デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
2節 支那・満洲
6款 日華実業協会
■綱文

第55巻 p.392-402(DK550070k) ページ画像

大正15年1月13日(1926年)

是日栄一、当協会会長トシテ、北京燕塵社ヨリ「馮玉祥氏解剖」ト表記スル資料ヲ内送セラル。


■資料

日華実業協会往復(一)(DK550070k-0001)
第55巻 p.392-402 ページ画像

日華実業協会往復(一)          (渋沢子爵家所蔵)
拝啓
別紙「馮玉祥氏解剖」北京燕塵社ヨリ内送ノ分、時節柄有益ナル資料ト相考ヘ、御参考迄ニ御送附申上候 敬具
  大正十五年一月十三日
                    日華実業協会
    渋沢会長殿
(別紙)
(朱印)
親展
*   馮玉祥の解剖
   一、馮玉祥につきて
   二、呉佩孚との関係
   三、孫伝芳との関係
   四、国民党との関係
   五、労農露国との関係
   六、馮は赤化するか
   七、馮と日本並列国との関係
   八、馮の周囲
   九、西北地方事情(馮と如何にして結ぶか)
  一〇、結論
*(欄外記事)
 本文ハ昨年十二月九日付ヲ以テ在北京本邦有力者諸氏ニ親展状ニテ内示シタルモノナリ
    一、馮玉祥につきて
 本年五月呉佩孚を代表し張志譚氏が日本に赴き候時、同志は秘に彼れと会見其の将来に就て意見を叩き候節、張氏は呉佩孚は如何なる方法に於ても馮玉祥を討つ考へ也、馮は赤色労農の傀儡たり、討馮の方法として呉・張(作霖)を結ばしめん事余等希望也、其の為めには日本の斡旋を乞ひたし、若し日本が斡旋を好まず支那の和平統一への途を希はずとなれば、見よ関税会議の前後に於て一大動乱起らんと申候
 馮は当時呉系の真意を推知致し居り候ものか、呉の心情を緩和せん為め屡々代表を派し連絡を求め、共に奉天に衝らん事を希ひ候、呉は日本の斡旋に信頼し、馮の此の要求に対し極めて冷淡にて其の特使に
 - 第55巻 p.393 -ページ画像 
さへ面会せず候ひしも、日本の恃むに足らざるを知ると同時に、張作霖の呉に対する態度の余りに無礼なるに怒り、遂に馮と或る種の妥協を致し候、其の妥協要点は、馮が張(奉)との戦ひに対して好意中立をなすのみならず、河南を其の機会に侵す事をせず、と云ふ程度のものに有之、一方孫伝芳をして浙江に進出せしむるに際して馮は応援をなすと云ふことに相成り、同時に河南軍は山東に、馮は直隷にといふ手筈をさへ定め申し候、然るに狡智なる馮は、孫伝芳が進出するも動かざるのみか、河南の国民軍をしても動かしめず、孫伝芳が遂に山東に迫るも尚動かず、一方奉天系は馮の態度を怪しみ、山東張宗昌援助を名として関内に兵を入れ、先づ馮を万里長城以北に追ひ出し側面の憂を断ち、然る後山東に兵を移さんとするや、馮は出征奉天軍の統率者たる郭松齢と結び、郭をして張作霖に反謀せしめ、自己は一兵一丸を失はずして奉天軍を破り、直隷全省を全く掌中に帰せしめんとしつつあり、昨今の李景林との戦の如きは、馮に勝算歴々たるもの有之、言はゞ掌中に入りし玉を撫するの例に如かず候、以上は馮が今日の覇を得し順序の大略に候、以下更に詳述仕らん
    二、呉佩孚との関係
 此の両者の関係に就ては玆に適切なる一例を挙げ候、九月中旬国民党中傾的人物鈕永建氏は特に張家口より余《*》を来訪、曰く、武器が欲しい、或は戦争が近々起るやも知れず、馮氏は奉天との一戦を決心すと予答へて曰く、馮氏は海を有せず、何処より陸揚げなす心算なりやと鈕氏曰く、上海でも漢口でもよし、予曰く、其の意味は既に上海の孫漢口の呉との聯絡確実なるを証するや、鈕氏曰く、然りと
