デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
3節 其他ノ外国
11款 其他 1. 移民ニ関スル栄一ノ談話・講演
■綱文

第55巻 p.672-676(DK550133k) ページ画像

大正4年10月3日(1915年)

是日栄一、広島市公会堂ニ於テ開カレタル、広島商業会議所及ビ広島植民協会主催ノ講演会ニ出席シ、移民問題ニツキ講演ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK550133k-0001)
第55巻 p.672 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
十月三日 快晴
○上略 十時公会堂ニ抵リ、商業会議所・植民協会等ノ催シタル講演会ニ出席シ、商工業者ノ覚悟ト移民ニ関スル意見ヲ演説ス○下略


竜門雑誌 第三二九号・第三〇―三五頁大正四年一〇月 ○広島市公会堂に於ける講演 青淵先生(DK550133k-0002)
第55巻 p.672-675 ページ画像

竜門雑誌  第三二九号・第三〇―三五頁大正四年一〇月
    ○広島市公会堂に於ける講演
 - 第55巻 p.673 -ページ画像 
                      青淵先生
 本編は雑報欄記載の如く十月三日広島市公会堂に於ける青淵先生の講演にて、芸備日々新聞紙上に連載せるものなり(編者識)
○中略
次に殖民協会の事に付愚見を述べん、従来余は日米関係に付政治圏外に立ち多少苦心し居れり、当地は加州又は布哇に行ける人々も多ければ、此機会を以て之に関するお話をするも無用の事に非ざるべき歟、想ふに従来海外に出づる移民に付ては注意不行届きなりしと謂ふべし今春大隈伯の邸に於て移民協会設立の事ありし際、余も出席して愚見を述べよと云はれたれば、余は遠き昔は知らず、近く三百年以来各地方にある奉公人請宿、人入れ等の事を引きて愚見を述べたるが、此人入れの業は元禄享保の頃には親方なるものゝ扱ひし所に係り、凡そ斯る人を扱ふ業体は最も卑近なる階級の人の手に属せしかば、明治の初めに至りても、移民の如きは大人君子は何等の考慮をも運らさゞりき随つて道理もなく名法もなく、移民は唯勝手に出で行けり、因襲今日におよび依然その余弊を受く、すべて何れの国にも皆相当の風習ありて、例へば銀行の仕組の如きも英・仏・露・独其他の国々各々多少異る所あるも、孰れが是、孰れが非なるやは其地方々々の便利を考へて定まることなり、我国にては其学理も実際も整ひたるものを輸入し、夫れを我が実情に合ふ様にし以て基礎を立てたるなり、移民にも亦彼方の進みたる事情に合ふ必要あり、たゞ行きたければと云ひて行くは不可なり、之を相当なる会社などが世話して行かせることにせねばならず、若し初めより其方向を定め居らば可なりしことは言ふ迄もなく移民の生活の上に於ても都合よかりしならん、而も前述の如く因襲に依り斯る事には誰も世話をやかず、よし移民協会が成立したればとて奉公人雇人請宿式に出来てゐては初めより啓発する所もなし、必らずや彼方の風土なり人情なりを考察してやらねばならず、斯くて其行く人々が四角ならば寄せ集めたる所にて能くキチンと合ふも三角や六角にては少し推せばそこに齟齬も出で来る所以なり、移民に共同心なきは其点にあらん、然れば元の起りより強い考案を置かざりしは誤りなり、こは政治上に欠点ありとも謂ひ得可きが、我々にも心づきの行届かざる所ありしなり、是を以て移民協会はまことに必要なれども、ドウカ完全を期し大体に於て能く考察したる所を誤解せざる人々にして此に当らば、従来渡航せる人々の為めにも将来渡航する人々の為にも便宜なるべし、との意見を述べたり。
当地の殖民協会に付ては其成立、働き振等も詳細は知らざれども、姑らく東京の移民協会と同じ考へを以て話さんと思ふ、之に関係ある日米の国交に関する余一個の考へは真相を得たるものなるや否やは知らざれども、唯行掛上その事に任じ居れり、比年両国間の風波は高まり来れるが、元より我国の不利益や侮辱は忍ぶ可からざるも、然る場合果して唯力を以て之を抑へ得べき乎、若し然るを得ずとせば、彼れをして反省せしめ我に対して道理ある待遇をなさしめ、以て国交の親善貿易の進歩を図らざるべからず、余が是が為に力を尽すは報国の微志衷情に発するのみ。六十年前コンマンドル・ペリー来りしが、米国は
