デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

3章 賀寿
1節 七十寿
■綱文

第57巻 p.269-291(DK570139k) ページ画像

明治44年2月13日(1911年)

是ヨリ先、佐々木勇之助・星野錫・八十島親徳等発起人トナリテ「青淵先生七十寿祝賀会」ヲ組織シ、是日、帝国ホテルニ於テ同祝賀会ヲ開ク。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK570139k-0001)
第57巻 p.269 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月九日 晴 寒
○上略 佐々木勇之助・星野錫二氏来リ、銀行会社等ヨリ七十祝賀ノ贈品ヲ持参セラル
○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 午後六時帝国ホテルニ抵リ、第一銀行其他各会社員ノ催ニ係ル古稀祝賀ノ宴ニ出席ス、佐々木勇之助・高松豊吉・市原盛宏・土岐僙・梅浦精一等ノ演説アリ、最後ニ答辞ノ演説ヲ為シ、夜十一時散会帰宿ス


竜門雑誌 第二七三号・第五三―六〇頁 明治四四年二月 ○青淵先生七十寿祝賀会(DK570139k-0002)
第57巻 p.269-276 ページ画像

竜門雑誌  第二七三号・第五三―六〇頁 明治四四年二月
    ○青淵先生七十寿祝賀会
予て計画せられたる「青淵先生七十寿祝賀会」は弥々先生の誕生日なる二月十三日を卜し、同日午後五時より帝国ホテルに於て開かれたり是れより先き青淵先生には実に明治四十二年を以て古稀の寿に躋らせ給へり。世の常の人ならんには曖依村荘、閑雅なる別乾坤に閑雲野鶴を侶として悠々自適、亦た世事と相関せざる習ひなるに、然るに先生の御身は壮者も及ばぬ程、弥増しに健かにして、十年一日の如く公私の劇務に拮据尽瘁日も亦足らざるは、いと芽出たき限りなりとて、同年二月二日そが門下生なる佐々木勇之助・星野錫・原林之助・西脇長太郎・尾高次郎・田中栄八郎・諸井恒平・八十島親徳諸君は同日午後五時より日本橋区亀島町の偕楽園に打集ひ、本社長の渋沢篤二君の列席をも請ひて協議の上左の決議を為したり。
 - 第57巻 p.270 -ページ画像 
      青淵先生七十寿祝賀会順序
 一発起人二十名を定め会員を募り一の団体を組織する事
 一右の団体に於ては発起人中より常任委員三名を選み実務の処理を托する事
 一本会に於ては紀念の写真帖を作り之に御祝品を添へて青淵先生に贈呈する事
 一写真募集の範囲は委員の選定に任する事
 一御祝品の選定及贈呈の方法等に付ては追て発起人会に於て協議する事
 一本会の事務所は第一銀行内に置く事
 一会員の出金額は「拾円以上」とし各自適宜に之を定め第一銀行へ払込ましむる事
右の申合規定に基き発起人と定められたる諸君は左の如し。
 市原盛宏    石井健吾   原林之助
 西脇長太郎   堀越善重郎  星野錫
 土岐僙     大川平三郎  尾高次郎
 田中栄八郎   植村澄三郎  熊谷辰太郎
 日下義雄    八十島親徳  佐々木慎思郎
 佐々木勇之助  渋沢作太郎  清水釘吉
 清水一雄    諸井恒平
右の発起人中より更に佐々木勇之助・星野錫・八十島親徳三君が常任委員に推選せられ「七十寿祝賀会」一切の処理を引受くることゝなり尚ほ前決議の追加として同志者中へ通知せられたる次第は左の如し。
 一本会へ御加入の方は金拾円以上適宜出金額を定め来る三月十日までに第一銀行へ御払込み被下度候事
 一紀念写真帖の製作及び贈呈物品の選定は発起人に御任せ被下度候事
 一本会収支の計算は逐て精算の上御通知可申上候事
 一本会の事務所は東京市日本橋兜町第一銀行の内に相設け候事
      外に
 一紀念写真帖御希望の向へは原価を以て御配付致候様取計可申候事
 一紀念品贈呈の為め特に青淵先生を招請し祝宴相催し候場合には更に御通知可申上候事
斯くて青淵先生門下の重なる人々に対し発起人一同連名にて勧誘状を発したるに、孰れも芽出たき此企図に賛同せざるはなく、加入会員二百数十名、其醵出金額は合計七千百六十六円に達したり、会員の氏名左の如し
市原盛宏君   石井健吾君   伊藤半次郎君  伊藤登喜造君
伊藤与七君   伊藤伝七君   井上徳次郎君  井上公二君
乾茂君     泉末治君    石田豊太郎君  石川道三君
今井又治郎君  池田嘉吉君   石井録三郎君  犬丸鉄太郎君
原林之助君   服部金太郎君  原田松茂君   早速鎮蔵君
萩原源太郎君  原田重之祐君  萩原久徴君   原胤昭君
林愛作君    西脇長太郎君  西川太郎一君  西田敬止君
 - 第57巻 p.271 -ページ画像 
西村道彦君   西村直君    新原敏三君   西野恵之助君
堀越善重郎君  星野錫君    堀井卯之助君  穂積重穎君
土岐僙君    戸田宇八君   土肥修策君   利倉久吉君
土佐孝太郎君  沼崎彦太郎君  沼間敏郎君   尾高次郎君
大川平三郎君  大原春次郎君  大橋半七郎君  大橋新太郎君
大川英太郎君  太田三郎君   大塚盤五郎君  大田惣六君
大沢佳郎君   大沢正道君   大沢省三君   岡部真五君
岡村勝正君   岡本銺太郎君  尾高幸五郎君  織田雄次君
太田黒重五郎君 小田信樹君   小田川金之君  岡崎遠光君
和田格太郎君  渡辺嘉一君   脇田勇君    渡辺仲之助君
川島良太郎君  柿沼谷蔵君   亀島豊治君   神谷義雄君
神谷千松君   書上順次郎君  鹿島岩蔵君   海塚新八君
金子熊一君   神田鐳蔵君   鹿島精一君   金谷藤次郎君
蒲田政次郎君  川村徳行君   横山直槌君   横山徳次郎君
吉岡新五郎君  米田喜作君   田中栄八郎君  田中元三郎君
竹田政智君   竹山純平君   武川盛次君   田中金七君
田中源太郎君  高松録太郎君  谷野弥吉君   高橋波太郎君
滝沢吉三郎君  田中忠義君   田辺淳吉君   田中一馬君
田中楳吉君   田中太郎君   高根義人君   高松豊吉君
曾和嘉一郎君  辻可省君    角田真平君   中井三之助君
中川知一君   中村鎌雄君   中村光吉君   仲田慶三郎君
成瀬隆蔵君   成瀬仁蔵君   長滝武司君   中井三郎兵衛君
中井巳三郎君  仲田正雄君   村木繕太郎君  村井義寛君
梅浦精一君   植村徳三郎君  中田徳次君   上原豊吉君
内山吉五郎君  鵜飼勝輔君   鵜飼百之助君  内海三貞君
上野栄三郎君  野口弥三君   野口弘毅君   野中真君
野口半之助君  野崎広太郎君  久米良作君   熊谷辰太郎君
日下義雄君   葛原益吉君   八十島親徳君  八十島樹次郎君
矢木久太郎君  山辺丈夫君   山田昌邦君   山中譲三君
山内政良君   山口荘吉君   山崎繁次郎君  山本勘三郎君
山下亀三郎君  山本甚三郎君  八巻知道君   矢野由次郎君
松井吉太郎君  松本清助君   増田明六君   松本美兵衛君
前原藤太郎君  松平隼太郎君  松村五三郎君  松谷謚三郎君
福島甲子三君  藤村義苗君   舟阪八郎君   藤浦富太郎君
小林秀明君   小畔亀太郎君  郷隆三郎君   河野正次郎君
小林武次郎君  小西文之進君  小西安兵衛君  小西喜兵衛君
小池国三君   近藤陸三郎君  阿部吾市君   浅野総一郎君
安達憲忠君   荒井栄蔵君   麻生蓬君    浅野彦兵衛君
足立太郎君   安達仁蔵君   佐々木勇之助君 佐々木慎思郎君
佐々木清麿君  斎藤峰三郎君  西園寺亀次郎君 西園寺公毅君
西条峰三郎君  佐久間精一君  桜田助作君   佐田左一君
柳原芳樹君   斎藤恒三君   佐藤毅君    木村長七君
木村雄次君   岸崎昌君    木村清次郎君  木津太郎兵衛君
木内善兵衛君  北村耕造君   湯浅徳次郎君  弓場重栄君
 - 第57巻 p.272 -ページ画像 
宮川久次郎君  三島太郎君   三井八郎次郎君 清水釘吉君
清水一雄君   渋沢作太郎君  白石元治郎君  清水百太郎君
芝崎確治郎君  白岩竜平君   清水満之助君  清水揚之助君
渋谷正吉君   広瀬市三郎君  弘岡幸作君   平沢道次君
諸井恒平君   諸井時三郎君  諸井四郎君   諸井六郎君
桃井可雄君   本山七郎兵衛君 門多顕敏君   森下岩楠君
仙波正太郎君  関直之君    杉田富君    鈴木純一郎君
鈴木紋次郎君  鈴木善助君   須永登三郎君
万歳生命保険会社   品川白煉瓦会社      高岡共立銀行
若松築港株式会社   浅野セメント合資会社   石川島造船所