 鈕氏の此の言によりて余は、当時已に馮呉間の聯絡成りしを惟ひ候鈕氏は目下尚馮氏の信任篤きものにて、同様武器に対する望みは武官室日本公使館《**》にも懇願されし筈に候、公使館は絶対反対なりしやに聞及び候、是れと同様の希望を黄孚氏よりも出で、余は漢口呉佩孚方面に電報を以て問ひ合せ候も、本稿を認むるまでには返電無之候ひき、但し両者の関係は十一月上旬まで良好に候ひしも、郭松齢の反謀により張作霖を現在の苦境に致すことに成功せし後に於ては、已に呉の力を必要と致さず、更らに近々李景林を天津より追ひて海港を得る目算立ちしに於ては、必ずしも漢口・上海よりの搬入を要せず、目下は風に従ひ馮に靡くは当然にて、従つて呉系に対する態度も稍々強硬となり呉も亦面白からず、遂に呉をして馮討軍を興すべきことを決心致さしめ候
 呉は当初より、先年の奉直戦に際しての馮の寝返りに含む処あり、機を見て之を討たんとするも実力なく、奉天との聯絡の力を以てせんとせしも成らず、張の専横が河南・浙江に及ぶ所より、一時の方便として馮と僅かの聯絡をなし、孫伝芳をして進出せしめたるにして、其結果は意外にも奉天大瓦解の因をなし、自己の予想に反し馮に利せらるゝ所多く、岳州より漢口に出でし事も何等の意味を為さず、却て天下は呉の鼎の軽重を問ふの観有之、此処に於てか、呉は再び最初の意志にたちかへり、如何なる方法を以て旭日の勢にある馮を討たんかと内心焦慮中に候、呉の此の意志は已に日本陸軍方面には秘かに伝へら
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れし所にて、其の一方策として孫伝芳の軍を山東より引かしめ、初めの敵たりし奉天山東軍張宗昌と和し、遠く天津の李景林とも聯絡をとり、李・張・孫の力を一丸とし、馮一派の国民軍に対抗せんの気配を示し居り候、呉が日本側に意示せし要点は
  赤化労農露国の傀儡たる馮玉祥は、北方に於ける一段落を待ち、必ずや長江筋に南下し、其の赤き魔手を逞しうせん事必然なり、予は中国を救ふの意味に於て、断然馮の南下に備ふべく万全の策を講ぜん、且つ奉天張作霖の力が如何なる形式を以て其の残骸を止どむるに論なく、好機を見て討馮の軍を興す可きことを決心せり、△△△△△△△△にお伝へを願ふ
といふ意味のものに有之候
 是れによつて見るも、現在の馮・呉間の内面的関係を推し得べく候此の両者間の関係を如何に利用すべきか、以て如何に対満策、対労農策に用ふ可きかに就ては、後段結論の項に於て申し述ぶ可く候
*(欄外記事)
[余トハ燕塵社竹内克巳氏
**
[武官室トハ日本公使館武官連
    三、孫伝芳との関係
 孫伝芳は世間一般呉佩孚系を以て目さるゝも、其の狡智なる点に於て馮玉祥に類似し、反覆常なき又同じく候、将来第二の馮たりと思惟仕り候、彼れは呉系なるものゝ如きも、段派呉光新・徐樹錚と善く、一時は直隷系より段系に趨りし事も有之、現在では上海に在りし奉天軍の武器を収用し、雪達磨の如く勢力頓に加はるや、漸く呉系より脱し、一色彩を天下の一方に鮮明にせんとの野心を露し、呉の命令も従前の如くは従はず、却て自ら代表を馮の下に派し何事をか劃策せる様に候、但し其の周囲が呉系を以てせられ居れば、早急には呉より離れ得ざるべく、馮の力が絶大化し、呉系を圧迫することは将来の自己にも及ぶべき問題なれば、呉・馮相争ふとせば、呉を援助すべきは目下の処では当然の事に候、将来は馮に対抗して争ふべき北の狐と南の狸に候はん、河南軍が山東に進み、馮が天津に進出せんとする時に当つて、浙江に帰り兵を労へるも亦意味深きもの有之候
