デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

補遺・追補

1章 補遺
節 [--]
款 [--] 3. 善那氏種痘発明百年紀念会
〔第二編 第二部 第二章国際親善 第二節国際団体及ビ親善事業〕
■綱文

第56巻 p.651-652(DK560144k) ページ画像

明治29年5月(1896年)

是月十四日ハ、イギリス国人エドワード・ジェンナーノ種痘発明後百年ニ当ルヲ以テ、医学関係諸団体発起者トナリ、善那氏種痘発明百年紀念会ノ開催ヲ企画ス。栄一、金五十円ヲ寄付ス。


■資料

善那氏種痘発明百年紀念会報告書 第五―七頁 明治三〇年三月刊(DK560144k-0001)
第56巻 p.651 ページ画像

善那氏種痘発明百年紀念会報告書  第五―七頁 明治三〇年三月刊
    善那氏種痘発明百年紀念会趣意書
 痘瘡の蔓延其勢猖獗にして如何に人類に悲惨の残害を蒙らしめたるかは今尚伝染病歴史の人をして悚然たらしむる所なり、幸に前世紀の末、英国の医士善那氏種痘の法を発明し、彼の悲惨の病毒を撲滅し得るに至らしめしは、豈に万古不朽の一大鴻業に非ずや、爾来世界の生民は其徳に浴し、其恵を受くる者実に幾千万なるを知らす、本年は氏が西暦一千七百九十六年五月十四日該法を発明せしより恰も一百年に相当するを以て、文化の諸邦氏の功徳を頌せん為め競ひて紀念会を催すと云ふ、我国豈に独り此挙なきを得んや、依て左の署名の団体は協同発起して氏か始めて種痘を発明せし紀念日、乃ち来る五月十四日を卜し、東京に於て荘重なる紀念会を挙行し、此一大救世師の功徳を頌せんと欲す、有志の士は何人を問はす来りて賛成あらんことを希望す
  明治二十九年
         東京市京橋区滝山町八番地東京顕微鏡院内
             善那氏種痘発明百年紀念会仮事務所
     (イロハ順)
     十日医会   東京医会    大日本私立衛生会
     国家医学会  顕微鏡学会   処和会
     成医会    赤十字社病院  積善社
    善那氏種痘発明百年紀念会施行次第
 一明治二十九年五月十四日、東京に於て紀念会の式典を挙くる事
 一会場には天然痘及種痘に関する図書・器械其他の紀念物を陳列して会員の展覧に供する事
 一善那氏の歴史及本会の紀事を編纂して会員に頒つ事
 一何人を問はす金参拾銭以上を寄贈して本会を賛助する者は、会員として式場に参列するは勿論印刷物の配布を受くるを得る事


善那氏種痘発明百年紀念会報告書 第一七四―一七五頁 明治三〇年三月刊(DK560144k-0002)
第56巻 p.651-652 ページ画像

善那氏種痘発明百年紀念会報告書  第一七四―一七五頁 明治三〇年三月刊
    寄贈金
○上略
 - 第56巻 p.652 -ページ画像 
本会を賛助し金拾円以上を寄贈せられたる氏名左の如し
○中略
  金五拾円              渋沢栄一君
○下略



〔参考〕東京日日新聞 第七三六八号 明治二九年五月一五日 善那氏種痘百年祭(DK560144k-0003)
第56巻 p.652 ページ画像

東京日日新聞  第七三六八号 明治二九年五月一五日
    善那氏種痘百年祭
は愈々昨日午後一時より上野公園内元博覧会跡第五号館に於て挙行せられたり、来賓入口は二箇所に設けられて共に緑門を樹て、館の周囲には無数の球灯を釣し、又内部は幔幕を以て祭場を陳列場と別ち、祭場正面は之を一段高くして、其背部中央に我国旗、其左右に修好各国の旗幟を搴げ、テーブルの左方英国旗下に当日の紀念祭を享くべき善那氏の大理石像、彫刻師藤田文蔵氏の手に成りたるを安置したり、夫より親任官各国公際官、公侯伯子男、陸海軍将校、貴衆両院議員、新聞記者、帝国大学教授、府会・市会・区会議員等夫々身分に応じて席を設け、一般会員席を以て之を囲み、又陳列場に入れば、諸家の珍蔵に係る善那氏の肖像十数種と種痘関係の古書画類あり、犢牛に痘苗を接種して来賓の縦覧に供するあり、定刻となりて祭場には大日本私立衛生会頭土方伯当日の会頭席に着き、奏楽一番の後、長与宮中顧問官の紹介により起つて一篇の祝辞を朗読し、終りて会頭席に復す、此間奏楽ありて、英国公使サトウ氏、亦長与氏の紹介により登壇し、先づ日本語にて「みーなさん」と説き起して来会者を驚かし、滔々善那氏の功徳を弁じ去りて、最後に善那氏は我英人なるも其功徳の及ぶ所は一国に限られず、今度日本にても此紀念祭を催ほしあり、□承りて私も賛同致しましたと結びしに、拍手喝采暫らくは止まざりき、次に蜂須賀貴族院議長、久我東京府知事の祭辞、細川宮中顧問官・石黒軍医総監の演説、後れて来会せられし西園寺文部大臣の祭辞、島田衆議院副議長の演説、最後に長与宮中顧問官の演説あり、総べて善那氏の労劬功徳を陳べ立てたる中にも石黒総監の「私は例外だが」の一語を以て来会者を揶揄し、又種痘は常に未開社会に国家衛生制度を敷くの先駆となるものなりとて、別に善那氏を頌するの一経路を開きたるは、特に来会者をして感動せしめたり、右答辞演説等終り一同善那氏の像を拝し、我 両陛下万歳、英国女皇陛下万歳を唱へて祭場を引揚げ、精養軒に於て茶菓の饗応あり、全く散会したるは午後五時過ぎ、当日の来会者は板垣内務・榎本農商務・西園寺文部の各大臣、野津東京防禦総督、英・清両国公使、清浦・松岡両次官、各府県知事、各局長を始め朝野の紳士数千名、広き祭場も寸地を剰まさゞるほどなりき。