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日本を欧米に紹介し呉れたる国と謂ふも不可なし、安政五年には其最初の使臣タウンセンド・ハリス来り、追々各国との国交も結ばれたるが、其安政五年の条約こそは憂国の志士の最も憂憤したる所なれ、蓋し三百年前葡萄牙のジエスイツト教渡来し、其教師中には異図を抱きし者もありしより、幕府は之に対して警戒し鎖国論を唱へたるなり、開国の今日となりて当時の事を顧れば、其端緒は実に米国によりて発かれ、同国は日本誘導の恩ありと謂ふも過言に非ざるべし、是を以て彼れも親しめば我も頼みに思ひ居りしに、出稼ぎの為渡航したるものの行動に付よからざりしこともあり(若し良き会社ありて世話し、よき人が往けば悪風習も持ち行かざりしやも知れず)、且三十七・八年頃までは米国一般の気風日本に傾き露国との戦争に付ても日本をして勝たせたしと言ひ居りしが、果して日本勝ちたれば之を喜ぶと同時に恐怖心も起れり、或ひは又日本人中米国人の前にて何角と威張りたる人の有りしやも知れず、又日本人中には日露媾和談判に付不満を抱けるもの有りしが、両国の仲介はルーズベルト氏之をなしたることゝて米人は当時の始末に付仮令一時にもせよ悪感を抱きしならん、是等の事情湊集して彼此相激成し排日の気勢を高めたり、而して其の状たるや恰も胃腑に何か消化せざるものゝ存するが如し、加ふるに此間また彼国労働党の之を煽れるあり、此仲間は欧洲の労働者を容るゝを喜び或点に於て之を職業とせるものなり、随つて勢ひ日本の労働者を敵とす、こゝに種々の非難攻撃あれば、又自家の営業上より日米戦争を誇張し、其経営せる事業(造船・武器製造の如き)に資せんとするもあるらし、是に於て排日の気勢弥々高まり、明治四十年の学童排斥となり、或ひは日本人の職業制限となりしが、恰も小村氏外相たりし時深く之を憂ひ、我が国情を了解せしめん為余等も同感なりしより、東京を始めとし沿海八ケ所の商業会議所より米国の重なる実業家の来遊を促すことゝなり、其結果はじめて日米間の団体旅行成立ち、四十人ばかりの米人来遊せしは明治四十一年の事なりき、来遊者は真実に我が好意を喜び、是が幾分か悪感を取り去りたるらしく、次で其翌年には先方よりの希望に依り、我が実業界の重立ちたるものと専門学を修めたるもの等にて五十三人一団となり、余その団長として渡米したりき其際三ケ月に五十余の都市を歴訪し、到る所演説をもなし、諸種の招待をも受け、其間感情を融和したること尠からず、たとひ是等の事が完全に米国西部地方の排日熱を全く除却すること能はざりしにもせよ何程か其効はありしならん、その後又交換教授の事も行はれ、米国よりも名士の来れるありて、之と意見を交換せしに、其人々は排日熱を以て唯是れ安い労働者(日本の)を厭ふ経済的観念より来れるに過ぎざれば、敢て憂ふるに足らずと云へるも、其気休めのみにては承知し難し、現にサクラメントにては州会に土地所有禁止案さへ出たり、其影響決して小なりとせず、是に於て余は我国が自国にても道理を履むと同時に、他国にも道理を履ませ、米国をして差別的観念を除却せしめんことを願へるも、今尚行はれず、因て先般来遊せしマシウス博士は今帰化法をおこす事に配慮し、又彼我労働者の握手に尽力すべき友愛会の鈴木文治氏も渡米し、海老名弾正氏等も種々尽力し居れり、桑
 - 第55巻 p.675 -ページ画像 
博に対する出品に付ては余等も助言をなし出品することゝなりたるに頗ぶる好感を以て迎へられ、州知事ジヨンソン氏及州会議員等もやゝ反省したるらし、斯の如く余は日米関係に付尽力し来れるより、是迄の関係上当月末には渡米し、先方の意見をも聴き、当方の意見をも述べ、年内一杯か或ひは正月早々帰朝せんとす、此両国国交の将来に付ては諸君も余程注意せられんことを願ふ、尚注意したき事あり、移民の人々は全く一時の出稼ならばそれも宜しけれど、先方に日本を移したる様にてはいつかな彼れと同化せず、夫れにては彼も嫌ふことゝなるべし、因て米人となりて発展せんとならば、郷に入りては郷に従へなり、此点に注意せられんことを望む、又本県より出稼せる人々は故郷に家を造る位の考へをなせるもの多からんが、其人達は少々高くとも土地を買ふより自然その辺りの地価を高め、結局地方の不利益を醸すことゝなれるが如し、さる事をなさんよりは他によき事も段々あり然れば其得たる金を以て国富を増すべく役立てんことを願ふべきなり即ち小成に安んずるの心を棄て、今少し雄大なる志を養はれたしと思ふ、此事は渡米の節先方にある同胞諸君に話す積りなり云々