    四、国民党との関係
 馮と国民党との関係に就ては今更ら申上ぐる迄も無之処に候へども世間で思ふ程の深きものにてはなく、最近では已に国民党は馮にとりて用なき所と相成り候、抑も馮が国民党と結びしは本年二月頃の事にて、三月に片山潜並にボロデンがモスコウより張家口に来りし当時に於て、両者の関係が一段と密接に相成りし次第に候、即ち馮は民党の力をかりて、輿論と民衆を味方にせんとし、孫文なき後の同党の力を利用せし迄にて、同党左傾派の力を以て労農露国と結び、海港を有せざる西北地方に於て、其の自己擁護の立場上、張家口・庫倫間の陸路を海港に充て、俄国《*》の手をへて武器と僅少の軍資とを手に入れしに止り候、期待に反し赤俄よりの供給意の如くならず、民党との結合が赤化との俗解を列国殊に日本に起さしむるの不利を覚りたる馮は、最近では民党中の左傾派を振り捨てん事に苦心致し居る形跡明に候、民党
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左傾派が郭松齢の謀反を機会に、北京に於て社会革命の火烽を上げんとするや、其の第二日目に直に之を厳圧するの態度に出でしに見ても昨今に於ける馮と左傾民党との関係を察知し得可く、それを機会に徐謙の如き左傾人との面会を拒絶し、北京での民党の擾乱は関知せざる所なる旨を日本に明にしたるが如き、又其の一例に候、但し右傾民党は尚未だ多く馮の左右にぶら下り居り候、李烈鈞の如きも其の一人に候、之れを要するに、民党との関係は漸次薄弱に相成り、当分日本の御機嫌をとらんとする間は、寧ろ邪魔扱ひと致す可く候、尚後段馮の周囲に於て詳述致可く候
*(欄外記事)
[俄国ハ露国
    五、労農露国との関係
 本項に関しては前二回の情報を以て詳述致し候処に有之候へば、本編には詳細を省き候も、最近日本に於て一・二新聞に伝へらる所の馮と赤俄との密約内容の如きは取るに足らず候、前報告書に記し候本年三月ボロデンが張家口に会し、其の内約を結びしは事実にて、それには攻守同盟などの文字なく、単なる外蒙独立国を仲介としての庫倫との交通、戦術教官の派遣、武器弾薬の補給、張家口兵工廠問題等に有之候、今回日本に(時事・中外)流布せられしものは、北京公使官武官室より出でしものにて、多少加筆されし様子もありて宣伝味を帯びたるものに候、三月の張家口会議に於て、馮が交換条件的に外蒙の独立を認めたる模様あるは事実らしく候
 予は馮との単独会見の際に、『閣下は北京南苑に居られし際には親米にて、排日党なりしが、是れ閣下が自らの立場を愛護するに必要なりし為ならん、当時一部の日本人は閣下の排日行為を非難せしが、予は寧ろ閣下に同情せり、それと同じ意味に於て、近来露国と親善さるる事又閣下の位置がそうする他に途なき為にて、是れを以て閣下の赤化と云ふ、笑ふ可き事也、更らに最近閣下が中日親善を口にせらるゝや、一部日本人は直ちに閣下を親日家と倣《(做)》して感謝の意を致す、之又閣下の必要上の親日化にて感謝の必要もなし、予は今閣下の親日論を聞きて実はこそばく感ぜり、本日だけは親日論をやめられたしと』
 馮、苦笑して答へず、蓋し予の言は彼の心臓を射止めし価値ありと思惟候
 奉直戦争後馮が第一に後援を得んとせしは米国にて候ひしも、寝返りの不評にてものに成らず、次で日本に依らんとせしも、日本は張作霖との関係上之亦面白からず、遂に余儀なく労農に趨りしものに候て彼が山の奥のとでも申すべき茫々たる原野に追はれし事がかくせしめしにて、彼と赤俄と離すべき方法は海港を与ふる事が最良方法に候、彼の最近までの目的は海を得る事と、張作霖の勢力をそぐに有之候ひしが、今や彼は一兵をも損せずして同時に二つの目的を達し候
