デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.98-101(DK570046k) ページ画像

大正12年10月28日(1923年)

是日栄一、上野寛永寺ニ於テ、従兄尾高惇忠二十三年忌並ニ同長七郎ノ五十六年忌追悼会ヲ営ミ、追懐談ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四二三号・第六二―六三頁 大正一二年一二月 ○尾高惇忠・尾高長七郎両氏追悼会(DK570046k-0001)
第57巻 p.98-99 ページ画像

竜門雑誌  第四二三号・第六二―六三頁 大正一二年一二月
○尾高惇忠・尾高長七郎両氏追悼会 青淵先生は十月廿八日午前十一時より上野寛永寺に於て、青淵先生の従兄尾高惇忠(藍香)氏の二十三年忌並同尾高長七郎(東寧)氏の五十六年忌追悼会を挙行せらる。同寺住職大僧正大照円朗導師衆僧を随へて荘厳なる読経を行ひ、青淵先生以下順次に焼香あり、終つて午餐の後、午後一時より同寺庫裡に於て青淵先生の追懐談あり、午後三時散会せりと。尚ほ当日穂積・尾
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高・芝崎・田島の諸氏より故人の遺墨・写真等二十余点を陳列せられ会衆一同の感を一入深からしめたる由なり。
 因に出席者は
 青淵先生     渋沢篤二君    同令夫人
 穂積男爵     同令夫人     阪谷男爵
 渋沢武之助君   同令夫人     渋沢正雄君
 同令夫人     明石照男君    渋沢秀雄君
 穂積重遠君    渋沢元治君令夫人 渋沢治太郎君
 尾高幸五郎君   尾高文子君    尾高豊作君
 同令夫人     尾高鮮之助君   尾高定四郎君
 永田甚之助君   斎藤精一君    同令夫人
 金井滋直君令夫人
 渋沢義一君    桃井一雄君    同令夫人
 石井健吾君    同令夫人     芝崎確次郎君
 織田国子君    増田明六君    渡辺得男君
 白石喜太郎君
 其他数名の諸君なりき。
   ○尾高惇忠ニツイテハ本資料中左記ノ個所参照。
    第一巻―在郷時代・亡命及ビ仕官時代ノ各章。
    第二十六巻―「竜門社」明治三十四年一月二十九日ノ条。
    第二十七巻―「尾高惇忠伝。」
    第二十八巻―「尾高惇忠頌徳碑。」
    第二十九巻―「親族」明治三十四年一月二日ノ条。
   ○尾高長七郎ニツイテハ
    第一巻―文久三年十月二十九日ノ条。
    第二巻―明治元年十一月十八日条。


藍香翁 塚原蓼洲著 第二三九―二四二頁 明治四二年三月刊(DK570046k-0002)
第57巻 p.99-100 ページ画像

藍香翁 塚原蓼洲著  第二三九―二四二頁 明治四二年三月刊
    (三十三)自適
○上略 左の談話は、此間の事情を男爵 ○栄一の予に語げられたるものなりとす。
 其中に翁も漸次年を老られるし、寒い土地仙台地方で繁劇な勤務も随分大義な事で有らうと、私も内実気の毒な次第に思つて居ると。……二十五年の六月で有つたと思ふ。翁は私に対つて。自分も既や老朽の境に足を踏込んだから、此の劇職を罷めて、余生を安らかに楽みたい、と云ふ談。私も右の考案が胸裏に無いでも無かつたから。銀行に取ては残念だが、事情已むを得ぬ次第であるから。と之れに同意し。翁は遂に銀行を退められて、其後は悠々閑日月を送られた。……併し閑日月とは申す条、其れは唯常務と云ふが無い計りで、他の隠居爺様のやうに、昼眠をして居るでも無れば、遊び行かるゝでも無い。平生学問を好まれる所から、切りに書物を調べる。或は字を書く。其間には養蚕の事に、或は植林の事に、製藍の事に、人に会へば必らず種々なる講話を為れる。或は其等の世話を為る。故に名こそは閑散で有るが、躯体は中々忙しい。其の忙しいのを忙しいと為ず、結句其をば娯楽にして愉快に暮すと云ふが翁の長所で。何
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様な困難な事件に撞着れても、何時見ても怡ばし気に、楽しさうな顔をして、綽々として余裕ありと云ふ有様を見して在られる。此が抑も天性だか、其れとも修養だか。恐くは天性の美に、修養の功を兼ねられたので有うと思はれる。が、其処が即ち翁の翁として尊とい所。他人に真似の出来ない所である。
 で又た此頃は、読書……と云ふ中にも、唯だ書を読むで其の理義を解するに止まらずして、其の文章の根柢たる漢文字に就て、形象、意義の拠るところを深く講究された。其論旨は説文の序にある、依類象形故謂之文、其後形声相益、即謂之字。とあるが本拠でもあらう。文と云ふは、其の意義を形容したもので、字と云ふは文の意義を組合したものである、と言うて居られた。……此を手近く例すれば、象形の「日」「月」の文を組合すれば、会意の「明」と云ふ字と為ると言つた様な理。二人を「仁」とし。子、老を負ふを「孝」とす。……恁んな講釈は六書精蘊や康凞字典などにも詳記して有りますが。然う云ふ事から種々研鑽攻究されて、遂に「泰東格物学」といふ一書を、著述致された。其中には素人が聞ても大層面白い説がある。例へば、昔は貨幣を貝殻で造つた物だから、支那の文字に「宝」とか「価」とか云ふ様な、貨財に属した文字には、必らず。「貝」が附く。即ち「財」と云ふ字は、貝に才智の才を添て有る又た「貧」の字は、貝を分つから貧しい。「賤」といふ字は貝の隣に戈が二つ書てある。是れは二人が戈を取て其貝を争ふ貌であるから賤しい。「宝」と云ふ字は、上に家が有つて其下に玉だの貝だのと云ふ物が集つて在るから、即ち宝である……と。此等は古来其説も有つたかの様にも覚えるが。「風」と云ふ字は「凡」の中に「虫」が書てある。即ち凡てが虫である。近来「バクテリア」と云ふ物があるが、恰ど其れに相応するものに為る。抔と言はれた。中には些か牽強に過ぎた如きも有る様だが、又た頗る敬服すべき説も有つて此等の講釈が毎日の様でした……。
○下略


