 株主配当金ハ毎計算期末現在ノ株主ニ之ヲ配当ス
      附則
第二十九条 当会社ノ創立総会ニ於テ選任セラレタル取締役ノ任期ハ第六回ノ定時総会開会ノ日マデ、監査役ノ任期ハ第四回定時総会開会ノ日マデトス
第三十条 会社ガ負担スベキ発起人ノ報酬ハ金弐万円以内トス


朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務経過報告 刊(DK540079k-0003)
第54巻 p.390-391 ページ画像

朝鮮軽便鉄道株式会社創立事務経過報告  刊
    株主氏名

図表を画像で表示株主氏名

  株数    氏名                府県名  株数    氏名               府県名 二、五三〇  宮崎代七              東京  二、〇〇〇  古川源太郎                 同  以下p.391 ページ画像  一、六四〇  真武敬三              福岡    六〇〇  山本源太                  東京 一、二五〇  高木又次郎             大阪    五〇〇  東洋生命保険株式会社取締役社長 尾高次郎  同 一、二五〇  野村徳七              同     五〇〇  小原為                   朝鮮 一、二五〇  黒川幸七              同     五〇〇  加藤房五郎                 東京 一、二〇〇  佐藤潤象              朝鮮    五〇〇  中島トミ                  同 一、一〇〇  牟田口元学             東京    五〇〇  村上楯朝                  同 一、〇八〇  高成田栄              同     五〇〇  野中万助                  同 一、〇〇〇  石橋重朝              同     五〇〇  野沢源次郎                 同 一、〇〇〇  石丸竜太郎             同     五〇〇  木下元治郎                 朝鮮 一、〇〇〇  野村助治              朝鮮    四〇〇  永井幸太郎                 同 一、〇〇〇  宮崎政吉              東京    四〇〇  村地久治郎                 大阪 一、〇〇〇  昌徳官代表者李王職長官子爵閔丙奭  朝鮮    ○中略   六〇〇  大池忠助              同     二〇〇  男爵渋沢栄一                東京   六〇〇  吉村静枝              福岡    ○下略 




(朝鮮軽便鉄道株式会社)起業目論見大要並定款 第一―五頁刊(DK540079k-0004)
第54巻 p.391-392 ページ画像

(朝鮮軽便鉄道株式会社)起業目論見大要並定款  第一―五頁刊
朝鮮に軽便鉄道を敷設して開発に貢献するは最も必要なる事業と被存曩に総督府の懇篤なる御保護の下に起業計画相立て候まゝ、生憎時局の為荏苒経過罷在候処、昨今追々然るべき時機とも相成、旁々更めて別記の順序により着手実行仕度、何卒特に有力なる御援助を賜はり候様致度希ふ所に御座候 以上
  大正四年十一月
                   朝鮮軽便鉄道株式会社
                      発起人一同
                           敬具
    起業目論見大要
一当会社は朝鮮に於て軽便鉄道の運輸業を営むものとす、原動力には蒸汽を用ひ、軌間は二呎六吋とす
二当会社の目的は朝鮮開発の国家的事業なるの故を以て、朝鮮総督府より特に有益なる御保護を蒙むるべく、資本金払込の日より拾年間年六朱の割合を以て利益配当金の保証を受け、加之借入金にても資本の総額までは払込金と見做されて、同じく補給を受くること、其の他、鉄道敷設に就て現在の道路敷の使用を許さるゝ等、用地費節約上多大の利益あるが如きは其の一例なり、軽便鉄道法の保護を受くる内地の鉄道に比し多大の特権を有す
三起業の方針は、先づ第一区の経営に於て事業の基礎を築き、順次確実安全なる進行を図るものとす
四着手の順序左の如し
 第一区
  大邸・慶州間              四十二哩
 第二区
  慶州・浦項間               十八哩
 第三区
  東莱・蔚山間              二十七哩
 - 第54巻 p.392 -ページ画像 
 第四区
  慶州・蔚山・長生浦間          三十四哩

五建設費予算
 第一区線概算           一、〇〇〇、〇〇〇円
 第二区線概算             五〇〇、〇〇〇円
 第三区線概算             六五〇、〇〇〇円
 第四区線概算             八五〇、〇〇〇円
       此総額        三、〇〇〇、〇〇〇円

