デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

3章 賀寿
2節 喜寿
■綱文

第57巻 p.292-295(DK570141k) ページ画像

大正5年10月1日(1916年)

是ヨリ先、埼玉県大里郡八基村大字血洗島ノ有志、栄一ノ喜寿ヲ祝シテ、同村諏訪神社境内ニ、喜寿碑ヲ建設シ、是日除幕式ヲ挙行ス。栄一、出席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三四一号・第七三―七六頁 大正五年一〇月 ○諏訪神社奉告祭/○青淵先生喜寿碑除幕式(DK570141k-0001)
第57巻 p.292-295 ページ画像

竜門雑誌  第三四一号・第七三―七六頁 大正五年一〇月
○諏訪神社奉告祭 青淵先生の敬神の念厚きは今更喋々を要せざれども、先生は今年喜寿に達せられたるを機として神恩感謝の意を表する為め郷里埼玉県大里郡八基村字血洗島村社諏訪神社に拝殿を造営して寄進せられたるが、同村に於ては九月廿七日同神社祭礼当日を卜し、其奉告祭を執行したり。来賓として式場に参列したるは、青淵先生・同令夫人、其他同族の方々にして、式は午前十時に開始せられ、先づ神官の進饌に続いて祭文朗読あり、次に清水組技師渋沢虎雄氏の建築に関する報告あり、それより先生を始めとし同族一同の参拝ありて式を終り、次で先生には拝殿の廻廊に起ちて社殿寄進の趣旨を述べ、且つ村民に対して益々敬神の念を厚うし敦朴の風を養はれんことを望むとて種々訓戒的演説を為されたり。当日の来賓諸氏は左の如し
 青淵先生  同令夫人  穂積男爵   同令夫人
 阪谷男爵  同令夫人  渋沢武之助  同令夫人
 渋沢正雄  同令夫人  渋沢秀雄   同令夫人
 渋沢敬三  渋沢信雄  渋沢智雄   穂積重遠
 穂積晴子  渋沢元治  清水釘吉   増田明六
 渋沢虎雄  其他郡長及近郷名誉職員
○青淵先生喜寿碑除幕式 青淵先生の出生地たる埼玉県大里郡八基村大字血洗島の村人中心となり、同村の出身者及先生と最も深き縁故を有せらるゝ少数の人々申合せ、先生の本年喜寿に躋られたるを機とし其徳を頌せんとて同村鎮守諏訪神社境内に喜寿碑を建立し、十月一日の吉日を卜して除幕式を挙行せられたり。当日の参列者は昌谷埼玉県知事・島崎大里郡長・八基村及隣村各村長及名誉職員、又東京よりは青淵先生・同令息武之助・同正雄・同秀雄・令孫敬三・同信雄・同智雄・穂積男爵・同令夫人・同令息重遠・阪谷男爵令息希一・渋沢元治明石照男諸氏、及佐々木勇之助・尾高幸五郎・尾高次郎・八十島親徳
 - 第57巻 p.293 -ページ画像 
石井健吾・渋沢義一・諸井恒平・吉岡新五郎・桃井可雄・渋沢虎雄・増田明六諸氏並に萩野博士等にして、式は午前十一時に始まり、発起人総代として渋沢治太郎氏の挨拶、増田明六氏の会計報告に次いで吉岡五郎氏の式辞、八基小学生徒の「仰けば高し」の唱歌あり、斯くて喜寿碑は嫡孫敬三氏の手に依つて除幕せられ、来賓昌谷知事・島崎郡長・八基村長・中瀬村長・八基村小学校長諸氏の祝辞あり、次いで青淵先生の答辞、発起人総代渋沢治太郎氏の挨拶ありて式を終へたり。碑の高さは一丈、幅五尺、題額は公爵徳川慶久氏、撰文は文学博士萩野由之氏、書は阪正臣氏(題紙参照)執筆に係るものにて、当日村人は先生の高徳を慕うて一同稼業を休み、老若男女共に先生の建碑を喜ばざるはなく、又其の温容に接せんとて十重廿重に式場を取囲み、瑞気境内に溢れていとゞ床かりしとなり。
碑文は左の如し
      渋沢青淵翁喜寿碑
 男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てて翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる。余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし。翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども、我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり。翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり。村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり。今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のささらを催しゝに、翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり。翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは村人の深く感謝する所なりと。余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり、翁や世界の偉人として其故旧を忘れず、父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し。翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて興る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり。
  大正五年九月        文学博士 萩野由之撰
   公爵徳川慶久 題額         阪正臣書
又当日血洗島区長吉岡五郎氏の朗読したる式辞は如左
      式辞
 - 第57巻 p.294 -ページ画像 
 大正五年十月一日、埼玉県大里郡八基村字血洗島村社諏訪神社苑ニ於テ、渋沢青淵翁喜寿碑式ヲ挙グルニ当リ、血洗島区長勲七等吉岡五郎、謹ンデ渋沢男爵閣下ニ白ス。我ガ血洗島村民ガ最モ敬愛スル男爵ハ、今年七十七ノ高齢ニ達セラレ、然カモ鑠矍壮者ヲ凌イデ更ニ幾十年ノ寿ヲ重ネラレントス。村民欣喜、我ガ父祖ノ慶事ニ遇ヘルガ如ク、挙ツテ祝賀ノ微意ヲ表センコトヲ思フ。即チ地ヲ男爵ガ崇敬セラルヽ諏訪神社ノ社頭ニ卜シ、玆ニ男爵ノ喜寿碑ヲ建ツ。男爵ガ尊敬臣事セラルヽ徳川慶久公親シク題額ヲ賜ヒ、男爵ノ親友萩野文学博士ノ名文ハ村民ノ情意ヲ尽シ、阪正臣先生ノ霊筆ハ万代ニ鮮明ナラントス。今日碑成リテ玆ニ幕ヲ除カントシ、村民環リ集リ仰ギ見テ、手ノ舞ヒ足ノ踏ム所ヲ知ラズ。
 抑モ渋沢男爵ハ世界ノ偉人ニシテ国家ノ柱石ナリ。其為メニ記念碑ヲ建テヽ功業ヲ記シ盛徳ヲ頌セント欲スル者豈ニ血洗島村民ノミニ止マランヤ。然レドモ渋沢男爵ノ真ノ記念碑ハ、他人之ヲ建ツルヲ須ヒズ、男爵自ラ之ヲ建テラルヽコト既ニ久シ。聞クナラク、過日来朝ノ米国名士男爵ニ告ゲテ曰ク、『余ハ日本国ヲ旅行シテ到ル処ニ男爵ノ記念碑ヲ見タリ。此レ各人ノ口ニ在リ、此レ各種ノ事業ニ在リ』ト。至レル哉言ヤ。而シテ我ガ血洗島ノ地ハ最モ男爵ノ記念碑ニ富ム。森厳ナル諏訪神社ノ本殿ハ、男爵ガ壮年ノ頃率先尽力シテ改築ノ功ヲ成セルモノ、十数年前ノ大修復モ亦男爵ノ寄進ニ依ル今年男爵ハ更ニ壮麗ナル新拝殿ヲ建立寄進セラレ、祭事之ヨリ愈々盛ニシテ神威益々崇ク、子女ノ婚儀ニ絶好ノ式場ヲ得テ和気一村ニ靄々タラン。八基小学校ハ近郷稀ニ見ル良校ニシテ、其校舎ハ男爵ノ寄附ニ依リテ建築維持セラレ、其学業ハ男爵ノ鼓舞奨励ニ依リテ月ニ盛ナリ。其他農事ノ改良ヨリ古俗さゝら舞ノ復興ニ至ルマデ、凡ソ我村ノ施設、事トシテ男爵ノ記念碑ニアラザルナキナリ。而シテ男爵ノ旧地ヲ忘レズ故旧ニ篤キ、常ニ喜ビ進ンデ事ニ当リ、忙ヲ割キ煩ヲ厭ハズ。我村ハ実ニ世界ノ偉人ヲ出セル誇リニ兼ヌルニ、親切ナル父老ヲ有スル喜ビヲ以テスルナリ。故ニ我等村民、神社ニ詣デ学校ヲ過ル毎ニ男爵ノ徳ヲ懐ヒ、春紡ギ秋納ムル度ニ男爵ノ恩ニ感ズ。タトヒ金石ノ記念碑無クトモ、夫ノ米人ノ云ヘル如ク『各人ノ口』ニ依リテ所謂口碑ニ伝ハリ、村民ノ子々孫々永久ニ男爵ノ恩徳ヲ忘レザルベシ。然レドモ男爵ガ自ラ建ツル記念碑アツテ、我等村民ガ男爵ノ為メニ建ツル記念碑ナクバ、何ヲ以テ我等ガ謝恩感激ノ至情ヲ表セン。故ニ男爵ガ喜寿ノ祝賀ヲ機トシテ玆ニ一碑ヲ建ツ。男爵ノ功績ヲ頌センヨリハ、寧ロ村民ノ感謝敬慕ヲ表センガ為メナリ、而シテ又村民ノ子孫ヲシテ、感銘発奮長ヘニ男爵ノ徳化ヲ仰ガシメンガ為メナリ。斯クシテ一村ノ風俗益々敦厚ヲ加ヘ、地方ノ産業愈々隆盛ヲ増シ、以テ理想模範ノ農村ヲ成スニ至ラバ、血洗島其モノガ直チニ男爵ノ記念碑トナリ、血洗島ヲ過グル旅客ハ皆渋沢男爵ノ盛徳ヲ懐ヒ、渋沢男爵ヲ語ル歴史家ハ常ニ血洗島ノ美風ヲ説カン。今日除幕ノ石碑ハ甚ダ大ナラズト雖モ、我等村民ハ努力奮励、更ニ将来ニ無形ノ一大記念碑ヲ樹立シ、以テ男爵ノ厚恩ニ報ヒンコトヲ期ス。男爵閣下、願クハ村民ガ敬愛祝賀ヲ容レ、更ニ愛顧
 - 第57巻 p.295 -ページ画像 
指導ヲ重ネ給ハンコトヲ。