デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
1款 同族
■綱文

第57巻 p.27-34(DK570011k) ページ画像

大正7年5月23日(1918年)

是ヨリ先、栄一、養子平九郎ノ五十年忌ニ当リ、谷中渋沢家墓地内ニ追懐碑ヲ建テ、是日、ソノ除幕式ヲ挙行ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK570011k-0001)
第57巻 p.27 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二日 朝来雨降リテ寒気少ク減シタリ午後曇天風強シ
○上略 午後三時頃ヨリ揮毫ヲ試ミ平九郎戦死ニ関スル書類ノ序文ヲ浄書ス ○中略 夜食後更ニ平九郎ノ墓碑ヲ認メ ○下略


渋沢平九郎追懐碑 (谷中渋沢家墓地所在)(DK570011k-0002)
第57巻 p.27-28 ページ画像

渋沢平九郎追懐碑          (谷中渋沢家墓地所在)
(表)

図表を画像で表示渋沢平九郎追懐碑

      渋沢平九郎追懐碑       楽人之楽者憂人之憂       喰人之食者死人之事                昌忠  嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障  壁之辞也明治戊辰五月官軍入江戸城平九郎  年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞  命草野甲午家祭日有人贈其戦没時所佩刀予  悲喜交至賦詩曰日月有明能雪寃九原豈不慰  幽魂遺刀今夜挑灯見猶剰当年碧血痕此憫其  孤忠也今玆丁巳五十年忌辰重展遺墨不勝追  懐之情乃鈎摹刻石以見其志云   大正六年十二月 義父渋沢栄一識並題額 



(陰)
 渋沢平九郎君碑
   ○碑文略ス。
    明治三十一年六月
               依田百川撰
 - 第57巻 p.28 -ページ画像 
    大正六年十二月    尾高次郎書
               吉川英雲刻


渋沢平九郎追懐碑 表紙裏 大正七年五月刊(DK570011k-0003)
第57巻 p.28 ページ画像

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集会日時通知表 大正七年(DK570011k-0004)
第57巻 p.28 ページ画像

集会日時通知表  大正七年       (渋沢子爵家所蔵)
五月廿三日 木 午後四時 故平九郎先生除幕式
             終了後晩餐会(上野精養軒)


竜門雑誌 第三六一号・第八二頁 大正七年六月 ○故渋沢平九郎氏追懐碑除幕式(DK570011k-0005)
第57巻 p.28-29 ページ画像

竜門雑誌  第三六一号・第八二頁 大正七年六月
○故渋沢平九郎氏追懐碑除幕式 五月廿三日上野谷中なる渋沢家墓地に於て、先般来建設中なりし青淵先生義子渋沢平九郎氏の追懐碑は此程其建設を竣成せるに依り、同日故人の命日を卜して午後四時より其除幕式を挙行せられたるが、式の次第は左の如くなりき。
 一青淵先生挨拶
 一除幕
 一読経
 一焼香
  以上
 右終つて上野精養軒に於て晩餐会を催されたるが、同日は青淵先生同令夫人を始めとし
 渋沢智雄      穂積陳重    同令夫人
 穂積重遠      同令夫人    阪谷男爵令夫人
 阪谷希一      渋沢武之助   同令夫人
 渋沢正雄      同令夫人    明石照男
 同令夫人      渋沢秀雄    尾高幸五郎
 尾高次郎      同令夫人    大川平三郎
 同令夫人      田中栄八郎   同令夫人
 永田勇子      永田甚之助   同令夫人
 斎藤精一氏令夫人  朝山義六    同令夫人
 渋沢元治氏令夫人  岡部もと子   岡部幸一郎
 尾高定四郎     尾高朝雄    尾高鮮之助
 大川鉄雄      大川義雄    渋沢誠一
 尾高浩一      芝崎確次郎   関直之氏令夫人
 織田国子      萩野由之    大沢正道
 八十島親徳     増田明六    白石喜太郎
 上田彦次郎     (順序不同)
の諸氏参列せり。因に当日は参会者一同に碑文及び碑陰の記を縮刷し尚ほ故人の肖像及遺刀の写真と、青淵先生の遺刀書巻の序文とを小冊として頒布せられたるが、其先生書巻の序文は之を別項に掲載したれ
 - 第57巻 p.29 -ページ画像 
ば念の為め附記す。


