デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

3章 賀寿
4節 米寿
■綱文

第57巻 p.311-341(DK570164k) ページ画像

昭和3年10月1日(1928年)

是ヨリ先、全国実業界ノ有志、「子爵渋沢栄一閣下米寿祝賀会」ヲ組織シ、是日、帝国劇場ニ於テ祝賀会ヲ、東京会館ニ於テ賀宴ヲ催ス。会員総代団琢磨ノ賀詞及ビ来賓総代内閣総理大臣田中義一ノ祝辞ニ対シ、栄一謝辞ヲ述ブ。

右祝賀会席上ニ於テ、発起人代表郷誠之助、記念事業トシテ栄一ノ寿像建設ヲ発議シ、満場ノ賛同ヲ博ス。


■資料

(増田明六) 日誌 昭和二年(DK570164k-0001)
第57巻 p.312-313 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和二年     (増田正純氏所蔵)
三月十八日 金 晴                出勤
○上略
正午日本工業倶楽部で子爵の米寿祝賀会常務幹事会があつた。大橋新太郎・佐々木勇之助両幹事の外ニ小生・西野恵之助・山本久三郎・二宮    《(原本欠字)》の四氏列席した。佐々木氏より本祝賀会ニ対する子爵の内意を伝へて本日ハ具体的協議を止め、只主として当日ニ置《(於)》ける余興ニ関する意見を交換した丈ニした、西野・山本・二宮の三氏は余興ニ関し幹事会ニ意見を述へる為めであつたが、暫く進捗を見合ハす方となつたので、雑談したのミであつた
子爵の内意と云ふは、小生より佐々木氏ニ内話した事なので、小生ハ前回の常務幹事会で祝賀会の計画等を知り、子爵ニ御報告したるに対し、子爵は諒闇中でもあり、又自分は如此祝賀を受くる資格もないから、之が中止を希望する。併し是非銅像を建設するならハ、日本橋畔なとゝ云はすして此飛鳥山邸内ニ建てられてハ如何、此邸は死後公共用ニ提供する考なるニ付き、実ハ本年の米寿を機会ニ此意志を公表せんかとも思ひ居る際とて、祝賀会発起人ニ於て予が意を体し、此建物と庭園とを併せて保存の方法を設くる事とせらるゝならハ、誠ニ好都合だとの御話があつたから、小生としてハ、常務幹事会ニ出席しなから、準備の逐次進行するを知りつゝ不知顔をして居るハ不深切の事なりと、子爵にも御話して同意を得、佐々木氏に内話した次第である。
○下略
三月十九日 土 晴                出勤
前九時半飛鳥山邸ニ至リ、子爵と第一銀行佐々木頭取との会談ニ参列す、折柄阪谷男爵も子爵来訪ニて之ニ加ハられた、佐々木氏より実業家ニ於て子爵米寿祝賀会の計画ある事を話されたニ対し、子爵は大要
 予の取るニ足らさる過去の事蹟ニ対し、祝賀会を催さるハ如何にも恐縮する次第ニて、可相成中止願度も、是非共挙行せらるゝとならハ何卒目下諒闇中でもあるから相当の延期を願度ものである
 又銅像の事も前様の次第で中止を願いたいのであるが、是非とも建てるとならハ、此飛鳥山の庭園ニ位置を定められたいものである。予の此地を卜したるハ明治十一年で、爾来今日ニ至つたのであるから、尚此邸は予の他界後ハ公共用ニ提供したい希望もあるので、幸ニ発起人諸氏ニ於て適当の方法を設けて、将来之を維持せらるゝ事ともならハ、予の仕合ハせである云々
と述べられ、阪谷男爵は
 祝賀会の延期ハ予も同感で、是非延期せられたい。又銅像建設の義は、子爵ハ元来鋼像嫌いなれと、功績を後世に伝ふるとしたらハ、適当の方法ならん、只其位置を発起人諸氏ニ於て東京市中の最も繁賑なる地ニなさんとの希望は如何あらんかと思ふ、諸氏の予定せる日本橋畔ニ付いてハ、自然市会の賛成を求むる事となるだらうが、議員中に一人でも不賛成者があつてハ誠ニ面白くないのミならす、仮令同地上ニ建設しても、将来他ニ移転せらるゝ様の事が無いとも
 - 第57巻 p.313 -ページ画像 
限らない、之等な考合すれハ、矢張り子爵の云はるゝ通此邸内ニ建てゝ貰ふ方が良いと思ふと
云はれ佐々木氏も子爵並男爵の御意見と大体同感に付き、克く常務幹事に語り発起人に報告して何分の御答を為すべしと答へられたるが、小生は
 飛鳥山邸の将来に付いてハ、先きニ子爵より同族ニ諮問し、同族協議の結果は子爵ニ報告しある次第なれハ、同邸の処置に付いてハ子爵より来廿二日同族正員を会し協議せられ、尚来卅一日同族会議の際、同族一同ニ諮らるゝ事と為り居るに付き、本日決定的ニ子爵より云はるゝハ如何かと思惟せらるゝを以て、佐々木氏ニハ此意を含ミ置き発起人ニ御話ありたしと、希望し置きたり
○下略


