デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
4節 趣味
1款 和歌
■綱文

第57巻 p.173-175(DK570075k) ページ画像

明治42年9月―10月(1909年)

栄一、渡米実業団一行ヲ率イテアメリカ合衆国各地ヲ旅行シ、所々ニ於テ和歌ヲ詠ズ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK570075k-0001)
第57巻 p.173 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
九月十九日 晴 冷
午前六時汽車ミネヤホリスニ着ス ○中略 畢テ食卓ヲ共ニシテ午飧ス、余ハタフト氏ノ隣ニ席ヲ占ム。今日ノ会長ハミネヤホリスノ人ニテネルソン氏ト云フ ○下略
   ○中略。
九月二十一日 雷雨 冷
午前五時過汽車セントホールニ着ス ○中略 正午オーヂトリヨムト称スル公会堂ニ抵リ、市内商業者ノ催ニ係ル大宴会ニ出席ス。有名ノセームス・ヒル氏其他ノ名士モ来会ス ○下略


青淵先生詩文雑纂(DK570075k-0002)
第57巻 p.173-174 ページ画像

青淵先生詩文雑纂          (渋沢子爵家所蔵)
    セントホールにてゼームス・ヒル氏の来訪を喜て戯に
 結ひあふ国のちきりの小田巻をひるくることのうれしかりける
    ミネヤホリスにネルソン氏と分袂してセントホールニ
    ヒル氏に会したれは
 きのふまてたゝねるそんときくからにひるくるとしも思はさりけり
   ○「青淵先生詩文雑纂」ハ栄一ノ色紙・草稿類ヲ所持者ヨリ借覧筆写セル写
 - 第57巻 p.174 -ページ画像 
本ニシテ、右和歌二首ハ穂積男爵家所蔵ノ「詩歌草稿」中ノモノナリ。
   ○本資料第三十二巻所収「渡米実業団」明治四十二年九月十九日及ビ同九月二十一日ノ条参照。


竜門雑誌 第二七〇号・第五〇頁 明治四三年一一月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員 増田明六(DK570075k-0003)
第57巻 p.174 ページ画像

竜門雑誌  第二七〇号・第五〇頁 明治四三年一一月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
○上略
十月二十日 ○明治四二年  水曜日 (晴)
青淵先生には午前中信書を認められ、正午エクイテープル生命保険会社々長バウル・モルトン氏の催にかかる法律家倶楽部に於ける午餐会に出席せられ、畢りて中野・巌谷氏等と共に、最初の駐日公使たりしタウンセント・ハリス氏の墓処に詣て、午後六時帰宿せられたり。
此日先生詩歌あり
    弔故巴里斯公使墓
   ○漢詩略ス。
    同
 今もなほ君が心をおくつきに夕栄あかく匂ふ紅葉
○下略
   ○本資料第三十二巻所収「渡米実業団」明治四十二年十月十二日ノ条参照。


太陽 第一六巻第一号 明治四三年一月 ニユーポートの雨の一日(ペリー提督の墓を訪ふの記) 巌谷小波(DK570075k-0004)
第57巻 p.174-175 ページ画像

太陽  第一六巻第一号 明治四三年一月
    ニユーポートの雨の一日
      (ペリー提督の墓を訪ふの記)   巌谷小波
千九百〇九年十月廿四日は、恰も安息日であつた。即ち永へに天国に安息しつゝある、我が日東洲開国の恩人たる提督ペリーの墓を弔ふべく、否、寧ろ其霊に謝恩すべく、我が渡米実業団の団長、即ち所謂る平和軍の総司令官、渋沢栄一君は、ボストン滞在の一日を割いて、特に之に赴いたのである。 ○中略 提督の墓は、此所より汽車路二時間を隔てた大西洋岸の海軍要港ニユーポートと云ふ所にあるが、蓋し地は提督の誕生の地にして、而も往生の地なのである。
○中略
    ○
墓所と云ふのは、即ち合同墓地であるが、只見る、その中央に径三丈計りを円く囲つて、低い常磐木の生垣を繞らし、一面に芝を敷いて、所々に花壇を設け、入口に古い柏の木を二本、恰も門の柱の如く植ゑた中に、さして立派ならぬ白大理の石棺の据ゑてあるのが、即ち我等の目ざすそれで、左の側には夫人の名を刻み、右の方に提督の名を彫りつけてあるが、余所の墓石に見る様な、特別の辞句は見ゑず、只その名の上に牡鹿の頭を現はした、楯形の紋を刻りつけてあるのが、一寸目を惹く計りである。
団長はやがて帽を取つて、尚も降りしきる秋雨の下に、携へて来た大花輪を捧げて、石棺に向つて礼拝をする。蓋し団長は、提督が渡米の当時、已に青年の身を以て、国事に心を砕いて居たのであるから、爾
 - 第57巻 p.175 -ページ画像 
来五十余年の今日、平和の大使たる重任を負うて、此所に此墓を訪ふ胸には、正に万感の溢るものがあらう。さればこそ取りあへず
  △おくつきに手向くる花の一束に
         涙の雨も添へてけるかな     栄一
と出来た。
 次いで中野君 ○武営、進んで慇懃に首を垂れ、
  △碑に目鏡ぬぐふや初時雨           随郷
を手向ける。引つゞき各々礼拝する中に、拙者も一句無かる可らず。
  △動けとや石打つ秋の雨しとゞ         小波
但し此時此際の涙は、決して哀悼の涙ではあるまい。むしろ感慨の涙である。さればこそ地下の提督も、此日比踵の参詣を受けて、必ず莞爾たるものがあつたらう。それかあらぬか棺辺の花輪は雨にますます色を増して、一脈の芳香、さながら故人の意を伝ふるかと聞えた。
○下略


竜門雑誌 第二七〇号・第五四頁 明治四三年一一月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員 増田明六(DK570075k-0005)
第57巻 p.175 ページ画像

竜門雑誌  第二七〇号・第五四頁 明治四三年一一月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
○上略
十月廿四日 ○明治四二年  日曜日 (雨)
此日青淵先生には中野・頭本・巌谷・ローマンの諸氏等と共に午前八時出発、汽車にてロード・アイランド州ニユーポート市に在るペリー提督の墳墓に詣づ、同十時同地に着し、市長ボイル氏・助役ウイルラー氏等の出迎を受け直に半哩程隔てたる共同墓地に到る、提督の墓は其中央なる二株の老柏の下にあり、青淵先生はボストンより携へたる花環を墓前に捧げ、礼拝の後墓前に紀念の撮影を為す、先生詩歌あり
    ニユーポートにペリー提督の墳墓を
    訪ひけるとき雨降りたれば
  たむくるはこゝろの花のひとたはに
        なみたの雨もそへてけるか那
○下略
   ○本資料第三十二巻所収「渡米実業団」明治四十二年十月二十二日ノ条参照。