デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商業会議所
■綱文

第56巻 p.89-93(DK560025k) ページ画像

大正9年4月22日(1920年)

是日、当会議所ニ於テ、イタリヤ国ゼノアニ開カルベキ海員労働総会ニ出席ノ政府代表委員内田嘉吉・松岡均平等一行ノ送別午餐会開カル。栄一、陪賓トシテ出席シ、演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正九年(DK560025k-0001)
第56巻 p.89 ページ画像

集会日時通知表  大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
四月廿二日 木 正午 東京商業会議所より御案内、内田・松岡両氏送別会(同所)


東京商業会議所報 第二五号・第一〇頁 大正九年五月 海員労働総会出席員送別会(DK560025k-0002)
第56巻 p.89 ページ画像

東京商業会議所報  第二五号・第一〇頁 大正九年五月
    ○海員労働総会出席員送別会
大正九年四月二十二日正午当所に於て、今回伊国ゼノアに開催の海員労働総会に出席せらるゝ政府代表委員内田嘉吉君・法学博士松岡均平君及一行諸氏を招待し送別会を開催したり、出席者は正賓内田嘉吉君法学博士松岡均平君・岡崎憲君・古川虎三郎君・滝村立太郎君・岡上守道君・勝部兵助君・誉儀喜宣君・木内良三郎君、陪賓渋沢男爵・服部金太郎・土方久徴・有賀長文・江口定条の諸君其他実業家の主なる諸氏、並主催側東京商業会議所杉原・山科両副会頭、議員等総員五十四名にして、正午一同食卓に着き、「デザートコース」に入り杉原副会頭起て、一行諸君は何れも海事に博識経験を有せらるゝの士なるを以て、必ずや吾人の期待に背かざる効果を齎すべきを信ずる旨を述べ盃を挙げて一行諸氏の為めに健康を祝し、内田嘉吉君は東京商業会議所の既往並現在に於て海運の伸張に声援を与へたる事を称揚して、此送別宴を開催せられたるを感謝し、渋沢男爵は内田君の所説を敷衍して本邦海運業発達の歴史を演説せられ、主客一同歓を尽し午後二時三十分散会したり(各演説の速記は二七頁に掲ぐ)


