デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
2款 東京商工懇話会
■綱文

第56巻 p.179-186(DK560051k) ページ画像

明治44年1月26日(1911年)

是日、築地精養軒ニ於テ、当会講話会催サル。栄一、請ハレテ出席シ、講演ヲナス

栄一、当会名誉会員ニ推サル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK560051k-0001)
第56巻 p.179 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十六日 晴 寒
○上略
午後四時築地精養軒ニ抵リ、商工懇話会ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス


竜門雑誌 第二七三号・第六五―六六頁 明治四四年二月 ○東京商工懇話会(DK560051k-0002)
第56巻 p.179 ページ画像

竜門雑誌  第二七三号・第六五―六六頁 明治四四年二月
○東京商工懇話会 東京商工懇話会第七回講話会は一月二十六日農商務商品陳列館に於て開会せられたるが、青淵先生には商務局長大久保利武氏の依頼に依り特に出席、一場の演説を試みられたり
因に同会は農商務省商品陳列館と連絡を通し、会員業務上の智識を増進するを目的とし、東京市在住工業者より組織せらるゝものなるが、青淵先生は其翌七日名誉会員に推薦せられたりと云ふ


竜門雑誌 第二七六号・第一一―二一頁 明治四四年五月 ○商業道徳に就て(本年一月二十六日農商務省商品陳列館に於ける商工懇話会席上に於て) 青淵先生(DK560051k-0003)
第56巻 p.179-186 ページ画像

竜門雑誌  第二七六号・第一一―二一頁 明治四四年五月
    ○商業道徳に就て
              (本年一月二十六日農商務省商品陳列館に於ける商工懇話会席上に於て)
                      青淵先生
 御集りの皆様方に或は御目通りをした方もござりませうが、屡々相会することありとは存じませぬ、今日玆に商工懇話会の開かれるに付て、私に出て愚見を申述べるやうと農商務省の勝部君から御依嘱を蒙むりましては、私も商工業者の一人に居りまするで悦んで参上いたしませうと答へて即ち今日出席いたした次第でございます、商工業の関係に付きましては方面が色々広うございますから、何を申しても一の問題になり得るやうに思ひます、併し私は商工業者の一人でありまするけれども、明治六年頃から銀行に従事いたして引続いて今日も尚ほ銀行に居ると云ふやうなことで、他の事務には経験も無いし、実務も心得ぬ身柄であります、但し其の頃の有様を回想いたしますると、銀行事務だけが完全に進んで他の仕事は何うでも宜いと云ふ時代では無かつた、否総て会社の組織などゝ云ふものが未だ極く初歩であつて、個人々々としては相当の経営も為し居られたやうに見ましたけれども是以て海外のそれに較べると、頗る微々たる有様であつて、殊に規則立つたる取扱は無かつたのであります、故に自らも銀行事務が縦令幾らか法律に拠り規則に遵ふて進んで行くと云つても、金融と云ふものは商売の補助を為すもので、理窟から言つたら商業中には重なる位置に立ち得るではあるけれども、銀行自身が世の富を増すとか、世の事
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物を進むると云ふことは出来ない、素より商売・工業それ等の補助の位置に立つべきものである、然るに其の銀行が縦し進んで行つた所が他の商工業の進歩を十分進めて行かなければ、日本の富と云ふものは出来るものでは無い、今申上げても、其の時考へても、誰が言ふても同じことでありまするが、明治四十四年の今日は商売人も工業者も大体に分業的進歩を為して居りますから、今日御思ひになると其のやうなことは学校に出る子供でも知ると仰つしやるでありませうが、明治六年の昔はなかなかさうで無かつた、故に己自身が銀行業者でございましたが、同時に商工事務に心を添へねばならぬと云ふ覚悟を持ちまして、今も盛に煙を上げて其煙の為に咽せ返へる程の彼の王子の製紙会社、丁度其の頃製紙の工業を会社事業で発達させたいと、斯う思ふて発起者となつて経営いたしました、又保険事業が必要だと云ふ観念から、唯今有力な位地になつて、十分の力を以て経営されて居りまするが、東京海上保険会社、是は末延道成君が取締役会長で各務謙吉と云ふ人が業務を担当して居ります、其の初め組立てましたのは私が主唱者と申して宜からうと思ふのであります、或は鉄道に、若くは海運に、又工業に、工業も各種悉くとは申しませぬけれども、紡績とか絹織物とか、又は麻織物とか、其他煉瓦の製造だとか、瓦斯の製造だと云ふやうなこと、有りと有らゆる事業には実務には当り得ませぬけれども、其の会社の設立及び経営に助力し、又或る部分は自分も担任致しました、故に片噛りであつても、単に銀行業者ばかりで他の商工業には一切無関係だとは申さぬのでございます、蓋し左様に各種のことに関係したと云ふ理由は何うかと云ふと、前に申します通り当時はなかなかに各種商工業の進歩が一向無かつたと云ふことが最も自身の憂ふべき点と考へた為に、微力ながら其の進歩を図りたいと思ふたに過ぎないのでございます、物変り星移つて、段々物質的事物は進んで参りまして四十四年の今日となりましたが、私も段々老衰しましたから一昨年に総てさう云ふ関係は断ちまして、当初から従事した銀行だけにしまして、丁度当年は七十二歳でございますが、一昨年七十になつたを時機として各種の事業は其株主たる位置は有つて居りますけれども、重役とか若くは相談役とか云ふ関係は総て御免を蒙つて、今日は単純な一役一員の銀行者に相成つたのでございます、元来人は分業が宜しい、成るたけ職業は一に専らなるが宜いと云ふことは誰も申すことであつて、私もそれを知らぬことは無かつたのでありますが、弁解的に申して見ると、明治六年から二十年頃迄の有様はなかなかに分業時代にはまだならなかつたのである、近く譬へて見ると、玆に一の新開町が出来る、僅かな人数が寄合ふて、其の町に於て例へば東京市とか、大阪市と云ふやうな都会に真似て、呉服屋は呉服だけ、料理屋は料理だけと分業に経営するとするか、迚も永続するものでは無い、田舎には能く御聞及びでありませうが、万屋と云つても反物も売れば草鞋も売る、是で新開町と云ふものは立つて行くものである、渋沢の各事業に関係したのは新開町の万屋と御看做しを頂くと早解りがすると思ふ、蓋し私が多岐に亘つたことを御譏りはありませうけれども、私自身は今申すことを信じて致したのでありました、同時に私は商工業
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に対して、一つ大いなる希望もしくは理想と云ふものを持つたことを玆に申上げて見たいと思ふのです。
 之も御列席の皆様方が御聞きなさると、そんな馬鹿なことがあるものかと必ず仰つしやるでありませうが、併し此席は懇話会でありますから、演説的に申すので無い、昔あつたことを殊更に修飾して御話申さぬでも宜いと思ひます、詰らぬことは詰らぬことであつた、笑ふべきことは笑ふべきことゝして、事実を御話し致しますから、其御積りで御聴き下さるが宜しい。
 元来日本の商工業と云ふものは、お互に商工業者が自分で其事業に勉強して斯く発達したのだと御自惚れなさるでありませうが、勿論今日の皆様は自働でありますが、昔は……昔と云ふのは敢て御維新前を指すのでありませぬ、私の若い時分のことであります、其の時分の商工業の有様と云ふものは決して今日の思想、今日の才能を有つた人は一人も無かつたと言つて宜いのであります、商売柄によりて問屋と云ふ名はありましても真正の問屋では無い、第一の租税が米であつた、中には蝋・砂糖・藍・塩さう云ふやうな物品で幕府若くは諸藩が収税したのです、其の収税した品物は其の藩に於て、若くは都会に於て、都会と申せば東京・大阪へ持つて来る、其の海運を如何にするかと云ふと、政治の力に依つてやつた、幕府は勿論のこと、現に幕府の海運に付て力を入れたのは元禄から享保にかけて例の新井白石と云ふ人が河村瑞軒を用ゐて、奥羽の海運を東の航海によつて開かせたのである其の以前は西海岸の通行のみであつて、東海岸は船が通らぬものと思ふたか知らぬが、現に奥羽海運記と云ふ新井白石の著述があります、今は壊はれて