デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

2章 栄誉
4節 参内・伺候
■綱文

第57巻 p.256-264(DK570133k) ページ画像

昭和4年12月19日(1929年)

是日栄一、天皇陛下ヨリ単独御陪食ノ栄ニ浴ス。


■資料

宮中賜餐御召状(DK570133k-0001)
第57巻 p.256 ページ画像

宮中賜餐御召状            (渋沢子爵家所蔵)

図表を画像で表示宮中賜餐御召状

        来十二日午餐ニ召サセラレ候条        午前十一時五十分参内可有之        此段申進候也 (御紋章)[img図]〓昭和四年十二月七日                    侍従長 鈴木貫太郎       子爵 渋沢栄一殿                        服装通常服 



 - 第57巻 p.257 -ページ画像 


東京毎夕新聞 昭和四年一二月一一日 渋沢老子に御沙汰 近く単独御陪食(DK570133k-0002)
第57巻 p.257 ページ画像

東京毎夕新聞  昭和四年一二月一一日
    渋沢老子に御沙汰
      近く単独御陪食
天皇陛下には十二日午後六時より特に渋沢栄一子爵を召され、財界方面の話を聴し召されつゝ御晩餐の御陪食を仰付けらるゝ旨十日仰出あつた、かく一人を御陪食に召さるゝ事は前例なき事であるが、渋沢子は目下風邪にて十二日には参内出来ぬ有様にあるので、全快後何れ年内には参内する事となつた


集会日時通知表 昭和四年(DK570133k-0003)
第57巻 p.257 ページ画像

集会日時通知表  昭和四年        (渋沢子爵家所蔵)
十二月十九日 木 午前十一、五〇時 参内


竜門雑誌 第四九六号・第八七頁 昭和五年一月 青淵先生動静大要(DK570133k-0004)
第57巻 p.257 ページ画像

竜門雑誌  第四九六号・第八七頁 昭和五年一月
    青淵先生動静大要
      十二月 ○昭和四年中
十九日 天皇陛下の御召により参内午餐を賜はる


中外商業新報 第一五七五七号 昭和四年一二月二〇日 渋沢子爵 光栄の御陪食 財界の事情その他の御下問に逐一奉答す(DK570133k-0005)
第57巻 p.257 ページ画像

中外商業新報  第一五七五七号 昭和四年十二月二〇日
  渋沢子爵
    光栄の御陪食
      財界の事情その他の
        御下問に逐一奉答す
天皇陛下には、社会各種事業に老躯をひつさげ貢献しつゝある渋沢栄一子の功労を嘉せられ、去る十二日御陪食の
 御沙汰 あり、当時老子爵は風邪静養中であつたので御遠慮申上げたところ、重ねて全快と同時に参内すべき旨の有難き御沙汰があつたので、破格の思召に感激した同子は、既報の如く十九日午前十一時廿分フロツクコート着用、市外滝野川の自邸を出で、途中丸の内渋沢事務所に立寄り、同五十分宮城に参内した、天皇陛下は正午
 御内儀 に老子爵を親しく召され、御寛ろぎの食卓を共にさせられ御陪食を仰付けられ、御食後は別室にて茶菓を賜ひつゝ、老子爵に対し最近の財界方面の事情並に社会各般の関係事業の状態につき種々御下問あり、子爵は恐懼しなから奉答し、午後零時五十分御前を退下した、この日一木宮相・牧野内府・鈴木侍従長等側近者一同に対しても御陪食を差許された


都新聞 第一五〇〇七号 昭和四年一二月二〇日 雑談せよ との仰せに 渋沢翁の感激 長生きの幸福を言上に陛下御笑ひ遊ばす(DK570133k-0006)
第57巻 p.257-258 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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東京市養育院月報 第三四一号・第一―二頁 昭和四年一二月 破格の殊遇を賜はりて 光栄に輝やく我渋沢院長(DK570133k-0007)
第57巻 p.258-259 ページ画像

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竜門雑誌 第四九六号・第一―五頁 昭和五年一月 聖慮厚し 御賜餐に召されて 青淵先生 謹話(DK570133k-0008)
第57巻 p.259-262 ページ画像

