デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
4節 趣味
1款 和歌
■綱文

第57巻 p.175-177(DK570076k) ページ画像

明治43年8月(1910年)

是月栄一、阪谷朗廬夫人恭子ノ病ヲ訪ヒ、飛鳥山邸庭前ノ花ニ添ヘテ和歌二首ヲ贈ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570076k-0001)
第57巻 p.175 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
八月十七日 曇 冷
○上略 午後一時小石川原町阪谷ヲ訪ヒ、老母ノ病ヲ慰問ス ○下略


余か母 阪谷芳郎著 第二九―三二頁 大正一四年四月刊(DK570076k-0002)
第57巻 p.175-177 ページ画像

余か母 阪谷芳郎著  第二九―三二頁 大正一四年四月刊
    余か母前篇  自天保三年至明治四十三年七十九年間
○上略
 - 第57巻 p.176 -ページ画像 
余が母の病中 ○明治四三年東京及ひ遠国の親類朋友より日々見舞の書状電報到来し、又見舞客人続々来訪あり、或は種々品物の寄贈ありける其中に、渋沢男爵は女子大学の事業拡張の為め八月初旬より同大学関係の諸氏と共に越後地方遊説中なりしか、同月十日頃より大雨にて諸方出水し汽車不通となり、信州より甲府に迂廻し十六日の夜多少の困難を侵して帰京あり、母の病気を頗る案せられ、翌十七日自働車を駆りて小石川原町の宅に見舞に参られ、病床に臨みて母と話あり、男爵は其昔篤太夫と申し二十五六歳の時より母と旧知なり、母か七十九の老年になりてもはや医薬の心配は無用なりと云ひしを打消し、死を恐れさるの御覚悟はさることなから、生を求めさるも決して人道にはあらすなと物語られ、母も首肯かれける、八月二十五日母の病気容態宜しからさる由を聞き及はれ、男爵は其愛孫法学士穂積重遠氏を呼ひ寄せ、植木三鉢を持たせ旧知篤太夫よりの見舞なりとて贈られけるに、疲労し眠れる母は喜ひて眼を開き、暫く植木を眺めて一々其名を問ひ「早く善くなりまして植木棚に陳列して楽み可申と男爵に答へられよ」と語り、更に重遠氏に向て「男爵に代りて一首歌を読まれよ」とありけれは、重遠氏は夫は迷惑に存候、歌は法律家には似合はしからすなと申されなから、即席にて左の三首を巻紙に書きて母に示されける
    渋沢大人の阪谷刀自に花を贈らるゝ心を代りて
  此花の開くか如く我友の
        再ひ春にあはんとそ祈る
  結ひしは昔なりける友垣に
        今も変らす花はさくなり
    渋沢大人の御使として阪谷刀自に花を奉りつゝ
  もたらせる花の色にもさとりませ
        贈れる人の赤き心を
母は取上けて再三読み下し、末頼もしき読み人なりと喜ひ楽みける、母は返歌をと何か考へられたる様子なりしか、心力を労してはと看護婦の止めてけれは、余は母に代りて
  かんはしき君か恵を力にて
        病のうさも忘られにける
  まこゝろを花にうつして我庵に
        香りゆかしき君かたまもの
と口に任せて読みけるに、母も興せられける、翌二十六日は男爵微恙にて王子の別邸に引籠り居られけるか、庭前に咲きたる花を剪り取りて四男正雄氏を使として母に贈られて、重ねて病苦を慰問せられける此時母は男爵嫡子篤二氏より故検校山登万和の吟声を入れたる蓄音器を見舞に貸与せられたるを聴きなから花を眺め、恰も自身に琴を弾するか如く指先きを動かし、名残りに無量の楽をしたりと喜ひ語られけるか、傍に居たる者覚えす暗涙を催しける、八月二十七日男爵は三男武之助氏を使として見舞を申され、昨日の花に添ふへき和歌なりとて二首を贈らる
    阪谷刀自の病をなくさむるとて草花一もと折けるときよめる
  君を思ふ赤き心を咲花の
 - 第57巻 p.177 -ページ画像 
        枝にみとりの色もそへつゝ
  立そふる木々のみとりを力にて
      若は色ませ庭の老松
母は深く喜ひて返歌をと考へ居らるゝ様子なりけれは、看護婦之を止めけるに、未た半出来なれともと申されなから、傍に居たる山成遠太郎氏に書き取らせられける
  花もよしことはの花もともによし
        何れまさるとくらへてそみる
之を読み上けけるに、不出来にて恥入る故ゑ作り直し度由を申されけるか、兎に角其儘に返歌として男爵に送りける ○下略


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570076k-0003)
第57巻 p.177 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年      (渋沢子爵家所蔵)
九月二十四日 晴 冷
○上略 二時過阪谷老母ノ病ヲ訪ヒ、四時帰宅ス ○下略