仕舞ひましたけれども、大阪の天保山の側に瑞軒山と云ふのがあつた、即ち河村瑞軒が大阪人でありました為に、其所に遺蹟を存して瑞軒山と云ふものがあつた、租税は米で取り、塩で取り、藍砂糖等で取る、さう云ふものを収入して之を政治の力に依て幕府及び藩々が然るべき都会に運搬する、其の運搬した物の取扱を皆蔵宿と云ふものに命じて、其品物を預らしめて、是から入札と云ふ方法にして商売人に売渡す、之れを買受けた者が小売に商ふ、独りそればかりでは無い、其の外に自身で米を買つて売つたのもありませう、砂糖を売つたのもありませうが、重もなる商品の販路は皆前に云ふ方法であつた、故に取りも直さず大元方は皆政治の力で取扱はれて、細かい売買と云ふのは民間でやりました、故に皆小売商売人、又工業と言つたら手内職である、即ち日本の商工業者と云ふ者は手内職、小売商人と云ふものであつた、偶々蔵宿とか、御用達と云ふものがありましたが、数代の久しき其の主人と云ふ者は奥の座敷に居て一中節でもやつて居る、さうして番頭に依つて渡世が出来る、何様の御屋敷に出入をする盆暮には附届けをしなければならぬ、又吉原で御馳走をするとか、新町に案内をするとかと云ふやうなことが巧みであれば、それで業体が出来た、嘘ではありませぬ、さうですから、維新の始めに商工業を盛にしようと云つて、政治家が欧羅巴を真似て会社を起すのに会社の頭取を命じたものである、朝鮮は今日も尚ほ此有様かも知れませぬが、現に何日か松尾日本銀行総裁と御一緒になつて昔譚が出て、明治の初
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に大蔵省に通商司といふ役所があつて、此の役人をして居つた時の懐旧談に、本郷の追分に高長と云ふ酒屋がある、其高長の主人が廻送問屋の頭取を仰せ付けられて有難く思ふて居る時に、松尾氏より高長に向つて、君は仰せ付けられたと云ふけれども、廻送事業に損が立てば其の時は其の損を担はなければならぬぞと言つたら、斯うして御用を仰せ付けられて居ればさう云ふことは無い筈だ、其の証拠には御書附を貰つて居るのぢやと云つて弁解して居つたと云ふ実話がある、以て商売と政治と混合して居る有様が大抵御解りでありませう、其の時分も高長が一番有名の人では無かつたが、人の先に立つて仰せ付けられたのを、今考へると実に馬鹿気た話で、政府が仰付けると云ふのも馬鹿らしい話でありますが、これを得意にしたのも同じく馬鹿らしい、故に仰せ付けた役人は皆事業に失敗した、会社商社皆残らず失敗して仕舞つた、一つも成立したものはありませぬ、是は決して私が誇大に申すのではありませぬ、事実左様である、それから少し遷り変つて明治六年に第一銀行の出来たのは、まだ明治二・三年頃と相距ること遠からず、私共もやはり其の一種の仲間内と言はれたかも知れぬのです其頃の商売人と役人との待遇は大概同席で話はしませぬ、昔の武士と町人と同様であつた、此席にも御年を取つた方も居らつしやるが、殆ど人類交際をされなかつた、東京ではさうで無かつたかしらぬが、私は田舎の百姓であつたから、田舎の小藩主の代官抔は別して威張り散らしたものである、大抵は通行の時には土下座をしました、其の位でありますから、東京でも立派な役人が商人を待遇する時には勿論席を異にして、「どうだな、機嫌は宜いか、家内は無事か、……それは芽出度い、何うだ市街の景気は」「斯様々々」「それは芽出度い、精々勉強をしろ」といふ位の有様であつた、商売人とてそれ程の馬鹿では無かつたけれども、所謂頣を以て人を使ふ役人も、亦それにお辞儀をする商売人も、悪く申せば相欺いて居つた、論弁だとか、意見を闘はせると云ふやうなことは微塵も出来るもので無い、「でもございませうが、何れ熟く考へて置いて申上げます」同意せぬことは其位の挨拶で其場を済ます、真に商売人の役人に対する態度と云ふものは実に卑屈千万なものであつた、仰せ付けられるのが有難く思ふと云ふのも此一例で御解りでありませう、さう云ふ姿であつて、力は細し、範囲は狭し、待遇は其の通り、故に商売人・工業者と云ふ者はなかなか外国人に伍する所では無い、是で此の国が富むと云ふことは何うしても出来ない、故に此の品格を上げ、此の知識を進め、此の力を大いにしなければ、日本の国富は為せるもので無いから、御書附を頂戴して有難いと云ふ時代では迚もいかないと、斯う私は深く感じましたので、是非此の位置を進め、品格を上げると云ふことを、それこそ神仏に誓ふと同様の覚悟を以て、不肖ながら身を犠牲に供して、是非商工者の位置を進めて見たいと斯う思ひましたのです、斯様に申しますと、諸君に対して何だか私が一人商売人の元祖本元のやうに思ふて居る如くで甚だ恐縮でありますけれども、併し明治六年に大蔵省を辞しまして第一銀行に入る時の観念は、全く其の積りで入つたのでありました、其の頃に商売が盛にならなければいかぬと云ふことは、私以上に深く考へ