 而して労農露国の目的は、満洲を如何にして自己の手に入るゝか、その第一手段として張作霖を如何にして日本の手より離すか、張の奉天に在る間は支那人への赤化運動も、満洲幾万の労働者への宣伝も功なく、されば《*》チヤンツアオリンを倒せの声は、浦塩を基点として所謂
 - 第55巻 p.396 -ページ画像 
彼等のタアリツシユ(仲間)中大問題たりし処に有之、此の目的を同じうせる二つのものが、ある同志の仲介と、ある機会に於て結びし事当然過ぐる程当然の事にて、況や張が白党露人を利用するに於てをやにて候、労農露国が馮の力を利用し今日の事をなすべき事は、前報告書に於て警告候処に有之、更に馮を利用して満洲に喰ひ入るべき事を玆に重ねて申上置候、もはや今後は思想てふ武器を以てする侵入を武力を以て防ぐ事は、漸次に、満洲に於ては不可能と相成り申す可く、加之無数の赤化鮮人あり、果して如何なる方法を以て我対満政策の基礎となすべきやに就て、我同人社員の鮮満支部に於て攻究中に候へば重ねて貴意を得べしと存じ候、労農露国をして倒張の急なるを最近に刺戟せしものは、彼の満鉄の洮済線契約に候、此の線は浦塩の死命を制し、シベリア線を無用ならしめ、東支線を枯死せしむるものにて、張の東三省に君臨する間は、将来も此の種の危惧を与へらるべしとは俄人の何人も考慮すべき処にて候はん
 要するに馮と俄国とは相互の死活関係より結び、遂に今日の成功を得し候次第、向後何時まで馮が俄国に引き摺らるるかによつて馮の赤化程度を推し得可く、同時に我満洲政策は極めて困難なる立場に至るべき事を今より覚悟せざるべからざる次第に候、斯くの如き困難をなからしむる為めに、我同人は呉・張の聯絡を策し、呉の快諾を得候も日本側等の食言と奉天側の驕慢とによりて成らず、今や馮を牽制するには呉・張の結びも余りに力弱く、三ケ月前を顧ふ事は已に死児の齢を数ふる類と相成候
*(欄外記事)
[張作霖
    六、馮は赤化するか
 馮玉祥が赤化せんとは何人も申す処にて候へども、予は断んじて赤化せずと申上候、馮のみならず、支那人には絶体に赤化は無之候、但し前述の如く、馮は労農露国を利用せんと致し居り候次第に候へば、内面的の赤化はなくとも、之れを利用せんとする為めの表面的の赤化は或る時機に於て到来致すやも知れず、見方によりては其の時期は最近までの馮が然りとも申し得可く候、日本として警戒を要す可き点は馮が利用せんとして利用され、表面的にでも赤化を表はす其の時機の長短にて候、松岡洋右氏(満鉄理事)の如きは、其の時機の期間が長く、是れ最も恐る可く、是れ一つの赤化なりとて非常に馮の赤化を恐れられ居り候へども、内面的にあらざるものの二年も三年も継続さるべき筈もなく、且つ利用せんとしての赤化、即ち主義を離れたる自利本位のものなれば、利を以て善導する事も亦容易に候へば、其の期間は若し到来するとしても極めて短時間のものと愚考仕り候、故に予は敢て馮は赤化せずと申上ぐる次第に候、今日張家口に於ける馮の施設を見るに、一つとして労農式によらざるなく、私兵を有する権力者には労農式の専売式は極めて都合よき口実に候、妓楼・宿屋・自動車等に至るまで官営とし、利益を取り上ぐる事は労農式には候はんも、似而非なる表面的の御都合赤化に候
 モスコウより三十余名の教官来り練兵を為すとか、自動車五百台を
 - 第55巻 p.397 -ページ画像 
