デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商業会議所
■綱文

第56巻 p.103-106(DK560030k) ページ画像

大正10年5月2日(1921年)

是日、当会議所ニ於テ、前会頭故中野武営ノ銅像除幕式挙行セラル。栄一、陪賓トシテ出席シ、演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一〇年(DK560030k-0001)
第56巻 p.103 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
五月二日 月 午前十一時 故中野武営氏銅像除幕式(商業会議所)


東京商業会議所報 第四巻第六号・第一〇頁 大正一〇年六月 ○中野会頭銅像除幕式招待会(DK560030k-0002)
第56巻 p.103-104 ページ画像

東京商業会議所報  第四巻第六号・第一〇頁 大正一〇年六月
    ○中野会頭銅像除幕式招待会
大正十年五月二日午前十一時当所に於て、前会頭故中野武営君の功績を表彰する為め、予て製作中の銅像竣成に付き除幕式を挙行したり、出席者は正賓遺族中野岩太・同武二・同営三の諸君並其家族親族、陪賓中野氏の故旧深縁者を始め渋沢子爵・田中外務省通商局長・鶴見農商務省商務局長・梶原・土方・伊東・石塚・安田・浅野・大橋・服部松方・団・福井・有賀・藤瀬・高田、其他の主なる実業家、大阪・京都・横浜・神戸・名古屋・長崎・函館の各商業会議所会頭・副会頭・常議員、新聞通信社員、主催側当会議所会頭・副会頭・議員・特別議員等総員百四十一名にして、午前十一時式を挙げ、中野氏愛孫千勢子嬢に因り除幕せられ、而して一同設けの食卓に着き、デザート・コースに入り、藤山会頭開会の挨拶辞に兼て中野氏の高徳を頒し、中野岩太君之に対し謝辞を述べ、次で渋沢子爵は、中野氏が商業会議所会頭在任中実業及国交上に竭力せられたることの偉大なるを称讚したる演
 - 第56巻 p.104 -ページ画像 
説ありて、最後に安田善次郎氏の発声にて万歳を三唱し、一同歓談の後午後二時散会せり(各演説の速記は四六頁に掲ぐ)


東京商業会議所報 第四巻第六号・第四六―四九頁 大正一〇年六月 ○中野前会頭銅像除幕式演説速記録(DK560030k-0003)
第56巻 p.104-106 ページ画像