広島水力電気会社   株式会社二十銀行     頌暦会
△紀念品 玆に於て発起人一同協議の上青淵先生には「七十寿祝賀」の紀念として左の品々を贈呈することに決したり。
 一紀念写真帳            一部
 一銀花瓶(由緒書附)        一対
 一蒔絵料紙箱硯箱文台(説明書附)  三具
 一御肖像銀銅牌           各一個
 一祝辞
右贈呈品の意匠は孰れも委員諸君と斯道の大家が肝胆を砕きたるものなり、就中銀雕花瓶等の意匠の結構は曖依村荘秘蔵の陶淵明の詩、懸額の意に因み、青淵先生を淵明に表したる考案より成れるものにて、其図案は帝室技芸員岸光景翁の意匠に成り、平目地扇散らしを蒔絵にして先づ末広の祝意を寄せ、而して其扇面には各々先生に縁み深き景勝を描き出せるものにして、植松抱美・船橋舟民二氏が丹精を罩めたる彫刻に係り結構無類と称せらる。其贈呈品の一なる
紀念写真帖 には従来青淵先生が関係せられたる諸会社・公共団体・慈善団体等の事業を紀念すべき写真を蒐集し、且つ其各事業の沿革・現況及び先生の之れに関係せられたる事情等を附記したるものを掲げ其末尾に其各事業当任者の肖像と祝賀会員の肖像とを載収したり、此紀念写真帳に写真を掲載したる諸会社・団体等は即ち左の如し
      (諸会社団体名前入)
第一銀行       王子製紙会社     第二十銀行
東京株式取引所    第七十七銀行     大阪紡績会社
日本鉄道会社     磐城炭礦会社     三本木開墾会社
日本郵船会社     東京瓦斯会社     三重紡績会社
大日本人造肥料会社  東京製綱会社     京都織物会社
日本煉瓦製造会社   三本木渋沢農場    石川島造船所
参宮鉄道会社     帝国ホテル      東京貯蓄銀行
若松築港会社     東京帽子会社     北越鉄道会社
東京印刷会社     東洋汽船会社     汽車製造会社
浦賀船渠会社     広島水力電気会社   岩越鉄道会社
洲崎養魚会社     浅野セメント会社   十勝開墾会社
稷山金鉱       北海道鉄道会社    茨城採炭会社
 - 第57巻 p.273 -ページ画像 
京釜鉄道会社     日本興業銀行     品川白煉瓦会社
韓国興業会社     古河鉱業会社     大日本麦酒会社
石狩石炭会社     万歳生命保険会社   中央製紙会社
京阪電気鉄道会社   東京毛織物会社    帝国劇場会社
日清汽船会社     日本皮革会社     日韓瓦斯電気会社
渋沢倉庫会社     横浜渋沢商店     清水満之助商店
中井商店       堀越商会       中外商業新報社
東京市養育院     東京慈恵会      東京高等商業学校
東京交換所      女子教育奨励会    東京商業会議所
東京興信所      日本倶楽部      表慶館
女子大学校      埼玉学生誘掖会
序文
秩嶺連南晃山聳北荒川縈回其前利根渺〓其後桑田弥望気象雄大是為武蔵国大里之郡其西陬即八基村我青淵先生揚呱呱声于此乃知地霛人傑固不偶然也先生以文修徳以武養体而立志於国歩艱難之日成業於中興盛運之時一朝挂冠為第一国立銀行総監後任其頭取以至今日嘗傍指導幾多銀行創立諸種会社一身当百事多々益弁通財用利〓遷興工業開物成務博図公益其功績与年相積声名顕於海之内外是不独家門之栄可謂邦圀之光矣昨年己酉先生躋七十寿矍鑠有拠鞍顧眄之慨然先生知関与之事業規模已備也以為不要復循其職因悉辞之箪止于第一銀行蓋以其商業啓運之地也於是門下子首倡諸同人応之相議設先生七十祝賀会欲挙献寿之典乃就其銀行会社及場舗蒐集略史付以営業景象当時者照相製斯記念帖是先生半面之年譜而我商工界之亀鑑庶幾先生随時翻閲回憶当年温故知新談注説来又以資於啓迪後進乎此則本会之微意也
  明治四十三季庚戌晩秋
                 青淵先生七十寿祝賀会謹撰
銀雕花瓶一対 これは藤本長養斎氏の鎚作にして、銀梨子地となし、海野勝民翁が不老長寿の祝意に因みて、荒木寛畝画伯の筆に成れる老松と薔薇とを象眼雕と為せるものなり
料紙箱の蓋 には先生が家紋なる柏葉と松葉を配して松柏の操を現はし、中央には座ながら千頃の田園を望む邸宅高齢延寿の祝意を素性法師の古歌に取りて山路の菊を描き、其裏面には邸内より日夕遠望の富士の景色と明人于謙が淵明詠詩中の句なる「先生晩節香」の五字を螺鈿とせる半開扇とを置き、なほ其画の底には錦林の名高き滝ノ川の景を物し、箱の周囲にも亦桜と楓鶴及竹柳等を描きたり
硯箱 此蓋の模様は先生が子年の誕生を祝したる小松引歌画にして、通俊大納言の「子の日する野辺の小松を移し植ゑて年の尾ながく君がひくべき」を芦手模様となしたり、秋草白鹿は寿老人の故事に傚ひて陶淵明の白鹿裘にも通はせ、此処にも先生が淵明癖を匂はしぬ、其裏面には又淵明が帰去来の詩に因み、且つ「曖々遠人村」即ち先生書院に掲げたる額の句に傚ひて、邸中眼前に写らふ豊島一村落の遠景を収めたり。
文台 には扇面一対、その一面の筑波山は文庫の裏面に描きたる富士と共に邸中日夕遠望の景勝にして、他一面は先生が別園御立場の風姿
 - 第57巻 p.274 -ページ画像 
無二なる松の巨木を描き、旧時将軍鷹狩の都度必ず此処に憩ひ給へる俤を偲びたり。
御肖像の銀銅牌 は青淵先生が一昨四十二年八月渡米団長として亜米利加に渡行せられたる時に、紐育の造幣局にて大統領タフト氏の肖像を鋳出せる記念牌を齎らし帰られたり、委員諸君が之を一見するや、如何にも能く出来居れり、斯かる機会に之れと同じやうなる紀念牌を贈呈する方応はしからんとて、特に之を大阪造幣局に嘱託したり、然るに造幣局にても肖像入紀念牌を鋳造するは今回が始めての事なればとて、態々技師を東京に派遣し、親しく青淵先生に就きて入念に真影を模写し、昵近の人々の注意をも参酌して銀銅二種の紀念牌を鋳造したるものなり。
祝辞及説明書 紀念品に添へて贈呈したる祝辞即ち左の如し。
   祝辞
維れ明治四十四年二月吉辰、青淵先生七十寿祝賀会は謹て献寿の典を挙け、虔て祝詞を呈し、本会員景仰の誠意を表せんと欲す
恭しく惟れは、先生は大勢遷移の時に当り、関左形勝の地に生れ、名山大川を瞻望して蓋世の気宇を脩養し、明君に知遇せられて、鵬翼を万里に振ひ、欧洲文物の精英を咀爵し中興盛運の日に帰朝して財政の枢機に参し、一朝挂冠の後第一国立銀行を創立して商工業の木鐸と為り、尋て幾多の銀行を指導し諸種の会社を設立し、一身百事に当り、多々益弁するもの玆に三十有七年、銀行の営業は以て国家進運の財用を通するに足り、商業の発達は以て欧米の商賈と拮抗するに足り、工業の振起は以て内外の需要を充たすに足る、是皆先生不撓不屈の精神を以て直接間接に唱導誘掖せられたるの功績なりと謂はさるへけんや今や先生七十の寿に躋り、矍鑠として壮者を凌き、事に当つて精力を吝ます、物を格めて倦むを知らす、孜々黽勉国利を興し民福を図るを以て自から任す、其高明至誠世人欽慕して已ます、朝野内外先生に待つ所のもの益ます加はり、其信依年と倶に積み先生を以て商工界の泰斗と為す、洵に所以ある哉
夫れ上世は百二十歳を以て上寿と為す、是れ天の善人に命して其功徳を大ならしめんと欲するにあらすや、然則今日の祝寿は他日上寿を祝するの先駆たるものと謂ふへし、此に本会名工に嘱して製する所の蒔絵文台・料紙箱・硯箱、花瓶一対及紀念帳を進献し、謹て高寿涯りなきを祝す
             青淵先生七十寿祝賀会
                  会員総代
                     佐々木勇之助
右の紀念品は献呈前数日間之を第一銀行楼上に陳列し、各会員に通牒を発して其縦覧に供したりしが、去る二月九日午前九時佐々木勇之助星野錫両君が会員一同を代表して飛鳥山邸に持参し、親しく先生に謁して之を献呈したり
献寿の祝典 予定の如く弥々二月十三日午後六時より帝国ホテルの大食堂に於て「青淵先生七十寿祝賀」の盛典を挙行したり、休憩室には観覧洩れとなりし会員諸君の縦覧に供する為め献呈紀念品を借受けて
 - 第57巻 p.275 -ページ画像 