(増田明六) 日誌 昭和三年(DK570164k-0002)
第57巻 p.313 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和三年     (増田正純氏所蔵)
四月六日 金 晴                 出勤
○上略
正午工業倶楽部ニ於ける京浜実業家主催の渋沢子爵米寿祝賀会特別委員会に出席した
   ○中略。
六月十三日 水 降雨               出勤
○上略
西野恵之助氏に京浜実業有志家ニ於て発起中の渋沢子爵米寿祝賀会は秋季ニ延期を請ふ旨懇談した、右は六月一日開会の予定であつたのが子爵御病気の為め延期してある、夫を十月一日に開催したいと思ふが如何にとの同氏より予て内談があつたので、過日入沢博士に御協議した処、夫れならハ子爵も全快して出席せらるゝならんとの事で今日其答をしたのである。
○下略


中外商業新報 第一五一七〇号 昭和三年五月一〇日 渋沢子の近く米寿の祝ひ 実業界の諸名士が発起で銅像建設の計画も(DK570164k-0003)
第57巻 p.313-314 ページ画像

中外商業新報  第一五一七〇号 昭和三年五月一〇日
    渋沢子の近く米寿の祝ひ
      実業界の諸名士が発起で銅像建設の計画も
わが実業界の元老渋沢子爵は天保十一年二月の生れ、本年八十九歳の高齢で、昨年が恰も子の米寿にあたり、実業界諸名士の発起で祝賀会を開く筈であつたが、諒闇の為延期し、本年いよいよこれを行ふことになつた、発起人は三井・三菱の首脳を始め実業界の主だてる人々を網羅した六十二名で、来る六月一日を以て帝国劇場に祝賀式を挙げられる予定であつたが、子は数日前より健康を害し一時著しく食慾を減じたゝめ非常に疲労してるので、予定の六月一日に出席出来るかどうかを懸念し、右期日を延期するの止むなきに至つたが、発起人側としては子爵の健康の恢復次第なるべく早く挙行したい意嚮であるから、経過さへ順調であれば六月末か遅くも七月初めには挙行することことになるであらう、挙式の当日は渋沢子一族を主賓に、田中首相を初め各大臣・枢密院顧問官・両院議長・各国大公使・政党首脳・都下各新
 - 第57巻 p.314 -ページ画像 
聞社々長約一百名を陪賓とし、それに実業界その他各方面の賛同者より成る主催者側約五百名出席して、帝国劇場に盛大なる祝賀式を挙げついで東京会館に晩餐会を催し、終つて帝劇に山本有三氏作「西郷と大久保」その他舞踊等の余興を催す筈であるが、予定を延期した関係で、これ等の祝賀会順序に多少の変更あるかも知れぬ、なほ子爵が八十九才の今日に至るまで、独り実業界のために貢献したばかりでなく社会各方面の事業に対して尽瘁した功績を記念するために、祝賀会の席上において子の銅像建立のことを発表することになつてゐると