東京商業会議所報 第二五号・第二七―三〇頁 大正九月五月 海員労働総会出席員送別会演説速記(DK560025k-0003)
第56巻 p.89-93 ページ画像

東京商業会議所報  第二五号・第二七―三〇頁 大正九月五月
    ○海員労働総会出席員送別会演説速記
杉原副会頭挨拶
  此度内田・松岡・岡崎委員各位其他代表顧問の方が近日御出発になりますに就きまして、聊か送別の微意を表さんが為めに、今日を期しまして玆に此会を開いた次第であります ○中略
  曩きに米国華盛頓に於きまして国際労働会議がございまして、之に関聯して今回伊国ゼノアに於きまして海員労働総会を開かれるのであります、此会議に於きまして上る所の議題、議すべき案件、此解決如何は我が国の直に海運上に及ぼすこと大なることゝ思ふのであります、御出席の各位は非常に労働に対せられましては多年の御経験を有せられ非常に御精通遊ばさるゝ各位でありますから、殊に時々の変に応じ機宜の御処置あらせらるゝに就きましては、洵に吾
 - 第56巻 p.90 -ページ画像 
吾の期待し得ることでございます、御承知の如く時局以来海運の発達進歩は著しく、戦前は総噸数百五十万噸内外でございましたが、大正七年に至りまして二百三十万噸に上り、今日は殆ど三百万噸に達したのでございます、而も世界の三大海運国の班に列しましたことは諸君と共に祝賀すべき事と思ふのであります、是は時局の趨勢に依りますることでありますが、而も当該業務者各位並に海員諸君の共同一致努力の結果、玆に致せられたことを深く感謝に堪へざる次第でございます、海運は世界の文化に対しまして、即ち世界の文明を普及すべき一大使命を有つ所のものでございまして、此海運の消長や実に一国の興廃に関する事と思ふのであります、而も対外貿易、即ち吾々商工業者に取りましては、此海運の消長、最も之に期待する外ないと確信するのであります、此度会議に御列席の各位が国民の附託、国民の信頼を完うせらるべきことに就きましては、誠に吾々の深く御依属する次第であります ○中略 今日は渋沢男爵始め朝野有力なる各位の御参会を得まして、我が会議所として深く感激する次第であります、玆に恭しく盃を挙げまして代表各位の御健康を祝します。
内田嘉吉氏演説
○中略
 今回は海上に於ける労働の問題を討議するのでございます、陸上に於ける労働問題の我が国に取りまして、重要なることは申す迄もありせぬけれども、列国との関係より見ますれば、我国は多少特殊の位置に立つて居る次第でございます、然るに今回の海上の会議に就きましては、唯今も杉原副会頭の御述べになりました通りに、現今世界に於ける海運の噸数の上から見ますれば、英吉利第一、亜米利加第二、次に日本が位すると云ふやうな次第でございますので、唯今陸上に於ける労働の模様と、海上に於ける労働の模様とは、我が国の関係から申しますれば大に異つて居る所があるやうに考へるのでございます、随ひまして吾々此会議に参列致しまする者は、一層責任の重きを感ずる次第でございます、唯だ微力に致しまして十分に其職責を尽すことの出来ないことは遺憾と考へまするが、斯の如く帝国の首都でありまする東京の商業会議所の各位が御声援を下さいますることに就きましては、之を後援として吾々は微力ではございますが、大に其職責を尽すことに努めたいと云ふ考でございます私は玆に立ちまするに当りまして、此商業会議所と海運との関係に就て聊か追懐を致しました次第でございまするので、簡単にそれを申述べて見たいと信ずるのでございます、即ち此処に御出でになります渋沢男爵が当時会頭として御出でになりました際、今日から勘定致しますると約二十四五年以前になると信じますが、当会議所に海運伸張に関する委員を御設けになりまして、男爵御自身に此委員の主宰となられ、又荘田平五郎君の如きは当時海運に深き御経歴があつた方で、或は委員長の代理として、或は委員長として御尽瘁に相成りましたのであります、其時には尚我国の海外航路は僅に上海か浦塩斯徳か、或は漸く香港位迄伸びたのに過ぎないのでございま
 - 第56巻 p.91 -ページ画像 
