デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商業会議所
■綱文

第56巻 p.40-46(DK560015k) ページ画像

大正7年10月7日(1918年)

是日、当会議所ニ於テ、副会頭山科礼蔵ノ渡米送別午餐会開カル。栄一、出席シテ演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK560015k-0001)
第56巻 p.40 ページ画像

集会日時通知表  大正七年       (渋沢子爵家所蔵)
十月七日 月 正午 藤山雷太氏ヨリ御案内(会議処)


東京商業会議所報 第七号・第二二―二七頁 大正七年一一月 山科副会頭送別午餐会(DK560015k-0002)
第56巻 p.40-46 ページ画像

東京商業会議所報  第七号・第二二―二七頁 大正七年一一月
 - 第56巻 p.41 -ページ画像 
    ○山科副会頭送別午餐会
今回東京商業会議所副会頭山科礼蔵氏実業特使として渡米するに際し東京商業会議所に於て十月七日正午送別午餐会を開催せり、藤山会頭の挨拶に次で、渋沢男爵・田尻子爵の演説ありたる後、山科副会頭の答辞あり、主客歓を尽して午後二時散会せり
藤山会頭演説
  閣下並に諸君、本日は我商業会議所副会頭山科礼蔵君が東京商業会議所を代表し、又全国商業会議所の委嘱を受けられまして、亜米利加の現時の経済状態を視察し、且つ日米親善の為に相当の助力をしたいと云ふ希望を有ちまして、近く亜米利加に出発されることになりました、其為に送別会を此処に開いた次第であります、 ○中略 申す迄もない此亜米利加と日本の関係は実に今日は大切なる時であらうと考へます、戦争も五年の久しきに亘つて居りまするが、此平和も恐らくは近き将来に来はしないかと考へます、若し此戦争が終局の暁には、何が一番我々の心配すべき事であるかと申しますれば、言ふ迄もなく今日の干戈を執つての戦争に代はるものは実業上の戦争であります、実業上の大競争であらうと考へます、其大競争であらうと考へます、其大競争の起る所は勿論東洋であります、支那であらうと云ふことは之は総ての人の一致して居る事柄であります、而して我日本は御承知の如く支那と云ふものとは、実に是れなければ恐らくは国家の独立も経済上の独立も立たぬと云ふ此大事な支那の市場に於て、我々は全力を挙げて今後支那と親善をし、経済上の連絡を取りて事に当らなければならぬと云ふ今日の場合に於きまして、其目的を達するには何が大切であるかと申しますると、即ち此亜米利加と十分の了解を得なければならぬと云ふ事だらうと考へます、此点に於きましては、我々実業方面に立つて居りますものは年来の希望でありまして、今日の渋沢男爵の如きは深く此事を考慮されまして、屡々亜米利加にも御出下さいまして、此日米の間の了解に努め、経済上の連絡を取り、親善の道を開く為めに非常なる御尽力を下さいましたのであります、又政府に於ても勿論此事に付ては非常に深い御考を有ちまして、先きには石井大使が態々米国に御出になつて日米協約を結ばれ、近くは目賀田男爵が経済上の委員として御出になつた、併ながら此亜米利加は御承知の通りに最も何が勢力があるかと云へば、之は実業者の力が一番勢力のある国であります、即ち民間の力が一番勢力があるのであります、 ○中略 而して此亜米利加の十分なる了解を得て、さうして支那に活動したいと云ふのが我々の常に考へて居ることでありますが、此道を開くには政府の当局者は勿論でありますが、民間の人も是には十分の力を尽さなければならぬ、夫れが為に此度山科君は此商業会議所を代表して亜米利加に行かれることになつたのであります、此責任や実に重大である、山科君の行かれる此目的は是非成功を期さなければならぬ事と考へます、山科君は昨年は支那に行かれました、支那の現時の状態を十分視察されました、今申しまする通り亜米利加と支那と云ふものは我々が研究し連絡を取らんければならぬ国である、昨年其支那