竜門雑誌 第三六一号・第五八―五九頁 大正七年六月 遺刀書巻の序文 青淵先生(DK570011k-0006)
第57巻 p.29-30 ページ画像

竜門雑誌  第三六一号・第五八―五九頁 大正七年六月
    ○遺刀書巻の序文
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が故渋沢平九郎氏の遺刀に寄せて其経歴と其後の行事とを自記せられたるものなりとす(編者識)
 明治戊辰の事を回想すれば実に感慨に堪へざるもの多し、徳川幕府三百年の積威一朝にして崩解し、征討の軍江戸城に莅むに当り、幕府の旧恩に絆されて皇師に反抗したる者亦少からざりき、其迹より之を見れば順逆を誤りたるものなれども、其志を察すれば聊憐むべきものあり、余が義子平九郎も其一人なりしなり
 平九郎名は昌忠、尾高勝五郎の五男にして余が亡妻の弟なり、余が幕府の命を奉じて仏国に赴くに当り、幕府の制として後嗣を定むべき要あるを以て、養ひて子と為す、幾もなくして戊辰の政変起るや、平九郎は留りて江戸に在りしが、主家の滅亡を憤慨し、蹶起して振武軍に投ず、其発するに臨み、楽人之楽者憂人之憂、喰人之食者死人之事の語を寓舎の障子に大書して去る、素より生還を期せざりしなり、後飯能に走り、遂に五月二十三日を以て武蔵国入間郡黒山村に戦死す、時に年二十二、平九郎戦死の冬、余は海外より帰朝せしも、障る事多くして平九郎の実状を探知するを得ざりき
 明治六年の秋余は人を其戦没の地に派し、村人に就いて戦死の状を問ひ、其語る所に依りて遺骸を収め、東京に迎へて余が谷中の家塋に改葬せり、同二十三年に至り、尾高藍香翁は男衾郡畠山村の人丸橋一之氏によりて、始めて平九郎が戦死の事実を詳知するを得たり、初黒山村の戦に平九郎は官軍の斥候一人を斬り、二人を傷け、遂に路傍の石に踞して屠腹せり、時に宮崎通泰といへる医師官軍の負傷兵を治療せるが、其負傷兵は平九郎の勇武を賞し、敵なからも感歎に堪へずとて、具に其戦況を語りしかば、宮崎氏は其聞く所を図に写して丸橋氏に贈れるもの、此に至りて発見せられたり
 同二十六年静岡の人須永信夫氏の紹介によりて、旧芸州藩の神機隊隊長川合麟三氏より平九郎が戦死の時の佩刀を獲たり、明くる二十七年五月は平九郎が年忌に当りたれば、其六月川合氏及同隊の監察たりし藤田高之氏等を兜町の邸に迎へて饗讌を開き、川合氏よりは遺刀の記を寄せられ、余は之に対する謝状を贈り、席上互に詩を賦して応酬したりき、平九郎が終焉の状及其遺蹟は玆に始めて明白なるに至れり
 同三十一年には依田学海氏に嘱したる碑文の稿成りたれども、故ありて刻するには至らず、其翌年六月余は藍香翁と与に黒山村に至り、親しく戦死の跡を弔ひ、仏事を営みたり、同四十五年四月事を以て入間郡に赴ける際にも、重ねて其墓地及屠腹の旧址を弔へり
 是より先明治三十三年竜門社員余が為めに六十年史を編纂刊行せし時、平九郎が伝を作り、且遍く其関係書類をも採録せり、其後塚原渋柿園氏は平九郎の戦死を材料となし、且之を潤色して振武軍と題する脚本に作りたるを、同四十四年帝国劇場に於て演ぜしめたる事もあり
 - 第57巻 p.30 -ページ画像 
たれば、今は広く世の人の目にも耳にも伝はりぬべし
 今玆大正六年五月は正に其五十年忌に相当するにより、法会を上野寛永寺に於て執行し、且曩に依田学海氏の撰文せる墓碑建設の事をも決定せり、因りて上に記せる各種の書類をも聚め装して一巻となし、永く家に伝ふることゝなしぬ
 思ふに平九郎の戦死は当時平九郎の余が姓を冒せるの日尚ほ浅かりしも、苟も身幕臣の家に在る者は、義父に代はりて一死主家の難に殉ぜしものとすれば、其心事亦実に憫諒すべきものあり、因りて玆に事由を自記して序言とす
  大正六年五月
                青淵渋沢栄一識時年七十有八
   ○本資料第一巻、明治元年五月二十三日ノ条、及ビ第二十九巻所収「同族」明治六年八月十三日、明治二十六年十二月、明治三十二年六月二十五日ノ各条参照。



〔参考〕竜門雑誌 第六一八号・第二五―三〇頁 昭和一五年三月 遺刀小記 渋沢平九郎氏の大刀渋沢家に帰る 【(山本勇誌)】(DK570011k-0007)
第57巻 p.30-34 ページ画像

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