竜門雑誌  第四九六号・第一―五頁 昭和五年一月
 - 第57巻 p.260 -ページ画像 
    聖慮厚し
      ――御賜餐に召されて――
                    青淵先生 謹話
 今日は 聖上陛下から、真に難有い思召に預り、私として感佩に堪へない次第であります。陛下が私をお招き下さいました御趣意は、特に纏つた題目に就て御下問になると云ふのではなく、申さば唯会つて老人である私を慰労し、その身辺の話をお聴きになり度いと云ふ程度の御模様に拝しました。御賜餐のテーブルは丸いので、席に連つたのは 陛下の外に七人で、その席順は特に 陛下の右に私、私の次に関屋宮内次官、次に鈴木侍従長、その隣に奈良侍従武官長、 陛下の左に牧野内大臣、其左に一木宮内大臣、それから今一人侍従の人が居られました。陛下が御出御になつて、一同が食卓に着くと、一木さんだつたか、牧野さんだつたか、先づ私が民部公子のお伴をして欧羅巴へ行つたときの事に就いて、『お前が最初欧羅巴へ行つたのは、大変古い事だつたが、一体どんな服装をして行つたか、可笑しい事にも随分出会つたらう』と問はれたので、それに就て一々御返答申し、特にナポレオン三世から受けた私の印象に就いてお話申上げました。『千八百六十七年に、巴里で開かれた万国博覧会の開会式場に臨んで、ナポレオン三世がやつた演説は行き届いたものであつた。然し一方から見ると誠に尊大で、成程と感じさせられる中に、如何にも世界を一呑にすると云つたやうな不遜な点が窺はれました。ナポレオン三世が申すには「人の智識は眼から入る――所謂百聞一見に如かずで――眼によつて智識が開かれる。が然し眼から入るについては、その入れる方法がある。此度開いた博覧会は此方面に意を用ひた。譬へば緻密なものの次には尨大なもの、新らしいものの次へ古いものを置くと云つた具合に相関聯せしめた。だからかくの如き設備を見て感興を起さないものは、到底役に立つ仕事を為し得ざるものである。なほ幸ひ出品陳列に就ては、各国よりの援助により、人目を驚かすに足る程の設備を為し得た事は、私の喜びに堪えぬ所である」と、如何にもえらい事を云ふ、なるほど帝位に即くだけあつて賢才であるなと、その時は深い印象を受けたのでありました。ところが此人が数年後には捕はれの身となつた事を聞いて、彼れ是れ思ひ合せ、無限の感慨を抱いたのであります。それから白耳義でレオポルド王が、小さい民部公子に製鉄の話をされました、「鉄を使ふ国は強い、鉄を産出する国は富む、日本も先づ鉄を使つて強くなることが必要である、鉄を使ふ為めには外国から買はねばならぬ、買ふなら白耳義の鉄を買ふやうに希望する」と、誠にうまい事を云はれました。然し孔孟の教を学び、武士は食はねど高楊子の空気につゝまれて居た私には、此王様は変な事を云はれる、王様ともあらう人がかゝる商売めいたこんな事を云はれて差支ないものかと疑ふた』、大体このやうなお話を申上げましたら、陛下にも多少の御興味をお持ちのやうに拝されました。それから今度は、私が青年時代から今日迄の経過に就て次のやうな事をお聴きに達しました。『全体私は若い時分には乱暴と見えるやうな思案をしました。恰度黒船が初めて日本に来た頃の事で、如何にも徳川幕府の仕打が物足りな
 - 第57巻 p.261 -ページ画像 