中外商業新報 第一五二八九号 昭和三年九月六日 渋沢子米寿祝ひ 来月一日に決定 子爵の一家を主賓に催される盛大な賀莚(DK570164k-0004)
第57巻 p.314 ページ画像

中外商業新報  第一五二八九号 昭和三年九月六日
  渋沢子米寿祝ひ
    来月一日に決定
      子爵の一家を主賓に
        催される盛大な賀莚
渋沢子爵の米寿祝賀会は、同子病気のため延期されてゐたことは既報の如くであるが、子の健康もこの程全く恢復したので、十月一日帝劇及び東京会館で子爵の一家を主賓とし、各大臣・外交団・実業家を陪賓として、盛大な賀莚を開くことに決定した、当日は午後五時から帝劇で祝賀式を挙行し、来賓の祝辞、子爵の挨拶、それに次で既報の寿像建設計画の発表があり、東京会館に移つて祝宴を催し、終つて再び帝劇で同劇場十月狂言の外、坪内博士補、平山晋吉作「あやかり三番」を見物して散会する予定である、なほ祝賀会・寿像建設準備委員会は日本工業倶楽部に設けられてゐる


竜門雑誌 第四八一号・第一九―三五頁 昭和三年一〇月 渋沢子爵米寿祝賀会(全国実業家主催)(DK570164k-0005)
第57巻 p.314-318 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第一九―三五頁 昭和三年一〇月
    渋沢子爵米寿祝賀会
                  (全国実業家主催)
 夜来の雨は名残りなく晴れて、初秋の空高く澄み渡り、頰に戯れる微風もいとゞ快い。午後四時近く帝国劇場に行く。北入口中央部の二本の柱に燃ゆる朱に白く抱き柏の定紋を抜いた旛が静かに垂れて居るホールには、佐々木勇之助氏や大橋新太郎氏・中島男爵などの顔が見える。座席への出入口の框には旗が交叉してある。左は紅に白く帝劇のマーク翁の面を染め抜いたので、右は白地に紅く渋沢家の定紋を染めたのである。観覧席には未だ人影がない。オーケストラ・ストールの中央稍前に白カヴア目に清々しき一群のシートは来賓席であらう。中に二つクリムソンの色鮮かなのは子爵と令夫人のであろう。中央に立ちて仰げば紅・紫・黄・緑・褐色とりどりのイルミネーシヨンは高く二条の帯となつて瞬いて居る。蓋し天の川を表現したのであらう。時の進むにつれ、会衆は次第に集る。午後四時三十分、子爵は令夫人と共に見える。渋沢武之助氏令夫人・同正雄氏令夫人・明石氏令夫人なども一緒である。婦人休憩室で先著の穂積男爵御母堂や渋沢篤二氏渋沢武之助氏・穂積男爵・同令人夫などと挨拶をかはされる。其内明石さんが見える。佐々木さんが挨拶に来られる。中島さんが来る。渋沢正雄氏・渋沢秀雄氏、並に渋沢敬三氏が見える。郷さんがヒンデン
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ブルグのやうな精悍な顔を出す。阪谷男爵御夫婦が見える。団さんが挨拶に来る。やゝ暫し挨拶の人のとだえた所へ、増田義一氏が写真班を連れて来て子爵外一同をカメラに収める。フラツシユの煙濛たる裡を大川平三郎氏が村山竜平氏を案内して来る。
 此間に休憩所廻りをする。先づ北側の喫茶室を見る。いつも花月の食堂であるが、今日はすつかり模様が変つて居る。四方の壁は雌黄の淡い地に、薄緑と茶色とで大きく抱き柏の定紋をあしらつた大形の襖になつて、青い御簾がかゝつて居る。床は極めて薄い緑に白の縁をつけた真新しい畳のやうで、ありし昔の大奥の広間が偲ばれる。次は三階の喫茶室である。見る限り武蔵野の様で、秋草繁り、薄は穂をなびかして居る。所々に見える立木は栗である、木の間にほの白く見える秋の空は高く澄み、中天高くかかる月には雲もない。草間にすだく虫の音が心にくいばかりに冴えて居る。最後は別館の喫茶所である。紅葉のトンネルをぬけると葭簀張りの小亭がある。閑雅幽邃な日本庭園がとても可愛い。階段を上ると実る秋である。見渡す限り重く垂れた稲穂の波である。案山子の姿も面白かつた。定紋つけた鳴子が振つて居た。三階と別館がほの暗く北側は極めて明かるかつたが、とりどりに趣深いものがあつた。