藍香翁 塚原蓼洲著 第二七一―二七五頁 明治四二年三月刊(DK570046k-0003)
第57巻 p.100-101 ページ画像

藍香翁 塚原蓼洲著  第二七一―二七五頁 明治四二年三月刊
    (三十五) 永眠
○上略
此に擱筆の際に臨みて、男爵 ○栄一は予が為に、更に翁の生涯を通じたる左の数項を語げられぬ。曰く、
 私は最初に翁が父母に孝に兄弟に友愛の厚かつた事を申して置きました。究竟其等から来つた性行でも有うと思ふ、翁は全体に物に抵抗すると云ふ事が極嫌ひで有つた。謂ゆる世の中を愉快に送ると云ふことの自然に備つた人で。随つて人の長所を採る事が所好、短所を挙るを好まれ無かつた。で有るから人の善い事に目を着けるは甚だ速い。総ての点に長所だけを見ると云ふ流義で有つた。此が右の世の中を愉快に渡ると云ふ原因の一つで有つたと私は信じて居る。其故からして、翁は誰に会つても話が出来る。又た其話を為るを好まれる。私等は平常、随分多弁を以て自ら任じて居るものでは有る
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が、其の多弁も実は範囲が限られて居て、詰らぬ人物には余り談話を試るを好まぬが。翁は然様で無い。子守でも下婢でも、愚鈍なる人でも、怜悧なる人でも、凡そ人間の形貌を具へて居る者は尽く吾友で有る。其点に於ては余程変つた性質を有たれて。夫の其仁如天と称つた古昔の聖帝に比するは些と過当でも有うが、兎に角、陽光の、美醜、善悪、汚潔を隔てず平等に照すといふ傾向は有つた。
 其れから、人には兎角意地と云ふものが有る。例へば気に入らぬ事に為ると問掛けられても返辞を為ぬ。或は事柄が癪に障ると、甘くても喰ぬとか、温くとも水を埋めさすとか云ふ様な事が有る。処が翁は些しも其れが無い。仮令自己を憎み太甚しい虐待を仕向けられても、其に対して悪意を介むの、抵抗を試みる抔と云ふ事は決して無い。然う云ふ際には先方の憎悪や虐待やは見ざるが如く、聞かざるが如く、平静の気と温和の態度とを以て、弁ずべきは之を弁じ、其の弁ずべからざるものは棄てゝ顧みられぬ。其れは極めて淡泊なものである。……然らば其の憎悪や虐待の痛苦の味は知て居られぬかと云ふに。素より翁の事で有る。十分知り過る程に熟知て居る。其の熟知て居られるにも拘らず、猶且つ平然として敵の仕向に頓着せぬ、余り感覚せぬと云ふのは修養の功も有らうが、其の多くは性質の美と言ねば為らぬ。
 其上に又た翁は余り貨殖と云ふ事は好まれ無つた。世の中の勤労は大いに好んで種々な事業に尽力せられたけれども、自個の財産を殖すと云ふ事は殆んど其の念頭にも無つた様で極めて淡い。故に長年官途にも居り、銀行にも居られて些しく其辺に意を注ふる人ならば相応の財産も出来ねば協らぬのに一向然う云ふ事も無い。然らばと云ふて、自ら贅沢を為るとか骨董を翫弄るとか、或は飲食衣服に金を費うとか、其様な道楽でも有たかと云ふに。決して否らず。総て奢侈がましい事は極嫌ひな、費す所の極寡い、いつも清貧を楽むと云ふ風の生涯を愉快に送られた御人です………。
○下略