デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.114-118(DK570052k) ページ画像

昭和5年10月12日(1930年)

是ヨリ先栄一、父市郎右衛門手写ノ習字手本・俳句草稿等ヲ集メテ石版印刷ニ付シ、「晩香遺薫」ト題シテ刊行ス。

是日、飛鳥山邸ニ於テ、ソノ贈与式ヲ挙行シ、同族各家及ビ近親ノ児孫ニ頒ツ。


■資料

集会日時通知表 昭和五年(DK570052k-0001)
第57巻 p.115 ページ画像

集会日時通知表  昭和五年        (渋沢子爵家所蔵)
十月十二日 日 午後二時半 晩香遺薫贈与式(飛鳥山邸)


竜門雑誌 第五〇六号・第六一頁 昭和五年一一月 青淵先生動静大要(DK570052k-0002)
第57巻 p.115 ページ画像

竜門雑誌  第五〇六号・第六一頁 昭和五年一一月
    青淵先生動静大要
      十月中
十二日 晩香遺薫贈与式(曖依村荘)


晩香遺薫 渋沢栄一編 上巻・第三―六丁 昭和五年刊(DK570052k-0003)
第57巻 p.115 ページ画像

晩香遺薫 渋沢栄一編  上巻・第三―六丁 昭和五年刊
(石版)

書は以て名姓を記するに足るのみ、学ぶに足らずとは楚の項羽の豪語なるも、爾後彼土の文運隆興するに随ひ、書道も亦発展し、漢魏より明清に至るまで幾多の名家輩出して各其長所を発揮し、以て大に文化を裨補したり、されば我邦にても其影響を受け、台閣山林を通じて筆札の技に勉焉せしかば、古来能書を以て称せらるゝ人士の多き殆ど枚挙するに遑あらず、然るに幕府の末造以来泰西の文物移入して、苟も学に就くものは其流風を追ふに忙しく、筆札の如きは措いて問はず、唯塗鴉を事とし恬然として恥ぢざるのみならず、甚しきは筆札に巧なるものを目して世事に迂なりとし、其拙なるものは即ち日新の学事に忠なる所以なりと曲解するに至れるは、実に慨歎に堪へざるなり、余が先考晩香翁は同族渋沢宗助君の第三子にして、余が王父只右衛門君の嗣となり、市郎右衛門と改称し一意家業の農商に励精して、以て家道を中興せらたり、翁は六十三年の生涯を畎畝の裏に終へられたれども、資性高潔にして意志堅実、少時より学を好みて略経史に通じ、能く大義正道を理解せられ、殊に風雅の嗜浅からず、俳諧を能くせられしが、其筆札に巧なるは夫の顔骨柳筋既に専家の域に入れりと称せらるゝ長兄誠室君の筆力にも譲らざるものあり、以て其人格才識を知るべきなり、惟ふに古人は書は心画なり、心正しければ筆正しといひて筆蹟を以て人格の反映となせり、余は頃日郷里の生家なる渋沢元治・治太郎兄弟より其秘襲せる先考の遺墨を借覧して、深く此に感ずる所あり、且当年の慈育と訓誨とを追懐して之を徒爾に看過すること能はず、乃ち余等の少時書して与へられたる手本及俳句集の中より数種を選出して、之を石版に附して一書となし、晩香遺薫と題して同族各家及近親の児孫に頒ち、各一本を蔵せしむることゝせり、蓋し余は敢て児孫に向つて先考の筆蹟を誇らむとするにあらず、唯此本を受くるものをして常に之を愛読し、因りて以て先考の高風を偲び大に感発する所あらしめんことを庶幾ふのみ
  昭和五年六月        九十一翁 渋沢栄一識
                         