 かくして五時稍過る頃、開会を告げるベルが長く響く。席に着くと次第書、余興「あやかり三番」の筋書、記念品(竜門社発行の国訳論語・訓点論語並にポケツト論語)を置いてある。頁を繰る音、低き囁が仄かに聞える。
 やがて幕はするすると上げられ、拍手の音一時に起る。
 先づ背景が目につく、上手・下手よき程に紅白の幕で仕切る。両側幕に接して偉大なる老松をあしらひ、上は翠滴る松葉を以て劃る。松の奥は稍疎な竹林の模様、竹の次ぎは姿面白く曲りくねつた老梅である。嵯峨たる枝は上部に於て参差し、紅白の花が銀色燦たる空に美事に咲いて居る。奥深く梅の枝に懸けられたる偉大なる木額一つ、墨痕淋漓題して曰く『祝渋沢子爵米寿』
 中央稍奥まりたる所に子爵を右にして御夫妻が椅子によられる。中央フツト・ライトに近く大形の卓が置かれる。菊の盛花鮮かに、テーブル・クロースのフーカース・グリーンが、床に敷かれた緋毛氈と好箇の対象をなして居る。子爵の後へ近親の方々が一列に位置せられる子爵の右稍離れて田中総理大臣威儀を正して正面を切り、左手、稍離れて中島男爵・団琢磨氏・郷男爵が控える。
中島さんが起つて開会の辞を述べる。
 「之より開会致します。渋沢子爵米寿祝賀会総代団琢磨君の祝辞が御座います」
 団さんが代つて中央に進み賀詞を朗読する。
   ○賀詞後掲。
 読み終ると賀詞をまきをさめ喝采裡に子爵に捧呈する。子爵が進み出て受けられる。フラツシユの光閃々として眩ゆい。渋沢敬三氏子爵に近づき、賀詞を受取る。又してもフラツシユの音、子爵の席に帰られるのを待つて、中島男爵進み出る。
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 「次に来賓総代田中総理大臣閣下の御祝辞が御座います」
 首相悠々と起ち卓に近く進み、姿勢を正し、泰然と眼鏡をかける。フラツシユをきつかけに一礼して後、徐ろに祝辞を朗読する。
   ○首相祝辞後掲。
 中々よい声で呼吸が又素敵につゞく。読み終つて落付払つてまく。私語幽かに聞える。祝辞を卓に置き、眼鏡をはづすや、子爵起ちて挨拶を交はし、首相が席につくと、中島男爵が起つて来て、鳥渡子爵に耳打をする。
 やがて子爵は正面の卓に近くニコニコとして進み出られる。喝采一時に起り、さすがの帝劇も揺がん許りである。
 「感極まつて申上げる言葉を殆んど失ふと申さゞるを得ませぬ。かくの如き光栄を御与へ下さつた諸君に対し深く感謝致します。只今団君から御述べ下さつた事柄も拝聴しましたが、多少溢美と申しませうか、寧ろ恐縮に存じます。然しありがたく拝受致しました。特に総理大臣閣下から、御鄭重なる祝辞をお述べ下さいまして、私の既往の経過に付て、殆んど詳細に、此の点は斯々、彼の点は斯々と個々の関係に付てまで、御読み下さいましたことは、何たる栄誉で御座いませうか、国事御鞅掌の御身柄、殊に百事御多端の折抦に拘らず、斯く詳細に御取調べ下さいまして、斯る御祝詞を賜はるのは実に感極まつて陳謝の辞なき次第で御座います。」
 写真班の包囲攻撃である。オーケストラ・ストールから頻りにやるのに応じ、花道の一隊が盛に活躍する。とうとう舞台際まで乗り出して、押し揉んで居る。
○中略
 約四十分に互る大演説 ○後掲である。一同暫く感に打たれた。やがて盛な拍手が起る。中島男爵が代る。
 「終りにのぞみ、発起人を代表致しまして、郷男爵から記念の事業に関する発議が御座います。」