之を陳列し、又食堂には百五十の会員を容るべき食卓を形に並べ、其中央には千歳の星霜を経たらんやと思はるゝ許りなる翠緑滴るゝ巨松に幾羽の白鶴をあしらひたるが、殊に際立ちて目立ちぬ、天井より式場の空間一面に無数の白鶴が長閑に舞ひつゝあるは、心なき鳥も先生の長寿を寿ぐに似たり、其他何等華美の装飾あるなく、いとも清楚なる式場、瑞気の堂に満てるは一入床しかりき、当夜の正賓たる青淵先生及び同夫人を始め陪賓渋沢篤二君及同令夫人、穂積博士及同令夫人、阪谷男爵及同令夫人、渋沢武之助君・渋沢正雄君・明石照男君及同令夫人、渋沢秀雄君並に会員一同食卓に着く、宴半に、西洋に於ける誕生日祝賀の例に倣ひしなるべく、白糖にて製作したる塔の周囲に先生の齢に因みて七十二本の蝋燭を点じたる所謂誕生菓なるものを、コツク二人が恭々しく担げて食堂を一匝し、之を青淵先生の前に捧げたるときは、拍手鳴りも止まず瑞気燦然一層の光彩を添へぬ、軈てデザート・コースに到るや、当夜の会員総代たる佐々木勇之助君先づ起ちて懇篤なる祝辞(追て次号に掲載すべし)を述べつ、且同君の発声にて青淵先生の万歳を三唱し、次に高松豊吉君・市原盛宏君の頌徳演説(演説速記は総て次号に掲載すべし)あり、次で土岐僙君は「予は謡曲を以て祝辞に代へん」とて音吐朗々「老松」の一節を謡ひ、梅浦精一君亦温知会を代表して祝辞を述べたり、最後に青淵先生は満面に溢るゝ許りの笑を堪えつゝ徐に立ちて、答辞旁一場の趣味津々たる演説(其演説速記は次号に掲載すべし)を試みて満場の喝采を博し、玆に芽出たく賀筵を撤して一同休憩室に移り、先生を中心として歓談笑語、時の移るを知らず、軈て青淵先生御一門が数多の会員に見送られつつ帰途に就きたるは午後十一時にてありき、当夜の出席会員は即ち左の如し
主賓
青淵先生    同令夫人
陪賓
渋沢篤二君   同令夫人    穂積陳重君  同令夫人
阪谷芳郎君   同令夫人    渋沢武之助君 渋沢正雄君
明石照男君   同令夫人    渋沢秀雄君
出席者
市原盛宏君   石井健吾君   今井又治郎君 磯野孝太郎君
石田豊太郎君  石川道正君   井上公二君  服部金太郎君
林愛作君    萩原源太郎君  原林之助君  原胤昭君
早速鎮蔵君   原田金之祐君  西野恵之助君 西脇晋君
堀越善重郎君  星野錫君    堀井卯之助君 利倉久吉君
土岐僙君    土佐孝太郎君  戸田宇八君  土肥修策君
沼間敏郎君   沼崎彦太郎君  岡部真吾君  尾高次郎君
大川平三郎君  大橋新太郎君  大沢正道君  大塚盤五郎君
大沢省三君   織田雄次君   岡本銺太郎君 尾高幸五郎君
小田川全之君  太田黒重五郎君 脇田勇君   渡辺嘉一君
和田格太郎君  柿沼谷蔵君   神谷義雄君  神田鐳蔵君
金谷為次郎君  神谷十松君   書上順四郎君 川田鉄弥君
 - 第57巻 p.276 -ページ画像 
吉岡新五郎君  横山徳次郎君  高松豊吉君  竹田政智君
田中栄八郎君  竹山純平君   高松録太郎君 高橋忠次郎君
高橋波太郎君  田中元三郎君  田中忠義君  滝沢吉三郎君
高根義人君   曾和嘉一郎君  角田真平君  中村光吉君
仲田慶三郎君  中村鎌雄君   成瀬隆蔵君  中沢彦太郎君
中井三之助君  村木善太郎君  村井義寛君  梅浦精一君
小山吉五郎君  植村澄三郎君  上原豊吉君  野崎広太君
野口弘毅君   野口半之助君  八十島親徳君 八十島樹次郎君
山口荘吉君   山田昌邦君   山下亀三郎君 山中譲三君
矢木久太郎君  山内政良君   矢木久兵衛君 矢野由次郎君
松平隼太郎君  増田明六君   松谷謚三郎君 松井吉太郎君
福島甲子三君  藤浦富太郎君  小池国三君  郷隆三郎君
小林武次郎君  小西安兵衛君  阿部吾市君  浅野総一郎君
安達仁造君   足立太郎君   佐久間精一君 佐々木勇之助君
佐々木慎思郎君 斎藤峰三郎君  佐藤毅君   桜田助作君
早乙女晃太郎君 木村清四郎君  木村長七君  湯浅徳次郎君
三井八郎次郎君 白岩竜平君   清水釘吉君  渋沢義一君
清水一雄君   渋谷正吉君   清水揚之助君 広瀬市三郎君
弘岡幸作君   諸井四郎君   諸井恒平君  桃井可雄君
諸井時三郎君  森下岩楠君   松田富君   鈴木善助君
鈴木紋次郎君


竜門雑誌 第二七四号・第四九―六二頁 明治四四年三月 ○青淵先生七十寿の祝辞(DK570139k-0003)
第57巻 p.276-285 ページ画像

竜門雑誌  第二七四号・第四九―六二頁 明治四四年三月
    ○青淵先生七十寿の祝辞
                      佐々木勇之助君
 本欄に載録せる所のものは、前号の本誌に其詳況を記載したる如く二月十三日帝国ホテルに於て開かれたる「青淵先生七十寿」祝賀会に於て、佐々木勇之助君は本社会員一同を代表し、梅浦精一君は温知会を代表し、高松豊吉君・市原盛宏君・土岐僙君亦各々青淵先生の長寿と盛徳を仰ぎ祝したる演説なりとす
渋沢男爵閣下、同令夫人、御一族の方々及会員諸君、私は本日此席に於きまして青淵先生七十寿祝賀会の会員を代表しまして男爵閣下に対して祝辞を述ふるの光栄を荷いましてございます
吾々の最も尊敬する青淵先生は天保十一年二月十三日の御誕生でございまして、一昨年四十二年に於て既に七十の高齢に躋られましたのでございます、然るに二年後の今日に於きまして此祝典を挙けますることは、甚だ等閑のやうでございまして緩漫の譏を免れませぬのでございますが、実は私共一昨年に於て此祝典を挙げませうと存じまして此会を発企致したのでございます、然るに当時先生は七十の高齢に達せられたと云ふことゝ、従来御関係になつて居りまする会社事業の規模が既に追々に備つて来たといふ理由を以て、第一銀行を除くの外は直接御関係の諸会社の重役を始め其他総ての御名義を御断りになりましたに付て、吾々発企人は此祝典に際しましては従来先生の御関係にな
 - 第57巻 p.277 -ページ画像 
りましたる会社及其他事業の写真と是等の会社若くは事業が其創立当時の有様と、現今発達しました所の有様とを比較しました小歴史を附記致しまして、一の紀念帖を作り之を奉呈するを以て一番適当なりと決しまして、早速に其蒐集に着手致したのでございます、さりながら中々御関係が広く其数も多く、殊に吾々の不敏なる俄に之を調製することが出来ませぬでございました、漸くにして本年に至り星野君などの御尽力に依りまして完成を告げましてございますから、其紀念帖と別に製作致しました所の、先程皆様の御覧に入れました扇面蒔絵の料紙箱・硯箱・文台及不老長春の彫刻ある銀花瓶と共に祝詞を添へまして、本月九日に私と星野君とが総代と致しまして之を先生に奉呈致しましたのでございます、さう致しまして引続いて今日此祝典を玆に挙ぐるといふことに至りました次第でございますから、其時期は甚だ遷延致しましたが、さういふ次第でございますから、先生を始め皆様に於かれましても、どうぞ之を御諒恕下さるやうに願ひたうございますさて先生の御履歴に付きましては、此前に阪谷男爵閣下が委員長として御編纂になりました青淵先生六十年史及昨年十月竜門社の秋季総会に於きまして渋沢社長の朗読せられました祝辞に依つて審かでございます、実業の発達に関する先生の偉大なる功績は玆に列席して居られまする所の会員諸君は固より、世間一般に認識する所でございますから、吾々が更に玆に咄弁を弄する必要はないと存じます、さりながら私の聊か感じまする所を申上げますれば、先生は維新前御少壮の時からしまして既に国事に奔走せられまして、尋で徳川民部大輔に従て仏国に渡航せられ、欧洲文物の精英を咀嚼せられて御帰朝の後は、明治政府に出仕せられて財政の枢機に参せられ、而して其御在職中に施設経営せられましたる所のものを見まするのに、維新草創の際に於て我国に最も重要なりし所の租税制度の改正でございますとか、貨幣条例の制定でございますとか、若くは禄制の改革であるとか、藩札の処分であるとか、駅伝の改良であるとか、鉄道の敷設であるとか、公債の発行であるとか、国立銀行条例の制定であるとか、其企画せられました所は一も国利を興し民福を進むる事に非さるはないのであります、加之其間に於きまして立会略則、会社弁等の書を出版せられまして、当時に於ては未だ幼穉でございました我国民に会社事業の有利なることを知らしめられました、其後一朝挂冠せられましてからは直に第一国立銀行を創立せられまして、尋て幾多の銀行を指導せられ、各種会社の設立を企画せられ、一方に於ては商業会議所を起して商人の地位を高からしむることをお計りになり、他方に於ては商業学校の設立に御尽力なされまして商業教育を盛んにし、人才を養成することを御勉めになりました、実に一意専心商工業の発達と我国富の増進を図られましたことは、吾々の感謝に堪へざる次第と存じます、我国民間の事業をして斯の如き盛況に至らしめたるは、固より国運の然らしむる所ではございませうけれども、抑々亦直接間接に之れを指導誘掖せられました先生の功に帰せなければならぬと存ずるのであります
今や先生は七十の御高齢に躋られましたけれども、其御健康は壮者も及ばざる程でありまして、一昨年諸会社の重役等はお止めになりまし
 - 第57巻 p.278 -ページ画像 