        内訳○中略
六当会社の資本金は参百万円とし、之を六万株に分ち、一株を五十円とし、第一回払込金を拾弐円五拾銭とす、其の以後は時宜に応じ借入金に依ることあるべし
七右の収支概算
○下略


谷口守雄談話筆記(DK540079k-0005)
第54巻 p.392 ページ画像

谷口守雄談話筆記              (財団法人竜門社所蔵)
                 昭和十二年六月四日於東京瓦斯
                 株式会社本社 高橋善十郎筆記
    朝鮮軽便鉄道に就いて
 朝鮮軽便鉄道は、釜山にあつた元朝鮮瓦斯電気会社が敷設権利を持つてゐたのを、牟田口元学氏がその権利を貰ひ受け、鉄道線を敷設しようとした。その時青淵先生にこれが援助を求め、先生の名を賛成人に入れて先生の名で名士を集めたのである。この鉄道会社は牟田口と梅浦精一・中野武営・磯部保次・渡辺嘉一・武和三郎に私が加つて設立したのであるが、之れだけでは会社は出来ぬので、青淵先生に援助を願つて、そのお蔭で出来たわけである。始め政府の補助は六分であつたが、終には八分になり、延びのびになつてゐた創立は大正七年《(五)》であつた。青淵先生は蔭の援助をなされて主な名士を集めて下さつたし会にも出席さてお話されたのである。
 会社の資本金は三百万円で、六万株であつた。東京に於て先生の御骨折で集めた。始め東京で三万株程できたが、其以上集める事が中々困難であつた。其処で牟田口氏から依頼されて私が大阪へ行き、当時京阪電鉄の社長であつた友人の太田光熙氏に相談し、同氏が当時株界の重鎮であつた野村・黒川・竹原・山崎等の有力者に相談し、段々説明した処、一挙に一万株が出来た。大阪で一挙に一万株が出来たというので、東京でも一時に人気が乗り、忽の間にバタバタと直ぐ出来てしまつた。
 青淵先生は経済界から信仰を亨けてゐた方であつた。先生の名が賛成人に列つてゐれば、募集株式は容易にドシドシ集つたものである。現在ではそんな世人の信望を聚めてゐる人は居ない。全く偉い方であつた。


(朝鮮鉄道株式会社東京支社)書翰 高橋善十郎宛昭和一四年一月七日(DK540079k-0006)
第54巻 p.392-395 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(朝鮮中央鉄道株式会社)第十五回営業報告書 自大正十二年一月一日至大正十二年六月三十日 第一―四頁刊(DK540079k-0007)
第54巻 p.395-396 ページ画像

(朝鮮中央鉄道株式会社)第十五回営業報告書
              自大正十二年一月一日至大正十二年六月三十日 第一―四頁刊
    第十五回営業報告書
○中略
      一、株主総会
○中略
大正拾弐年五月弐拾八日午前拾壱時拾分東京市麹町区有楽町一丁目一番地生命保険会社協会ニ於テ、朝鮮中央鉄道株式会社臨時株主総会ヲ開ク、資本総額金壱千弐百万円、此株数弐拾四万株、総株主数弐千参拾名、内出席株主(委任状共)壱千壱百七拾五名、此株数拾五万壱千四拾八株也
取締役会長野村竜太郎議長席ニ就キ開会ヲ宣ス
 - 第54巻 p.396 -ページ画像 
議長野村竜太郎ハ別紙議案ノ説明ヲ為シ議事ニ入ル
第壱号議案 朝鮮中央鉄道株式会社・西鮮殖産鉄道株式会社・南朝鮮鉄道株式会社・朝鮮産業鉄道株式会社・朝鮮森林鉄道株式会社及両江拓林鉄道株式会社ヲ合併シテ朝鮮鉄道株式会社ヲ成立セシムル為メ、別紙(甲)仮契約ヲ承認スル件ヲ附議シ、満場一致ヲ以テ承認確定セリ(別紙略)
○下略