民間より取り上げ、庫倫・張家口間の運搬に充つるとかの労農との関係を見て、馮の赤化を云ふは早計に候、馮は教官には一々通訳を附し密偵となし、決して直接兵との交渉をさけしめ居り、彼の広東に於ける学生軍の如き比に非ず候
 本年四・五月頃馮の代表として日本に赴きし鄧恢宇氏は予の家に来りて曰く、「日本から小銃五千と其の弾丸とを買ひ度いのですが、公使が反対なので思ふ様に行きません、浦塩へ上げて貰へばそれより鉄道で庫倫に運んで呉れます、そこから自動車で張家口に来ます、中野正剛氏にも頼んだのですが駄目でせう、労農政府から貰へばいいつてですか? 中々口ばかりで呉れるものですか、教官は無給ですが其他の一文だつて鉄砲一つだつてくれやしません、此の間の武器ですか?あれは独逸から買つたもので労農政府は運賃をとつて庫倫まで運んで呉れたんです、いやうそではありません、欧洲戦争の残りものの独逸品なのです、うつかりすると之れを恩にきせて赤化宣伝ときますから要慎せなくちや……」と。蓋し是れは実際の事に候、鈕永建氏の言と参照すれば符節もあひ、馮の赤化に対する警戒の状況も推せられ候
 最後に再び、馮は赤化せずと申上候、利用より来る赤化の表はれありとするも、其の期間短く、自利を本位とするものなれば、利を以て善導すること又可能に候、馮の利とは馮の立場を諒解してやる事にて馮の力を充分に牽制し得べき力の生ずるまで、日本としては余りに馮の赤化を考慮に置かず、多少の利を以てまぎらし置く事必要に候、彼れを牽制すべき力に就ては後段に於て述ぶる処有之可く候
 話は違ひ申し候へども、最近浦塩より日本の菊花の御紋章を附せる銃器多少馮の手に入りし様子にて、独逸より購入のものは従来の弾丸と合はず、今回の分は日本品なればよく従来手持の弾丸とあふと申し居候、那辺より来れるものか解し難く、彼のシベリア出兵の残品が浦塩の倉庫に山積しあるは事実に候へば、其の廃品同様のものを何等かの諒解の下に搬入せしものかとも愚考せられ候、本件に関しては余りに探査の歩を進めず候
 書き落し候得共、馮が俄国と日本とに夫々留学生を派遣致し候が、其の内モスコウよりの熊参謀長の報告書は興味あるものにて、少しも労農を讃美し居らず、其の欠点を列挙しあり候、但し日本留学生の報告も同様のものならんと存じ候も、未だ見るを得ず候、熊氏は馮幕下中の秀才に候
    七、馮と日本並列国との関係
 馮は絶体に英国がきらひに候、英国を指して帝国主義の権化と申居候、上海事件以来殊に其の感を深ふ致し候、米国も最近ではきらひに候、すきなのは労農政府と日本とのみにて候、是れ何れも利によつて生ずるすき、きらひに候呵々、労農は前述の関係上自己の位置の上よりすきなるにて、日本は、之れと提携せずして大を成し得ずとの考へからすきなるにて候、張を倒すにしても、倒し得てからでも、当分日本との親善が自己の位置を安全にするに必要也との見地からにて候
 彼の永年東京に於て中日間の政治ブローカーたりし殷汝耕氏を起用し、郭松齢の外交処長となさしめ、郭との聯絡をなさしむると同時に
 - 第55巻 p.398 -ページ画像 
満洲問題に関して公使館への条件提出の使者となさしめしも、其の見地からにて、殷氏が最近関税会議の顧問たると同時に、日本側に使用され居れるを知悉せる馮として、殷氏を仲介とすることの利益は万々飲み込み居る処に候
 松室中佐を顧問として招聘したるは、戦術の用には非ず、日本との聯絡の為めなりとは馮自らの高言する処に候
 張作霖に代るべき東三省の統治者は、日本の希望するものを以てせん(但し郭は実力派として存在せしむ)との条件を出だせしも、日本の好意を買はんが為めに候