竜門雑誌 第三三一号・第五五―六三頁大正四年一二月 ○青淵先生西南紀行 随行員 白石喜太郎記(DK550133k-0003)
第55巻 p.675-676 ページ画像

竜門雑誌  第三三一号・第五五―六三頁大正四年一二月
    ○青淵先生西南紀行
                随行員 白石喜太郎記
○上略
      五、広島
○中略
        (三)講演会と午餐会
明れば十月三日なり、連日の陰雲全く晴れて、空は碧青拭ふが如く、朝来秋気稍清々しかりき。前夜半市原朝鮮銀行総裁の訃音電報にて水越理庸氏より達し、先生には痛惜措く能はざるの色ありき、思へば先生の感慨察するに余りあり。
午前八時三十分旅館を出でゝ腕車にて第一銀行支店に赴かれ、店内を一応順覧せられたる後、支店員一同を営業室に集めて一場の訓辞を与へられ、更に腕車に乗られ、寺田県知事を其官舎に訪問せられ、明治神宮奉賛会献金の件に付約半時間懇談せられ、転じて市公会堂に向はれたり。時に稍高く上りたりし太陽は真夏のそれの如く輝き渡り、街路ともすれば白塵立ち舞ひ、車上尚汗するを覚えたり。
公会堂に到れば聴衆既に会場たる階下大広間に満ち、尚廊下、縁側の嫌なく隙あれば座し、更に庭前芝生の上に折重りて立てるものも多数あり、牀上は実に文字通りの立錐の余地なき盛況なりき。初めは前夜披露宴会場に充てたりし階上大広間を使用する筈なりしに、聴衆意外に多く、為めに狭隘且危険を感じ急に席を変更したる由にして、聴衆は千弐百に余れりとのことなりき、斯く多数の来聴ありしは、先生の当市に於ける講演が此一回に限られたると、主催者が広島商業会議所と広島植民協会の聯合なりし為めにして、市の有力者はもとより郡部より態々来聴せるものも亦非常なる数なりしと云ふ。
先生の来着を知りては会衆の拍手は急霰の如く、軈て商業会議所会頭
 - 第55巻 p.676 -ページ画像 
高坂万兵衛氏の紹介により先生が演壇に立たれし時は拍手更に急を加へ、さしもの堂も破るゝばかりなりき、夫より約四十分に亘りて大要左の如き講演をせられたり。
 私は昨年支那に参りました帰途、この席で一場の視察談をしたことを覚えて居ります。諸君は当時の聴衆と異るかは存じませぬが、席は正に同じ席でございます。私が此の度の来広は第一銀行支店開設に付頭取として参りましたので、斯る機会に我が店の披露をするは甚だ便利でございますから序ながら御引立を願ふて置きます。
 偖日本の実業界は是の如く進みたし、又植民協会はかくありたし、更に米国布哇等に対しては如何にせばよき乎、是等の事は政治上より云ふても、経済上より云ふても、将た又国家の上より云ふても緊急の問題でありまして、私の言ふ処が果して正鵠を得るか如何かは知りませぬが、兎に角自分の思ふ処を御話して見たいと思ひます。
 但し御引立を願ふための報酬にする積りと御聴誤りなからんことを願ひます。
○中略
右を終り主催者側の招待にて午餐の饗を受けらる、主人側には植民協会理事長たる当年の鬼将軍佐藤正少将あり、無雑作に投げ出したる隻脚に昔を語り、炯々たる眼光に争気未だ衰へざるものありき。
午後一時退席し、一先旅館にて小憩せられたる後、午後三時六分発の急行列車に搭乗せられて下関に向はる、広島駅のプラツトホームは先生の見送人を以て埋められたり。