〔参考〕朝鮮私鉄補助の経過(DK540079k-0008)
第54巻 p.396 ページ画像

朝鮮私鉄補助の経過       (朝鮮中央鉄道株式会社所蔵)
大正三年三月十一日 六分補助ニ関スル協定ヲ総督府ニテ大屋長官ト佐藤潤象トノ間ニ為ス
大正三年三月廿四日 児玉伯ヨリ総督府ニテ立案サレタル補助命令ノ説明ヲ聴ク
大正五年二月十八日 会社設立願許可
大正五年四月廿九日 創立総会
大正五年六月廿四日 寺内総督ヨリ六分ノ補助命令ヲ受ク(五年五月一日ヨリ七年三月卅一日迄)
大正六年六月七日  長谷川総督ヨリ六分ノ補助命令ヲ受ク(六年四月一日ヨリ七年三月卅一日迄)
大正七年五月廿四日 長谷川総督ヨリ七分ノ補助命令ヲ受ク(七年四月一日ヨリ大正十五年三月卅一日迄)
大正八年八月六日  前命令書ヲ改メ八分補助命令ヲ受ク(八年七月一日ヨリ十二月卅一日迄)
大正十年四月 法律第三四号ニテ朝鮮私設鉄道補助法制定サレ八分ト為ル



〔参考〕鉄監第四四八号命令書(DK540079k-0009)
第54巻 p.396-397 ページ画像

鉄監第四四八号命令書      (朝鮮中央鉄道株式会社所蔵)
 鉄監第四四八号
                  朝鮮軽便鉄道株式会社
其ノ社軽便鉄道ニ対シ別紙命令書ニ依リ補助金ヲ交付ス
  大正七年五月廿四日
             朝鮮総督 伯爵 長谷川弘道
    命令書
第一条 其ノ社員決算期ニ於ケル左記区間ノ益金カ、当該区間ニ対スル払込株金ニ対シ年七分ノ割合ニ達セサルトキハ、最初ノ株金払込後十年ヲ限リ政府ノ予算ノ範囲内ニ於テ其ノ不足額ヲ補給ス、但シ営業収入ノ営業費ニ不足スル金額ニ対シテハ之ヲ補給セス
 大邱・浦項・慶州・東莱・蔚山・長生浦間ノ補給期間ハ大正七年四月一日ヨリ大正十五年三月卅一日迄トス
 第一項ノ計算ヲ為ス場合ニ於テ、法定積立金百分ノ五及別途積立金並役員賞与金百分ノ十五ヲ限リ之ヲ控除シテ計算スルコトヲ得
      左記
 一、大邱・浦項・慶州・東莱・蔚山・長生浦間
 二、公州・忠州・平沢・陰城・長湖院州間
 - 第54巻 p.397 -ページ画像 
第二条 補助金ノ算出ニ関スル払込株金ノ計算ハ株金払込登記ノ翌月ヨリ月割ヲ以テ之ヲ計算ス
 興業費ニ対スル社債及借入金ハ払込株金ト看做シ、其ノ支払利子ハ益金ノ計算ニ算入セス
第三条 株金払込社債募集又ハ借入金ヲ為サムトスルトキハ、金額・条件及事由ヲ具シ認可ヲ受クヘシ
第四条 事業年度ノ建設費予算及営業収支ノ予算ハ予メ認可ヲ受クヘシ、之ヲ変更スルトキ亦同シ
第五条 毎事業年度ニ於ケル建設費及営業収支ノ決算ハ当該年度ノ決算期ニ於テ認可ヲ受クヘシ
第六条 建設費及営業収支ノ現況ハ翌月中ニ之ヲ報告スヘシ
第七条 予算・決算・会計及給与ニ関スル規程ハ認可ヲ受クヘシ
第八条 法令又ハ法令ニ基キテ発スル命令許可若ハ本命令ニ附シタル条件ニ違反シ又ハ公益ヲ害スヘキ行為ヲ為シタルトキハ、補助ヲ停止若ハ廃止又ハ既ニ下附シタル補助金ノ返還ヲ命スルコトアルヘシ
第九条 朝鮮総督ハ必要ト認ムルトキハ更ニ命令ヲ追加シ、又ハ変更ヲ為スコトアルヘシ



