デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
3款 東北振興会
■綱文

第56巻 p.255-259(DK560066k) ページ画像

大正13年10月27日(1924年)

是日、福島市ニ於テ、当会支部聯合第一回大会開カル。栄一、議事終了後市公会堂ニ於テ開カレタル、市主催ノ招宴ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四三四号・第八六頁 大正一三年一一月 青淵先生動静大要(DK560066k-0001)
第56巻 p.255 ページ画像

竜門雑誌  第四三四号・第八六頁 大正一三年一一月
    青淵先生動静大要
      十月中
二十七日 東北振興会支部聯合大会に出席の為め福島市へ旅行。
二十八日 福島市より帰京。


竜門雑誌 第四三四号・第七六―八三頁 大正一三年一一月 青淵先生に随行して 白石喜太郎(DK560066k-0002)
第56巻 p.255-258 ページ画像

竜門雑誌  第四三四号・第七六―八三頁 大正一三年一一月
    青淵先生に随行して
                      白石喜太郎
 東北振興会に於て其支部聯合第一回大会を福島市に開催する事となりたるを以て、同会会頭たる青淵先生には之に出席せらるゝ為め、十月二十七日午前八時十一分王子発の列車にて同地に赴かれ、一泊の上翌二十八日午前八時二十分同地を後にし、途中白河町に立寄られ、午後四時三十分上野着帰京せられたり。
 此間行に随ひ見聞したる所の概要を記し、諸賢の一燦に供ふることとしたり。
 - 第56巻 p.256 -ページ画像 
      一
 十月二十七日は、秋に入つて雨多かりし今年としては、真に稀に見る快晴にして、碧空高く、朝暉静なれども風稍寒かりき ○中略
 黒磯に到れば、福島県理事官鐘江富次氏出迎へらる、蓋し県知事の命により東道の為め待ち受けたるものにして、それより行を共にす。 ○中略 白河駅に着けば、白河町長及須古福島県師範学校長出迎へられ、須古氏はそれより須賀川まで同車し、修養団の事共談ぜらる。同氏の車を辞するや、此地方に因み深き故三島通庸子及故河野広中氏の事跡さては会津没落の逸話、安達ケ原の鬼婆の古事など話題尽くることなく、秋深き野や、紫濃き山々や、そこはかとなく指顧して理事官は得意なり。先生も一橋時代に大阪の折田の塾に遊びし頃の事共想起され三島子との関係などこまごまと物語られ、先代及当代の三島子との比較論をせられ、又河野広中氏に対する感想など忌憚なく洩らさるゝに傾聴す。
      二
 秋の灯の煌めき初めし福島駅頭多数有志の出迎を受け、内務部長の案内にて、自動車を走せて旅館松葉館に到る。小憩の間もなく東北振興会の為めに昨日来福したる志村源太郎氏来訪せられ、当日の会議の終了せることゝ、之より宴会開催せらるゝに付、列席せられ度き旨を述べて退出せられ、次で之亦前日来着の東北振興会理事吉池慶正氏来訪し、会議の経過に付詳細の報告あり、引続き土地の有力者数氏挨拶の為め訪問せらる、此間白河町有志川崎大四郎氏も亦来訪し、折角の好機会なれば、帰途白河町に下車し南湖神社に参詣ありたしと切に請ひ、紅葉も見頃なる旨を以てするに、先生は平素私淑せる楽翁公の御社なれば、是非時間の都合をつけ参拝すべし、然しながら紅葉を賞せん為めに白河町には決して立寄らずと答へられ、汽車の時間など打合はされぬ。
 かくて午後六時過香坂知事来訪し、其先導にて福島市公会堂に到り先づ休憩室にて来会の各県知事の挨拶を受けたる後会場に赴けば、已に席に着ける会衆の拍手急霰の如し。席定るや市長代理近藤氏より挨拶あり、次で青淵先生起つや拍手又雷の如し、静まるを待ちて徐ろに述べて曰ふ。
 此度当市に於て東北振興会支部聯合大会が開かるゝに当り参上致しまして、皆様に御目に掛ることが出来ましたことを深く喜びます。各県知事諸公は御繁忙中特に繰合はされ、各県有力者諸氏も態々御来会下されたことを厚く御礼申上げます。私も今少しく早く参りまして、会議の席にも列し度いと存じましたけれども、何分にも時間の繰合はせが付きませぬ為め其意を得ず、漸く只今参上致した次第で、遂に会議に列席することを得なかつた事は遺憾と存じますが、御討議の模様は、志村君並に吉池君から承りまして、御熱心の程も承知致して居ります。さて東北振興会も設立以来已に数年を経過致しましたが、中々思ふ程の効果を上げたとは申されませぬ。然し東北の振興は、東北の諸君の自覚の如何、実行の如何によつて決するものであつて、東京に於ては只諸君の御手伝をするに過ぎませぬ。