 馮は日本の好意なるものを、非常に買ひかぶり居り候、是れは多少日本として有難迷惑な次第にて、此の結果は本年鄧恢宇氏が日本に来り、本人としては生れて始めての分相応以上の歓待を日本に於て受けし所より、日本に頼ば何事も出来ると過信せしと、且つ自己の日本行の使命の好結果を誇らんが為めの誇大報告が馮をして斯如念を抱かしめしにて、其後此過信に基き、日本に依頼することが一つとして出来ざるに業を煮し、昨今では多少疑ひ始め候、所へ丁度今度の時変《(事)》と相成り、更に当初の過信を基礎に頼み事を続け居る次第に候が、最近では更に鄧以外のものをもう一度日本に使者として送らんと云ふ事に相成り、目下人選中に候、或は殷汝耕氏位ひが選ばるゝやも知れず候
 要するに、馮は日本に其の力を利用し覇を唱へんと考へるものにて今や労農より日本に鞍替えせんとしつつあるものに候、されど、彼の為人狡智にして疑ひ深く、容易に人を信ぜず、国際関係に於ても同様ならんと存じ候
 馮と日本との関係が稍密接と相成しは、前述の奉直戦争後の事に候て、当時日本が呉佩孚を倒す為めに採りたる極端なる援張策は克く馮の知り居る処にて、彼の馮に与へられし寝返り料六十万円も、日本の仲介せし処なれば、張の所在《(存カ)》せる間は日本に対しては警戒の手をゆるめず、松室顧問の献言と雖も用ゐず、返而同顧問を奉天側のスパイとして日本の入れし人位ひに解し居りし事実は多々有之候、大倉翁に対して致したる好意は、氏が資本家なるを以て他日之を利用せん為めに外ならず、大倉組と奉天との関係、奉天兵工廠が大倉組によりて出来し事に就て馮は親近者に語り、不日奉天は張家口に移転されんと語りし由に候、其の言外の意味は極めて深きものに候
 馮と日本との関係は将来円満に進むべき事あらんも、馮が張作霖同様日本の利益を総てに計るものとは思惟されず、或は遠き将来に於ては、寧ろ日本に不利を来すべき人物たるべき事は、従来の彼れの歴史彼れの周囲に見て明に候、彼れは内面的と対内的に於ては一つの軍閥に過ぎず候も、対外的には赤化し居るものに候、即ち彼れの主義たる自主権の回復、場合によつては条約破棄に至るをも辞せずてふ態度は是れを対外的赤化とでも申すべく候、但し是れは支那一般的国民の声にて、右傾国民党と雖同様の態度にて、其の場合の至らば、彼れは労農以外の何れの国をも振り捨て、輿論に媚びつつ自己の位置を保護する事に努力仕るべく候、彼れは軍閥とは申せ、民衆を解したる軍閥にて、各国から見れば厄介なる軍閥の巨頭、如何にして牽制制禦すべき
 - 第55巻 p.399 -ページ画像 
かに就ては結論の項に於て申し述ぶべく候
    八、馮の周囲
 是れは左図を以て御説明致すを便と考へ候、中傾とあるは右左傾の中間にあるものにて候

図表を画像で表示--

     嫡系――(鹿鐘麟・張之江・李鳴鐘・薜篤弼・劉郁芬・宋哲元・王乃模)         何レモ十年以上彼ト行動ヲ共ニセル人々ニテ、実兵ヲ授ク、嫡系以外ニハ彼レハ兵ヲモタシメス          右傾派―(黄郛・王正廷・孫岳) 馮玉祥 国民党系 中傾派―(鈕永建・胡暎・李烈鈞)          左傾派―(徐謙・于右任・劉汝賢)     中系――(馬福祥)     客系――(岳維峻・楊増新) 



  十二月上旬の北京に於ける暴動は、右表中国民党左傾派のなしたる所にて、日本では馮の段派に対する一種のクーデターとなすも然らず、馮は暴動が自己に関係ありと誤解さるゝ事は、目下の処非常に不利なれば、直ちに是れを鎮圧し、北京衛戍司令とも云ふ可き鹿鐘麟を責叱せり、左傾派とは其の前後より意見合はず、殊に暴動を名に徐謙にすら面会せずといふ、