〔参考〕鷹村言行録 安藤保太郎編 下巻・第四―一五頁大正一二年七月刊(DK540079k-0010)
第54巻 p.397-401 ページ画像

鷹村言行録 安藤保太郎編  下巻・第四―一五頁大正一二年七月刊
    牟田口元学と朝鮮中央鉄道 佐藤潤象識
      ○
 現今京釜線大邱駅を起点に、慶尚北道を貫いて浦項に至り、又た慶尚南道蔚山に延び、将た同線鳥致院駅より忠清北道清州に至るの鉄道を有する朝鮮中央鉄道株式会社の前身は、先年東京に朝鮮協会なるものを設け、私の親友なる故国友重章氏幹事として之に当り居り、私も其の会員にて、朝鮮の事を研究中、丁度今を距る十九年前、明治三十六年頃と覚ゆ、国友氏と相談の上、野田豁通氏と相謀り、朝鮮に軽便鉄道敷設の儀を長谷川大将に申出たるも進行せず、夫より三・四年を経過し、明治三十九年十二月、右国友重章氏釜山に来りて、私と共に電車経営の計画をなした時に始まる。さうして釜山に於て電車営業特許の願書を提出することになつたが、一遍提出した計りで、当時財界の景気が好くなかつた為めに、止むを得ず中止し、荏苒五箇年を経過して、更に明治四十三年四月二十四日、松平正直氏外二十七名連署し電車・電灯・瓦斯三営業の特許を、私と吉本氏両名総代として出願に及んだが、其時故翁○牟田口元学の御名前は願書に記されてあつた。然るに当時多数の共願者ありしに拘はらず、亀山理事官の斡旋の下に、僅僅二十五日間にて、五月十八日伊藤統監の許可を得たるに依り、明治四十三年五月二十三日吉本氏と私は其の許可書を携へ東京へ行つた。恰も築地の同人会で創立会を開いた時、私は故翁に初めて御面会するの機会を得た。尤も私は明治十四年(二十歳)の頃、東京府庁に奉職して居て、故翁の令弟牟田口宗六氏と同僚であつた関係から、麹町永田町の牟田口邸は遊びに行つたことはある。其頃故翁は改進党の先輩として威勢隆隆たる有様で、私はまだ年少の事ではあり、直接交際が出来る程ではなかつたのである。
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      ○
 それから明治四十三年六月三日、第一回発起人《(会脱)》を開き、故翁を委員長として推薦以来、故翁の逝去なされたまで、凡そ十二年間、朝鮮の鉄道事業を故翁と共に提携して行つた。然るに故翁と私とは齢が十七八違ふ、故翁は私を子の如く慈しみ、私は故翁に親の如く侍づき、何も斯もお互に打開けて、釜山の瓦斯も、電灯も、電車も、又た鉄道も終始一致の行動を取つたのである。
      ○
 当時故翁は釜山瓦斯電気会社の取締役会長、私は其の常務取締役として関係があつたが、翁は重もに東京に居られ、私は釜山の事業地に居りて実務に当り、屡東京釜山間を往復し、文書は総て故翁の名義を以て取扱つて居た。○中略
      ○
 故翁は私と共に釜山の瓦斯電気会社に従事された関係から、鉄道の延長を出願された。瓦斯電気会社の方では、鉄道を歓迎して居ない為めに、佐藤は鉄道にのみ熱狂して居るのは面白くない、漸く電灯瓦斯事業も緒に就いて、相当に配当が出来るやうになつたのに、また配当減の状態に立戻りては遺憾至極の事と、重役・株主及び釜山の人人も大抵其の意向であつた。私は鉄道狂と言はれるほど敷設に奔走して、批難を受けて居た為めに、故翁の幕下直参とも謂ふべき人達が、佐藤と共に瓦斯電気会社だけをやるのは好いとしても、鉄道に尽力するのは研究を要すると、度度故翁に忠告を試みたことも有るらしい。翁は其の当時九州小倉鉄道会社の社長であり、其方には重きを置いて全力を尽される一方、外の人人からは、朝鮮の鉄道を佐藤と提携してやらるるのは不得策だと屡忠告が来る。直参の中にても最も故翁と接近せる某氏なども、明治四十五年四月頃と思ふ、大邱・浦項間を視察して帰つて、沿道物資の貧弱なる、到底敷設の見込は無いといふ悲観説を唱へて故翁に報告した。斯かる状勢であつた故に、或時故翁は親交の人人十人ばかり寄せ集めて、意見を徴したところが、其中に切りに批難をする向があつたそうで、翁を朝鮮の鉄道事業に引出すのは、前途を過まらせるといふことに全員一致したと、後に私に話された。