たけれども、従前の関係者は勿論、新たに事業を起さんとする者、又は会社其他の事業を整理しやうとする者、皆斉しく先生の指導を仰がんとして其門に集りますのみならず、先生は又教育のことにも慈善のことにも常に其意をお須ひになりまする所から、先生の事務は寧ろ従前より増加するとも減することはないといふ有様であります、併ながら先生の御強健なる、事に当つては精力を吝まず、物に接しては倦むことを知らず、孜々として国利民福を進むることを念とせられまするのは吾々の欽慕措く能はざる所でありまして、朝野内外先生を以て実業界の泰斗と仰ぎまするのは洵に以あることゝ存じます(拍手)
上世に於ては百二十歳を以て上寿と申したさうでございます、是は蓋し天が善人に命じて其徳を大ならしめん為めであります、果して然らば今日先生の七十寿を祝しまするのは、他日上寿を祝するの前提でございますから、今夕の設備の甚だ不完全なることも、亦他日の楷梯として偏に御諒恕下さるやうに願ひたいと存じます
又本日此会に出席せられました諸君は、常に先生に近接して、親しく眷顧を忝うしたる竜門社の重なる社員と、温知会の諸君でございまして、他は一切勧誘を致しませぬでございますから、其数は甚だ多くないやうではございますが、尽く先生を欽慕する者の集りであるのであります
又今夕皆様方の御手許に配布して置きました紀念章は、明治四十三年の秋彫刻したのでございますが、是は昨年の秋に此祝賀会を是非開きまする積りで造幣局に注文を致して置きました為で、少し時日が違つて居りますが是は御諒恕を願ひたうございます
さて今夕は男爵閣下を始め御一族皆様方が御多忙の際にも拘はりませず、斯く御揃で御臨場を下さいまして本会に光輝を添へられましたことは、会員一同深く感謝致す所でございます、玆に会員諸君と共に杯を挙げまして、男爵閣下の御健康を祝し、万歳を三唱致さうと存じます(万歳を三唱、会員之に和す)
    ○祝辞
                     高松豊吉君
閣下、来賓及諸君、本日青淵先生の七十寿祝賀会を開くに方りまして一言祝詞を呈する機会を得ましたのは、私の最も光栄とする所でございます
先生が、是まで商工業を始め殆んど総ての事業に力を尽され、大に功績を挙げられたことは今更喋々致す必要もございませぬが、私は工業者の一人と致して、工業上に於ける先生の御功労に対して一・二申述べたいと思ひます、尤も工業と申しましてもナカナカ広いことでございまして、先生の御関係になりました工業の種類も頗る多くありますが、私は自身に深く興味を持つて居ります所の染織工業並に瓦斯工業に於ける先生の御功労に付て、自分の存じて居る所だけを申上げ、さうして本日の祝詞に代へたいと思ひまするで、暫時清聴を汚します
染織工業は古来我国に於きまして広く行はれて居りまするが、所謂家内工業の一部分でございまして、工場の設備も至て簡単であり、其製品も主として内地の需用に供するものでありましたから、到底完全な
 - 第57巻 p.279 -ページ画像 
る一定の絹織物を多量に且つ廉価に製出することが出来ない状況でありましたが、段々世の変遷に伴ひまして、外国より婦人の洋服地・肩掛・襟巻・ハンケチ・窓掛地等の如き絹織物が我国へ輸入するやうになりました、所が今より二十五・六年前には我国より外国へ輸出して居る所の絹の物質は、殆んど生糸のみでありまして、羽二重の輸出も今のやうに沢山ございませぬ時でありました、爰に於て先生を始め二三の有志家が相謀つて、日本の絹糸を以て完全なる織物を多量に製出して、内外の需用に応ずるため適当の地に染織物会社を設立せんことを企てまして、多数の賛成者を得て、遂に明治二十年資本金五十万円を以て、京都織物株式会社を創設せられました、此新会社には総て洋式の織物機械・染機械・仕上ケ機械等の設備がございまして、且つ適当の技師を入れ、学理を基礎として絹織物の製造を開始致しました、所が一時洋風の絹織物の流行が止みました為めに、年々多少の損失を蒙り、終に資本金を四十五万円に減縮するに至りましたけれども、先生始め重役諸氏が鋭意事業の発達に力を尽され、又製品の改良を謀られたる結果、営業の状況漸次に回復致しまして、爾後資本金を一倍して九十万円と為し、工場を増築して年々相当の利益を株主に配当するやうに至りましたが、尚其後資本金を増加して、二百五十万円と為し従前の絹織物の外に絹綿交織物を製造し、又撚糸業を開始するに至りました、是れ畢竟先生等の御経営の宜しかりし結果でありまして、本邦の染織工業に多大の効益を与へられたる一例であります、又先生は帽子事業にも大に力を尽され、嘗て日本製帽会社といふものがございまして、是に先生が多大の御尽力でございましたが、不幸にして其当時利益がなく、遂に此会社を止めるという議が起りました際に、先生の曰く、帽子事業は将来有望のものであるから、先づ暫く堪忍して事業を継続せよといふ御言葉があつたそうでございます、けれども株主等の意見に依りまして、唯表面上製帽会社といふものを解散しまして新たに東京帽子株式会社なるものを起し、さうして先生自ら取締役会長となられて、熱心事業の進歩を謀られました為めに、漸次に同社製品の声価を高めるやうになりまして、今日では帽子の裏に「ベスト、クオリチー、ロンドン」或は「クオリチー、スーピリオル、パリー」とかいふ外国の商標を附けないでも東京帽子株式会社の製品として差支なく取引が出来るやうになつたのは、大に事業の為めに喜ぶべきことでございます、是れも亦偏に先生の経営の宜しきを得たる御功労に因るものと信じます、先づ是等が染織工業に対する先生の御功労の一端でありますが、瓦斯事業に付きましても先生の御功労の多大なることは諸君が能く御存じのことであります、即ち明治七年芝金杉に石炭瓦斯製造所を起し、瓦斯局設立以来事務長として事業経営の任に当られ、明治十八年之を民間に移して東京瓦斯会社設立後も亦委員長及取締役会長として、絶へず斯業の発達に力を尽されましたる結果、二十五箇年間に同社の資本金は二十七万円より漸次に増加し今日では参千五百万円に上り、瓦斯管の延長も創始の時分は至て僅かなものでありましたが、二十五年後の今日では総延長八百六十哩以上に達しまして市中到る所瓦斯の供給を見るに至りましたのは非常の好成績と存じま
 - 第57巻 p.280 -ページ画像 
ます、尚将来東京市府の発展に伴ひまして益々瓦斯の需用を増加することは疑ないことでありますから、斯業の前途は今より一層膨大となり益々瓦斯の必要が起ることであろうと存じます、副生物精製事業も亦随て拡張するようになりまして、今では副生物精製の一として「アムモニア」の液から肥料に供しまする為めの硫酸「アムモニア」のみを造つて居るのでありますけれども、段々之が沢山になりますれば此肥料以外に種々の「アムモニア」塩類を製造することが出来ます、例へば塩化「アムモニア」、炭酸「アムモニア」と云ふやうな必要なる「アムモニア」の化合物を製造することが出来ます、又「ビール」製造や或は冷蔵庫などに必要である所の缶詰の液体「アムモニア」のやうなものも、矢張此「アムモニア」液から出来るのでありますから、将来是等の製造も必ず起るであらうと思ひます、其他「コールター」を蒸餾致しまする事業も、今日では至つて簡単な仕事でありますが、是も将来「コールター」の原料が多くなりますれば、其原料を精製致しまして、種々な薬品や、又染粉を製造する事が出来るやうになります、此染粉と申しまするものは以前は草根木皮で天然物を用ゐましたが、近頃は何れも薬品から造り得る所謂人造染料でございます、現今独逸・仏蘭西・英吉利あたりから年々我国へ輸入して参りまする人造染料の価格は数百万円に達しますから、此中の幾分なりとも日本で製造することが出来たならば、独り経済上利益あるのみならず、染織工業の進歩発達の上にも多大な効益があるだらうと存じます、又此染粉を製造しまする場合には、硫酸とか曹達とか云ふやうな薬品が亦必要になつて参ります、さうしますると瓦斯事業が発達しますれば従つて「コールター」蒸餾の事業が盛になる「コールター」蒸餾事業が盛になれば硫酸や曹達のやうな薬品が益々多く要るからして、一般の化学工業が自然発達することになります、而して又瓦斯工業が追々に発達しますれば、耐火性の「レトルト」或は煉瓦如きものが大分要るやうになります、今日でも諸方に瓦斯事業が起ります為めに、矢張先生が深く御関係になつて居る所の品川白煉瓦会社は大分御忙しい様子でございまして、誠に結構のことゝ存じます、是れ畢竟先生が昔から瓦斯事業に付て御尽力下さいました結果、即ち今日の好況を奏したものと存じまして深く喜んで居ります、どうぞ将来に於きましても相変らす同事業の発達に付きましては御助力下さることを偏に希望致します、尚申上げますれば色々のことがございますが、余り管々しく申上るも却て御迷惑と思ひますから、此位に致して置きまして、終りに臨みまして従来諸工業の発達に関しまする先生の御功労に対して厚く感謝の意を表し、玆に謹で先生の古稀の賀を祝し、併せて先生の御健康を祈ります(拍手)
