デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

補遺・追補

1章 補遺
節 [--]
款 [--] 8. 大倉鉱業・大倉商事両会社対川崎造船所紛議仲裁
〔第三編 第二部 第三章商工業 第八節鉄鋼〕
■綱文

第56巻 p.681-687(DK560155k) ページ画像

大正10年8月30日(1921年)

是ヨリ先、大倉鉱業・大倉商事両株式会社ヨリ、株式会社川崎造船所ヘ売却ノ銑鉄約三万五千噸ノ契約履行ツキテ紛議ヲ生ズ。栄一、両者ノ請ニ依リテ和田豊治・藤山雷太ト共ニ仲裁ニ当リタルモ、川崎側ヨリ、容認シ難キ条件ノ提出アリタルタメ、斡旋ヲ辞ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK560155k-0001)
第56巻 p.681 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 晴 寒
午前七時半起床洗面シテ朝飧シ ○中略 田辺頼真氏来訪シテ大倉組・川崎造船所ノ訴訟問題ニ付仲裁ノ事ヲ談話ス、依テ再昨夜余カ大倉老人ト本件ニ付対話セシ顛末ヲ詳細ニ説示ス ○下略
   ○中略。
三月三日 曇 寒
○上略 銀行倶楽部ニ抵リ ○中略 畢テ大倉・武藤 ○山治二氏ト大倉・川崎両家ノ紛議調停ノ事ヲ協議ス、議調ハスシテ明日再会ヲ約ス ○下略
三月四日 曇 寒
○上略 四時事務所ニ抵リテ大倉・武藤二氏ト会見シテ、頃日来ノ仲裁問題ヲ内話ス ○下略


竜門雑誌 第四〇三号・第一九―二三頁 大正一〇年一二月 ○大倉川崎争議仲裁に就て 青淵先生(DK560155k-0002)
第56巻 p.681-685 ページ画像