      ○
 斯様に四面楚歌の声に満ちたるにも拘はらず、故翁は私を呼ばれて総て反対の人が多いけれども、私は朝鮮の開発は鉄道の普及速成に在りといふ、お互の一致したる意思を是非決行しやうと思ふと言はれた時は、人生感知己、実に有難く嬉く思つて、如何なることに遭遇しても、万難を排して目的を達し、必ず成功を期せんことを誓言したところ、翁は貴君は釜山の埋築に数年間奮闘成功の事を承知し居れば、自信ありと言はれたので、私は一層意を強うしたのである。
      ○
 明治四十四年敷設出願、四十五年七月命令が下り、同年から三年の間は苦心を続け、或は実地踏査、或は株式の募集などに奔走したが、大正三年三月までの間は、殆んど絶望の境に陥つたのである。
      ○
 - 第54巻 p.399 -ページ画像 
 大正三年三月十一日初めて東京総督府出張所で、大屋長官・児玉伯故翁及び私が会合して覚書を交換した。種種の条項が有つたが、要するに四月末日に発起人総会を開いて、之が出来るか出来ぬかといふことの成否を確かむることであつた。
      ○
 其の五月故翁と私は京城に往つて株式の勧誘に努めた。始めて有力者の同意を求めたが、重もなる向は、山県政務総監・荒井度支部長官持地土木局長・市原朝鮮銀行総裁其他の方面へも熱心に勧誘して見たけれども、どうしても結果不良、要領を得ずに了つたのである。
      ○
 五月二十五日東京に朝鮮貴族の各位が来られたので、十分鼓吹する積りで、築地の精養軒に故翁と私と両人にて御招待申した。来会者は朴泳孝・李完用・趙重応・閔丙奭・朴箕陽諸氏及び児玉伯・佐々木藤太郎・大倉喜八郎・中野武営・武和三郎・磯部保次郎諸氏、而して朝鮮開発の為め鉄道敷設の必要を説いたのである。
      ○
 同年七月六日、朝鮮大邱大和で大歓迎会を開いた。故翁は病気を押して京城より大邱へ来られ、休憩の間もなく、長時間に亘りて大演説を試みられ、さうして京城へ帰られた。
      ○
 九月七日芝紅葉館に於て委員会を開いたが、其時丁度宣戦の交布があつて、故翁と私とは何処までも進行論を固守したけれども故中野武営氏は大の反対論者で、欧洲の大戦最中進行しても、到底不成功である、平和時代に帰してからが宜しいといふ議論を、是も固く執つて動かない。そこで故翁と私とは朝鮮方面に向つて、中止の説明をして廻らねばならぬ羽目に陥つた。が故翁は差支があつて、私が代りてそれをなさねばならぬことになつた。是時は随分心苦しい思をした。其の説明は随分心苦しきものであつたが、故翁の談話代りとして印刷物を提示し、且つ説明したうち、九月二十一日大邱府庁に有力者を招集しまた延期の説明をしたのは、殊更心苦しく思つた。残念ながら玆に一頓挫を来たしたのである。
      ○
 大正四年五月三十一日私が釜山に帰るとき、東京駅から汽車に乗つた。やがて食堂が開かれたので、私は入つて見ると、向うに寺内さんのやうなお方が見える。然るに誰れも見送りも、お供も無いので、寺内伯と気付かなかつたが、諦視すれば正に寺内総督であつた。私は近付いて挨拶をなし、且つ誠に好機会と思うて、他人交らずに総督の室に至り、朝鮮私設鉄道敷設の急務をお話した。(総督はたしか興津の井上侯の御病気を見舞に行かれたのであらう)
 其時総督は今の時節鉄道敷設は如何であらうか、とてもむづかしからう、夫でもやはり何処までもやる積りかと念を押されたので、私は朝鮮開発の目的を達するためには、万難を排してもやる心底です、牟田口氏の決心したのも、畢竟之が為めです。牟田口氏は瓦斯電気会社は勿論、小倉鉄道をも辞退し一意専心朝鮮鉄道に従事し、老後の思出
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に是非やり遂げる意気込、私も同様是非初心を貫徹したいと思ひますと熱心にお話したところ、本当にやるのなら、此方でも亦た其の覚悟で居ると答へられた。