 郷男爵無造作に代る。
 「本日渋沢子爵の米寿祝賀会を挙行するに当り、記念事業として寿像の建設を発議いたします。
○中略
  斯る次第で玆に発議致すことになりましたが、右設計、敷地の選定等に付きましては、後世に伝へて万遺憾なきことにしたいと期して居ります。敷地に付ては子爵に御縁の深い、然も市民が日常親しみ得る所にしたいと思ふて居ります。東京市当局に於ても、此計画に満腔の賛意を表され、出来得る限りの便利を計らるゝ筈で御座います。何れ設計其他に付ては最善と信ずる案を立てゝ更めて御はかり致す積で御座います。
  本祝賀会は東京のみでなく、全国各地の子爵と御懇意の方を網羅して居ります。斯くの如く意義深き所以に鑑み、一同を代表して発議した次第で御座います。御賛同下さるよう切に希望致します。」
会衆拍手を以て賛意を表す。
 「御賛成を得たやうに存じます。何れ更めて御はかり致します。」
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中島男爵代る。
 「最後に簡単に御報告致します。本祝賀会の機会に於て、本会及び子爵に宛て、約百通の祝電が参つて居ります。就中米国各地の在留日本人会、在米の有力な日本人、並に米国の有力な政治家・実業家学者及宗教家から参つて居りまして、合せて今申上げた百に近い数になつて居ります。
  それでは式を終り、晩餐会に移りたいと思ひます。食堂は東京会館に設けましたから、トンネルを通つて御いでを願ひます。」
拍手の内に幕をしめ、子爵及令夫人を先頭に地下道を経て東京会館に行く。
 席は四階の大食堂一杯に設けられた。仰げば大サンデリヤ二個光輝燦然と垂れ、八方に渡した緑葉に近く、胴の長さ七八寸の丹頂の鶴数百が飛んで居る。祝宴の始まつたのは午後六時半過ぎる頃、献立は次の通りである。
 一、雁肝      ベルビユウ
 一、スープ     ペテー・マルミツト
 一、伊勢海老    マヨネーズ・ソース
 一、若鶏      デミドフ
 一、サラド     フルーツ
 一、アイスクリーム アマンド
 一、果実
   コーヒー
 メニユーには定紋が品よく打ち出してある。輪の内の地を小紋に打ち出したのが面白い。デザート・コースに入ると、ゾルフ大使が偉大なる体躯を起した。すると突然猛烈な音が爆発した。蓋し電気による強力なフラツシユの爆音である。騒音稍静まるを待つてゾルフ大使の力強い声が響く。
   ○ゾルフ大使演説後掲。
 "Banzai"
 「万歳」!
 一同唱和、万歳の正確な発音に驚く、杯のふるゝ音が静かに聞える子爵が代つて起たれた。喝采、会館を揺がし、中々止まぬ。
 「私が米寿を迎へましたに付て、今夕斯くも盛大なる祝宴を催して下さいましたことは、身に余る光栄でございまして、実に自分の生涯中嘗て感じたことのない程の感謝の念に充たされて居ります。
   ○中略。
 今夕の皆様の御厚意を拝謝し、かく世界的に御集りの皆様の健康を祝する為に盃を挙げたいと存じます」
 拍手裡に一同起立乾盃の後、宴を撤したのは時に午後七時三十五分それから余興を観る為め帝劇に帰る。子爵其他主賓の著席せられるのを待設けたやうに幕は開く。
 此祝賀会の為めに作つた「あやかり三番」である。幸四郎の弥栄の翁の顔の粉粧がうまかつた。次は西洋舞踊、最後は船弁慶である。梅幸の動く度にハラハラさせられた。かくて子爵其外一同退出せられた
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のは午後十一時に近かつた。
 此の日の出席者は朝野の名士千二百名に上り、東京・横浜のみならず京都・大阪・神戸・九州・東北・遠くは朝鮮・北海道より来り会せる人々も少なくなく、実に未曾有の盛会であつた。