    祝辞
                     市原盛宏君
私も今晩会長から何ぞ祝辞を申上げろと云ふ御内命を受けた一人であります、所で今晩此席に罷り出ますると、青淵先生始め来賓方のことは別と致しまして、其他諸名士方が綺羅星の如く御揃になり、別して中には先輩諸君も沢山ございますのに、私が何の因果で此処へ引出さ
 - 第57巻 p.281 -ページ画像 
れたらうかと云ふ疑念が起るのです、多分都の方々は物見高くて、田舎者の面構ひが見たいとか、囀る声が聴きたいとか、いふ物好きから斯ういふことをなさるぢやらうといふ疑念もありますが、何は兎もあれ、青淵先生の御祝ひの為めとあれば、私も決して御辞退申す訳に参りませぬ、実は甚だ僭越と心得ますけれども、進んで蕪辞を呈したいと思ひます
人生僅か五十年、七十は古来稀なりとか云ふ古い言葉を聞いて居ります、其七十にお達しになつた青淵先生の、今尚御壮健であり、曩に会長から御話のあつた通に、更に百年は愚か百二十年も御達者で御存命であらうと云ふことを思ひますると、今日事々しく古稀の祝ひなどゝ云ふことをするのは変なやうに思ひます、併し此長寿と云ふことは、確かに人間の一大幸福に相違ない、御互に寄ると障ると若返りたがる先程も待合所で、お前は年を取つたが、己れは若くなつたと云ふやうな話が盛に起りました、星野君などは六つばかり若くなる為めに髯を剃つたと承つて居る、して見ると長命は嫌ひのやうに見へるが、深く考へると長命は人間の一大幸福で、誰でも長命を希望して居るに相違ない、然るに青淵先生は既に古来稀なりといふ七十の長寿を御重ねになつて、その上に矍鑠としてお出なさる、既に其長寿の点だけでも御慶びを申さなければならぬのに、更に御達者であるといふことは又何より結構のことゝ思ひます、人間如何に長生を致しましても唯生きて居るばかりでは何の甲斐もない、別して病気でも致しますれば、寧ろ死だ方が増しだと云ふやうな感が起るだらうと思ふ、長寿必ずしも喜ぶべきものではなからう、強壮といふことが添うて居つて世の中を愉快に送るから慶ぶのである、長寿といふことには無病息災といふことが伴つて始めて芽出度いのである、是は先生に於て既に備つて居る、併し唯長生をして達者の体を持つて居るばかりならば、必ずしも先生を御祝ひ申上げる必要はなかろうと思ひます、随分広い世の中には田夫野郎の中に先生以上の長寿の人が沢山あるだらうと思ふ、故に唯身体が壮健で命長いといふだけでは左程お祝ひ申すには足らぬ、先生は七十年の間に実に偉大なることを為さつてござる、先づ人間といふものは幼少の時から老年まで、目で見耳で聴き、其他総ての官能から受けます所の知識と云ふものを段々蓄へて来る、其知識が本になつて識見――見識が出来て来ると云ふのが人間の豪くなるか豪くならないかの境である、先生は生れながらにして衆人の及ばない頭脳を御持になつて、而も先生の御遭遇になつた時も亦余程珍らしい時代であつた、同じ六十年七十年と申しましても、先生の御一代の六十年七十年といふものは我国でも余程珍らしい、世界でも珍らしい時代である、其間に先生の頭に外界から這入ります知識といふものは実に驚くべきものである、併し其知識が啻に先生が居ながらにして御受になるものばかりでなく、先生は幼少の頃より東西南北、世界各地を御周遊になりましたから、之れに依つて得られたる所の知識は実に深いものである、又先生に近づくことを得て驚くのは、先生の読書力である、先生は啻に現今の東西の知識を集めらるゝばかりでなく、古今の知識を頭脳に集めてゐらつしやる、大抵諸君も御承知でございませう、馬車に乗つ
 - 第57巻 p.282 -ページ画像 
て御歩きなさる間でもいつも本を携へてゐらつしやる、近頃自動車ではどうか、私は田舎に行つて居つて余り見ませぬから承知しませぬが或は自動車の中でも本をお読みになるかも知れませぬ、殊に私の最も珍らしく思ひましたのは、西洋を此前御巡廻の時分に私も御供を致しましたが、どうも有るだけの本を残らず読んでしまって、印度洋に来たら読むべき本がない、そこで何か本はないかといふ御催促で、已むを得ず私が「トランク」の底に抛り込で置いた本を引張り出してお目に掛けた、所が是も亦お読み尽しになつてしまつたといふ状態、実に詰らぬ本でさへも此通お読みになるのであるから、況んや有要なる書物、別して支那の古今名高い書物は必ず之をお読みになつてゐらつしやる、先生の頭には唯現在の東西の知識ばかりでなく、古今の知識が集つて居る、之れに加るに此偉大なる人格、高尚なる人格が備つて居りましたならば、啻に長命と壮健であるといふ無意味なものでなく、先生の如き温厚篤実にして、仁愛義気に富んでゐらつしやる、此偉大にして高尚なる人格が備はり、此人格に此知識が伴ひ、又それに敏腕が伴つたならば、最早人間の宝の中で最も大なるものが備はつて居る所が是だけのものが備つて居りましても、之を活用しなければ即ち隠君子になつてしまふ、或は村夫子になつてしまふ、或は村夫子の中に斯の如き人があるかも知れぬ、青淵先生は是だけの人格を持ち、斯の如き知識を備へ、是より湧いて出る所の見識を持つてござる、其上に之を活用する所の腕前を持つてゐらつしやる、其ために先生の是まで為されたる事業はどれだけであるか、先程会長は大分御算へになつたが、残らず挙げたら、迚も今夜中掛つても算へ尽されぬかも知れぬ、若し先生を非難攻撃する人があつたら、先生が仕事をしないと云ふよりは、余り仕事をし過ぎて困るといふ点である、実際是までさういふ非難を聴いたことがある、けれども是は時勢が然らしめたので、外の者が誰も仕事をしない、維新の当時より今日に至るまで、青淵先生は率先して仕事をされた、又人が是非これにお這り下さい、どうぞ誘ひ導いてお貰ひ申したいと斯う言つて来た時代も、諸君御承知の通あつたに相違ない、そこで先生の為された事業は、政府にござつたときのことは既にお話のあつた通、民間に於ては銀行なり、運輸事業なり、或は保険事業なり、或は農業或は製造事業、其他慈善事業、教育事業若くは文芸事業、殆んど社会各方面のあらゆることは、皆先生の手を触れないものはない、又先生を待たずしてなせなかつたのである、強て先生を非難すれば、余り仕事を為すことが多過ぎるといふ状態である、所で先生の沢山に仕事をなさる中に、諸君も御同感であらうと思ひますが、私はお世辞でも何でもない二つのことを切に感じて居る、一は先生が千手観音様のように手が沢山あつて、色々のことをお遣りになるが、普通一般の人の遣り方と違つて、先生は百の仕事をすれば百の仕事、千の仕事をすれば千の仕事、皆誠心誠意、十分の力をお注ぎになる、其点に至つては一つの仕事をなさるも二つの仕事をなさるも余り変りはない、徒らに色々の仕事を脊負ひ込まれるやうであるが一たび脊負ひ込んだ以上は、全力を注がれて終までお遣にならなければ止まない、大抵道連は途中で労れて、どうぞ止めませう止めませうと言つ
 - 第57巻 p.283 -ページ画像 
ても聴かない、是は実に御互の敬服して措かざる所であります(拍手)其二は先生が是まで、色々の事業を為されたが、先生の事業は皆公を先にし私を後にされた、公と私と伴はなければ必ず私を棄てられたらうと思ふ、之が又御互に先生を敬慕して措かざる所であります(拍手)若し先生が金溜一方にお掛りなすつたならば、恐くは今日でも、富豪の一人であるけれども、これの十倍百倍若くは千倍もお造りなさることが出来たであらうと思ふ、其お腕前と云ひ、機会と云ひ、仕事と云ひ、必ず出来たであらうけれども、先生は仁義道徳の道と金儲けは伴ふべきものであると云ふ御主張を持ち、それを実行してござる、先づ天下国家の利益のために尽す、同時に我利益を収むるけれども、私と公とを混同されない所が、即ち先生の千手観音的に各方面に手を広げて尽く成功する所以であつて、一般の我利我利亡者の仕事と区別しなければならぬ点であらうと思ふ、先生はお前方でもさう遣れば出来るといふお話であるが、私共如何に勉強しても、仁義道徳と金儲けを一緒に遣ることは中々六ケしい、併しながら仁義道徳と金儲けが一緒に出来なければ寧つそ仁義道徳に就くがよい、仁義道徳に欠けても金儲けを致しますと云ふことは、流石に先生の教を受けた吾々にはどうしても出来ない、貧乏は仕方がない、貧乏しても守るべき道は守つて居ると斯ういふ考である、矢張先生の轍に傚ひ、公のためには私を棄て若し公と私と伴つて行くときには併せて取るが宜からうと思ふ、そこで積善の家には余慶あり、先生は斯の如くして生涯を一貫されましたから、御一身の富が成り、御幸福があるばかりでなく、御一族斯の如く御揃ひになりまして、何れを見渡しましても幸福に充ち満ちてござる、実に先生の御長寿ばかりでなく、御長寿の上に御健康であり、其上に偉大なる高尚なる人格を備へ、博識深慮なる頭脳をお持になり、之に加ふるに天下公衆のために是まで種々雑多の仕事をお遣りになつて、而して御一身は勿論御一家御一族に至るまで、斯の如く御栄えになることは、何たる御羨しいことでございませう、併し是は自然の結果であるから、御互大に学ぶべきことであらうと思ふ、凡そ人の一生涯は、各一幅の絵を描いて居る様なものである、或は山水画或は人物画、或は花鳥、人に依つて描方は違ひませう、人に依つて大小の違ひはありませう、或る時は半途にして画を止めなければならぬ人があるかも知れぬ、けれども先生の如き実に偉大なる絵絹をお開きになつて其画の豊富なること実に珍無類、是は必ず明治聖代の傑作として永く千載の後まで遺りませう、其画の中には山水もあり、花鳥もあり、人物もあり、ありと有らゆるものがあつて此画は迚も外の人が真似る事の出来ない程精密巧妙の画であると思ひます、此の如くして七十の年をお迎ひになつて、尚矍鑠たる先生が、願くは更に百年、百二十年の齢を御重ねになつて、長く吾々に教を垂れられん事を切望し、併せて渋沢家其他御一族の御繁栄を深く祈る次第でございます(拍手)
