デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
1款 同族
■綱文

第57巻 p.39-41(DK570016k) ページ画像

大正14年10月1日(1925年)

是日穂積陳重、枢密院議長ニ就任ス。栄一、王元之撰「待漏院記」ノ全文ヲ手写シ、賀詞ヲ撰文自書シテ贈ル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一四年(DK570016k-0001)
第57巻 p.39 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一四年    (渋沢子爵家所蔵)
三月十日 快晴 軽寒
○上略
午前十時頃東京ヨリ穂積陳重夫妻来訪ス、枢密院副議長ニ就職ノ事ヲ浜尾議長ヨリ勧誘セラルルニ付、其去就ニ付内話ノ為来談セラルルナリ、依テ穂積ノ原案ニ同意ヲ表スル旨ヲ答フ ○下略
   ○栄一、大磯明石邸ニ在リ。尚、穂積陳重ハ副議長ニ就任、是年十月浜尾議長ノ急逝ニ伴ヒ議長ニ昇任ス。


明治大正昭和大官録 宍戸新山編 第七三―七五頁 昭和五年一一月刊(DK570016k-0002)
第57巻 p.39 ページ画像

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賀穂積男爵為枢密院議長序 渋沢栄一書(DK570016k-0003)
第57巻 p.39-40 ページ画像

賀穂積男爵為枢密院議長序 渋沢栄一書 (穂積男爵家所蔵)
 
 男爵穂積君将任枢密院議長也君深知負荷甚重非其器固辞之不許終従其旨惟枢密院者  至尊最高顧問府万機之得失繋焉其責之重且大興宰相無所軒輊君之拝辞亦非無故然大命所降為人臣者辞之非義也君既
 - 第57巻 p.40 -ページ画像 
拝命矣不啻君一身之名誉亦同族老生等之光栄也因手写平生所愛読待漏院記以致座右非敢寓諷規之意実出老生之至情不得已也顧奉其職者大抵莫非維新之功臣而今君起身於翰林一朝拝大命者全在学識高遠与志操忠純感其知遇鞠躬尽瘁夙興夜寐思所以報答必矣老生窃謂今也普通選挙之法新布陪審裁判之制将行加之対外国策之可振作協和者民風思潮之可矯正利導者学制教科之可更張者農産工芸之可策励者幾不勝指数一念到此憂心忡忡豈特待旦而入乎哉君齢雖届七十比之老生前途猶遼庶幾蹇蹇匪躬以画国家百年之計古人有言斃而後止 与
 大正十四年十一月  八十六翁青淵渋沢栄一識 


宋王元之待漏院記 渋沢栄一書(DK570016k-0004)
第57巻 p.40 ページ画像

宋王元之待漏院記 渋沢栄一書     (穂積男爵家所蔵)
   ○本文略ス。
  大正十四年十一月録王元之待漏院記
                青淵 渋沢栄一 


渋沢栄一書幅箱書(DK570016k-0005)
第57巻 p.40 ページ画像

渋沢栄一書幅箱書           (穂積男爵家所蔵)
(蓋表)
 青淵老人書 双幅一対
  一賀穂積男爵為枢密院議長序 撰文自書
  一宋王元之待漏院記     全文手写
(蓋裏)
 大正十四年十二月贈呈      渋沢栄一
 穂積男爵 恵存
       (軸寸法、各縦五尺七分、横二尺三寸五分)


竜門雑誌 第四五二号・第六頁 大正一五年五月 思ひ出づるまゝに 故穂積男爵を追想して 青淵先生(DK570016k-0006)
第57巻 p.40-41 ページ画像

竜門雑誌  第四五二号・第六頁 大正一五年五月
    思ひ出づるまゝに
      ―故穂積男爵を追想して―
                      青淵先生
○上略 其後枢密院副議長になる折にも相談に来て、初め浜尾議長に対してお断りしたけれども、遂に事情が許さなくなつたといふことであつた。更に議長就任の時にも、一応の相談があつたので、私は、お受けしたらよいと思ふ、併し当節として甚だ懸念に堪へぬのは、内閣との関係で、其の動揺に際して巻添へを喰ふやうな心配はあるまいか、兎に角政治界の現状には幾多の不満があるけれども、自分には斯うすればよいと云ふ智恵は出ない、又たゞ枢密院議長が従来の如く門閥を重んずると云ふやうなことは面白くないから、お前が立つことは大いによいと思ふ、そして枢府の真面目を何処までも押し通し、真に重大なる諮問府としての職責を尽すべきである、と申し、それに因んで待漏院記と云ふのがある、其は斯々であると話した処、誠に結構である、是非それを書いて呉れるやうにとのことであつたから、どうせ書くならばと云ふので、別に一つの文章を作り、双方を書いて双幅に仕立てて贈つた。私の文章は、二松学舎の佐倉孫三先生に見てもらつたのであるが、前以て穂積にも見せて、意見を聞いて書いた訳である。(本
 - 第57巻 p.41 -ページ画像 
号口絵参照)それを書いた私は、まさか待漏院記のやうな場合にはなるまいが、諮詢府に在る以上、左様な覚悟を以て仕へねばならぬと思つて居た。穂積は非常に喜んで呉れたが、其喜びは甚だ短く、其覚悟を実行する時もなく逝去したのは、残念の極みであつた。殊に私の文章の終りに、「斃れて後止む」と書いた最後の言葉が讖を為したやうで、真に感慨無量である。
○下略



〔参考〕向上 第一九巻第一一号 大正一四年一一月 渋沢老顧問の消息 瓜生光村(DK570016k-0007)
第57巻 p.41 ページ画像

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