デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
3款 東北振興会
■綱文

第56巻 p.263-267(DK560069k) ページ画像

昭和2年6月17日(1927年)

是年三月三十一日ヲ以テ、当会ハ解散シ、其直後東北六県有志ノ発起ニヨリ、新タニ東北振興会設立セラル。是日、東京会館ニ於テ、其第一回理事会ヲ開キ、栄一ヲ名誉顧問ニ推スコトヲ議決ス。二十二日、理事植松良三・高橋虎吉・浅野源吾、飛鳥山邸ニ栄一ヲ訪ヒ、名誉顧問就任ヲ懇請ス。栄一、之ヲ受諾シ、在任歿年ニ及ブ。


■資料

東北振興史 浅野源吾編 中巻・第二―四頁 昭和一四年八月刊(DK560069k-0001)
第56巻 p.263-264 ページ画像

東北振興史 浅野源吾編  中巻・第二―四頁 昭和一四年八月刊
 ○第一章 現東北振興会の組織
    東北振興会設立趣意書
 渋沢栄一子を会長とする東北振興会は昭和二年三月三十一日を以て解散せり。事情止むを得ずと雖も、吾等東北人の斉しく遺憾とする所なり。
 今や東北地方も宇内の大勢に順応し革新されたる施設の下に、生気ある新運動を開始せざるべからざる事情に逢著せり。玆に於てか、吾人は前東北振興会の解散と同時に新たなる東北振興会を組織し、東北地方に於ける産業経済の振興発展を図らんとするものなり。
 由来東北地方は之を本州の他の部分に比して天恵に厚からずと雖も其の発達は前途亦多望ならずと云ふべからず。之を各国産業発達の歴史に見るも、例へば独逸の如く天与の資源豊かならざる所に於ても尚ほ且つ国民の拮据黽勉の結果、遂に人智に依り或る程度に自然を支配することを得て、産業の隆盛を致したる事例に乏しからず。東北地方に於ける産業振興の要諦も、要するに地方人の発奮努力に待たざるべからず。而して東北地方には農業国として未開の地積多く、山林国として未だ斧鉞の入らざる森林地帯頗る広し、従つて東北地方は水源に富み、或る程度の資本と人力とを加ふれば、農・工業地方として資源の開発すべきもの多く、将来産業経済の発達期して待つべし。幸に東北地方は従来産業の振興に於て、経済の発展に当り相互の利害関係上相提携し来りたるもの尠からず。例へば奥羽聯合共進会開催の如き、奥羽銀行同盟会の如き、東北・北海道々県会役員会聯合会の如き、陸羽経済会の如き、東北銘産品陳列会の如きは其の最も顕著なるものなり。而して東北地方は従来之等団結の力に依つて利益を進めたるもの
 - 第56巻 p.264 -ページ画像 
多し。将来も亦東北地方の発展を劃し、地方人の福利を増進せんとするには、六県の堅実なる協同を図り、統一したる力に待たざるべからず。東北振興問題は将来六県の鞏固なる団結に依つて解決すべきものと確信す。従来渋沢子爵を会長に戴く東北振興会は、東北六県の産業経済の振興発展に対する機関として、地方人の嘱望多大なりしが、吾人の期待に相反し、永き歴史を有するに拘らず、遂に解散せり。而して同会の解散は事情止むを得ざるものとするも、吾人は直接利害関係ある東北人として、之を無為に看過すべきにあらざるを以て新たに東北振興会を組織し、団結したる実力を整へて、将来永久に東北地方に於ける産業経済の振興発展を図らんとするものなり。吾人の主唱する東北振興会は従来の会と異なり、広く多数人の力に依り問題の実行を以て其の主義とし、故に本会組織に方りては会員を東北出身の貴衆両議員・県会議員・商工会議所議員・学者・実業家・市町村長・青年団長・組合理事者等に求め、之等自治団体の力を基礎として事の実行に当らんとす。本会の組織は一見容易なるが如くして其の実容易ならず前会の後を承けて直ちに之を組織するにあらずんば、或は永久に東北地方の福利を増進すべき機関の出現は、遂に空想に畢らんも知るべからず。之を憂ふるが故に、敢て不敏を顧みず、玆に新たに東北振興会の組織を提唱して、広く六県有志の賛同を乞ふ所以也。
  昭和二年三月  日
                      浅野源吾
      東北振興会設立発起人(イロハ順)
 東京在住
 泉山吉兵衛(青森) 今清水乾三(山形)  橋本良蔵(秋田)
 橋本信次郎(宮城) 星一(福島)     富沢半四郎(宮城)
 梶原仲治(山形)  菊地季吉(秋田)   高橋虎太(宮城)
 大島要三(福島)  浦山助太郎(青森)  植松良三(山形)
 熊谷直太(山形)  黒川新次郎(山形)  町田忠治(秋田)
 丸山英弥(山形)  藤田謙一(青森)   寺島成信(山形)
 浅野源吾(岩手)  佐々木駒之助(秋田) 柵瀬軍之佐(岩手)
 結城豊太郎(山形) 白石元治郎(宮城)  広瀬為久(岩手)
 森俊六郎(福島)  菅原通敬(宮城)   鈴木寅彦(福島)
 増田明六(渋沢子秘書)
○下略