 - 第56巻 p.183 -ページ画像 
た政治家も学者も沢山ありましたらう、併しさう云ふ方々は自身が商売人にはなりもなさらぬ、又なれもせなんだでありませう、政治界に必要であつたから、殊に其の場合を御覧なさると、今はさうもございませぬけれども、当時を能く御回想なさると、縦しや商売人が多少の力を費して見た所が、政治界の名誉と商工界の名誉とは同一のもので無いと云ふ有様であつた、先づ多数の友人が私の商売人になつたのをアンな馬鹿なことをしないからと云つても《(マヽ)》、と云ふやうな誹謗が多かつたのです、さう云ふ時代に私は尚更是は肝要だと斯う考へて、自分は其の位置に就て何うぞ終身経営いたして見たいと思ふて、爾来殆ど四十年に近くなります、年月の経つのは早いもの、事物の変化するのも実に又早いもので、今申上げました廻送会社の頭取を仰せ付けられて居つたと云ふのは昔譚となつて、今日は百事海外のそれと力は細うございますけれども、さう笑はれぬ程度迄進んで参つたのは、実に一般の智識の進んで行つた、又働の逞しくなつたのだと思ひます、これは喜ばしい次第であるが、併し能く考へて見なければならぬ、四十年の昔の商工業者は、政治の力に依て誘導的に進んで来た、誘導的に進んで来たものは根の張りが悪い、樹に喩へて言ふと、鉢植の嫌ひがある、動々もすると政府に縋る、人に頼ると云ふ観念が商工業者には何うも無いとは言へぬと考へるのであります、是が今日の大なる患と私は思ひます。
 それから同時に、一般の進歩が先づ富を増さうと云ふ上からして、各種の物質の進歩を図つて利益を努める、商工業に利益を努めるのは勿論のことではございますが、真正なる学理を稽へ、凜然たる気象を備へると云ふことは、商工業者に少くは無いか、倚頼心の多いのと、自立の気象の乏しいのは根柢が鞏固でないと申さねばならぬのでございます、御集りの諸君が皆さう云ふ方々だとは申しませぬけれども、おしなべて日本の商工業者は其の病根を蓄へて居ると云ふことは、決して私の偏見では無い、お互に此の病根を取去ると云ふ覚悟を有たねばならぬと思ふのでございます、それは何に依るかと言へば、即ち商業道徳の進歩である。
 此商業道徳を進めねば我々は其の病根を取去ることは出来ぬと、斯う申上げねばならぬと思ふのであります、故に今日此の懇話会に於て何うぞ商工業者の道徳を高めると云ふことを一つの問題として、自身も斯う云ふ風に考へて居りまするが、諸君は如何に思召すか、若し私の意見が適当であるならば、是をして大体に推拡めるやうにして下されたいものである。
 今迄述べましたのは、商工業が今日に推及んだと云ふ歴史の大略であります、私は明治の初から社会のことにも奔走をして、不肖ながら政府の役人も四・五年勉めた、又其後商売人として経営して、微力でありますから大業は為し得ませぬけれども、常に中央の事務に参加し来つたのでございますから商工業の発達の模様、経歴の有様を精しく存じて居ると思ふのでございます、そこで商業道徳に付て申上げて見ると、全体商業道徳と云ふ言葉からして甚だ面白くない、道徳と云ふ文字は人の守るべきものであつて、商業に対してのみ道徳と云ふ名の
 - 第56巻 p.184 -ページ画像 