竜門雑誌  第四〇三号・第一九―二三頁 大正一〇年一二月
    ○大倉川崎争議仲裁に就て
                      青淵先生
 本篇は青淵先生の談話として「実業之日本」十月十五日発行第二十四巻第二十号に掲載せるものなり。(編者識)
△物慾に被はれた知識の光 本年の一月ころであつたかと思ふが、松方侯邸に出入りする田辺頼真と云ふ人――度々私の宅にも来て懇意にして居る人である――この人が来た時、種々世間話の末、大倉(鉱業商事両会社)と川崎造船所との係争に付いて話があり、かゝる大会社間で法廷に相争ふと云ふことは苦々しい事である。松方老侯も非常に心配して居るが、何とか調停の途はないものか、御苦労ながら仲裁して呉れることは出来まいかと云ふ語があつた。
 私は之に対して、当事者でもない人から卒然とかゝることを云はれても、何とも御答へは致し兼ねる。然し当事者双方で是非とも骨を折れと云ふことであれば、敢て起たぬでもないと答へた。元来欧洲戦争の影響として鉄・船舶等の事業に大なる変化が起つた、一時は相場が暴騰して大成金を出したが、其後暴落して大打撃を受けたものがある
 - 第56巻 p.682 -ページ画像 
この大変化に際しては賢い人さへも迷はされたのである。丁度気候の変化の烈しい時、熱い時に袷を持つて来、涼しい時に単衣を着、其の為め風邪に冒された時、着物の持つて来方が悪かつたからであると言つて怒る様なものである。戦争と云ふ大事件の為めに総ての事物が大変化をした、商取引上にも齟齬することが多く起り、従て訴訟問題も起つたのである。併し当事者が時の変化したと云ふことを弁へ、お互にこの変化の為にやられたといふことを考へ、お前は六分負担せよ、私は四分負担すると云ふ様に、お互に反省すれば大問題としなくとも解決することである。然るにこの変化を思はず、只利益をより多く収めたい、損失を少しでも軽くしたいと云ふ慾心より争ふと云ふことになると、物慾の為に知識の光を眩され、実業界の有力者を以てして争を訟廷に決することゝなる。これは誠に残念なことであると述べたのである。
△三回の直接協議不調 私は一昨年と昨年との二回、鉄の問題に関し争議を仲裁したことがある。事柄は多少異つた所もあるが、性質は同じて、仲裁の経験はないではない。然し愈々仲裁するにしても如何なる形式を以つてするか、研究すべき問題もあるが、第一自分一人では困る、双方で信頼する人を一人宛依頼し、自分共三人でする方がよいと思ふと申添へたのである。
 田辺氏は其後この事を松方老侯に告げ、老侯から川崎造船所社長松方幸次郎氏に告げたらしく、松方氏より私に仲裁の労を執つて貰ひたいと申越された。其後機会を得て相手方たる大倉男爵の意向を尋ねたところ、同氏は『仲裁はよいが、先方が応じないだらう』とのことであつたから私は『君が承知すれば先方も之を希望して居る様である』と答へたところが、『君が仲裁して下さると云ふならば、私は全幅の信用を置いて御一任する』と云はれたので、双方の依頼があるならば不肖ながら私が仲裁しようと腹を極めたのである。然し仲裁と云ふよりは、双方の示談で解決がつくものならば、左様した方がよいと思ひ其事を勧めて見た。これは二月頃のことであつたが、其後武藤山治氏が松方氏の委任を受けて示談の事を協議する為めに上京したので、大倉側と協議せしめやうとしたが、当事者差向ひでは困るから、私に立会つて呉れと云ふので、三月二日兜町の私の事務所で、大倉男爵・武藤山治氏及私の三人が会見した。私は両者をして互に譲歩して解決させる地位に立ち、勧誘に努めたのであるが、容易に一致点を発見し得なかつた、翌三日も会談したが依然として解決がつかない、私は双方が共に多少づゝ譲歩しなければ、争議は解決するものでない。故に再考して出来るだけの譲歩をする様に忠告し、四日に第三回の協議をしたが、終に決定するに至らなかつた。併し当日大倉男爵から譲歩し得る最低の限度を示したので、武藤氏は此案を以て神戸に帰り、松方氏と協議し、松方氏が是案に応ずることが出来るや否やを質し、幸ひにして松方氏が応ずる意志あれば、武藤氏は再び上京することを約して帰つた。
 武藤氏は帰神後松方氏の意向を質したるに、到底大倉男爵の此の程度では示談に応ずることが出来ぬと云ふにあつた。それは例へて云へ
 - 第56巻 p.683 -ページ画像 
ば、一方が百円と云ふのを八十円までに折合ふと云ふも、他方は百二十円でなければと云ふ様な程度の差であつた。併し繋争の金額が多額であつただけに、両者の主張する差額は尚百万円内外に上つたので、残念ではあるが示談不成立となり、仲裁によりて解決するの外に途がなくなつた。
△仲裁依託書外の一通の書面 仲裁するとなると自分一人でいかぬ、当事者の双方で信頼する適当な人物を一名づゝ依頼し、自分と共に三人でやることゝしたい。夫れには東京・大阪両商業会議所会頭を依頼してはどうかと思ふと注意した。然るに川崎側よりは和田豊治氏を、大倉側よりは藤山雷太氏を推薦したので、私は両氏と共に仲裁を引受けることを決心した。