 - 第56巻 p.257 -ページ画像 
要するに東北の事は東北が主であります。
 一体何事に付ても、百の議論よりは、一の実行を貴しとするは、繰返して申す迄もありません。東北の振興も亦言論の問題でなく、諸君の自覚から出た実行に俟つ外はないのであります、東北地方は地積広く、物資もさして少くないにも拘らず、其進歩が他地方に比し格段の相違のあるのは何故でせうか、私は東北自身の奮発心の不足が原因であると申し度いのであります。他に比して遅れて居るのは偏に東北人の勉励が乏しい為めであると信じます。之を要するに東北振興は、東北人自身の努力、奮発に俟つべきであつて、私が諸君に対して望むところは自ら進み自ら努めよと云ふことであります。私は八十五歳の老齢ではあるが、生命ある間は国民たることは辞することが出来ませぬから、御国の為め尽し度いと期念致して居りますし、諸君の御鞭韃によつて、如何やうにも働く積りであります。云々
と熱誠満堂を圧し、一座息を呑む。
かくて宴に移り、一同嬉々として高談、放語、献酬亦盛なり。耳熱する頃来会の秋田県代議士高橋氏起ちて感想を述ぶ。
 只今渋沢子爵より真に有難い御言葉がありました、お前達は働かねばならぬ、東北は東北自身で奮発せなければならぬと言はれましたが誠に其通りであります。新聞で拝見致しますと現に郵船会社の問題で甚だ御多忙で居られ、又承りますれば今夜は真に余儀ない御約束のあつたと云ふにも拘らず、然も寒冷の今日、八十五歳の老子爵が、吾東北の為めに、態々御出下さつたと云ふ、其事其自身が即ち東北の振興であります。此御親切と、御熱心を以て、心から吾々に対し奮発しなければならぬと、活きた教訓を与へられたのであります。吾々東北の者共は奮起せずには居られぬのであります。渋沢子爵と申し、志村源太郎氏と申し、国家の重大事を背負ふて居らるゝ方々が、吾が東北の事を斯く迄御心配被下、又御尽し下さることに対し深く深く御礼申上げます。云々。
次で香坂県知事の発声にて、青淵先生の万歳を三唱し、更に池田秋田県知事の発声にて、東北振興会支部聯合会大会の万歳を唱和して散会し、先生には知事の案内にて松葉館に帰り、更に同館に於て開かれたる知事主催の市有力者招待宴に臨み、午後九時過席をすべらる。此頃より夜気稍肌に感じ、窓外淙々たる阿武隈の水音も裏寒き想あり。先生は午後十時過就寝せられたるも、夜中時々咳嗽の声聞ゆるに夢安からず。
      三
 翌二十八日は靄に明けたり ○中略
 香坂知事其他有力者諸氏の見送りの裡に福島を発す。同車するもの一行の外第百七銀行頭取吉野周太郎氏・吉池慶正氏、途中迄見送りの鐘江理事官、別に「西白河岩瀬西部開田事業期成同盟会」の諸氏なり先生の稍寛ぐを見て同会々長武藤一策氏刺を通じ、同会の主旨に付、或は書類により、或は地図に付、熱心に説明を始め縷々として尽きず矢吹町を通る頃、起ちて窓外を指し実地に付詳説す。
 - 第56巻 p.258 -ページ画像 
 白河駅に着く、細雨蕭々として到る、気温低からざるも風稍吹き出でたれば、先生に障りありてはと心安からず、駅に着けば、町長及川崎大四郎氏等多数出迎へ、二台の自動車にて南湖神社に向ふ。
 ○中略 南湖神社の大前に下車し、数多き石階を上る頃、風稍強くなりたれども雨止みたり、直ちに拝殿に参し、先生に従ひて一同参拝し、転じて社務所に小憩し、又しても降り出でたる雨の中を先生には町長の勧めにより蘿月庵を訪ひて昔を偲び、急ぎ又自動車に乗り停車場に向ふ ○中略 停車場に到り、十数分を待ち、午後零時四十二分発の急行列車に搭ず。白河町長始め有志多数見送られ、吉野周太郎氏は此所より袂を分つ。車中に福島より乗車せられたる志村源太郎氏あり。先生と室を共にし、或は楽翁公を談じ、南湖神社を語り、さては東北振興会の将来や、蚕糸業を説き時の至るを知らず。西那須野にて見送りの鐘江理事官辞去し帰福す。東京に近づくに従ひ雨脚愈滋く寒さ次第にまさり、薄暮上野駅に着けば、点滴の音耳に痛し。