東北振興史 浅野源吾編 中巻・第一―一五頁 昭和一四年八月刊(DK560069k-0002)
第56巻 p.264-265 ページ画像

東北振興史 浅野源吾編  中巻・第一―一五頁 昭和一四年八月刊
 ○第一章 現東北振興会の組織
    東北振興会創立関係事項理事会決議
 昭和二年六月十七日、東京丸ノ内東京会館に於て第一回理事会を開催したり。出席者は泉山吉兵衛・浦山助太郎・高橋虎太・植松良三・寺島成信・今清水乾三・菊地季吉・浅野源吾の諸氏にして、種々協議の結果決議したる事項は左の如し。
○中略
 一、顧問委嘱ノ件 名誉顧問ヲ渋沢子爵ニ、顧問ヲ岩崎久弥氏以下
 - 第56巻 p.265 -ページ画像 
二十六名ニ委嘱スル手続ヲ取ルコト
○中略
 一、常任理事三名ハ渋沢子爵ヲ訪問シテ名誉顧問ヲ委嘱スルコト
○中略
 尚常任理事三名は六月二十二日午前八時半飛鳥山の邸に渋沢栄一子を訪問し、子爵と会見の上本会の組織に就て其の経過を述べたる後、子爵に名誉顧問の就任を乞ひたる所直ちに快諾せられたり。


集会日時通知表 昭和二年(DK560069k-0003)
第56巻 p.265 ページ画像

集会日時通知表  昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
六月廿二日 水 午前八半時 植松良三・高橋虎吉・浅野源吾氏来約 アスカ山


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁 昭和六年一二月刊(DK560069k-0004)
第56巻 p.265 ページ画像

青淵先生職任年表 (未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁 昭和六年一二月刊
    大正年代
 年  月
 二  六 ○上略―昭和二、五、―〃 ○東北振興会(第二次)名誉顧問―昭和六、一一。



〔参考〕青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年五月十五日(DK560069k-0005)
第56巻 p.265 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編  昭和三年五月十五日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    東北振興会(一)
○上略
一、沿革 ○中略
       ソ東北振興会の解散
        大正十五年七月二十三日東京市丸の内渋沢事務所に渋沢会頭・大橋新太郎・倉知誠夫氏・吉池慶正の諸氏会合し、同会解散に就て協議し、事情已むを得ざるを以て愈々大正十六年三月末日(昭和二年三月末日)限り、廃止解散を決議す
       ツ昭和二年十月東北振興会《マヽ》の必要切なるを以て、新に東北振興会を再興し、従来の委員会員を以て組織されたりと雖ども、渋沢子爵は会頭を辞して名誉顧問たり。而して旧東北振興会員は、京浜及東北六県の実業家及其団体のみなりしが、新会に於ては、東北出身の貴衆両院議員・県会議員・商業会議所議員・学者・実業家・市町村長・青年団長・各組合理事者等の有志を以て組織する事とした。而して目的事項に於ては別に変る所がない。