 寺内伯が朝鮮鉄道に対しての意向は、是時車中で決せられたというてもよい。
 其後六月六日釜山桟橋で寺内総督に御面会申上た節、汽車中で牟田口氏に逢ひましたと言はれたが、後で考へて見ると、佐藤から斯ういふ話を聴いた、と話された意味と察しられる。それから京城東京の間を幾来往した。
      ○
 六月二十三日、芝紅葉館で委員会を催ほした。大分委員が集まるであらうと考へて居たところ、図らざりき、僅かに園田実徳氏・中野武営氏・武和三郎氏・故翁及び私の五人だけで、甚だ心細いことで、之では到底いかんと一旦は気を落したが、復た更に気を引立てやうと考へた。各種の方法を案じ、遂に六月二十六日、朝鮮鉄道敷設宣伝の為めに、東京の十七新聞、二通信社員を木挽町河内家に招待して、大に其の必要を説いたのである。
      ○
 故翁と私とは斯く誓約し、決心した以上、分裂することは思ひも寄らぬ。一方瓦斯電気会社では、会社重役乗取問題が起つてくる。七月二日東京商業会議所で大株主会を開いた。諸方から印刷物の攻撃文が舞込んで、種種の条項を掲げたる中には、故翁と佐藤とは、鉄道のみに力を入れるのは不都合だ、といふこともあつた。
      ○
 七月中、続いて紛擾を醸して互に策戦する。八月六日に至つて復た東京商業会議所に株主総会を開いたが、午後二時に開会する筈が、漸く午後八時に至つて開くことになり、十二時までもかかつて翌午前一時即ち翌日に渉りて継続会を開くといふ程の奇観を呈したのである。それから八月十二日に至つて、故翁と私は瓦斯電気会社の重役を辞するといふ書面を提出した。
      ○
 九月二十四日、始めて朝鮮鉄道創立事務所を芝区新桜田町に設置した。其時から安藤保太郎氏も入り、続いて鈴木熊太郎氏も創立に尽力されることになつた。
      ○
 大正五年一月一日付正式に願書を其筋に出すことになつたが、まだ正月の休暇中にも拘はらず、私は一月二日釜山を発し、三日に普州の慶尚道庁に赴いて、佐々木道長官・前田大佐(当時警務部長)に面会し、是時を逸しては会社成立の期覚束なしと思ひ、特別に是非早く手続を進行して欲しいと迫つた。さうして引返して其の六日総督府に出頭、寺内総督・立花警務総長に面会して、同様の趣旨を陳べ、許可を御頼した。
 処が天運廻り来つたのか、急に此頃から株の景気が好くなつて来て一月十七日には一株も分配することが出来ぬ程の有様、博多あたりで
 - 第54巻 p.401 -ページ画像 
はプレミヤムが余程付いたといふ上景気を現はした。
      ○
 然るに二月二十五日発起人会を開き、会社成立の手続を進行したが前記の好景気は一時の現象で、また株の相場が落ち、株金払込期日末日に至つて失権者が出来、遂に三月二十日失権の通知さへ出すやうな次第で、喜悲処を易ふといふ有様。大正五年四月二十九日東京帝国鉄道協会に於て創立総会を開き、故翁は取締役社長、私は常務取締役に当ることとなり、先づはめでたく会社が成立した。
 之れで漸く一息ついて、七月十五日京城朝鮮ホテルに於て、故翁も来鮮し、披露の宴を開いたのである。其後著著工事を進行し、大正六年十一月一日に至つて、始めて大邱・河陽間一部の運輸営業を開始するに至つた。
      ○
 大正七年四月私設鉄道補助増額問題にて、武取締役と共に故翁の病中にも拘はらず、来鮮を請うたところ、翁は蹶然起つて共に釜山まで来られたが、病俄かに重り、釜山駅頭の鳴門旅館にて療養を加へられた。然るに直ちに全快の見込なく、看護の為め東京より来られたる家人・親戚及び主治医等附添の上、東京に引返された。それから二年越し療養に手を尽されたけれども、天遂に斯人に年を仮さず、大正九年一月十三日溘焉逝去された。想ふに故翁は朝鮮開発の為めに、又た斯の中央鉄道の為めに、上来記述した如く、心力を傾倒され、遂に其の最後の病を朝鮮の地より齎らし、終焉に帰せられたのは、皆人の惜む所であつたが、私は実に杖を失うた盲者と同じ感に打たれて、黯然として自失の状態に在つた。