晩香遺薫 渋沢栄一編 上巻・第七―八丁 昭和五年刊(DK570052k-0004)
第57巻 p.115-116 ページ画像

晩香遺薫 渋沢栄一編  上巻・第七―八丁 昭和五年刊
(活版)
    凡例
 - 第57巻 p.116 -ページ画像 
一余の生家即ち渋沢の中の家は、祝融の災に罹ること前後両度に及び器具書籍の類概ね烏有に帰したれば、先考の遺墨も、災を免れて今に存せるは僅に十の一二に過ぎず、本書は其中より最も趣昧饒きもの数種を選びて編せるなり。
一本書収むる所、詩及び俳句の外は、孰れも余等の少時習字の手本として書して与へられたるものにして、固より人に示さん為のものにあらざること、巻尾に渋沢英治郎・渋沢なか女・渋沢貞女などと記されたるを以て知るべし。
一往来類は字形大にして紙数多く、全巻を悉さんとせば頗る浩瀚に及ぶを以て、今は各其一半を収めて他は割愛せり。
一先考は詩をも能くせられたれども所作多からず、且つ稿を留むるもの僅に十首を出でざれば、此には其中により三首を採るに止めたり
一俳諧には若年の頃深く力を用ゐ、当時の巨匠月院社何丸にも批点を乞はれ、秀詠少からず、今其批点ある手稿の独吟春之部一冊を収めたり。尚此外、春宵探題、春雨百句帖、旅中雑記録等の中に見ゆるもの、及び家には稿を留めざるも、当時刊行の俳書中に採録せられたるものも亦少からず。此等は伊藤松宇氏に嘱して蒐集浄写することを得たれば、併せて末に附く。
一俳諧につきて特に注意すべきは、竹の落葉に出でたる二十三四歳の時の三句と、旅中雑記録に記されたる晩年の五六句との外は、悉く文政八九年より十二三年頃即ち十七八歳より二十一二歳に至るまでの詠なる事なり。余が若年膝下に侍せし頃は、朝暮教訓談の外に或は時事を談じ、又歴史上の人物評など盛んに論談せられしも、俳諧につきては多く語られざりけり。然るに或時、人の需め辞み難くて巻の点者となり、かゝる文ものしたりとて示されたりける俳文により、其文藻の豊かなるを感歎せしことありき。其中の一二句は今も尚記憶し居れども、全文を逸したるは遺憾の至りなり。爾来七十年に近き歳月を経て、偶然手書の俳句集を発見し、且つ伊藤氏の調査により、文政年間江戸に於て刊行の俳書中に出でたる句数の多きを知り、今にして是ある哉の感あり。因りて思ふに、生家に在せし頃は、さばかり力を致されたる俳諧の道なれども、出でゝ余が家の嗣となり、家道の中興を以て己れが任務とせらるゝに及び、深く決する所ありて、殊更に風流韻事に遠ざかられしものなるべく、此一事にも其堅忍謹直の性格を窺ひ知られて、転た感慨に堪へざるなり。
   ○右ノ凡例ハ栄一ノ執筆セルモノナリ。