〔参考〕東北振興史 浅野源吾編 上巻・自序第一〇―一五頁 昭和一三年八月刊(DK560069k-0006)
第56巻 p.265-267 ページ画像

東北振興史 浅野源吾編  上巻・自序第一〇―一五頁 昭和一三年八月刊
    自序
○上略
 渋沢子爵は人の知る如く公人として極めて多忙な人であるが、其間
 - 第56巻 p.266 -ページ画像 
に処して東北振興会の事業には熱心に当つた様である。私は東北振興会の事務には年を経る毎に深く関係する様になつたので、東北振興会に対する渋沢子の心理の動きと実際の行動とを聊か諒知し得ると思ふてゐる。渋沢子が、振興会の委員会を開くときは、必ず臨席して、他の委員諸氏に対し其労を謝してゐた。和平を愛好する大人格者なので誰彼れを問はず、又如何なる質問が出ても決して人を詰責する様な言辞も態度も出さなかつた。私が特に子爵から意見を聴く為飛鳥山の邸で会つて話をしてゐると、難しい事は必ず繰返して云ふて呉れた。又私の帰りを玄関迄送られながら、必ず、浅野さん若い人は働かなくては不可ませんよと教導された。
○中略
 又前東北振興会は創立の頭初即ち大正二年の東北凶作に際し、東北凶作救済会と協力して義金募集を行ひ、義金百七十余万円の募集成績を収めて、地方窮民の救済に当つた。此外同会は国民食糧問題の解決策として傍系的に資本金八百万円の中央開墾会社を組織し、窪田四郎氏を其社長として経営の任に当らしめ、渋沢子と益田氏は其相談役となつた。更に東北振興会の事業たらしむべく、窪田四郎氏の手許で東北拓殖会社設立の事業計画を進めたのであつたが、之は財界の情勢に余儀なくされて実現に至らなかつた。之等の事実に徴して前会の東北振興事業は其計劃に於て、其実行性に於て相当根底的のものであつたと云ひ得るであらう。然るに世上一般の人々は前会の抱持する此精神を諒解すること完からず、多くは一片の形式論に囚はれて、徒らに会の組織資格強化等の如き外形的事項を論議するのみに止まり、其実質を亡見し、遂に長蛇を逸し去つたかの憾があつた。渋沢子爵の如き世界的経済家として、将た我財界の巨人として、東北振興事業に全き結末を付け得ざりしは、本人の遺憾は察するに余りある。此見解を以て渋沢会頭の胸中を観察するときは、同会頭の言動に於て往々思ひ当る点がある。即ち渋沢会頭が大正七年東北振興遊説の際、秋田市に於て為したる秋田県知事川口彦治氏の質問に対し『そう期待されても老骨の私には何もしないかも知れない。否出来ないかも知れない』云々と答へ、大正十三年福島市に於ける、東北振興会支部聯合大会招待会席上に於ける同会頭の挨拶に於て『吾々他地方の者は、出来得る丈けの事をやると云ふ丈けで、真の事業は地方の人々が積極的にやると云ふより外に方法はないと思ふ』云々と述べてゐる。又同会頭は東北振興会解散後、現東北振興会組織に当り公表された声明に於て
 『我等は永年東北振興事業の衝に当つて来たが、他地方人として既に為すべきことを為した積りである。依つて此事業を地方出身の有力者に委譲し、其力に依つて此大事業の完成を期して貰ひたい。本会は一応解散の形式を取るが、之れは一応の形式に過ぎない。事実は此意義ある事業を地方の人々に継承して貰ふのである。』
 云々と、之等渋沢子爵の意見を何んと解すべきであるか、人に依つて其観察を異にするであらう。前東北振興会は何故か事業に一の結末を付けずして、中途退却した事は甚だ恨事とするが、而し吾々東北人としては渋沢子爵等をしてそうさせた原因或は其遠因奈辺にあるか、
 - 第56巻 p.267 -ページ画像 
と云ふ事も少しく慎重に検討し、詮議して観る必要があらう、前会の精神を承け継いだ吾々には体験上から聊か其原因を察する事が出来る様にも思ふ。
 兎に角誰れの眼から観ても、誰れが其衝に当つても、東北振興事業の実現は、頗る難事である事は明かであつた。即ち其難事は物であるか、事であるか、将た人であつたかと云ふ問題になると、容易に断定言明が出来まいが、蓋し何ものかにあつたであらう。前東北振興会が中途で退却したに就ては聊か其意を得ないやうにも思ふが、吾々東北人は東北振興事業に今日一大成果を齎らしめるに至つた基本的事業遂行の衝に当られた原敬氏及び渋沢会頭・益田孝氏等初め、東北振興会会員諸氏の負担した永き間の労苦に対しては深甚且つ無限の感謝の意を以て答へたいと思ふ。又同会は国家的事業の一部の遂行者として功績を永久に讚へざるを得ない。
○中略
  昭和十三年六月一日
               東北振興会理事
                編纂者 浅野源吾識