    ○祝辞
                     梅浦精一君
青淵先生、来賓閣下、淑女並に諸君、私は温知会を代表して一言お祝ひを申上げるやうにと云ふ御命令を受けましてございますが、甚だ突
 - 第57巻 p.284 -ページ画像 
然の事で一向何等の腹案もありませず、殊に多くの先輩諸君の在らせらるゝにも拘はらず、私に対し此御命令は誠に恐縮に堪へませぬ、去りながら多年青淵先生の知遇を蒙り居りまする私に於きましては、身に余る光栄なりと存じ僭越をも願みず敢て玆に起立致しました、さて別に事新しくお祝ひの辞を申上げる訳ではありませぬが、聊か感じましたことを申上げてお祝に代へやうと存じます
青淵先生の七十の寿を祝するに付きましては、先刻会長から縷々御演説になりました如く、又市原君からお述べになりました如く、吾々多年先生の知遇を辱ふ致して居ります者は、心からお喜びを申上げると同時に、言葉の上又は文字の上に、精神的有らゆる方法を以て、此お喜びを申上げ尽し得ましたので、尚ほ此吾々の喜びを永く御記念下さるやうにと云ふことから、即ち今日此献品の式を玆に挙ぐることゝ相成つたと考へます、併しながら此喜びは決して吾々少数の会員の擅にすべきものではないと考へます、なぜなれば先刻来段々お述になりました如く、先生の我経済界に貢献せられた御功績否な経済界のみに限らず、弘く社会一般国利の増進民福の発展に終始熱血を濺がれましたことに付きましては、啻に我が日本帝国のみならず世界に反響があるのであります、既に昨年の十月に竜門社の秋季大会に於て祝典を挙げられました際、其新聞が欧米に伝はりまして、亜米利加なり英国なりの新聞は尽く青淵先生の長寿を祝し、其健康を祈つたと申すことであります、是は当時新聞を御覧になつた諸君は必ず御記憶だらうと思ひます、斯る事実から之を証明致しますれば即ち青淵先生の如きは世界を通じての偉人である、功労者である、果して然らば此喜びは決して吾々少数者の擅にすべき喜びではない、即ち宇内各国の人士が此青淵先生の寿を祝するのであります、故に青淵先生の御功績は社会各方面に亘り到底一朝一夕に之を述べ尽し得べきものではありませぬ、随て私如きが此席に於て其徳を頌し御喜びを申上るといふことは、寧ろ蛇足を添へるので、其必要はなからうと思ひます、併しながら唯だ此温知会の立場からして一言申上げたいと思ひます、サテ此温知会と申しますると、今夕御臨席諸君の中此会員以外の諸君には、或は御承知がありませぬ御方もあらせらるゝやに存じまするから、此温知会と云ふものゝ性質如何を一寸前提に申上げなければならぬと存じます、此温知会は一昨年始めて産れ出たものでありまして、此温知会の会員は即ち青淵先生の我が実業界に出られまして以来、先生が産み出されて今日迄お育てになりました所の事業会社である、此数多の事業会社の中には、之を人に譬へますれば或は青年もあり又中年者もあり、或は老人となつた者もあると云ふが如く、要するに色々の会社が此中にあります、所が先刻も会長から申述べられました如く、一昨年先生が各関係諸会社から縁を絶たれるといふことを発表せられました其時に方り各会社は大恐慌を起し、各自種々の事情を陳述しまして、切に御留任を乞ひましたが、一旦意を決した以上には其志の如く許して呉れと斯ふいふ仰せでありましたから、已むを得ずして吾々は涙を呑んでお別れを申すといふことになつた、中にはイヤ己れの方は営利会社ではない、是は文学若くは美術に属して居ることで、決して営利専門でない
 - 第57巻 p.285 -ページ画像 
から青淵先生を離すことは出来ぬと云つて、ダヾをお捏ねになつた為めに、遂に先生も涙脆くもお蹈留りになりましたやうなこともございますが、是れは暫く別として、吾々は悲しく御別れを申上げました、其時に於て吾々は免に角先生に御別れ申しても、多年先生の高風を欽慕して居る吾々同志者は、自今毎月若くは隔月に一回つゝ先生を中心として会合を催ふし、さうして相変らず先生の御高説を承はるやうにしやうではないかといふことからして此関係諸会社の当局者が集りまして此会を組織致しましたので、是れに対して青淵先生から温知会といふ名称を賜りました、即ち今日迄継続致してをります此諸会社は、先生が皆自身でお産出しになつた所の恰も子である、中にはえらい弱い子もあり、又健全に発達して居る子もあるが、其の状態の如何に拘はらず、皆尽く青淵先生の子である、さうして衷心からして先生を欽慕して居る所の各会社の代表者である、そこで此会社の代表者は恰も赤子の慈母に於けるが如き関係であります故に、事あれば必ず先づ之を先生にお告もし又お訴もし、要するに種々の御援助を仰くべき関係になつて居ります、故に吾々は先生の此七十の寿を祝するの喜びは余の人よりも一層切実であると云ふ事を断言して憚らぬであります、吾吾会員は先生が是から八十・九十・百歳若くは大隈伯の所謂百二十五歳何かあらん、今日の如く先生の矍鑠たる御姿であつたならば、百二十五歳といふも決して怪しむ必要はないと思ふ、故に吾々は此次に此会を催しまする時には、今日以上の盛典を挙げ、以て吾々の会社は百万円の資本が二百万円に、又二百万が三百万若くは五百万になりました、吾々の会社は国運の進歩と共に斯の如く発達隆盛の域に達しましたと云ふことを青淵先生の前に申告しましたならば、先生の御喜びは蓋し如何ばかりでありませう、吾々の愉快も亦如何ばかりでありませう、而して吾々は其時節の必ず到来することを深く信じて疑はぬのであります、聊か私は温知会を代表致しましてお祝ひを申上げると同時に、一言希望を申述べて置きます(拍手)
    ○祝辞
                     土岐僙君
青淵先生並に御来賓諸君及会員諸君、今晩は恰も先生の御誕生日に当りまして、御芽出度い席に列ることが出来ましたのは私の最も喜びとする所であります、此御歴々の前で玆に立上りまして一言申上げることの出来まするのは、最も光栄とする所でございます、迚もの光栄序でに御祝言を申上げたいといふことを申しましたら、会長はそれは宜からうといふことでございました、会長が許されましたのでございまますから、青淵先生並に御来賓諸君及会員の諸君もどうぞ五分か六分の間私に此光栄を与へられることゝ自ら極めまして、御祝言として老松の御謡を申します(老松の謡は略す)


竜門雑誌 第二七四号・第一一―一八頁 明治四四年三月 ○青淵先生古稀祝賀会に於ける演説 青淵先生(DK570139k-0004)
第57巻 p.285-290 ページ画像

竜門雑誌  第二七四号・第一一―一八頁 明治四四年三月
    ○青淵先生古稀祝賀会に於ける演説
                      青淵先生
 本編は二月十三日帝国ホテルに於て催されたる青淵先生古稀祝賀会
 - 第57巻 p.286 -ページ画像 
に於ける演説筆記なり
