公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第56巻 p.652-653(DK560145k) ページ画像
明治39年3月(1906年)
是月栄一、イギリス国人ウィリアム・アダムズノ
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墳墓(俗称按針塚)記念碑建設ノ計画ニ賛成シ、金三百円ヲ寄付ス。
竜門雑誌 第二一四号・第三七頁 明治三九年三月 ○按針塚建碑計画(DK560145k-0001)
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竜門雑誌 第二一四号・第三七頁 明治三九年三月
○按針塚建碑計画 前項歓迎演劇の主人公にして、我国第一の渡来者たる英人ウヰリアム・アダムス氏の古墳、即ち按針塚に一大建碑を建てんとの計画成り、周布神奈川県知事、マクドナルド大使の発起にて寄附金募集中なりと云ふ、青淵先生にも此挙を賛し金三百円を寄附せられたりと云ふ
○右演劇トハ、英国皇弟アーサー・コンノート親王歓迎ノタメ明治三十九年二月歌舞伎座ニ上演サレタル「昔譚日英同盟」トイフ新作ノ演劇ヲイフ。
東京日日新聞 第一〇四八四号 明治三九年三月九日 ○按針塚の建碑(DK560145k-0002)
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東京日日新聞 第一〇四八四号 明治三九年三月九日
○按針塚の建碑
マクドナルド大使・井上海軍大将 ○良馨・周布神奈川県知事及び英人ウオルター氏等発起となり、神奈川県横須賀町字逸見に在る按針塚に修理を加へ、壮厳なる一大碑石を立つるの計画あることは、去る七日の社説にも記載せし如くなるが、右の按針塚なるものは徳川氏の初期、蘭船に乗じ本邦に来航して九州に上陸し、後、大坂に於て始めて当時の将軍徳川家康公に謁し、其知遇を得て造船・通訳及び数学・砲術等の教授を掌り、功を以て逸見の領主となりし彼のウイルアダム氏の墳墓にして、明治五年発見以来有志者の手に依り修理を加へられしこと一再ならずと雖も、未だ以て保存の基礎鞏固ならざるにより此挙あるに至りしにて、既に伊藤・山県・大山・松方・井上・大隈・西園寺・鍋島の諸侯伯、岩崎・三井諸家等の寄附金あり、其他縉紳数十名の賛成ありたるも、発起人は猶成るべく多くの賛成者を得んことを希望し居る由なるが、寄附金を為さんとする人は神奈川県庁内周布公平氏に宛て通知すべしといふ