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に遊んで又支那の事情を研究した眼識を以て、今や亜米利加に行かれ、亜米利加の現在の事情を見、今我々が亜米利加に対する衷心を十分に了解せしむる道を取られましたならば、之は実に国家の幸福であり、我々実業家が今後亜米利加と相提携して東亜の天地に活躍する基礎を造る一つの道ではないかと考へます、故に私は今日は特に東京に於ける有力なる方々に御出を願ひまして、此送別の宴を開いた次第であります、 ○中略 玆に謹んで皆様と共に山科君の御健康を祝しまする。(拍手大喝采)
渋沢男爵演説
  会頭、山科君、満場の閣下及諸君、今回山科副会頭が東京商業会議所を代表し、且つ全国商業会議所からの委嘱を荷ふて亜米利加へ御旅行をなさると云ふことを承はりまして、洵に結構な事である、深く同君の行を喜び居りましたのであります、此間御留別の宴を御開きになりましたが、其節は不幸にして病気の為に参上致すことの出来なかつたのを甚だ遺憾に存じて居りました、然るに今日は藤山会頭より私にも此席へ列し得るやうにして下されたので私は深く喜んで参上致した次第であります、唯今会頭が山科君の行に対して御述べになつたことは全然御同意と申上げる外はございませぬ、私は斯る機会に自分が亜米利加へ旅行致した経過を簡単に申上げて、山科君の御旅行に対する御参考に供し得られましたならば仕合せと思ふのでございます、行を送ると云ふよりは寧ろ自分は斯う云ふ旅行を致しましたと云ふことをお耳に入れやうと思ふのであります、自分は昔し欧羅巴へ旅行しましたけれども、其場合は不幸にして亜米利加を見ることが出来ずに、亜米利加と云ふ国へは殆んど年寄つてから始めて旅行を試みたと云ふやうな迂遠な私でございます、丁度始めて参つたのは三十五年である、次に参つたのは四十二年である其次に参つたのは大正四年でありました、以上三回亜米利加へ旅行をいたしましたが、其第一回の旅行は亜米利加に対して洵に漠然たる観察を致したのであります、唯凄まじい国だ、割合に意味のある国だと云ふ位なことで実に粗雑な観察をして参つたのであります、どうも物質にのみかぶれた拝金宗の国であると云ふやうに感じた、どうも亜米利加の有様が殆んど漠として要領を得ずに帰つたと言はなければならぬやうな次第であります、尤も其時には多少此商業上の関係なども帯びて参りましたが為に、紐育其他有名なる事業家の人にも面会しまして、色々事実上の話合もしましたけれども、是とて以て其要領を得るに至らずに仕舞ひました、まづ大体の観察は粗雑な国、或る場合には現金なる詰り拝金とも云ふべき国ではないかと云ふ想像を以て参つたに過ぎませぬ、但し人に接触すると如何にも快活にして且つ親切、何れへ参つても非常な満足と云ふよりは外ありませなんだ、又何か物を構へて心にはあるけれども口には言はぬといふやうな風ではないのでありますから、洵に快よい、大抵斯う云ふ風に始めには亜米利加を観察したのであります。
  第二の四十二年の旅行は、丁度三十九年頃から殊に西部に於ての我移民が甚だあちらで不遇を受くる、即ち差別待遇を受けるに付い
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て、此間に事に依つたら国際上に面倒を惹起す危険がある、時の外務大臣は是非之は民間の意志を成る可く接触させる外はなからうと云ふ考を以て商業会議所等に相談された、当時商業会議所の会頭は中野武営君でありました、六会議所が申合せて、即ち東京に横浜に大阪に神戸に京都に名古屋に、此六会議所が申合せて、亜米利加の太平洋沿岸の八商業会議所の人を案内した、日本へ来て日本の状態を見られるやうにと言つて案内をした、皆喜んで来ることになつて丁度四十一年の秋頃でありましたが、四十人ばかりの人数が八商業会議所の代表者として、且つ其外の種類の人も混つて日本へ漫遊されたのであります、即ち是が初度の亜米利加から団体旅行であります、之に対してはこちらでも十分の待遇をしなければいかぬと云ふので、主人側で出来る丈けの待遇をしたのであります、其時には僅かな時日であつたが、参つた人に対して相当に感興を与へて帰したやうに思ひますが、全く之は東京商業会議所が他の地方の会議所と力を合せて能く遇した為めでありませう、続いて亜米利加側は今度は其日本側を案内して互に情意を披瀝し意志を相通ぜしめるやうにしたいから、団体を組んで来て欲しいと云ふことであつた、そこで四十二年の八月に此方から五十余人の人々が婦人も混つて体団旅行《(団体)》が組立てられ、八月十九日シヤトルを指して参りました、此旅行は四ケ月の歳月