会長、臨場の会員諸君、今夕私の高齢に達したることを御祝ひ下さる為めに、皆様の御申合せで斯の如き盛典を挙げられて、独り私ばかりでなく、一族を尽く御招きを戴いて、此光栄を御与へ下すつたといふことは、実に謝するに言葉がございませぬ、唯今会長を始め、高松君市原君・土岐君・梅浦君、各方面から私の寿を祝し、又今日までの経過に付て、聊か社会に尽したことを、有ると有らゆる御賞讚を下すつたのは、頗る恐縮に絶えぬ次第でございます、殊に先刻待合室に御陳列になりました御品は、去る九日此会の総代として佐々木君・星野君が拙宅に御越し下され、特に御心を籠めて造られたる料紙・硯箱及文台・花瓶等御取揃の品々を御贈与を蒙りまして、篤と拝見いたしましたが、其御心の用ゐ方も洵に懇切にして、実に到れり尽せりと申して宜しいやうに考へます、唯私が左まで功労もないのに、斯の如き皆様からの御同情を戴き、御慰藉を蒙るといふことが、何等の光栄であらうか、或は溢美過賞といふ嫌がありはせぬかと思ふのでございます、併し翻つて再考致しますと、御集りの諸君御連名の名簿から拝見しましても、尽く皆日常御懇親を厚うする御方で、決して此間に何等自ら求めて為し下さるのでないことを信ずるのであります、果して然らば皆様の御好意が、斯の如く御打揃ひで私に及ぼして下さると云ふことが、縦令偶然にもせよ、私の呉々も深く感謝せねばならぬことゝ思ひまして、麗しき御品も拝受し、又此処に参上致して此御礼を申上げまする次第でございます
既に会長其他の諸君から私の履歴に付て、又私の功労に付て御賞讚を下さいました、もう私が之に対して、ではござらぬとか、或は左様でござるとか、申上げます要は殆んどございませぬのです、唯一・二自分の心事を申上げますと、実は私は世に立つて大層な功績を挙げるなどゝ云ふやうな望みを持つた者ではないのです、田舎に成長します時分に、聊かの読書が申さば身の累ひを為して、故郷に居られぬといふやうな身になつて、其時から国家の為めに一命を捧げるやうな意念が附いて廻りました為めに、丁度二十四歳の時に京都へ出まして、其翌春一橋公に奉仕したといふのが抑々一身を変化せしむる初めであつた元来の企望は不肖たりとも其時分の封建政治が不同意であつて、決して是で安穏に国家の富強を致し、社会の隆盛を期し得るものではなからうと云ふ観念が起つたのです、其後種々の変遷があつて、終に今日のやうな境遇に転ずることに立至つたのである、而して其時の観念は漠然と封建を撤して郡県にする、国君は一に帰するといふ、制度でなければ行くまいと云ふことを深く感じましたのです、併し何等頼る所のない身、又知識とてもございませぬから、京都へ参つて意外の仕途を求めねばならぬと云ふやうなことは、業に已に私の出処に於て一歩を誤つたのである、而して其頃の自分の意念は、東西に渉る広い学問のない悲しさ、免角に、国家といふものは、泰平に治るもの、富も期せらるゝものだ、人も感化するものだ、所謂先王の政、聖人の訓へで行けるとのみ考へた、同時に攘夷鎖港といふ事を頻に主張した、続いて海外旅行を致しまして、始めて目が覚めた、外国の文物を見て、始
 - 第57巻 p.287 -ページ画像 
めてさういふ古風の考では此世の中は真正の富強、真正の繁昌を期することは出来ないといふことを心付ましたが、其頃には自分の奉仕する幕府が倒れたといふ不幸に遭遇したのである、故に、私が二十歳以後三十歳頃まで心に懸けて経過した歳月は、全く無益のことに奔走し総てが失敗に終つたと申して宜しいのであります、明治元年即ち慶応四年に日本に帰つて参りました時は、最早自分は死んだもので、此世の中に望みはない、勿論政治などに付ては、智恵もなし学問もない身であるから、之を以て世に立たうなどゝいふ意念は微塵もございませぬ、唯其時に思ふたのは、若も余生を保ち得るならば、商売人の有様が、今日の姿でゐてはどうしても行かぬものであらう、幸に国家は大政が変革されて、私共の理想に帰一したけれども、併し是は形の上の変化であつて、事実に於ては一も完全に緒に就てゐない、政治と云ふものは幕府の時代には僅々たる其家柄の人々が行ふものであつた、之が宜しくないと思ふたが、維新となつても矢張其弊風は継続して居る国家を国民が我ものと思ふ観念はまだ持つて居らぬやうに考へる、而して富といふものも外国人などゝ決して較べ得べき有様ではない、已に町人といふものは非常に卑下せられ、又智恵も乏しく働きも狭い、是故に己れの富を増さうと云ふことには固より考へ到りませなんだけれども、どうぞ商工業を進歩せしめて、日本の国を富まし得る手段はなからうかと云ふ希望を持ましたので、駿河へ参つて実に不規則千万の商法会所といふものを造つて、藩の資本と人民の資本とを合せて、一種の会社的計画を為し始めたのが、抑々日本に会社事業を取開いてた一の手本であつたのです、今日も尚ほ浮月といふ一料理店になつて其家屋はありますが、静岡の紺屋町といふ所に代官所がありまして、其代官所の長屋を会所の事務所に用ゐて、静岡藩が政府から借用した五十三万円の金と、地方の商売人から出金した資本とを集めて、肥料を買ふとか、米を買ふとか、或は工業に力を入れると云ふやうな方法で、事業を起したのでございます、其時から会社組織と云ふことには一心を委ねて見たのである、然るに偶然其翌年政府に召されまして、大蔵省に這入て更に其念慮を増して参りました、到底自分が大蔵省に於て、政治上大に世に貢献することは出来ぬけれども、幸に実際の商売人としてなれば、仮令充分に働き得ぬでも、幾らか他の見手本になると云ふことが、為し得らるるものではないか、と思ふ所から此合本方法の会社組織といふことを頻に主張致して世間に唱道した、今会長が立会略則、会社弁といふものは渋沢が拵へたものだといふ御話がありましたが、如何にも其通りである、今日見ると実にお恥かしいものでございますけれども、当時にあつてはそれだけのものすら、未だ日本では能く之を翫味して呉れる人も甚だ少なかつたのでございます、爾来追々に国運の進んで来た、又有力な政治家が大に力を添へた、同時に其初めは甚だ微々としてゐました商工業が、一年経ち二年経ち、年を重ねるに従つて、決して左様に卑しきものではない大に尊いものだ、重要なものだと云ふことに社会から見られるやうに進んで参りましたに付て、種々なる事業の進歩拡張は、明治の初めに私が予期したどころではない、私自身も驚く程長足の進歩をした、其進歩の程度を
 - 第57巻 p.288 -ページ画像 
考へて見ますると、己れ等経営したことは寧ろ甚だ遅々として居つて自分等の関係せし方面以外に更に大に進んで行つたといふことは、日本の多数の人々の知識が恰も、それに相応する、能力を持たれて居つたものと思ふて、此国運の隆盛を深く喜ぶのでございます、故に私の意念は、最初の政治関係に付ては、重ね重ね失敗したのでございますから、せめては他の方面、即ち政治以外に於て、幾らか国家に貢献することが出来たならばと予期したのが、果して出来たとは申されませぬけれども、併し今夕御集りの諸君が、私の七十になつたのを祝され先刻梅浦君の御話の如くに、各会社の人々が、私の其重役の職を謝絶したにも拘はらず、尚其昔を忘れぬやうにしたいと言ふて下さるのを見ますると、実に喜ばしく思ふのでございます
私は当初此会社事業に付て何等経験もございませなんだけれども、甚だ卑近な譬を申すやうでございますが、彼の古文真宝に柳宗元の郭橐駝の伝を読んだことがあります、是は短かい文章ですがナカナカ面白い、柳宗元は唐の人大文章家です、郭橐駝といふ人は傴僂で、始終杖を突いて駱駝の歩くやうな風がありますために、人呼で郭橐駝と称へた、郭といふ姓の人てある、是が木を植ゑることが頗る名人で、此人の植ゑた木は必ず根付く、独り根付くのみならず生長が早い、生成の早いのみならず花が咲く、実を結ぶ、而して其木が長寿を保つ、長安の富豪が皆郭橐駝を迎へて、さて橐駝先生木を植ゑて下さいと云つて始終持囃されて居つた、そこで柳宗元がどうしてお前はさういふ按排に木を植ゑることが上手であるかと尋ねた所が、橐駝答へて曰く、イヤ私は一向上手でも何でもない、唯木の性質に背かぬやうにするまでのことである、凡そ木を植ゑるに付ては二・三の要点がある、先づ第一に培ひといふことを能くせねばならぬ、それから此土に此木が相応するかといふことを能く知らねばならぬ、植ゑるときに力めて念を入れて、其根を堅固にしなければならぬ、堅固にするといふて只堅くしてはいけない、程好く根の舒びるやうに軟みを持たねばならぬ、植ゑた当時の看護は能く注意しなければならぬ、決して其木に障つたり或は揺したりしてはいけない、而して相当なる耘り培ひをすれば、後は放擲して置くも其木は必ず繁茂する、花も咲く実も結ぶものである、世間木を植ゑる人を見ると、木を植ゑたいといふ念慮が先きであるから、其木が其土地に合ふか合はないか、其土拵へが満足であるかないかといふことは第二に置て、唯植ゑるといふ方だけを勉める、而して植ゑた後は成べく早く花を咲せたいといふから事を急ぐ、大切にするといふて余分の世話をする、甚しきは其木を揺かして見たり、枝を引伸して見たり、枯れはせぬかといふて殊更に木の皮を剥いて見たりする、成程心は愛するに違ひないが、木から見たら、是ぐらい迷惑のことはない、体刑五年の商法改正をすると丁度同じやうに木が感ずるのであらうと思ふのです(笑)それだからして其木が十分に繁茂せず、又美い花も咲かず、実も結ばぬのである、木を植ゑるといふことは講釈をするときには、大層面倒のやうであるが、実は頗る簡易のものであるといふ答をした、そこで柳宗元が再び問ふて、如何にも面白い説である、若し其説を国を治めるの道、即ち政治に応用したら如何であ