 仲裁を引受けるには、当事者双方より仲裁委託書を提出しなければならぬ。乃ち私は両氏と共にその文案を作つて双方に示し、大倉側からは四月五日に、川崎造船所の方が四月十二日私が大阪に滞在中、松方幸次郎氏より仲裁委託書を受取つた。松方氏は別に一書を添へて、事件の実際調査に関する希望の件々を申越された。元来この仲裁は、紛争の当事者が我々三人の人格を信頼して委託せられたものであり、委託書も無条件に依頼せられたのである。我々三人も亦商業道徳を基礎とし、商習慣に従ひ、常識的に公平に判断するので、仲裁の決定に対しては両者共に絶対に服従すべきものである。然るに松方氏は委託書を差出すと共に、書面を以て右の如き希望を述べたので、私は仲裁委託書を重しとし、書面は単に我々仲裁者の注意を促す為めの一の私的希望と見るべきか、或は外に意味があるか迷はざるを得なかつた。仲裁者としては委託書に記せることを基とするのが順当であつて、私信は之を顧みる必要もないのであるが、当時私はこの手紙は条件を付するのであれば之は受取る訳に行かぬ、然し単なる希望であれば御預りしてもよいがと思ふが、此点は如何か、希望に過ぎずと了解して差支ないかと念を押して尋ねたるに、松方氏はそれにて宜しと云つたので、それでは私が預つて置いても差支ないかとは思ふけれども、自分一人では極め兼ねるから、帰京の上、藤山・和田両氏とも相談の上之を受理するや否やをきめることゝし、兎も角も預つて帰り、両氏に相談したところ、自分等の仲裁を引受くるのは仲裁委託書によるのであるから、之を主として考へ、其他は参考と見て差支ない、殊に此書面に付きては渋沢よりの陳述を松方氏に於て解し、単なる希望に過ぎぬと云ふことであるから、預つても差支あるまいと云ふことで、之を止め置いたのである。
△意外にも川崎側より物議起る かくして自分等は無条件且つ絶対服従の諒解を以て、いよいよ仲裁を引受け、第一着手として当事者双方より本件に関する書類を提出せしめ、段々と調査研究したが、事件が複雑なるだけに、書類も大部であつた為め、一月余もかかつたが、漸く事件の大体が明かになつたので、六月十三日より愈々事実の審訊に着手せんとしたところが、川崎造船所より物議が起つた。それは大倉側よりの鉄の引渡しに付き不正がある、故に仲裁の審判を下す前に、充分に這般の事実を取調べ、正邪曲直の存する所を明かにし、且つ之
 - 第56巻 p.684 -ページ画像 
を公表して貰ひたいと云ふのである。川崎側では大倉側に不正の事実があるから、之を調査して明にすれば、或は有利な解決が出来るとでも考へられたのか否かは知らぬが、此点に関しては最初一書を添へられた時、私が前述の如く単なる希望であるや否やを明にし、委託書が主であると云ふ事に付き、特に松方氏の了解を得てゐたので、この物議に対して実に意外の感なきを得なかつたのである。
 大倉側に不正の事実があつたか否か、私は充分に事実の調査を行はねば明にすることは出来ぬ。充分に吟味すれば正邪も分るであらうが併し私等は仲裁人である。検事でもなければ判事でもない。その職権のなき身を以てして、何れが正であり何れが不正であるかを断定することは出来ない。盗賊がゐたからとて我々は之を捕縛する権能はない私等は充分に調査すれば、何れに過失があつた、何れが故意に損失を被らせたと云ふことは分らぬことはない。私共はこの事実を調べて何れに過失落度が多くあつたか、何れに少なかつたかを明にし、それより利害を離れて公平な仲裁の条件を決定するのである。併し私共が過失の多少を見て罪名をつけて公表することは絶対に不可能のことである。強て正邪曲直を明にし、公表することを希望するならば、之は検事局に訴ふるの外ない。最初より仲裁に附すべきものでない。仲裁を委託すると云ふ趣旨に反してゐる。
 私は斯く信じたので、再三再四川崎側の代表者に理由を説明し、委託書と之に添へられた一書とは両立せぬものであり、松方氏も単なる希望であると云はれたことを反覆したのであるが、代表者側が堅くとつて聴かぬので、かくては商業道徳上よりの仲裁は到底不可能であるが為に断然辞退するに決し、他の両氏も私と意見を同じふし、行動を共にすることになり、八月三十日一件書類全部を関係者に返戻し、その関係を絶つたのである。
△川崎側の言ひ分に就て 川崎側では大倉側の行動に不正の事実がある、之れを調査し明かにしなければ、自分等の立場上不利益であると云つてゐたが、その不正と云ふは、第一は大倉側の引渡した品は勝手に荷印をかへてゐる。これは良否の品の間に誤魔化しを行はんとしたのである。第二は契約の期限内に引渡を了しなかつたのは、高価の契約による他の需要者に先に供給し、廉価の川崎側に対し特に後らせたのであると云ふにある。大倉側の説明によると、引渡品の荷印をかへたことは事実であるが、併し川崎との引渡しは一々分析して其成分を調査した上に行ふことになつてゐたから、荷印の変更は問題とするに足らぬ。又他の需要者に先に供給したといふが、これは契約価格が高かつたといふ為でなく、先に約束した為である、先約定者に先に渡すことは敢て異とすることはないと云ふにある。之が争議の根本をなしてゐるのであるが、この大事件が川崎側の条件提出により円満なる解決がつかず、再び法廷に争はねばならぬに至つたことは如何にも遺憾に堪へない。
   ○栄一ノ談話中ニ、昨年及ビ一昨年中鉄ノ問題ニ就キ仲裁ヲ為シタリトイフハ、大正八年六月二十四日ノ東京製綱株式会社対浅野総一郎ノ紛争裁定及ビ同年十二月二十八日ノ株式会社浅野製鉄所対日本鋼管株式会社ノ紛議裁
 - 第56巻 p.685 -ページ画像 
定ヲ指シ、後者ヲ大正九年ト誤認シタルモノナラン。