す、専ら十七八万噸から二十四五万噸許りの噸数の船を以て、さう云ふ近廻りの航路を営んだに過ぎないのであります、其当時議会にも多数の意見は出たのでございますけれども、当会議所に於ては委員会を設けられまして、航路拡張・海員養成・造船奨励と云ふ海事上の三大項目に対しまして、詳細に御調査を遂げられたのであります、私は当時逓信省に低き職を奉じて居りまして、矢張其会議に参列致しまして、聊か御援助致しましたのであります、其建議は調査を遂げられました上で政府へ提出されました、又主務省に於きましては此建議の趣意に依り航海奨励法・造船奨励法の二つの法律を起草致しまして、更に商船学校を拡張致しまして、所謂此商業会議所から御建議になりました唯今の航路拡張・造船奨励・海員養成の三大項目に添ふことになつたのであります、そこで此奨励法は造船・航海共に議会の協賛する所となつて明治三十年実施になり、亜いで商船学校に学生を大に増募して収容することになつたのであります丁度其当時から濠洲航路と孟買航路とが開始されまして、漸く日本の外国航路なるものが一方は孟買迄、一方は濠洲迄延長することに相成りましたけれども、造船奨励法・航海奨励法実施の結果と致しまして、更に明治三十二年頃に相成りまして、郵船会社或は東洋汽船会社等が航路を拡張して、唯今の外国航路の基礎を致しました、其後日露戦争等を経まして、更に今回の欧洲戦争に致《(到)》つて、唯今杉原会頭《(副脱)》より御述べになりました通り、三百何十万噸の船舶を有つことになり、又世界に於ける第三の位置を占むることに相成りましたのも、此商業会議所の御建議になりました意見が、即ち此海運拡張の基礎の大なる部分を占めて居ると云ふことを、私は申上げて宜からうと思ふのであります、左様なる沿革がありまする此商業会議所に、私共今回海上に関する労働会議に出席致します者共が、御招きを受けましたに付きましては、喜んで御受けを致します、唯今述べました通り微力ではございますが、此援護を以て私共大に努力致したいと云ふ考でございます、将来尚ほ此会議に関聯して御意見、又御援助を賜ることがありますれば、吝まずに之を賜らんことを切望致すのであります。終りに臨みまして、私は渋沢男爵が当時の会頭として御尽瘁になつて、此海運の拡張の基礎を置かれたことに対して感謝の意を表し、又現会頭・副会頭玆に会員諸君が此海運に御注意相成りますことを感謝する次第であります、玆に祝盃を挙げたいと考へます。
渋沢男爵演説
  私も此席に参列する光栄を担ひましたので、一言御送別の言葉を述べたうございます、内田君よりして古い昔を御述べ下さいまして私は其当時を詳かに記憶致さぬ位でありますけれども、実に我が海運の今日迄に進んで行つたのは、決して偶然ではないのでございます、今御述べになりました事を更に其昔を繰返して考へますと、真に感慨に堪へぬ事がございます、甚だ古めかしい事を申すやうではありますが、内田さんの御話で呼出されて尚ほもう少し古い事があると云ふことを申上げたくなつたのでございます、明治四年に廃藩
 - 第56巻 p.92 -ページ画像 
置県と云ふことが行はれて、此中に御座る方は殆どお翁さんでなければ知らぬ位でありませうけれども、さう云ふ又時代があつたので其当時諸藩の船を大蔵省で取集めましたが、どうしても相当なる海運がなければいけない、既に亜米利加からも仏蘭西からも郵便船が通つて居りましたけれとも、其海外に対する日本の取引航海の出来ぬのが恥しい、又国の安全を保つと云ふには是非さうならなければならぬと云ふことが其当時の為政家の考であつた、それは丁度明治四年の廃藩と同時に、玆に海運業が出来たのであります、郵便蒸気船会社が起つた、其編成は或は井上侯爵であつたと思ひますが、主に取扱つたのは斯く申す渋沢であつたと思ふのであります、丁度其頃岩崎弥太郎君が(三菱の前身)《(脱アルカ)》フハンセン会社《(風帆船会社)》と云ふものを起して、此船会社が両者対峙して働いた、其会社が大に発展致して遂に三菱会社と云ふものが成立した、十四五年頃に至つて商業会議所に集り、其当時の人々が三菱の振興は結構だが、唯だ一に偏するは宜くないから、更に進めたら宜からうと云ふことを頻に論じた、是は甚だしく相競争する形になつて、此当時甚だ不穏の評判がありましたけれども、三菱と雖も、吾々と雖も、其仕事を相争ふと云ふ意味ではなく、斯業の進歩発達を図る為めは、富国盛衰に至つても尚ほ且相競争する如く、多くの物の勢ひで已むを得ぬことでございます或は共同運輸会社抔があつて、船会社が相競ふと云ふことになりました、多分明治十八年と思ひました、前に御話した大蔵卿の職に居られた井上侯爵が頻に二つの争ふことを憂へて、是非一つにしたいと云ふのが、遂に今の郵船会社の成立する原因に相成つたのであります、爾来数年を経