デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 9. 浅野総一郎
■綱文

第57巻 p.458-462(DK570215k) ページ画像

昭和5年11月9日(1930年)

是日、浅野総一郎逝ク。栄一、夫人兼子ト共ニ同家ヲ弔問ス。十三日栄一、其葬儀ニ参列ス。


■資料

中外商業新報 第一六〇七九号 昭和五年一一月一〇日 浅野総一郎翁逝く きのふ高輪の自邸で(DK570215k-0001)
第57巻 p.458 ページ画像

中外商業新報  第一六〇七九号 昭和五年一一月一〇日
    浅野総一郎翁逝く
      きのふ高輪の自邸で
三年間の予定で欧米漫遊の途に上り、ドイツにおいて食道狭窄症の病重り、本年八月急遽帰朝して芝高輪の本邸に療養中であつた浅野総一郎翁は、先月十日ごろ肺炎を併発し一時小康を得てゐたが、四・五日前より肺炎併発して重態となり、三浦・佐藤・南の諸博士が日夜つめきり看護に努めてゐた甲斐なく、九日朝病革つて危篤に陥り、午後零時五十二分遂に逝去した、享年八十三、翁臨終の枕頭には長男泰治郎氏を始め良三・八郎・良夫の令息外穂積重遠博士等多数の親戚つめきり、最後の別れを惜んだ、訃報を聞いて渋沢老子爵夫妻を始め、安田善五郎・阪谷芳郎男・大川平三郎・田中栄八郎氏等財界各方面の名士が続々と見舞ひ、邸内は折から降りしきる秋雨のしめやかな中にも非常な取込みを見せてゐる、なほ告別式は十三日午後同邸において営むことになつた
○下略


竜門雑誌 第五〇六号・第五五―五六頁 昭和五年一一月 浅野総一郎翁逝く(DK570215k-0002)
第57巻 p.458-460 ページ画像

竜門雑誌  第五〇六号・第五五―五六頁 昭和五年一一月
    浅野総一郎翁逝く
 - 第57巻 p.459 -ページ画像 
 欧米漫遊中ドイツにて食道狭窄症に罹り、本年八月急遽帰朝し、大磯の別邸或は芝高輪の本邸に於て療養中であつた浅野総一郎氏は、十月十日頃より肺炎を併発し、一時小康を得て居たけれども十一月四五日より重態となり、三浦・佐藤・南等の諸博士日夜つめきり看護に努めて居た甲斐もなく、遂に九日早朝病革り危篤に陥り、午後零時五十二分眠るが如く逝去された、享年八十三であつて、本社会員としては青淵先生に次ぐ最高齢者であつた。翁の臨終枕頭には長男の泰治郎氏の外、近親の人達がつめ切り最後の別れを惜んだが、訃報が伝へられると、青淵先生・同夫人・安田善五郎氏・阪谷男爵・大川平三郎氏等の名士が折柄降りしきる秋雨のしめやかなうちに続々と見舞つた。
 而して葬儀は十三日午前十時半から、芝区田町の本邸にて盛大にしかも静粛に執行されたが、定刻総持寺貫首秋野好道師以下廿数名の僧侶の壮厳な読経に次いで、親族並びに関係参列者の焼香が行はれた。そして午後零時半からは告別式に移り、東伏見宮・久邇宮両殿下の御使も畏く、その他浜口首相代理鈴木書記官長・幣原外相・一木宮相・井上蔵相・渡辺法相・田中文相・阿部陸相代理・青淵先生・高橋是清水野錬太郎・岩崎久弥男・串田万蔵・ベルギー大使・オランダ公使・山本悌二郎・永田市長・藤山雷太・大川平三郎・山下亀三郎氏など政界財界の有力者多数参列焼香を行つたが、後葬儀委員長阪谷芳郎男の挨拶があり、終つて午後三時遺族近親の人達は霊柩を守つて鶴見総持寺に向ひ、同寺にては本堂正面に霊柩を安置の上焼香し、夕方暮色の裡に埋葬した。尚ほ翁の略歴は左の如くである。
 嘉永元年三月、富山県人医師浅野恭順氏の長男として生れ、明治七年分家して一家を立てた、少年の頃より東京に出で具さに辛酸を嘗め、後横浜に到り薪炭商を営む、後石炭を王子製紙に納入して居た処から青淵先生に近づきこの頃から実業界へ飛躍の運命が開けた。即ち先づ浅野セメント会社を興し、又回漕業を経営し、進んで東洋汽船会社を創立し、斯くて漸次実業界に地歩を占めるに及び、今日では浅野同族・浅野セメント・浅野物産・浅野造船・庄川水力電気浅野小倉製鋼所・沖電気・京浜運河を初め、廿五の有力会社の社長と十数会社の相談役及顧問となり、我が国実業界一方の巨頭として重きを為して居た。従つて先年各種公共事業に尽瘁した功により従四位勲三等に叙せられたが、更に十二日畏き辺りにて翁の多年実業界に貢献したる功を思召され、特旨を以て左の如く位勲昇叙の御沙汰があつた。
   故従四位勲三等  浅野総一郎
   叙正四位(特旨を以て位一級追昇せらる)
   叙勲二等授瑞宝章
さらに葬儀委員長たりし阪谷芳郎男は、翁の逝去に関して目をしばたたきながら左の如く語らる。
 浅野翁の逝去されたことはまことに惜しい、明治の御代には政治・経財・芸術その他各方面に偉大な人物を非常に多く出してゐる、その中に大なる工業家の一員として浅野翁を数へることができる、翁は身体が丈夫で、意思の非常に強固な人で、一たん思ひ立つたこと
 - 第57巻 p.460 -ページ画像 
は必ず遣り通すといふ風であつた、翁の企業は幾多残されてゐるが中でもセメント工業と航海事業今日の発達は全く翁に負ふ所が偉大である、事業は何によらず実に大規模で積極的であり着眼が早く理解力が鋭かつたので、故安田翁はそこを見込んで浅野翁に金融をして居られた位だ、ある人が浅野翁を評して「翁がアメリカに生れてゐたら、もつと大事業をしたであらう」といふことであつたが、蓋し適評だと思ふ、翁が学問を充分受けてゐなかつたことは長所であり、同時に短所ともいへやう、それは教育が充分であれば更に偉大なる事業が残つたであらうし、また一面教育を充分受けなかつたことが各種の事業を成功せしめたとも見られる、今後あれ程の大事業を遣り通す翁の如き大人物が出るかどうかは疑はれる、翁は非常に謙遜であり親切な人であつた、返す返すも惜しい人を亡くした。