子爵渋沢栄一閣下米寿祝賀会記念録 第一―六〇頁 刊(DK570164k-0006)
第57巻 p.318-340 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

実業之日本 第三二巻第一号・第三一頁 昭和四年一月一日 揉手論 渋沢子爵のもみ手 山下汽船会社長 山下亀三郎(DK570164k-0007)
第57巻 p.340-341 ページ画像

実業之日本  第三二巻第一号・第三一頁 昭和四年一月一日
    揉手論
      ◇渋沢子爵のもみ手◇
              山下汽船会社長 山下亀三郎
 揉手と云ふことは、自分の年輩の人ならば此言葉を覚えて居るけれども、今日の働き盛きりの三十・四十の方には御解りにならんかと思ふ。揉手とは両手の手の平を互に組合はすことを申すのである。
        ×
 恐らくこれは昔、人に向つて釈明をしたり或は弁解をしたりするときに執つた態度であつたらうかと思ふ、そしてそれが自然と恭倹とか謙譲とかを表明する態度となつたものと思はれる。そこで渋沢子爵が数十回の第一銀行株主総会に於ての御演説、或は各学校、各宴会その外々の会合に於ける御講演・御挨拶等に於て、その聞く相手が児童であらうが壮年であらうが、又如何なる位置の人或は高位高官であつても、毫も其の態度変らず同じ恰好で揉手をされて御話をされて居る。
        ×
 これは私が常にどうしてあゝ云ふ態度を執られるかと云ふ事を考へて注意して拝見して居つた訳であるが、かう云ふ恰好を遊ばすのは、恐らく子爵が傲慢とか、無礼とか、不謹慎とか云ふ様なことは徹底的に御嫌ひであつて、常に御自分を謙遜され、譲歩の態度を執る事を御主義とされる事が遂に習をなして、玆に子爵の揉手の態度となつた事と思ふ。さうしてその御演説・御講演に於ても「自分は斯く断言する」とか、「絶対に斯くあるべし」とか申す言葉を少しも使はれないで、「かうではなからうか」「あなたの御議論としては、かふなるが、これでよいのであらうか」と申す風な言ひ現はし方であつて、独り態度に於てのみならず、言葉に於ても揉手の意味をかへられ、如何なる時如何なる場所にても、相手方に不満不快の念を加へない様に御配慮になつて居る様である。それが多年の御鍛錬を経て其態度御言葉に少しも無理がなく、幾千幾百の聴衆をして自然に納得せしめ、独りでに其御説が聴者に徹し、しみ込む事になるものと見受ける。自分も不肖乍ら、此点に気が付いて非常に学んで居るつもりであるが、未だ子爵の百分の一にも達し得ざる事を恥ぢ且遺憾として居るものである。
        ×
 然るに玆に一つ大変な例外をつい先達つて見出した。それは十月 ○昭和三年一日、子爵の米寿祝賀会が官民合同で帝劇で催された時である。其時は絶対に揉手を御つかひにならなかつた。時々手をテーブルにつけられて、強い御言葉を御つかひになつた事があつたが、此例外は蓋し明治六年官尊民卑の弊極端な際に、これでは駄目だと思召されて、弊履の如く官を捨て、民間に下られ、爾来今日まであらゆる財政経済に関する御指導に身を捧げられた御自分今日迄の御経歴の一端を述べらるゝに当り、「官」に対する「民」と云ふ点に就て一種の強き信念を持つて居られて、吾々実業に従事して居るものゝ意気を刺戟鼓舞さ
 - 第57巻 p.341 -ページ画像 
れたものかと思ふ。
 歳晩多忙の際甚だ簡単乍ら、子爵の揉手に就て御申入の責を果す。