を費しました、此時に亜米利加で我々日本人を待遇したことは今でも尚ほ記憶して居る程で、実に歓待と申しても過言ではなからうと思ひます、九月の一日にシヤトルに上陸して、シヤトルから十一月の三十日に桑港へ来る迄同じ車で以て亜米利加を押廻したと云ふことを以ても、如何に彼が歓迎をして呉れたかと云ふことを証拠立てられるやうに思ひます、此時にはシヤトルが先づ一番の出発点となつた為でもあるし、時の商業会議所の会頭であつたローマンと云ふ人は殆んど初日から桑港に参るまでズツト私共には付添つて呉れた、尤も単りシヤトルの人が付添つて呉れたばかりではありませぬ、或はボストンに致せ、オレゴンに致せ、フヒラデルフヒヤに致せ、或は聖路易に致せ、其他東部の方からも段々人が付きましたから、何時でも我々一行五十余人に対して少なくとも十二・三人は始終随行致して同じ車で押廻す、到る所に於て市役所を見せるとか、学校を見る、工場を見る、皆親切に案内をして呉れる、夫れに有力な午餐会或は何と云ふやうな有様で、先づ一所に長く留まつた所が紐育で十日、短い所で三日、或は一泊の所もありました、此の如き有様で旅行しましたが、此旅行は殊更に取立つて斯う云ふことが成立つたとは申せませぬけれども、到る所の商工業の団体の方にも接触致しまして、話を聞き、又専門家に就きまして夫々の品を見せて貰ひ、又説明を聞くと云ふやうに致しましたから、先づ是等は完全なる憶意《(情)》が通じ得られたやうに思ひます、而して此方のものも余り向ふから軽蔑せられる程でもなかつた、又向ふでは実に至れり尽せりの歓待をして呉れたので、御互の間に円満なる旅行を終つて帰つて来たのであります、故に此第二の旅行に付ては此の如き大きな旅行で実に愉快であつたと今尚ほ記憶に残つて御話にする位
 - 第56巻 p.44 -ページ画像 
である、唯どうも何時何分からどうする、何分から何分までどうすると云ふやうに実に切詰めたる旅行であつたから、実に忙しいことだと思つた、其事は多少困難に感じました、御馳走の数の多いのでもう食べ飽きたやうな訳でありましたけれども、蓋し其困ると云ふことは皆喜びに属する困りで、憂に属する困りは一もなかつたと申して宜しいやうであります、亜米利加人が当時我々に対して交情の斯く深かつたと云ふことは、決して之は何も渋沢が参つたからと云ふ訳ではない、全く日本人であるからである、日本に対して亜米利加人の感情が斯く迄宜かつたと云ふことは十年前に証拠立つて居る之は山科君に能く御記憶を願いたいのであります。
  三度目に参つた旅行は、之は私の慰み旅行と申して宜しい、十年前の旅行の継続と心得て参つたのであります、夫は桑港で三十年の紀念を祝した大博覧会を開催されると云ふ通知が予て戦争後《(前)》にあつた、日本は之に参同すると云ふ答をしてあつた、所が大正三年になると、事に因つたら出品を中止せねばなるまいと云ふことになつた出品に反対の論が起つて来た、今日御出の岡君などは定めて詳しく御承知でありませう、当時の農商務大臣大浦君なども種々御心配になつた、夫は今申す四十二年に亜米利加では加州で日本人に対して差別的待遇を与へると云ふことで其案を州会に出した、大統領ウヰルソン氏は国務卿たるブライアン氏を起して夫を宥めやうとしたが夫れすら聞かぬと云ふ有様だから、之に付ては日本も大いに進退を決せなければならぬと云ふことになつた、折角私は旅行迄して色々心配して居るのに何たる事ぞと心外に思つて、其事に付ては中野君とは御相談をして、今日御列席の添国君に御出張を請ふてあちらへ行つて頂いた、添田君も色々御心配になつたが、加州では到頭夫れを通過し、知事は夫を許可してしまつたと云ふ訳で大に失望致したと云ふ次第である、併し此後の有様は果して夫れ丈けの進行程度を以て進んだかと云ふと、さうでもない、多少緩和される模様もあつたやうである、所へ持つて来て今申す桑港の大博覧会、之を以て此方から成る可く情意を通じた方が宜からう、之は今になつて出品せぬやうなことになつては困ると私共は深く考へました、中野君とも御相談をして、特に農商務省へ出て大臣に是非御出品になるやうに致したいと云ふことを望んだのであります、之は情意を緩和したいと云ふ希望から、必らず夫れが効果があらうと信じたからであります、幸に其事が容れられて出品も出来、大体に博覧会の進行も良いと云ふことを承知しましたから、中野君とも御相談の上、此際誰か亜米利加人に幾らか名の知られて居る人をやるが宜からう、誰も知らぬ顔をして居るよりは、誰か見物旁々喜びを述べる為に一つ出張する方が宜からうと云ふことになつて、即ち私が往かうと云ふ覚悟を定めたのであります、言語は通せず、甚だ其任でないと思ひましたが、四十二年の関係上から特に私は亜米利加へ自分から進んで参りました、博覧会の見物も致し、其当時は色々の方面に於て種々なる事に関係致しました、労働大会の為に例の有名なるガンパスが桑港に来て居るから、之れと会見をして労働者の話などもすることが