竜門雑誌 第五〇六号・第一―五頁 昭和五年一一月 浅野総一郎氏を追悼す 青淵先生(DK570215k-0003)
第57巻 p.460-462 ページ画像

竜門雑誌  第五〇六号・第一―五頁 昭和五年一一月
    浅野総一郎氏を追悼す
                      青淵先生
 浅野さんも遂に逝去されたが、私としては此の高齢の友を失つて残念千万であると申さずには居られません。想へば五十数年の長い交りであつて、お話すべき事柄は決して少くないのであります。元来浅野さんは身体の丈夫な方で、病気に罹つてからもよく堪へ、あの様子では或は再び持ち直すであらうか、とさへ思はれたけれども、肺炎を併発したのが、遂に死因となつたとか云ふことであります。
 浅野さんは学問のある人ではなかつたが、時世の進みを目敏く察して、事業上から国家社会に貢献した人で、たゞの商売人や事業家には珍らしい人でありました。そして相当知識のある人々より以上に欧米にて実施せられて居ることを我が国にて実行した。勿論仕事は必ずしも学問的ではなかつたやうでありますが、又悉く向ふ見ずのやり方でもなく、自然に学理に適応したもので、それを理論上から講釈することなく、黙つて実際に行つたのであります。私との交りは長いばかりでなく頗る親密であつたから、なかなか頑固であつたに拘らず、私の言葉はよく聞きました。但し時に「渋沢などの言ふことは古い」とて疎んぜられたこともあります。初めて会つたのは明治六・七年頃であつた。当時浅野さんは私の経営して居た王子の製紙会社へ石炭を売り込んで居た処、製紙会社の支配人谷敬三と云ふ人が「浅野と云ふ石炭屋は変つた面白い人物で実に勉強家であるが、貴方に会ひたいと云つて居る故、一度会つてくれないか」とのことであつた。私は「何時でも会ふが、何分用事の多い身体であるから、たゞ談話をするならば差支ない時間に来て欲しいと思ふが、それには早朝がよいであらう」と答へて置いたところが、言葉通り朝早く三・四度も七時頃に訪ねて来た。併し私は朝寝の方で八時頃までは何時も起きないから「朝早くと云つても寝て居る内に来るとはぶしつけだ」と思ひ、「では夜来たらよいだらう」と云つた。すると夜十時頃になつてやつて来たので「十時頃では遅過ぎるではないか」と詰問すれば、浅野さんは「でも朝の七時頃から夜の十時頃まで私は仕事をして居るので十時にならねば身
 - 第57巻 p.461 -ページ画像 
体が閑にならぬ、だから私が仕事をして居る時間の中でなければ会へぬならば、会つてやらぬと云はれるのと同じである」と返答したのでお互ひに笑つたことでありました。
 其後屡々会つて居る内次第に懇意にもなり大変勉強する人だといふことも知つたのであるが、話す事柄は俗なことばかりでありました。併しその行ふ目的は事業を進めるにあつたので、真にそれは学理に依つたものではないけれども、行ふ仕事が新らしく大きく、成就すれば国の為め世の為めになることであつて、口にはそうは云はないが、事実は国の為め世の為めに働いたことになるのであります。而も算盤を持つてかゝるのであるから、世の算盤が立たず議論のみする学者や、自分の算盤勘定ばかりで世を渡つて行く者等とは比較にならぬ人でありました。其上事業に就ては単に一局部ではなく全体の成行を見極める能力があり、その事を起す場合に於ても順当の経路を踏んで行くといふ風で、感心にその見込みが早く立つのでした。即ち斯うして会つて話して居る間に、私は浅野さんの人と成りを知り、自然に親密の度を加へて行つたが、浅野さんが最初に起した会社事業はセメント製造でありました。それは当時政府事業の一つで、大鳥圭介と云ふ人がたしか局長か何かで管理してやつて居たのを、払下げてもらつて、民業として経営することにしたが、それも殆んど浅野一個人の働で発展せしめ、遂に今日の有様にまで拡張したのであるから、我が国としては浅野さんがあつて初めてセメント事業が起つて来たと申してもよい程であります。セメント事業の外浅野さんの開始した事業は船舶・製鉄埋立などがあり、何れも国家的の事業であるため、独力ではなかなかやれぬのに、社会の進みが其処まで来ないので、事業そのものが往々未成功と云ふ結果になる惧が多かつたのである。蓋し物事は斯く斯く進むものであるとの考へでやらねばならぬのであつて、浅野さんは何時も社会より一歩先へ出た、従つて各方面がその事業に追ひつき得なかつたと申すべきでありませう。