 - 第57巻 p.289 -ページ画像 
らうかと橐駝に問ふたら、橐駝曰く、私は木を植ゑることだけ知つて居ります、政治にそれが適応するや否やは橐駝の知る所ではございませぬと答へた、会社の事も私は橐駝の木を植ゑると同じやうな有様があると思ふのです、会社の設立が若し之を植ゑるに地利を計らず、其培ひを密にせず、又其地味に適応せなんだならば、如何に丹誠しても完全な繁茂はせぬかも知れぬ、既に適当な取扱が終つたならば、それから先きは、余り木に痛みを与へたり、愛する為めに迷惑を感ぜしむるやうなことは、力めて避けねばなるまいと思ひます、会社設立及保存の方法も橐駝の木を植ゑる方法を深く攻究して見たら、思ひ半ばに過ぎると思ふのです、自分が長い間各会社に関係しましたのが、決して今申上げまする郭橐駝の木を植ゑる如き手段が行ひ得られたとは思ひませぬ、常に左様なことを思ひつゝ居りましたけれども、智恵の足らぬ、力の及ばぬ為めに、其宜しきを得ぬやうに考へまするけれども併し斯う御集りの諸君が御従事の会社は、殆ど私が御相談に与らぬものは無いと申して宜い位である、而して今日私は殆ど総ての会社を御免を蒙つて、第一銀行だけに関係して居りますが、私の関係致しました各会社が弥増に繁昌して行く所を拝見致しますると、郭橐駝ほどの効能はないにも致せ、蓋し其初め培ひに大に過つたことはなかつたとも見えまする(拍手)、又其以後の木を看護する諸君の力が私以上に勝つて居ることを深く喜びますのでございます
老人を御賞讚下さるといふことは、洵に有難い次第でございますが、此老人のことに付て、玆に其本人が御出でありますから、斯ういふことを申すも如何かと思ひますが、穂積博士は嘗て隠居論といふものを書いたことがあります、此隠居論から考へて見ますると、世の中で老人を賞讚し且つ尊敬すると云ふことは余程近代のことである、ずつと昔は年を取ると実に情ないものであつた、先づ第一には食老と云ふて年を取ると食はれたものである(笑)其食ふといふのは食料の足らぬ時分の仕方である、私共幾らか肉がある方であるが、年取つて痩せたものなどは余り御馳走にはならぬかも知れぬ(笑)けれども免に角食つたものである、それから少し時代が進んで人が水草を追うて移転するやうになり、食料は足りるから骨の硬い老人を食ふにも及ばない、又食べても旨くないから、食老は止めることになつたが、さて敵と戦ふやうな場合に老人ほど邪魔になるものはない、そこで食老変じて殺老となつた(笑)老人は邪魔だから殺してしまへ、併し殺すのは可哀さうだからといふて、更に一歩進んで今度は棄老、老人を打棄ることとなつた、姨捨山は即ちそれである、姨捨山があれば翁捨山もある筈である(笑)其後又更に進んで隠居といふ風習が起つた、隠居論の階梯として食老・殺老・棄老・隠居と斯やうな順序を経たのである、而して此隠居といふものにも、或は政治的隠居、或は社交的隠居といふやうな色々の種類がある、追々に人文の進んで参つて、知識といふものが大に世に必要になつて来たに付て、遂に老人も重要視されるやうに相成つたのである、故に老人の世の中に優待される場合に至つたことは、社会開けてから算へると余程後のことである、そこで私は此の如くに諸君の尊敬を受ける時代に生れたことを喜ばねばならぬのであ
 - 第57巻 p.290 -ページ画像 
りますが、何でも紀ノ貫之の著書に、蟻通しの社の古事が書いてあると聞きました、是は穂積歌子の教へて呉れたことであるが、余程面白い話である、前に申しました如く、老人の尊敬されぬことが中世にも間々ある、西行の著はした書物に、是も博士の隠居論に書いてございますが、何中納言とかいふ人が老年になつて、大勢の若い者から疎んぜられたに付て歌を読んだ、「いずこにか身をや寄せまし世の中に老を厭はぬ人しなければ」、老人といふものは世の中から厭はれた、其時代でありませう、今の「蟻通しの社」といふ古事がある、或る老人を捨てずに仕舞つて置いた人があつた、所が外国から、唐でゝもありませう、或る難問を懸けられた、鉄刀木のやうな木を送り越して此木の本《モト》、末《ウラ》が分るかと問はれた、サア若い連中寄つて群つて詮議しても分らない、どつちが根で、どつちが梢だか、柱のやうに削てあるから分らない、大に弱つた、そこで今の隠して置た老爺に相談をすると、老爺曰く、それは川へ流して見ろ、梢の方が先きに流れ、根の方が後に流れる、やつて見ると果して其通で、一同がスツカリ驚いてしまつた(笑)それから又今度は大きな玉を送りて、其玉に穴が明いて居る此穴に緒を通せと言はれた、所が其穴が真直に明いて居れば誰にも通るが、穴がグルグル廻つて居るから、通しやうがない、そこで若い連中又寄つて群つて評議したが、どうしても通すことが出来ない、すると隠されて居つた老人が、それは此方の穴の口へ蜜を附け、此方の穴の口から蟻を入れろ、さうして蟻の足に糸を附けて置けば、蜜の方に段々蟻が這つて行つて、とうとう其糸が向ふの穴に通る(笑)やつて見ると果して通つた、蟻通しの社といふのはそれである、遂に其事が天子の御耳に達して、そこで老人が甚だ必要ものである、老人を粗末にしてはならぬといふことになつた(笑、拍手)、是は紀ノ貫之の著書にあるといふが、私もまだ聴いたばかりで明瞭ではありませぬけれども、併し昔の老人はそこらで、漸く殺老を免れたであらうと思ふのです、斯う考へて見ますると、老人も若し効能がなければ、仮令此文明の世の中でも殺老とはならぬまでも棄老たらざるを得ぬと私は恐れるのである(笑)そこで先刻市原君が、渋沢は兎に角書物を読むことを好むと仰しやられたのは、棄てられるのが怖い為めに書物を読むと云ふ訳ではないが、蟻通しまでに行かぬでも、せめて鉄刀木の本・末位は分るやうにならうと心掛けた訳であります(笑)今夕は実に深く感謝致すのでございます、此の如き愉快の晩は又再び得られまいと思ふのです、私は今夕で丁度七十二回誕生日を重ねる訳でありますが、従来斯ることには冷淡で、宅で小豆飯一度焚いたこともない位であります、併ながら斯の如く七十二の誕生の幸福を此二月十三日に一夕に尽しますのは実に惜いと思ひます、但し明年直ぐ死ぬといふ訳でもなからうと思ひますから、尚八十若くは九十と此誕生日を重ねて諸君に御祝しを願ひたいのでございます(拍手喝采)


中外商業新報 第八九〇三号 明治四四年二月一四日 渋沢男古稀寿祝賀会(DK570139k-0005)
第57巻 p.290-291 ページ画像

中外商業新報  第八九〇三号 明治四四年二月一四日
    渋沢男古稀寿祝賀会
男爵渋沢栄一氏は既に七十の齢を重ねられたるを以て、男の指導を受
 - 第57巻 p.291 -ページ画像 
けたる人々相寄り、其の生誕日なる十三日の佳辰を選み、帝国ホテルに於て盛大なる献寿の祝典を催せり、正賓たる男爵及同夫人を始め篤二氏及夫人、穂積博士及夫人、阪谷男爵及夫人、武之助氏・正雄氏・秀雄氏等の一族悉く列席し、会員約百五十名集会す、先づ午後六時大食堂を開き晩餐に移る、食堂は殊更華美の装飾を避け、唯だ中央に青緑滴るばかりの巨松に造鶴数匹をしつらい、又天井より無数の造鶴を翩翻と吊し、瑞気堂に満つるの飾付を為したるは一しほ奥床しかりき宴酣なる頃、当夜の会長たる佐々木勇之助氏起つて恭しく左の祝詞を述ぶ
○中略
終つて同氏の発声にて男の万歳を三唱す、次いで高松豊吉氏更らに祝詞を述べ、我が邦の工業未だ幼稚の時、染物事業・織物事業若くは瓦斯事業等幾多の困難に遭遇したるに、男が不屈不撓の精神を以て之を指導誘掖したる事情を詳細に語り、工業界の大恩人たることを述ぶ、次で市原盛宏氏起つて
○中略
次で土岐僙氏は謡曲を以て祝意を表せんと音吐朗々「老松」の一節を謡ふ、梅浦精一氏又祝詞を述べ、先生は実に世界の偉人也、其名は欧米に広く聞へ、外人又先生を仰望すと述ぶ、終つて渋沢男起つて答弁を述ぶ
      △渋沢男の演説 ○前掲ニ付略ス
男の演説は例に依り最も妙を極め、喝采暫し止まざりき、斯くて別室に入り、男を中心とし歓談笑語喃云として尽る所を知らず、和気靉々瑞雲堂に溢れ、何れも時の移るを忘る、十一時漸く散会せり、当夜の出席会員の重なるもの左の如し
 三井八郎次郎・佐々木勇之助・浅野総一郎・木村清四郎・市原盛宏佐々木慎思郎・土岐僙・大橋新太郎・尾高次郎・柿沼谷蔵・星野錫植村澄三郎・高松豊吉・福島甲子三・足立太郎・小池国三・渡辺嘉一・大田黒重五郎・梅浦精一・角田真平・井上公二・服部金太郎・高根義人・堀越善重郎・石井健吾・八十島親徳・杉田富等諸氏百四十余名、