    九、西方地方事情
      (馮と如何にして結ぶか)
 馮玉祥は従来行はれし利権的の取引を忌み、国権を本位とするてふ意味より合弁乃至好意の援助を希望し居り候、某米国公司の利権交渉をなせしもの有之候も、之れに応ぜず候ひき、かゝる虫のよき考の馮に対して資本的好意の援助をなすべき事業はなかるべく、且つ馮が何ん時労農をまねて条約契約の破棄、一切の専有又は官有等を言明するの虞れあるに於てをやにて候、未だ日本及日本人と資金上の取引ありしを聞かず、昨年陸軍省が羊毛皮を西北地方より買ひ集めし当時(大倉・三井の手をへて)、多少馮が便宜を与へ、馮の徴発する課税を手心せし事は有之候、尚日本より実業顧問を招聘する意ありしやにて、根津張家口総領事は前三井奉天支店長たりし中村氏を紹介し、中村氏自ら張家口に来り交渉する処有之候も、遂に不結果に終り候、更に満鉄は地質調査隊を派遣し、大青山地方の石炭層を調査するの意あり、馮側も之れを希望せしが、馮自身は満鉄其のものをよろこばず、右地方農商務部に於て詳細に調査せし報告書あるを口実に断り来り候、是れ馮が満鉄と張作霖とを結びて考へし偏見より来るものにて候
 西北地方の富源に就ては未だ正確なる調査を見ず候も、満洲或はより以上の鉱産と農産、加之牧畜に適せる事は明白に候、包頭地方に於て地下数尺より石炭層あり、露天掘に適すと伝へられ、内外蒙よりの羊毛、甘粛の石油・羊毛・毛皮等は其の数量夥しきものにて、殊に羊毛の品質はシベリアものに比して優秀にて、英米のみによりて取扱はれ居り候、米英人は数万方里の土地を牧場とし、直接羊牧を行ひ居り其の数四・五十にも達す可く、其の投資額鮮少には候はず、是れらは上海事件以来法規を盾に何れも馮に没収せられ、甚しきは武力を以て
 - 第55巻 p.400 -ページ画像 
閉鎖又は追放されし英人さへ有之、結局馮との間に妥協成立し、羊は馮に於て買上ぐるといふ事に相成候も、其の金はいつ下附さるゝものとも判らず、外人殊に英人の受けし打撃は非常なるもの有之候、現在では一人の英米人も居らず、馮の直轄に名義は帰し居るものに候へば目前の利を本位とする馮との結合には、差し当つて此の羊牧場一手権とでも言ふべきものを支那人名義又は日支合弁の下に、何等かの方法に於て契約する事にて候
 此の一大西北原野の数字的説明をなすに足る調査が未だ一回も行はれ居らざるは遺憾至極の儀にて、馮が日本に頼らんとしつつある機会を利し、国家的見地より各般に分れたる調査隊を派遣するの必要有之候、之れ又一つの馮と結ぶの方法にて候、満鉄に於ても西北地方の富源には注意を致し、機会ある毎に調査隊を出すの意志あるやに聞及候彼の京綏線には日本資金あり、此の平原を通ずる鉄路は北京を経て海港天津に通じ、恰も満洲に於ける東支及び満鉄線に候、更に馮は平地泉より滂江に至る滂平鉄路を完成し、庫倫への道を短縮せんと致し居り、已に督弁をさへ任命、交通部に命じ其の準備をさへ致さしめ候、一方労農露国はシベリア線を庫倫に枝さしむるの野心有之、更に庫倫滂江間を連絡せんとするは当然にて、此の間は自動車にて僅々四日行程、彼の茫々たるシベリアに敷線して克く東洋に手を延ばしたる露国の鉄道政策に見ても、此の間の工事は容易たるものに候、其の暁は庫倫より一路北京・天津に到達致し申すべく、多大の恐威を満鉄に与ふるものに可有之候
 馮の有無に関せず、西北地方の事態は総てに我国に影響を来し候ものに候へば、何らかの機会に於て徹底的調査をなすべきは急務たりと思惟仕候、且つそれが馮と結び馮を利用するに於てをやにて候