東京商業会議所報  第四巻第六号・第四六―四九頁 大正一〇年六月
    ○中野前会頭銅像除幕式演説速記録
  藤山会頭演説
 閣下並に諸君、本日は前東京商業会議所会頭故中野武営君の銅像除幕式を挙行致しまする為に皆様に御案内を申上げた次第であります、然るに前々会頭渋沢子爵閣下を始めとしまして、多数の御来臨を辱じけなう致しました、殊に中野君の御遺族は皆様打揃うて御出で下さいました、又中野君とは最も関係の深かりし全国商業会議所を代表されて居りまする八会議所の会頭並に副会頭諸君の御来臨を得まして、此除幕式を挙ぐることを得ましたのは、東京商業会議所として最も光栄に存ずる次第、深く皆様に御礼申上げたいと考へます。
 回顧致しますると、中野君は実に此日本の商業界に偉大なる功績を貽された所の長老耆宿とも申すべき御方であつたと考へます、夫れと同時に、又我々が稀に視まする人格の人である、信望一世に洽ねく、徳風四海に洽ねしと云ふ者の言葉がありまするが、移して以て中野君を評するに足るの言葉であると私は存じます、資性温厚でありまして中野さんに接しますると何となく懐かしい心を生じまして、一道の春風に接するやうな感じを私共は常は持つて居つたのであります、其余徳と云ふものは殊に後進を誘掖指導して、今日迄如何に中野君の徳化を蒙つた人が多数あるかと云ふことは、私が申す迄もないことゝ考へます、其結果実に日本の実業界に偉大なる功績を貽して居られます、併ながら中野君の遺徳は私は其後半生に於てあると思ふ、即ち後半生の力は何に注がれたかと申しますると、総ての心力を此東京商業会議所の事業に注がれたのであります。渋沢子爵の跡を受けられまして中野君が会頭を務められたのは十二年の間であります、其間総ての事を抛つて此商業会議所に尽されたのでありまして、是は我々唯今商業会議所に従事して居る者が深く感謝を表するばかりではない、東京市の実業家又延ひては全国商業会議所を代表される所の皆様方は十分御認め下さつて居ると存じますのであります、中野君は商業会議所の事に付きましては最初の創立当時より関係して居られました、丁度此商業会議所に力を尽されること二十七年の長きに亘つて居ります、其間四年間は渋沢子爵の会頭の下に副会頭をして、子爵を助けて非常に努力された、其後十二年間は即ち会頭として子爵の跡を継いで尽力されたのでありまするが、其間に時勢の進運もありましたらうが、併ながら中野君が商業会議所にありまして終始此日本の商工業の為めに尽された功績は、実に偉大なるものがあつて存ずると云ふことを信じます、然るに大正六年の二月に、中野君は自分は老齢であると云ふことの為に、総ての人が頻りに御勧め申しましたにも拘はらず、道を後進に開くが為めに御辞職になりました、夫れで我々其跡を継いだ者は、中野君の功績に対してはどうか表彰の道を講じたいと云ふことを議決致しまして、何が宜からうかと云ふことの相談を致しました末に、即ち前
 - 第56巻 p.105 -ページ画像 
前会頭子爵の銅像も既に成つて居るから、其跡を継がれた中野君の為にも銅像を立てやうと云ふ決議を致しまして、夫れから着手を致しました、其後段々延び延びになつて参りましたが、此銅像を嘱托しました新海竹太郎君は熱誠此銅像の鋳造に尽されまして、漸く出来上りました為に、甚だ遅くはなりましたが、今日皆様の御出でを願つて此除幕式を挙げることを得ましたのは、実に我々の光栄として深く皆様に感謝する次第であります、唯遺憾に存じまするのは、此の銅像を生ける中野君の前に献げることが出来なかつた一事であります。吾々は此の銅像を以て中野君の過去の功業を紀念いたしまするのみならず、進んで今後尚ほ実業界に十分なる御努力を願ひたいと熱望いたしましたるにも拘はらず、遂に二豎の冒す所となつて今日其人を見ることが出来ない、是は私共の返す返す遺憾としまする所でありまするが、どうも是のみは如何にしても我々人力の及ぶ所でありませぬから、中野君も地下に於て我々の意は大いに諒として下さるであらうと存ずるのであります。
○中略 どうか今日は何等の設備もありませぬが、どうか中野君の往事を御語り下さいまして、緩々御過し下さることを願ひます。
  中野岩太君答辞
 閣下並に諸君、今日は亡父の銅像除幕式を御挙げ下さいまして、我我遺族の者も御招待に与かり、結構なる御馳走を頂きましたる段深く御礼を申上げます、唯今会頭から亡父の事に付きまして御懇篤なる御話を承はりまして、我々遺族の者は実に有難く存じます、又亡父も地下に於きまして如何ばかりか喜んで居りますことと察します、一言御礼を申上げます。