 - 第56巻 p.45 -ページ画像 
出来ました、彼是致して居る内に、向ふへ参つてから窃に思案しましたのは、丁度今会頭が御述べになつた通り、将来の日本はどう云ふ注意をしなければならぬか、亜米利加が将来支那に向つて活動するに於ては、日本も之に参与するやうにしたいと希望して居る、然るに此事は悪くするとどうも旨く往かないか知らぬと気遣つて居りましたが、恰も宜し、横浜の電気会社のゲーリーと云ふ人が此時桑港へ来て居つたので、其ゲーリーに遇つて話をすると、彼が言ふには、亜米利加では東洋に向つて大に力を入れる一の大いなる組織が出来て居る、夫れはインターナシヨナル・コーポレーシヨンと云ふので、夫れが日本と共に力を合せて支那に活動しやうと云ふ考がある、丁度宜い所へお前は来た、早速其方の重もな人に紹介をしやうと云うことになつて、私は其方の有力なるバンデリツクと云ふ人に面会をして、色々話を致しました、固より一日の談話で、十分意を尽したとは思ひませぬが、相当に互に了解は致したやうに思ひました、夫れから其後ゲーリーは亜米利加に於て、此事に付いて四回か五回演説をした、そして段々と亜米利加人の感情も柔らいで来た、但し今日の実際は如何であるか、之れは山科君が行つて御覧になれば分りませうが、私が今日御話を申上げて置きたいと思ふことは右様な事であります、もう今日に於ては日米の間は決して憂ふる点はない、もう移民問題に付いては今日は殆んど問題外になつて居ると思ふのであります、去ながら此東部の方の支那に対する関係に付ては余程注意をしなければならぬ、支那に事業を経営する諸君にしても成るべく能く心して、唯自己さへ宜ければ宜いと云ふ観念は努めて之を押へて、相共に進むと云ふ考に依つてやつたならば、決して向ふでは此方を押除けると云ふ勝手な行動を取ることは万々なからうと思ひます、私の三回目の旅行は左様な風であつた、多少の御参考にならうと思ひましたから、今日行を送る言葉を止めて、自分の実歴談を御聞きに入れました。(拍手大喝采)
田尻子爵演説 ○略ス
山科副会頭演説
  閣下、諸君、今回私が東京商業会議所の推薦を蒙りまして、併せて全国商業会議所の嘱託を受けまして、亜米利加に参る事に相成りましたに付て、本日此所に盛大なる送別の宴を御開き下さいまして藤山会頭より多分なる送別の辞を賜はり、続いて渋沢男爵閣下よりは三度亜米利加に御渡航になりました御経歴のお話、及び非常に御尽力になりました有益なるお話を拝聴いたしました、続いて又田尻市長よりは最も新らしき経済談を拝聴いたしました、私ども此上なき光栄と致して且つ感謝いたしまする次第であります。
 ○中略 即ち日支の親善、続いて合衆国の提携と云ふ事柄は、今日我が帝国の一大国是と云つても宜からうと思ふのであります、而して此事を実現いたしまするには、どう致しても日米の堅き握手に依つて国民と国民との提携に依つて、太平洋の問題もございませうし、又東亜の懸案に関しましても、いろいろ此日米の協調、親密なる協同に俟つべきものも多々あるのであります、是等を解決いたしまする
 - 第56巻 p.46 -ページ画像 
には、どう致しても此協同政策に依つて、どうしても手を握つて此事を解決しなければならぬだらうと私は信ずるのであります、此故に此意味を以ちまして、此度私が商業会議所より使命を帯びて、亜米利加に参りまする次第でありますけれども、甚だ事重大でございまして、私共の浅学菲才、到底其任にあらずと信じて居りまするのでありまするが故に、どうか今後とも諸君の御援助に依りまして、此目的の聊かたりとも私の微衷を尽しました為めに、幾らか得て参りますると云ふ事柄が私の今日の希望でありまする故に、何所までも御援助、御同情あらむ事を希望いたしまするのであります。
○下略