晩香遺薫 渋沢栄一編 下巻・第三一―三四丁 昭和五年刊(DK570052k-0005)
第57巻 p.116-118 ページ画像

晩香遺薫 渋沢栄一編  下巻・第三一―三四丁 昭和五年刊
(石版)
 晩香院様が俳句を御作りに成つたといふ事は父洗耳の物語りで疾く存じて居つたのでありますが、此度青淵先生が晩香院様の御遺墨を御印行になるに就き、俳句にかゝる御詠草ハ不肖私が一応拝見致すやうにとの青淵先生より御下命があり、随而御壮年時代に当時の巨匠たる七部大鏡や芭蕉句解参考などの大著述をなした月院社何丸の批点にかかる懐紙や独吟の御詠草を御遺しになりたるものを拝見致すと、余程
 - 第57巻 p.117 -ページ画像 
何丸には私淑なされた跡が歴々と窺ハれるので、それから何丸関係の文献を調べて見ますると、驚くべし文政八年出版の男さうし第四編に武の血洗島烏雄と云ふ俳号の所に五句程載つて居る、此文政八年は晩香院様が僅かに御年十七才の時である、それから同書の第五編にも第七編にも亦月院社の月次集にも沢山収載されてある、又我が俳道で珍本の中に数へらるゝ竹の落葉にも三句程載て居る、其書の出版は天保三年であつて御年廿四才の時に相当するのである。其後の御作は私の手元に有る限りの文献には見えませぬが、広く探究致したならば必ずや沢山にあるであらうと思はれます。傍ら稽へまするに、晩香院様の俳句をなされた御時代は十六七才の頃より廿四五才迄の間で、随て同村内の雅友の方々と共に盛んに御詠みになつた御詠草や、懐紙の年代が不詳であるが、恐らくハ此時代ではないかと窺はるゝのである。然して晩香院様の御風調は所謂芭蕉流の正風と申すべきもので、爰に私が謹写致しました御詠ハ主に月院社何丸の撰にかゝるものでありますが、今日の俳人が評しましたならば主観句であるとか、概念的であるとかいふのでありませうが、そは時代というものを深く考察しなければならぬ事と存じます、若し其れ晩香院様が晩年迄斯道に御いそしミになつたならば、烏雄先生として後代まで其御芳名が残つて居りませうと存じますので、我が俳道にとりてハ甚だ遺憾なる事と存じます。
 晩香院様は青淵先生が仏蘭西に御留学後私の家には御商業で屡々御出でになり、父洗耳と風雅なお話しや青淵先生が仏蘭西より御遣しの御書面などの到来しました御物語りを私は幼な心にも朧けに記憶ニ残つて居りますし、又其御風丯をも能く存じ上げて居るので、六十年前に御逝去になりし晩香院様の俳句の御遺稿を今日私か拝見致すといふ事ハ誠に不思議な御縁とも申すべき事と、只管御なつかしくもあり感慨無量に堪へませぬので、玆に私の所感を述べさせて頂きました。
   昭和五年五月下浣         伊藤松宇識
   ○本書ノ概要ハ左ノ通リナリ。
    装釘 大サ 和綴 美濃紙判
    巻数 冊数 二巻二冊
    枚数 一一六枚(上巻七三枚、下巻四三枚)
    題簽 晩香遺薫
    帙入 題簽同ジ
    凡例二枚活版印刷トナセル外ハ、栄一ノ父市郎右衛門ノ筆蹟ソノ他総テ石版印刷トス。
    内容
     上巻
      題名 一枚(栄一書)
      序  四枚(栄一撰書)
      凡例 二枚(活版)
      司馬温公家訓及朱子家訓 一〇枚
       末尾ニ弘化二乙巳夏五月晩香舎烏雄謹書
       裏ニ渋沢英治郎(栄一ノ幼名)トアリ
      教諭書(神君御教書及賢君御教諭九箇条)六枚
       末尾ニ天保十二丑年十月初五日写 裏ニ渋沢なか女(栄一姉)トアリ
      商売往来 其一 一七枚
 - 第57巻 p.118 -ページ画像 
       末尾ニ弘化四年丁未五月十八日写 此主渋沢英二郎トアリ
      女消息往来 其一 一五枚
       裏ニ渋沢南可女(栄一姉)トアリ
      大和往来 其ノ一 一五枚
       裏ニ渋沢貞女(栄一妹)トアリ
      漢詩三題 一枚
      白紙 一枚
     下巻
      俳句集 春之部 二九枚
       表紙ニ烏雄拝トアリ、巻末ニ月院社ノ三句ヲ添フ
      識語 四枚
       奥ニ昭和五年五月下浣 伊藤松宇識トアリ
      男さうし第二編(文政八年刊)及第五編(文政十年刊)抜萃一枚、月院社何丸月次集(文政十一年刊抜萃一枚、月院社何丸月次集(文政十二年刊)男さうし第七編(天保元年刊)竹の落葉(天保三年刊)抜萃一枚、春雨百句帖巻 月院社何丸選 抜萃一枚、春宵探題の巻 五縄庵選 抜萃三枚、明治初年頃遺詠 一枚
      白紙 一枚