  渋沢子爵演説
 会頭並に中野君御遺族、諸君、此御席に於て故中野武営君のことを忍《(偲)》びますのは一面には甚だ傷ましい感じを持ちます、それと同時に又一面には其後継者たる現会頭並に諸君からして同君の銅像を造り其除幕式を御挙げ申されたことは、私に於て深く感佩するのであります。
  心なき石も物言ふ心地して
      向へば浮ぶ人のおもかげ
誠に心情をよく言ふて居られます、是は蓋し碑に対して言はれた名歌である。私は今日中野君の像に対しますると、心なき石どころではない、心ある石が、向へば物言ふどころではない、相語ふて、殊に肱を取つて相談するが如き思ひをして、或は勇気を起し、或は感慨に打たれるのであります。
○中略 丁度明治四十二年に、唯今現会頭は八商業会議所と仰しやいましたが、其時には六商業会議所、即ち函館と長崎は勘定しませなかつた此六会議所が其前年に亜米利加の八商業会議所の人々を招いた結果として、更に六商業会議所が米国から招かれて旅行を致す時には、所謂渡米実業団と唱へて、日本人の海外旅行として第一大旅行と申して宜いのであります、丁度人数は五十三人、旅行日数は四ケ月、往復の哩数二万三千哩ばかりになつたのであります、此旅行に於て中野君が御世話下さつたことは実に容易ならぬものであつた、私は其時年長の故
 - 第56巻 p.106 -ページ画像 
を以て推されて実業団の団長と云ふ名を以て諸方を巡礼旅行を致しましたが、名は私が団長であつたが、実は中野君が真正なる団長を務められた、それで都合宜く亜米利加旅行を遂けられたのは中野君の功績頗る大なるのであります、而して単に其旅行の順序が宜かつたばかりでなく、此旅行中に或る方面に付て亜米利加の人々と談話を換はし、情意を通じ、或は仕事の上に種々なる連絡を付けられることも又大いに考へられたことでございます、是に引続いて支那関係に於ても種々心配をされた、故中野君が此支那関係に付て種々御尽力下さつた其功は、今日完全に奏しては居りませぬけれども、其非常に御骨折りを下さつたと云ふことは之は世間の承知する所、況んや満堂の諸君は十分に御承知のことであると思ふのであります。
 斯る御方を失ひましたことは、現会頭も仰しやる通り如何にも残念でございまするが、是は天命如何ともし難きことである、而して中野君は後進に道を開く為に会頭を辞されまして、完全なる後継者を得て益々本会議所の隆盛を見るに至つた、蓋し其進退所止宜しきを得たものであると申して宜からうと思ふのであります、中野君は或点から申しますると、余り言論に巧と云ふではございませぬ、又愛嬌に富んで居つたとも申し兼ねる、さらばどう云ふ点があるかと云ふと、所謂同君に接すると如何に激した時でも其心が自然に鎮まる、穏やかになる是が同君の徳である、而して人格の高いと云ふことは第一に賞讚すべき所で、孟子の所謂威武も屈する能はず、富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、之を是れ大丈夫といふ、之を中野君は平生心掛けられた、決して威武にも屈しませぬ、富貴にも淫しませぬ、貧賤にも移しませぬ、如何にも大丈夫たる所はそこにある、是が即ち人格と申して宜からうと思ふのであります、私は中野君に接する毎に、孟子の此三徳を備へて居るのは此人であると思ふたのでありますが、今日此銅像を拝して、尚一層其感を深くするのであります、玆に今日現会頭の御高配を感謝致すと同時に、御遺族の皆様に此一言を呈するを得たのを深く喜ぶのであります。


中外商業新報 第一二六一八号 大正一〇年五月三日 中野前会頭の銅像除幕(DK560030k-0004)
第56巻 p.106 ページ画像

中外商業新報  第一二六一八号 大正一〇年五月三日
    中野前会頭の銅像除幕
東京商業会議所では二日午前十一時から前会頭故中野武営氏の銅像除幕式を挙行した、同所議員を始め中野氏遺族として岩太郎・武二・営三氏等並に渋沢子・馬越恭平・安田善次郎・服部金太郎・伊東米治郎加藤正義・浅野総一郎・神戸挙一・鶴見商務局長・田中通商局長等朝野名士百余名出席、先づ令孫千勢子嬢が紐を引いて除幕の式を終ると直に午餐会に移り、デザート・コースに入るや、藤山会頭は一場の祝辞を述べ、之に対し遺族中野岩太氏から挨拶あり、続いて渋沢子は故中野氏の生涯を称揚し、終りに安田善次郎氏の発声で万歳を三唱散会した、像は新海竹太郎氏の製作に成るもので却々立派である。
   ○本資料第四十九巻所収「中野武営銅像除幕式」参照。