付くべきもので無い、若し商業に道徳と云ふたらば、政治道徳、学者道徳と云ふことも言はなければならぬ、武士道と云ふものはありますけれども、あれは商業道徳と云ふ熟字とは少し意味が違ふて居るやうである、畢竟商業道徳と云ふのは商売人に道徳が薄いと云ふことを意味して居るもので、お互に少し癪に触はる位の熟字とまで言ひたい位であります、けれども此の商売と云ふものに付て最も注意せねばならぬのは、総じて商工業と云ふものは殖利生産的のものである、殖利生産的のものには他の学理研究などよりは、何うしても其物を殖したり其物に利益を増したいと云ふ上からして、悪くすると勢ひ不道理に趨り易いものである。是は業体其のものゝ有つて居る一の病である、其の証拠には、私は欧羅巴のことは深く存じせぬから、斯んなことを講釈がましく申すのは可笑しいが、アリストートルと云ふ人の言葉に、「総ての商業は罪悪なり」と云ふてあるさうです、それは翻訳であるから原語は何うか知らぬが、セーキスペヤの書いたマルチヤンド・オフ・ヴエニスと云ふ芝居でも、あの時の銀行《バンク》のサイロックと云ふ人は実に強慾非道の奴であつて、若し金を返へさねば肉を切ると言つて居る、ヴエニス辺りの商売人の有様は非道であつたと云ふことを形容したのである、アリストートルの総ての商業は罪悪なりと云ふのを一の芝居で形容してあると云つても宜いものである、何うも殖利と云ふことには、儲けが余計にあれば宜いと云ふ観念が先に立つて、終に道徳を失ふと云ふことになる、支那の言葉に「仁なれば富まず、富めば仁ならず」と云ふことがある、アリストートルの総ての商業は罪悪なりと能く似て居る、併し富んだ人には仁者は無い、貧乏人には賢者がある、といふは少し解らぬ話である、自分は聊か漢学を修めまして、漢学に付ては多少の意見は申し得られますけれども、其の漢学とても余り精しく知つたとか、又は哲学を修めたと云ふのではありませぬ、哲理の一部分の論語と云ふものは始終読んで頻りに之を好んで居りますが、其の論語は周末の孔子、及其の門人等の問答した書物である、而して後に段々孔子の哲理が大層支那に持囃されて、遂に二千年後の宋末に於て此学問を頻りに分解し、且研究して世の中に唱導したのは洛閩学者と云つて朱子・程子・張横渠・周茂叔などゝ云ふやうな道学先生が相集つて、論語に対する孔子の教を研究した、徳川幕府から維新に及ぶまでの漢学は徳川家が藤原惺窩を引上げて、第一の教授にした次に林羅山、此の林と云ふ人は儒家として幕府から大に優待し相当の俸禄を与へた、是は何う云ふ学派であるかと云ふと、今の朱子学派である、宋朝学者が、富めば仁ならず、仁を為せば富まず、仁義道徳と云ふものを論ずる人は商売とか利益とか云ふことを考へてはいかぬものだといふて、終に学問と実務とを全く引離して仕舞ふた、それで日本に渡つた学派も多くさう云ふ風で、因襲の久しき、前に申しましたやうな商売人は極く下級の者で、漢文字の書物を読んでは家を潰す基だと云ふ有様になつて、教育と云ふものは受けずに仕舞ふた、一体に社会に対する体面も修めることも出来ず、人に接遇するにも道理とか義理などゝ云ふやうなことには殆ど頓着をせぬ位ゐに位地が卑かつたのです、それが今日まで連続して居ると思はねばならぬかと恐れるの
 - 第56巻 p.185 -ページ画像 
であります、而して維新以後の商工業の進歩に対しては、多くは物質的だけでありますから、道徳とか義理とか云ふことを加味して学んで行くと云ふことは事実に於て出来ませぬ、理学とか化学と云ふものに道徳を組入れて教へようも無ければ、学びようも無い、誰も言ふ物質的の進歩ばかりで道徳的の修養が乏しい、自ら教育がさう云ふ風に推移し来つたと云ふことは争ふべからざる事実と思ふ、而して前に申します生産殖利と云ふことは、兎角我が物を殖やしたいと云ふ意味から過ち易いものであつたからして、遂に商業道徳と云ふのゝ進歩が遅々すると云ふことでは無からうかと思ふです、又前説に戻つて、商売と云ふものが、仁義道徳に拘泥すると利益が得られぬと云ふ如くに商工業社会が今日はさう云ふ誤解が幾分か少くなつたやうですが、昔日の商売人は道理の徳義のと云ふやうな考を持つ必要は無いとまで自棄したものであつた、其の自棄の観念は今日も継続するやうな嫌ひがある故に利益に関しては、道理は勘定に置かぬ、道理は度外にしなければならぬと云ふて、一般の風儀が間違つて居りはせぬか、是が商業道徳の進まぬ原因では無いかと思ふ、元来道徳と云ふものはさう云ふもので無い、利益を捨てたる道徳は真正の道徳では無いのだ、又完全な富完全な殖益は必ずそれに道徳が含まずに行くものでは無い、私は学者で無いのに文字の講釈をする様になつて諸君の前で甚だ烏滸がましいが、例へば大学に何と書いてある、「明徳を明かにするに在