い、こんな事では国家を無力に陥れる、何とかしなくてはならんと決心しました』と前提して、その時私がやつた事をこうでした、あゝでしたと、多少筋道立てゝお話申した。それから『仏蘭西へ行つた事に就て、郷里に居つた頃の攘夷の主義と一応は相反するやうに思はれる実は初めには外国嫌ひであつたが、然し京都で慶喜公のもとに居つて種々な事にぶつつかつて見て、私の考が間違つて居つた事に気が附いた。成程道徳倫理に就いては西洋諸国に劣る所はないにしても、科学的方面はこれはどうしても西洋に学ばねばならないと、敬服してゐた際であつたから、喜んで仏蘭西行きをお引受け致しました。先方へ行つてから、種々目論見を立てて、愈々研究にかゝらうと思つて居つた時、折悪しく慶喜公の大政奉還となり民部公子の水戸藩相続となつて日本に帰らなくてはならない事になりました。私は大政奉還の事を遠い欧羅巴の地で聞いて、事情はわかりませんでしたが、兎に角帰つて参りました、そして帰国の上は、今更百姓にもなれぬので、思ひ返へして、暫くでも欧羅巴へ行つてゐた間に学び得た事で、我国に欠けてゐる点、印ち官民接触の具合、それからその両者の調和、換言すれば人の器に応じて差別なく仕事をする道を開き度い、それには合本組織で商工業を経営したいと決心致しました。此事は静岡藩に居る間、大久保一翁などの人々に頻りに薦めてやり掛つて居りました。ところが恰度大蔵省から呼び出されて、どうしても出仕しなくてはならないやうになつたから、致方なく東京へ出て、辞退する積りで大隈さんに種種書生論を述べたところ、却つてやりこめられて、遂に大蔵省の官吏となりました。そして明治二、三、四、五と四年居つて、六年に井上さんと一処に退き、玆で愈々私が前以て思つて居つた官尊民卑の弊風打破の実を挙げる為めに微力を致すことになりました。それには合本組織で有力なる事業を経営するが一番よいと思つて、先づ第一国立銀行に関係したのであります。爾来種々の会社を経営し、幸に大した過失もなく、引続き実業界にあり、後隠退して今日に至つたのであります。振返つて考へて見ると、私のその時の思入れと云ふものは大して深い根拠がなかつたかも知れませぬが、然しそう間違つたものでもなかつたから、十分ではないが今日の功を奏したので、昨年私のため八十八の祝賀をして下さつた時の如き、時の総理が親しく臨席されて過分の祝辞を読まれたやうな次第で、官尊民卑の風も矯正されたと心から感じました』と云つたやうな事を申上げたのでありますが、 陛下にもお耳をお傾けになつたやうに拝しました、『また斯様に長生致しますと、時に命長ければ恥多しの感を起すこともありますが、今日のこの光栄に際会しますと、衷心より長生してよかつたと思ひまして、これに越す栄誉はないと存じます』と申上げたのであります。
要するに、今日は特に御座所近くのお室にて、如何にもおくつろぎの御様子で、私がお話申上げてゐると、時々御微笑をさへ浮べておいでになりました。私は大正十年の末に華盛頓会議に際して一私人としてであるが渡米し、翌年帰国をしましたが、其時 陛下に拝謁を仰付けられたことがあります。勿論当時は東宮時代で、摂政宮であらせられました。今日再び親しくお目に懸つて見ると、畏多い申分であります
 - 第57巻 p.262 -ページ画像 
が、御様子が全く御立派になつてゐられました。私は今日の 陛下の厚き御思召に感佩すると共、自身の長寿を思ひ合せて、長命の難有さをしみじみ感ずる次第であります。
 尚ほ賜餐後別室に於て種々雑談があり、 陛下のお立ちの後、鈴木さんに明治初年宮中にて御養蚕を遊ばされた当時のことを申し、その『出がら繭の記』を書いた事情をお話申した処、それが欲しいと云はれたので、書いて差上げることに致しました。(昭和四年十二月十九日宮中より退出後事務所に於て)