和田豊治伝 喜多貞吉編 第六一二―六一五頁 大正一五年三月刊(DK560155k-0003)
第56巻 p.685-686 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第四八一号・第二〇二―二〇三頁 昭和三年一〇月 青淵先生と法制 高根義人(DK560155k-0004)
第56巻 p.686-687 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第二〇二―二〇三頁 昭和三年一〇月
    青淵先生と法制
                      高根義人
○上略
 其後これと相似たる事件につき先生は其仲裁を依頼せられたことがあつた。それは大倉と川崎造船所との間に生じたる所謂千万円事件として有名なりし銑鉄売買の紛争であつた。先生は和田豊治及藤山雷太両氏を共同仲裁人として著手せられたが、川崎側の仲裁手続に関する意見が仲裁人一同のそれと適合せざるに因り、先生は仲裁を辞退せられた。爾来八年に渉り訴訟は繋属せられ、公判ある毎に世間の耳目を聳動せしめたことは人の知る所である。此繋争事件は、(第一)大倉が引渡したる約三万五千噸(代価約五百万円)の銑鉄代金を請求したるに対し、品質不良及び履行遅延ある故を以て、川崎側は直に之に応ぜざるものと、(第二)別に一万噸の銑鉄を引渡最終期限の数日前に一時に持込みたるを、川崎側に於て履行遅延其他の理由にて受取らぬので、大倉は之を競売して差額約三百万円を請求するものと、(第三)低燐銑鉄代金約二十万円の支払を求むるものと、(第四)川崎側より履行済の売買数口につき、大倉が現品不足を理由とし引渡延期を求めながら、他に高価を以て抜売りしたる事実ありとて違約金約百五十万円を請求する事件とであつた。第一審にては(第一)(第三)(第四)は大倉の勝利に帰したが、(第二)は川崎に有利に判決された。控訴
 - 第56巻 p.687 -ページ画像 
審では(第一)(第二)(第三)とも川崎の不利に終つた。(第四)は繋属中に四件共に示談が成立した。元来此空前の大争議も鋼管・浅野の紛争と相似たる所ありて、一方のみ全部曲者と見るべきものにあらずと思はるゝのである。若し曩に先生の仲裁を経たりしならば、浅野と鋼管会社の鋼塊事件に於けると均しく、此銑鉄事件も必ずや当事者双方並に世間をして首肯せしむるに足るべき中正の判断を得て、此実業界空前の大事件にして、八年の長き関係者をして互に反目せしむる恐あるが如き紛争も、僅少時日内に落着を見るに至りしならんと思はる。余も一方(川崎)の代理人の一員であらざりしならば、当時先生より請はるゝ儘に仲裁人補助として聊か力を尽し得たであらうと、今でもかへすがへす遺憾に感ずる次第である。
○下略