 私は何れかと云へば質素の方であるが、新事業を進めるに就ては浅野さんと同じやうな考へで、進歩的なことをあれこれと始めさせた。また浅野さんの事業に対しても、出来るだけ賛成して経営にも力を添へて来た。併しその製鉄事業と東京湾の埋立事業には全く賛意を表せず、少しく行き過ぎであるとしたのでありました。尤も私個人としては相談相手ともなり、賛成した事業に対しては出資もしやうとし、資力が少いから充分なことは出来なかつたが、能ふ限りは出資することにした。たゞ第一銀行としての金融の関係は、余り深く立入ることを避けたのであります。
 実際浅野といふ人は、度胸があり時勢に先んじて事を進める、換言すれば、世の進みを呼び出すといふ風な事業の仕振りをする人であつて、進むに勇気があつたが、退くことの出来ない欠点を持つて居たのは遺憾であります。それでゐてなかなか細かな点にまで眼がとゞきました。例へば埋立に関しても、土は一坪幾ら幾らで取れると云ふやうなことまで調べて居たので、安田善次郎さんがひどく感心して事業上の相談相手となり、相当思ひ切つて金融するやうになつたのでありま
 - 第57巻 p.462 -ページ画像 
す。又仕事に対する熱心な努力振りは驚くばかりで、夜眠らないで工場を見廻つたりしました。兎に角、満足に成功したとは断言出来ないが、かくの如く努力した結果と、安田銀行で多大の金融を継続したため、セメント工場其他のものも今日の如く次第に増設拡張されて来たのであります。
 私の知る範囲の浅野さんの事業は船舶・セメント・製鉄・埋立等であり、更に外国の石油の輸入を取扱つて、仲次商売もしたが、一番初めは石炭商でありました。前にも述べたやうに、浅野さんを知るに至つたのは、王子製紙へ石炭の売込をして居たからで、後その他の事業に私が第一銀行の経営者として金融し、又新事業の資本者ともなつたのであります。詳細のことを話すと長くなるが、要するに五十数年の交りを続けた間柄で、最初はそれ程でもなかつた事業が、年と共に大きくなつて行き、勢ひ私とのさうした事業方面の関係も深くなつたのであります。そして繰り返して云ふやうであるが、頗る新事業に対して熱心、それを開拓するに勇敢、その念慮は事業の進歩にのみあつたやうで、自己の為めに仕事をするといふ方ではなかつた、勿論浅野さんは事業を起すに当つて損益のことを云つたが、それを国家のためにとか、社会の進歩を促す為めに役立たしめるとか、得て人々の云ひたがることを口にせず、尚ほ学問的に系統立てゝ話すこともしなかつたから、知らぬ人には損得を目標に置いて事業をしたやうに誤解されて居り、何んでも徒らに大げさな事業を好む者と思はれて居たやうでありますけれども、口に国家や社会を吹聴しない浅野さんの事業は、実に我が国の経済的進歩をいくら促進したか知れないのであります。故に浅野さんに学問をさせて居たならば鬼に金棒であつたと思ふが、それも今は致し方のない愚痴に過ぎません。欠点は進むことを知つて、退くこと、止ることを忘れた点で、物事に熱中する処からさう云う風になつたのでありませう。今日浅野の事業は全然行過ぎた嫌がないとは云へぬ、併し実際折角あれまでに、いろいろ事業が拡大されて居るのであるから、立派な後継者の手で完成されるであらうと思はれ、事業上憂慮する点はないのであります。
 不幸にして此処に逝去されましたが何分八十歳以上の高齢である。私が云ふのはおかしいとは云へ、人には定命がある、生命には限りがあります。惜しい人を死なしたと云つても、幾つまでが惜まれてよいものであるのか疑はしく一概に申せないのであります。併し浅野さんの場合は惜んで余りあります。誠に浅野さんといふ人は素直で、遠慮がなく、物判りがよく、快活で気持のよい人でありました。たゞ事業上から云へば、今少し早く総ての事業の締括りをして居たならよかつたらうと思ふのでありますが、それは今に及んで云ふ私の愚痴に近い望みでありませう。(十一月十日談話)