て丁度私が記憶を致しまするに二十六年であつたと思ふのであります、勿論私は個人としては何等三菱会社に対しまして云為ある訳でもなし、さう云ふやうな感じを有つて居りませぬが、遂に日本郵船会社の重役に是非なれと云ふことを、而も川田小一郎君・岩崎弥之助君から申出でられた、多分明治二十五六年と思ひました、まだ日清戦争の始まらぬ少し前と思ふのであります、どうしても此船は実に日本の大切なものである、此船を進めて行かなければ決して日本の富を安全に保つことは出来ぬ、日本の商工業を盛んにすることが出来ぬぢやないか、お前等金融許りを心配して居つても、金融許りで日本の商工業を盛んにすることは到底出来ぬ船の関係が大に与つて居る、幸ひお前は両方どちらにも敵が無いからと云ふので、先づ以前の三菱、郵船会社、総ての方面を網羅して一大海運を起すやうにしなければならぬぢやないか、さうして三菱三井抔が入つて宜からう、其他コーキチ君《(園田孝吉)》も入れやう、多分四人が重役になりました、是が日本郵船会社を大に拡張する機運を成したと申しても宜いのであります、私共其趣意は至極可なりと見て其説に随ふて、日本郵船会社の重役に相成りました、丁度其頃が今内田さんの仰しやつた所であります、当時海運に対して大に政府が力を尽さなければならぬ、国家が相当の援助を与へて此海運業を進めなければならぬと云ふことを、私が申したのではなかつたが、其時分の智者が頻に論じた、私は智者の尻に著いて更に唱へたのでありま
 - 第56巻 p.93 -ページ画像 
す、恰も宜し、私は明治十一年此商業会議所の創立者の一人でありまして、其当時尚ほ会頭の位置に居りましたので、一方に於ては郵船会社長《(マヽ)》たり、一方に於ては会頭として、航海奨励法・造船奨励法に就て大に努力を致したのであります、それが今内田君の御述べになつた所で、内田君の御話に至る迄にまだ二代の変化があつたと思ひます、左様に長い経歴の関係がございますから、内田君の今日の御話迄には親の親の又其親がある、先づ先祖から申上げた方が宜からうと思つて、先祖の御話をしたのであります、当時其筋に於ても大に必要なりと国家が思ふて、或場合には余計な手当が過ぎる、保護が過ぎる抔と大に儲かつた時分には或は世人が思つたか知れないが、兎に角海運が斯く迄進んで参つたのは、中々一朝一夕偶然の事でなからうと思ふ、私は内田君の御述べになりました事に裏書をして、更に偶然でないと云ふことを此席に居られる皆様許りでなく、天下の人に言はなければならぬと思ふのであります、而して此海運が日本にどれだけ必要であるかと云ふことを、もう一属《(層)》真勢《(摯)》切実にして戴きたいと思ふのであります、既に先達講和会議に御出でになつた西園寺さんが御帰へりになつた時にも仰しやいました、何が一番嬉しかつたかと云ふと、各港に日本の旗が並んで居るのを見て心強く感じたと云ふことでありますが、是は洵に真情実話であつて、今度内田さんの御旅行中にも屡々さう云ふ事に接触するだらうと思ひます、一時の目を喜ばせるのみならず、国の経済にどれ程裨益するかは言はずして明かであります、私は戦争の終熄後大に船の前途を憂へて、何とか方法があるまいかと頻に心配致しまして、政府筋にも亦当業の御方にも微力ながら彼是言葉を添へまして、更に国際汽船会社が出来ました、併ながらまだ船舶が是で満足とは私は思ひ兼ぬるのであります、まだもう少し方法を講ずる余地があるだらうと思ふのであります、而して此船員、若くは船員に伴ふ仲仕と云ふやうな種類の人の待遇に就て、相当な方法を講じければならぬ、是が殆ど余り詳しく調べる――此御列席の諸君は当時余り十分な事は御経験がない位である、唯だ会議が起つて段々さう云ふ事が追々に方法が講ぜられるであらう、随つて根本の又之を経営する人も相俟つて宜しきを得るであらうと思ふのであります、是等の事柄に就きまして、どうぞ使節として御旅行になります内田・松岡両君、其他の御方の御骨折は甚だ多とするのでありますが、其御骨折は更に進んで日本の海運業に大なる効果を奏するであらうと考へます、成たけ世の中はさう御急ぎなくしたいと思ふ、どうも屡々色々な事があつて中々春先の日長くして少年の如くではない、洵に忙しい、ヤー送別だ、ヤー寄合だと騒々しく暮しますが、着々として進まんことを望みます。唯だ内田君の御話が中途からの事でありましたから、また其上にお翁さんがあつたと云ふことを申添へたに過ぎませぬ、それだけ申して置きます。