東北振興史 浅野源吾編 上巻・第三四三―三四五頁 昭和一三年八月刊(DK560066k-0003)
第56巻 p.258-259 ページ画像

東北振興史 浅野源吾編  上巻・第三四三―三四五頁 昭和一三年八月刊
 ○第四章 東北振興大会議
    大会議案審議の経過
 東北振興会地方支部聯合大会は昨年規則の改正に伴ふて、其の第一回を福島県の主催にて行ふ事になつてゐたが、それが愈々実現する事になり、大正十三年十月二十七日午前十一時より福島県師範学校に於て挙行された。出席者は別記の如く東北六県の振興会員、並に来賓として福島県会議員・福島市会議員・福島県実業家及び主なる官吏諸氏約二百五十名の多数であつた。先づ開会に際して
 香坂福島県知事登壇 本日本大会を開くに当りまして本部より渋沢会頭並に志村監事・吉池理事及び各支部長の来臨を感謝す。
 抑も東北の振興は余程以前より唱道されて居るが、今日尚ほ其の声を絶たないで此振興会の存在せざるを得ざることを甚だ遺憾とする。関西地方は振興会と云うやうなものは存在してゐない。
 現在の東北地方は事実に於て振興する必要を認むる次第である。然らば不振の原因如何と云ふに、第一に天恵に薄いと云ふ事にもあるが関西地方に比べるならば、爾来総てが進取的ではなかつた為めに、人為的の点に於ても東北の振興を後らしめて居る。今後東北の振興は東北人の自覚に俟つて、之を基礎として振興事業を遂行せなくてはならぬが、而し他の有力なる人々、他の有力なる団体の親切なる指導と深厚なる同情等に待つて、東北地方の各般に亘り事業を促進する事を要望する。亦東北地方の各般の設備の足らざるものは之を整へなくてはならぬ。之が為めには東京の有力なる人々の力に俟つ事が多大であらうと思ふ、切に有力なる人々の大なる力を得たいのである。余は東北なるものゝ将来を考ふるに、帝国の将来に向つて大なる力を有するものは東北であらう。現在の土地にも開拓されないものが多い、亦東北地方の人心は質実剛健であつて、遅いけれども大事を為し得る資質を有して居るから、将来帝国の大なる力となるものであらう、各支部も各聯絡を取つて飽迄で一致団結東北振興の大勢に向つて進みたい。終
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りに臨み渋沢会頭の助力を感謝する、亦志村監事の講演は余等を啓発する事が多からうと考ふ、尚ほ今日は各出席会員の充分なる研究討議を希望する次第である。と一場の挨拶を述べて降壇、次いで
 志村監事登壇 本日は渋沢会頭遅刻の為め余が代つて祝辞を述ぶ。
 只今香坂支部長より話のあつた通り、東北地方は更に益々振興に努力する必要がある。東北振興会も裏面より物産の販売種々なる調査等を為して来たが、愈々各県に支部を置いて、玆に其聯合会を催する事となつた。之れは東北振興に一大時機を劃したものであつて、東北人の自覚に依つて此会を開き、此議を為さんとするのは真の東北振興であると信ずる。
○下略


東北振興史 浅野源吾編 上巻・第三六五―三六六頁 昭和一三年八月刊(DK560066k-0004)
第56巻 p.259 ページ画像

東北振興史 浅野源吾編  上巻・第三六五―三六六頁 昭和一三年八月刊
 ○第四章 東北振興大会議
    公会堂に於ける福島市の招待会
 東北振興会支部聯合会大会開催に際し、福島市が協賛会を組織して其会を一層盛んにした、福島市長二宮哲二氏の名で大会に出席した人人約二百五十名程を、同日午後六時より市公会堂に招待して一夕宴を催した、公会堂も最近出来た立派な建物である。定刻晩餐の席へ就くと主人側を代表して、市助役近藤節太郎氏が、元気のよい弁で挨拶を為し、それより渋沢会頭は一場の挨拶を述べられた。
 渋沢会頭の挨拶 ○略ス
それに対して高橋代議士が謝辞を述べられた。
 高橋熊次郎氏の祝辞 渋沢子爵には老躯おいとひもなく、此初冬に当つて遠路御出席被下れ、親しく我等を御指導被下る事を思へば、如何でか鈍渋なる吾々と雖も発奮興起せざるを得ない次第であります。東北の地は従来種々なる関係上遅れ勝になつて居たのでありますが、今後は子爵の御指導に依つて一層の奮励を為し、誓つて地方開発実行の任に当る覚悟であります。云々と答辞を述べ、夫れより香坂知事の音頭にて渋沢子爵の万歳、池田秋田県知事の音頭にて福島支部の万歳を三唱して和気靄々の裡に宴を終つた。