 西北地方の天産物及び事情に就ては別に報告致すの光栄を有すべく玆には以上極めて簡単に本報告と関係ある事項のみを申し添え候
    一〇、結論
 以上大体に亘りて馮玉祥を中心としたる関係と事情とを申上候、予の意見として、過去の歴史、為人に就て、馮は将来日本の為めにはならずと思惟候、予は馮の赤化を恐るゝものには非ず候、彼は目的の為めには手段を撰ばざるの男にて、今日の親善は明日の排日ともなり可申、然らば如何にして彼を日本に引き付け置く可きか、如何にして彼に代る人物を支那の巨頭となさしむべきかは、之より説かんとする所に候
 馮をして現在以上の大をなさしむる事は、他日に於て馮をして日本より離さしむるのみならず、労農露国と日本の立場とを利用して、返而日本に不利を来す事と相成候はん、さればとて馮を失脚せしむれば北西地方の険に入りて労農との親善を劃らしめ、不堪恐威を与る事を致し可申、西北の地は天下の険にて、南康万里長城よりは進攻出来ざる程の要害の地に候、予は寧ろ馮が北京に出て失脚して西北の地に這入り得ざる事を望み候
馮が中野正剛氏と会見に於て、『日本は革命なくして社会の大改良行へず、改革にあらず、革命也』と申せしは、蓋し馮が日本に対する真
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意の一端を表明せるもの、或は是れ労農の使嗾が及び居る結果に非ずやとも存ぜられ候、此の馮をして安固ならしめず、常に何等かの不安を与へ、我れに頼らしめ、牽制することは、支那が完全なる道程《(マヽ)》へまでの一方法に候、即牽制策を御説明するの順序として、左に馮を中心として現局を図解申上候
陳炯明 広東共産党 呉佩孚 馮玉祥 孫伝芳 岳(河南) 張(山東) 李景林 張作霖 郭松齢 開戦中 聯絡アリ 聯絡薄シ
  呉と張 本年五月以来聯絡企てられしも成らず、張の失脚と同時に日本側の或る種の忠言によりて成れり、呉が馮に対する感情は前述の如し
  馮と呉 張の心驕り、張が呉との提携を拒絶せし時、呉は馮の懇切なる希望を容れて一時聯絡ありしが、郭の独立にて張が苦境に陥るや、張を牽制するに、呉の力を要せずなりし処より両者の関係薄弱となる、却而呉は馮の力を牽制する意味に於て張よりの乞を容れたり
  馮と孫 孫は代表を馮の下に派すとは云へ薄弱也
  呉と孫 従前の如き主従関係は孫の力の増加せしよりなし
  呉と山東張 奉天張との関係上現在では戦を中止し、孫伝芳をして和せしめたる程也
 以上図解申上候状態に於て馮に対する反対の聯絡御諒承の御事と存じ候、即ち
 一、呉佩孚の力を漢口長江筋に所置し、河南軍の部下には呉系軍人軍隊あるを利し、河南まで進出せしむる事
 二、呉と張宗昌との現在の和戦を動機に、呉孫張の提携を拡張し、李景林をも加へ、張作霖が如何なる模様になるとも此の聯盟に加入せしむること
 三、郭松齢が張作霖に代るとしても、郭と馮との間に関係なからしむる事
以て此の聯合勢力の力を、河南・山東・上海・湖北に存せしむれば、馮は不絶之れに牽制さるゝ事と相成可申、而も之れ等の聯盟は、言はずして自然に成立せし処なれば、間接に此の合同を助長せしむべきことを保護すれば足るものに候、日本として、若し此の方法によらず、馮のみによるとすれば、此の聯盟は必ず一大排日化すべく、従つて、長江筋上海に於てボイコツトを生ずべき形勢も有之候、此の二大勢力
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を巧妙に繰り、完全なる統一への途を辿り、漸次に善導する事必要に候