デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
1款 同族
■綱文

第57巻 p.41-43(DK570017k) ページ画像

大正15年4月7日(1926年)

是日、穂積陳重逝ク。


■資料

竜門雑誌 第四五一号・第七二頁 大正一五年四月 男爵穂積陳重博士薨去せらる(DK570017k-0001)
第57巻 p.41 ページ画像

竜門雑誌  第四五一号・第七二頁 大正一五年四月
    男爵穂積陳重博士薨去せらる
 男爵穂積陳重博士は持病の狭心症にて三月卅一日以来、静養加療中四月六日肺炎を併発し、御家族其他の熱誠なる看護も、入沢博士・林主治医等極力の努力も其効なく、遂に七日午前零時四十五分薨去せらる。悲痛真に辞なし。謹で哀悼の意を表す。
○下略


集会日時通知表 大正一五年(DK570017k-0002)
第57巻 p.41 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
四月八日 木 午前十時 穂積男爵邸へ御弔問
   ○中略。
四月十日 土 午前九時 故穂積男爵告別式(青山斎場)


竜門雑誌 第四五二号・第一―六頁 大正一五年五月 思ひ出づるまゝに 故穂積男爵を追想して 青淵先生(DK570017k-0003)
第57巻 p.41-43 ページ画像

竜門雑誌  第四五二号・第一―六頁 大正一五年五月
    思ひ出づるまゝに
      ―故穂積男爵を追想して―
                      青淵先生
 穂積の死去したことは、誠に千歳の恨事であつて、私としては話をすればする程、その残念さが増すばかりであるが、此処に些か穂積の死に関して感想を述べることにしやう。
 私が東京に家を持つたのは明治二年の暮で、今度未亡人になつた歌子は、文久三年に生れたのであるから、丁度其時七歳であつた。 ○中略
 - 第57巻 p.42 -ページ画像 
 さうして私は役人を辞してから銀行者となつたが、其内、子供達も成長し、明治十五年には穂積との婚姻が成立つたのである。
○中略 歌子は長女でもある関係上、私の家庭の相談相手になるやうにと考へ、仮へ表面は他家へ嫁せしめても、婿をもらうと変りないやう、一族同様になる結婚をさせて、相援けあいたいものであると思ふて居た。そして丁度此望み通りと云つてよいやうな穂積との約束が出来た此話は第一銀行に居た西園寺公成と云ふ人から持つて来た。此人は宇和島の伊達家の家令をして居たが、頗る好人物で又確実な人であつた穂積も伊達家の旧臣の一人である関係から、此人の世話になつて居たので、西園寺氏から話があり、同じく宇和島藩の人で確か当時大審院長を勤めて居た児島惟謙と云ふ人の媒妁で婚儀が成立つたのである。
 穂積と縁を結んだ後、別に相談した訳ではないが、穂積の家には、確かお婆さんが一人あつたのみであるので、自分の子供同様に考へ、総ての相談相手となるやう、深川の邸内に家を造り、其処に住むことにし、朝晩会つては色々のことを話し合ふと云ふ有様であつた。話は共に好きであつたから、私は実業、穂積は法律と、各自の畑の事柄を夫々親しく語り合ふ、そして時に討論になることもないではなかつた殊に智識と徳義或は気慨とか精神とか云ふやうな問題になると、二人の説が必しも一致せず、時には議論をすることもあつた。学者である穂積は、智識は読書によつて得るものであるから、学校教育は読書を為さしめ、智識を得る基礎を為すもので、根本的である。理想を抱くとか、利かぬ気の強い信念を持つとか、精神に属することは智識を得た後に来るものである、と唱へ、それに対し私は東洋流に、精神を先にし、智識を後にすべきであると云つた。無論両者の説が全然反対の訳ではないが、多少趣を異にする処があつた。此問題に付ては、今日でも学者間に相当の議論があるやうである。穂積は斯様に若い時分から自己の説は曲げず、主張する方で、相当の年齢に達した人のやうで何事も忽にせず、物事を緻密に考へる方であつた。従つて現在の教育を論じても、精神のみでなく、物事の是非得失を科学的に教育するやうにしなければならぬ。精神を重んずる東洋流の教育もさることながら、彼の朱子学派の人々の如く精神のみを論じては、今日真の文明人を教育することは出来ぬ。或る程、精神を主とすれば精神は強固になるであらうが、盲目的な愛国者を造る惧れがある、と云つて居た。又穂積は折にふれて、智識を進めて行けば、精神に及ぶ、精神に及ばぬやうな薄つぺらな智識は本当の智識でない。故に正しき道理は、両者の微妙な綜合関係に生れるので、一方に偏してはならぬ。などの説を立てゝ居たのである。
 私は穂積が学者として世に立つに就て、彼れ此れ云ふべき身柄でないから、たゞ学者として進むに就ては、後を顧みず自由にやれ、私はあゝせよ、斯うせよ、などとは決して云はぬ、と申して居た。其為めでもあるまいけれども、穂積は事務的方面へは更に進まず、一意学理の探究に努めた、何時であつたか文部大臣に、との交渉があつた時などにも、学者として終始する覚悟であるから、就任したくないがと私に相談があつたので、私は其説に賛成したのである。
 - 第57巻 p.43 -ページ画像 
○中略
 穂積は宇和島に生れ、天才を以て最初から学問に身を投じ、貢進生として東京に出で、後海外に学び、帰朝後順次地位も上つた。そして私とは前述の如き関係から、真の親子同様にして、今日まで相許して来たので、快よく家庭の人となつて、自己の学問の為めに尽瘁した外私の家庭へ其の学を提供してくれたやうな次第である。
 元来私自身は官途に望みを持たなかつたが、穂積も官途に赴くより学者として立つと云ひ、私はそれに賛成して居た。丁度山県さんから穂積が枢密顧問官に推薦され、その長所を用ひやうとした時、穂積は暫く考慮の後決心して学問を以て御奉公申上げやうと思ふと、私に相談があつたから、私も同意して置いた。先に申した大学に居た時、文部大臣にと云はれて穂積が断つた時に私が同意したのも、此枢密顧問官に就任すると云ふに対して私が同意したのも、一つに穂積を援ける意味であつて、決して穂積の云ふがまゝに賛成した訳ではなく、文部大臣にはならぬがよいと思ひ、顧問官には実に適任であると信じたからであつた。 ○中略
 穂積と知り合ひ、同族となつてから四十五・六年間のことは中々に尽せないものがあるが、此話はこの程度で止めることとする。(五月八日談話)