於宮中賜餐祝賀状綴 昭和四年一二月一九日(DK570133k-0009)
第57巻 p.262-263 ページ画像

於宮中賜餐祝賀状綴  昭和四年一二月一九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    渋沢子爵謹んで御陪食の御模様を洩らさる
       (昭和四年十二月十九日午后三時半於渋沢事務所)
 昭和四年十二月十九日 聖上陛下には渋沢子爵が多年国家の為に尽瘁せられたる功績を被聞召、特に異例を以て子爵一人を召させられて午餐を賜はつた。師走も半過ぎなるに暖かな日が続いたが、生憎当日は幾分寒気加はり身の引締るを覚えた。子爵はフロツクコートにシルクハツトで渋沢敬三氏を伴ひ七十七号の自動車に乗つて午前十一時四十分過渋沢事務所を出られた。退出は午後一時三十分頃の予定であつたが、御玄関に出られたのは午後二時三十分頃であつたさうである。其上此所で新聞記者の質問に応答せられた為に更に時間がかゝり、事務所に帰られたのは午後三時頃であつた。斯くて午後三時三十分頃事務所員一同打揃うて御書斎の椅子によられた子爵に対して祝意を表し、之に対して子爵は徐に御賜餐の模様を洩らされた。其概要を書留めて置く。
 いや非常な光栄であつて、何と申さうか、実に難有極みであります……
 ……何かね……模様を話すのかね?……む……
 畏多い事であるが、御食卓では 陛下の右の席を賜はり、陛下の左が牧野さん、内大臣で、其左が一木宮内大臣、私の右が(これはまあ私の面倒を見て下さるつもりであつたらうか)関屋次官、其右が鈴木侍従長、それから木下といふ侍従と奈良侍従武官長が席を賜はつた。
陛下 牧野内府 一木宮相 奈良侍従武官長 木下侍従 鈴木侍従長 関屋宮内次官 子爵
 食事中及食後別室に退いてからも 陛下から直接の御言葉はあまり賜らなかつた。牧野さんや一木さんが質問するのに私がお答へする、それを 陛下が傍で御聞き下さるといふ工合であつた。
 牧野さんであつたかと思ふが、「渋沢子爵が欧羅巴へ行つたのは古い事でせうね」と質問せられたので、私は青年の時に時の風潮に刺戟せられて尊王攘夷の運動に身を投じた次第から、後訳あつて京都に上
 - 第57巻 p.263 -ページ画像 
り一橋の家来となり、民部公子に随行して千八百六十七年に渡仏するに至るまでを簡単に申上げ、更に続けて「仏蘭西では其年の博覧会が開かれて、丁度其開会式に参列する事が出来ました。其博覧会の総裁はナポレオン三世の子供の一人でヨセフとか何とか云ふ人でありましたので、ナポレオン三世が親しく式に列し一場の祝賀演説を試みました、帝王の身を以て自ら演壇に立つといふ事すら私共には物珍しいのに、其言たるや実に傲慢であつて、仏蘭西当時の隆盛を物語るものとは云へ、こんな事を申してもよいものか、この誇りが永続するであらうかと疑はざるを得なかつたのであります。ナポレオン三世は、威風堂々と壇上の人となり、仏蘭西の隆盛並に博覧会に対する各国の協賛に就て語り、最後に『この博覧会には比較的未開時代の粗野なるものより文明時代の精密なるものに至るまで、人間の利用するあらゆる機械器具及発明品を聚めてゐる、此博覧会を見て驚かぬものは蓋し白痴の類であらう』と申して壇を下りたのであります。けれども御承知の如く私が仏蘭西から帰つて間もなくナポレオン三世は帝位を退いたのであります」――とかういふお話を申上げた所が、陛下は深く御頷き遊ばされたやうに拝した。
 更に言葉を続けて「その後民部公子は白耳義へ赴かれ、当時の国王に拝謁されましたが、これは又『近代では鉄を産出する国は富み、鉄を使ふ国は強い。日本では鉄が尠いといふ事であるが、何とかして鉄を輸入するやうにせねばならぬ。鉄を買入れるなら我白耳義の鉄を買ふやうにするがよい。』などと申されて、何かかう商人ででもあるかのやうな感じを得ました。日本に居た時分、武士たるものは銭勘定の事を話すさへ恥と心得てゐた自分は、武士どころではなく帝王ともあらう人が商売をしてもよいであらうかと密かに疑なきを得なかつたのであります。」と申上げた。中途で陛下は御立ちになり、残つた我々はそのまゝ暫時話を続けてさうしてお暇乞をした。
 子爵のお顔は充血して御感激の御様子であつた。
 畏多い話であるが 陛下には始終御気嫌麗はしく御聴届になつて、折々御首肯遊ばされたやうに拝した。申上ぐるも難有い極みである。
  かくて一同御礼を申して総長室を退出した。因に当日所員一同に対し酒肴料を支給せられ、且つ午後四時頃ビール及毛抜すしを饗せられ、一同相集つて祝賀したのであつた。


父渋沢栄一 渋沢秀雄著 下巻・第二五五―二五六頁 昭和三四年四月刊(DK570133k-0010)
第57巻 p.263-264 ページ画像

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