〔参考〕鷹村言行録 安藤保太郎編 上巻・第一二四頁大正一二年七月刊(DK540079k-0011)
第54巻 p.401 ページ画像

鷹村言行録 安藤保太郎編  上巻・第一二四頁大正一二年七月刊
                      谷口守雄
    一点の邪心なし
○上略
 また朝鮮中央鉄道創立の際にも聊か微力を致した。当時財界は沈衰してゐて、株式の応募者にも大いに困難を感じたことであつた。先生○牟田口元学の依頼に由つて大阪に往つた。京阪電気の専務である太田光熙君の尽力で、株式界の有力者なる高木・竹原・黒川・野村諸氏に一万株を引受けて貰つたことは、同社の成立に資する所が有つた。太田君の好意は甚だ感謝の至りで、先生の此の事業のためには世に伝へねばならぬことと思ふ。自分が同社に役員の末に加はつたのは今年の事であるが、曾て野村竜太郎博士―満鉄入社以前―と渡辺博士とを、錦上の花として役員に推薦したところ、先生も大いに可なりと賛同せられた。渡辺博士や武専務を推薦したのも、自分では例の小倉鉄道のために掛けた迷惑に報いんとの心持であつた。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第四六七号・第六―九頁昭和二年八月 近事三題 青淵先生(DK540079k-0012)
第54巻 p.401-403 ページ画像