〔参考〕(増田明六) 日誌 昭和二年(DK570017k-0004)
第57巻 p.43 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和二年    (増田正純氏所蔵)
四月七日 木 晴                出勤
前十時谷中ニ於ける穂積家墓所ニて、故男爵一年墓前祭執行せられしニ参列、神官二名従事静粛ニ挙行せられ、後御家族及参列員一同玉串を捧げ十一時半終了 ○下略
四月八日 金 晴                 出勤
午後一時払方町穂積邸ニ於て故男爵一年祭執行せらる、祭場ハ同邸の歌子令夫人の室を以て充つ、平田・木村外一名の斎官従事、渋沢子爵外有志者三十名来会参列、終りて茶菓の饗あり
○下略



〔参考〕(増田明六) 日誌 昭和三年(DK570017k-0005)
第57巻 p.43 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和三年    (増田正純氏所蔵)
四月七日 土 晴                 出勤
○上略
午後五時半華族会館ニ於ける故穂積男爵二年祭の晩餐会ニ出席した、本日の会は御同族と極めて近親丈の招待会で、小生・渡辺・白石は渋沢事務所従業の関係上特ニ招かれたのであつた、席上穂積重遠男の御挨拶ニ対し、来賓一同を代表して渋沢子爵の辞があつた
○下略
四月八日 日 晴
○上略
午後一時払方町穂積邸の故穂積男爵二年祭に参列した ○下略