り、民を新にするに在り、至善に止るにあり」之を三綱領と云つて、それから「明徳を天下に明にせんと欲する者は先づ其の国を治む、其の国を治めんと欲する者は先づ其の家を斉ふ、其の家を斉へんと欲する者は先づ其の身を脩む、其の身を脩めんと欲する者は先づ其の心を正うす」云々とあつて、更に「知を致すは物に格るに在り」とて、格物致知と云ふものが即ち明徳を天下に明にするの根源であると言つた、格物致知は物質的の学問である、あれは孔子の教へた言葉で、明徳を天下に明にする、国を文明にしようと思へば格物致知をやらなければいけぬと言つて居る、生産は道徳の中に十分に含蓄して居る、生産を完全にやつて行くには道徳が必要だ、それを間違つて道徳と云ふものと富とは一緒にすべからざるものゝ如くしたことは、何たる誤解でございませう、是れは独り日本の学者が悪かつたのでない、本家本元は宋末の洛閩学者と称へる人がさう云ふ趣意を以て、苟も道徳を高める人は富貴とか功名と云ふことに心を逸してはいかぬものだといふ主義を頻りに唱へたから、日本の学者も皆それに感染して、商売をする者には道徳は必ず無いものである、又道徳を論ずる者はさう云ふことをしてはいかぬ者だ、斯う云ふことに成り行つて仕舞ふた、ソコで商売人は徳義だの信用だのは甚だ乏しい、唯利己主義で奪はずんば飽かず、己のみの利益を計るのが商売人の常だと云ふ風に解釈したのである、併しそれは決して真正な富では無い、又真正の道徳では無い、孔子の教へた道徳は決してさうで無かつた、故に私は曰く、此の商工業をして完全に拡張して道理正しい富を益々増進して行くと云ふのは即ち完全の道徳である、道徳は何処までも向上して行くべきものである、誤つて我が利益だけを念とすると、直に信用を損し、約束を背き虚言を構へ
 - 第56巻 p.186 -ページ画像 
道理を外づすと云ふことが無いとは申されぬ、それは昔の哲学者が多く間違易いからさう云ふ言語を発してある、故に是は心せねばならぬことではあるが、それは必ず出来ぬものでは無い、否な必ず出来得るものである、何も商業道徳を高めると殊更に言ふ必要はない、道理正しくやればそれが真正なる道徳である、今日誰も常識を以て理解し得ることである、孔子の教を殊更に玆に引合に出さぬでも、言ふことは皆真正であり、行ふことは皆誠実であり、さうして国家を本に置いて国を愛すると云ふ観念から従つて我が身を愛する、是は皆国家に尽すのであると云ふ考を以てやつたならば、それが真正なる商業道徳である、政治家の政治に力を尽すも、軍人の戦役に命を棄てるのも、総ての方面の働は皆其揆を一にすると云つて宜からうと思ひます、近頃の商工業者の道徳が何うも進まぬとか、若くは頽廃すると云ふことを或る人々からは言はれるやうでございますが、併し私は常に申して居ります、昔日の商売人から比較して見たならば、御互現時の商売人の方が道徳は高まつて居る、物質の進歩の為に道徳が衰へて来ると云つて悲観するのは間違ひである、併し事物の進む程道徳が能く攻究されて居ない、と云ふ虞がある、其の間に処するお互が能く其の理由を翫味して、唯己さへ利益を増せば宜いと云ふ観念を以て富を増せば悪事也と云ふことを忘れてはならぬ、富を成すのは道理に適ふて富を成すのである、一家一身の富が国に対する務めであると云ふことに考へたならば、己の働と云ふものは皆国家に尽すの務めであると解釈して少しも差支無からうと思ふのであります、苟も行ふ事が道理に適ひ、考へる所が事実であつて、偽らず誤らず進んで行つたならば、即ち真正なる商業道徳の向上と私は考へます、斯う考へて見ますと、商業道徳が少しも六ケ敷くは無いので、孔子の望んだ所も此所である、富を成す程道理は段々向上して来ると斯う信じて居るのであります、兎角に近頃の商工業者の間に或は徳義が薄いと云ふことは、お互に留意せねばならぬことである、前に申します如く、四十年の間の昔を回想すると殆ど隔世の如くで、此商工業界の富は進んだけれども、地位は増したけれども、徳義は衰へたと云はれるは、実にお互の耻辱、又国民たる者の耻と言はねばならぬ、是非御同様是を心がけて、追々に事物の進歩と共に徳義の向上を計りたうございます、商業道徳に対する自分の意見を一応申上げましたのであります。(拍手)
   ○講演会場ニツイテハ栄一日記ニ拠ル。