竜門雑誌  第四六七号・第六―九頁昭和二年八月
 - 第54巻 p.402 -ページ画像 
    近事三題
                      青淵先生
○上略
      二
  次に翌七月十六日正午宇垣朝鮮総督代理の招待会席上で、朝鮮関係に付て一言しましたから、話して置きます。それは大体次の通りでありました。
 朝鮮に関しては其の鉄道・農業又は内鮮融和等の関係に就て、過去に於ても努力したのでありますが、現在に於ても深く心配し、尚ほ一層尽さねばならないと考へて居ります。御承知の通り、私は過去の人間であり、且政治家でありませぬから、到底大した御話は出来ませぬが、只今は御主人から胸襟を開いた朝鮮の将来に対する御話を承り欣しく存じますのと、御主人始め朝鮮関係の方々の御列席を好機と思ひ些か既往の経過と思入とを述べて答辞と致したいと思ひます。
 私と朝鮮との関係は頗る古く、明治十一年に釜山浦へ第一国立銀行の支店を開設しました。私の当時の思案は我が国は徒らに国内に屏息して居るべきでなく、自国を維持して行く上に於て、無謀でない限り海外に発展せねばならぬと云ふにありました。そして時の内務卿は大久保(利通)さんでありましたが、大久保さんも「支店を出したらよからう」と云はれたので、多少の補助を得て店舗を設けたのであります。そして支店は十七年に朝鮮政府から海関税収納事務の取扱を命ぜられるようになりましたけれども、未だ微々たるもので経済的に発展したと云ひ得る程ではありませんでしたが、日清戦争後に至つて関係がいよいよ深くなつて行きました。処が二十八年に朝鮮の内乱があり例の王紀事件の如き間違が起つたため、両国の親交に一頓挫を来し、鉄道敷設に関する暫定条約の如き、破棄に近い取扱を受けたのであります。かくて京城・仁川間の鉄道は米人ゼームス・モールスの手によつて工事を進めるようになりましたので、これではならぬ、何とかして日本人の手で敷設したいものであると思ふて居りました処が、幸にもモールスが工事を請負はせて居たコールブランの仕事が思ふやうに行かぬ為めに困惑し日本人に売つてもよいと云ふことになりました。此事を聞いて私は好機逸すべからずとして、三井・岩崎等十数名の賛助を得、又政府の方では大隈(重信)さんが外務大臣であつたので助力してもらひ、一時低利の資金を借受けたりしましたが、兎に角此の京仁鉄道は一つのシンヂケートによつて、うまくモールスの手から買収し、明治三十三年に完成しましたので、其の開通式に私も参列したのであります。此の京仁鉄道は距離も短く単に京城・仁川間のものでありましたが、此以前により必要な京城・釜山間の鉄道敷設の許可を得て居りましたので、三十三年に、前島密・尾崎三郎・大江卓等の諸氏と共に主唱して、仕事にかからうと致しました。然るに資金の関係から容易に工事に取かゝることが出来ないので、遂には中止しやうかとまで考へるに至りました。当時京釜鉄道の敷設に就ては、政治界の先輩の間でも説が二つに別れて居りました。其の一つは積極的に進めたがよいと云ふ側で、山県(有朋)・桂(太郎)等の人々の意見であ
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り、他は伊藤(博文)・井上(馨)等の人々の消極論で、未だ日本の国力は進んで居ないから、徒らに朝鮮の問題で露国と事を構へるやうになつては困ると云ふのでありました。私に取つては何れも懇親な間柄の人々のことでありますから、一方の説に賛成すれば他方が立たぬと云ふことになり、大に困つたのでありますが、私としては朝鮮に対しては単に鉄道のみでなく、農業も鉱業も出来るだけは開発する必要があると云ふ意見で、予て銀行紙幣の通用方法などの順序をつけるに付ても積極方針を採つて居た様な訳で、鉄道に関しても積極説に従つたのでありますが、其為め井上さんなどからは「平素の渋沢にも似合はない」などと云はれました。然るに其後様子が大に変化しました。今も猶判然と記憶して居りますが、三十六年の八月末私が房州の犬吠へ避暑に行つて居りました時、井上さんから火のつくやうに帰京を促す電報をよこしましたので、帰京して訪ねて行くと「京釜鉄道はどうして居る。何をぐずぐずするのだ」と云ふから驚いて「貴方は一体それを真面目に云ふのですか、貴方は今まで京釜鉄道を急ぐのはよくない、余計なことをするとの説で、渋沢は国を誤るものだとさへ云はれたではありませんか、今日此の鉄道が必要な事情はよく判つて居りますが、急にやれと云つても無理です」と答へると「議論する時ではない、人情を持つて聞いてくれ、一体どうしたらやれるか」と云ふので「いや京釜鉄道はやれます、然し金がない為めに遷延して居るのです実は英国のミツチエル君に資金を借りる相談をしたが、政府の保証がなければいかぬと云ふから、曾禰さんに相談したところが、政府ではきいて呉れませぬ。仕方がないから日本銀行に相談しても、資金を融通してくれませぬ、勿論後で払込は取れますが差当つて必要の金がない為め大に差支へて居るのであります」と遠慮なく話した処「では私が日本銀行へ話してやらう」と云つて、仲に立つて呉れ、金の都合が出来たから忽ちに工事を終へ、日露戦争の間に合つたのであります。其時私は不幸病気になつたので、古市男爵(公威)が社長に就任したのであります。其後朝鮮の鉄道は官営に変つたが、余り著しい発展もしない模様でありました。然し現在では民業でやれることになつて居りますから、次第に発展するであらうと期待して居ります。又養蚕にしても製糸にしても、内地から片倉組・小口組等が乗り出しては居りますが、大に奨励すべきであり、更に農業の如き、内地に於ても然りでありますが、出来るだけ学理を応用して行きさへすれば、自然に其の方面の発達からも内鮮融和が出来るであらうと思ひます。換言すれば第一段に経済を進め、次で人情を以て対し、両者の融和を図るべきであらうと思ひます。
 以上申述べました事柄は既往のことでありますが、私も以前には必ずしも無為ではなかつたとの意味をお話したい為め、強いて此事を申したのであります。又過去は兎も角として現在将来に付ては、一層献身的に働く人をつくることが必要でありますから、さうした人々の活動を慫慂する点からも、右のやうなこともあつたと云ふことを申上げた次第であるのであります。
○下略