デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 16. 水野幸吉
■綱文

第57巻 p.480-486(DK570239k) ページ画像

明治43年3月28日(1910年)

是日栄一、飛鳥山邸ニ於テアメリカ合衆国ニュー・ヨーク駐在日本総領事水野幸吉ノ送別会ヲ催ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570239k-0001)
第57巻 p.480 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
三月二十八日 小雨 軽暖
○上略 午後四時王子ニ帰宿シ、水野氏送別会ヲ開ク、中野・日比谷・佐竹其他来会者男女合計二十人余、晩飧中女優ノ余興アリ、夜十時過散会ス


竜門雑誌 第二六三号・第八〇頁 明治四三年四月 ○水野幸吉氏送別会(DK570239k-0002)
第57巻 p.480 ページ画像

竜門雑誌  第二六三号・第八〇頁 明治四三年四月
○水野幸吉氏送別会 青淵先生には曩に渡米実業団の一行と共に帰朝せられたる水野君夫妻が帰任せらるゝにつき、送別の為め三月二十八日飛鳥山曖依村荘に於て饗宴を催されたり、当日の賓客の重なるものは水野君夫妻を始め中野・大谷・日比谷・佐竹・岩原・神田男・同夫人・堀越夫人等渡米実業団の一行にして主客二十六人、余興には帝国劇場附属技芸学校生徒の演劇・喜劇・所作事等ありて散会せり



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛 (明治四三年)六月一一日(DK570239k-0003)
第57巻 p.480-481 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  水野幸吉宛 (明治四三年)六月一一日  (渋沢子爵家所蔵)
 - 第57巻 p.481 -ページ画像 
其後心外御疎音仕候、賢台益御清適御坐可被成抃賀之至ニ候、過般令閨より荊妻へ之御書翰ニよれハ、御航海中風濤強く随分御困難なりし由、嘸御苦労被成候事と、自己之怯弱ニ思ひ比して深く御察申上候、実業団誌編纂之事も巌谷・加藤両氏ニて引続き尽力罷在、御出立前御打合申上候外務大臣ヘ報告書中刪除致候方可然と存候廉々ハ、田中君ニ於て丁寧ニ校閲せられ候ニ付、多分不都合等無之と存候、只部類之多き為め追々と遅延致し時機を誤り候哉と心配仕候、時々催促仕候も隔靴掻痒之憾有之候
爾後貴地一般之人気ハ如何御坐候哉、頭本氏過日帰朝被致候も、駈違ひ今以て面会を得す候、本月末ニハ韓国より家族を纏め来候由ニ付、其上緩々会見之積ニ候
昨日桑港永井氏より来書有之、同地之有様ハ幾分改善之由申来候、牛島氏とも時々往復し、且国交上之注意申遣居候
貴方ハ格別ニ無之候も、桑港・シャトル其他各地より渡航之来客頻々にて応接ニ忙殺せられ候、所謂作りし罪之報酬とか、蒔たる種子之蕃殖とか、善意にも悪意ニも解釈し得べく候も要するニ日米国交上之一班と相心得尽瘁罷在候
右近況申上度匆々如此御坐候 拝具
  六月十一日
                     渋沢栄一
    水野盟台
         玉案下



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛 (明治四三年)九月二八日(DK570239k-0004)
第57巻 p.481-482 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  水野幸吉宛 (明治四三年)九月二八日  (渋沢子爵家所蔵)
爾来益御清適御坐可被成欣慰之至ニ候、然者先般御添書持参ニて渡航せられ候ウオールト新聞社員も、先其予期之如く当方ニて之調査出来し、又各方面ニ於る待遇も別ニ不足之感ハ無之事と存候、小生も一文章之意見を求められ候ニ付、愚見相認さし出置候、貴地ニ於て其後之模様如何ニ候哉、御序御知らせ被下度候
頭本君之事業も未た以て充分ニ発展いたし兼候由ニて、過日外務省ニ打合之必要有之とて出京せられ、爾後再三会見之上貴地之情況も承及申候、同人帰任後之景況如何、何卒予期之如く日米間の政治経済事情を同氏之力ニより幾分接近候様企望之至ニ候
過頃ハ東洋汽船会社之用務を帯て大川・白石之両人貴地ニ罷出、定而色々と御世話相掛候事と存候、同会社も中々世話のやけ候現況ニて、時々小言やら助力やらにて日を暮し居候、大川・白石も明後日ハ帰京と存候ニ付、貴地及桑港等之模様も承及候事と楽居候
政事界ニハ韓国併合抔之可喜事共も有之候得共、同時ニ責任相増候義を懸念いたし候為めか ○中略 人気頗る沈静ニ御坐候、尤も余り浮立候事ハ却而不為之基ニ付、沈着いたし候ハ尤以可悦事ニ御坐候、夫ニ反し客月々初之水害ハ実ニ非常之惨事ニて、東京府下ハ勿論遠近二十県計ニ亘り水害之災厄目も当てられぬ有様ニ御坐候、小生も其頃北越地方旅行中之処、右之新聞ニ接し急行帰京、爾来災後之救済ニ苦辛罷在候
 - 第57巻 p.482 -ページ画像 
東京ハ稍善後之方法も相立候得共、各県ハ何分届き兼候由ニ候、かゝる場合ニハカーネキー又ハロックヘーラー氏等之如き大富豪ありて、完全之救恤方法相立候ハヽ、実ニ喜悦之事と、小生も致富之拙なりしを歎息仕候
先頃大坂ニ罷越候時、岩本氏ニ面会仕候、同人之宿望も明年頃ニハ発表致度と頻ニ家政之整理ニ尽力中之由ニ候、何卒善事ハ思ふ計ニ止めすして、其実施を企望仕候義ニ候、至極実着之人ニ付、決而虚言ニ終り候義ハ有之間敷と存候
日米之親交昨今之状況如何ニ候哉、小生輩ニハ表ニ現れて始而之を知るの外便宜無之候、未然之事も妨なき限りハ時々御洩し被下度候、右等近状御伺旁一書申上候 匆々拝具
  九月廿八日
                      渋沢栄一
    水野盟台
         玉案下
 尚々令閨ヘ宜敷御伝声被下候様願上候、此方荊妻より呉々御踈音之謝詞申上候、是又御申通し被下度候



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛 明治四四年四月一九日(DK570239k-0005)
第57巻 p.482-483 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  水野幸吉宛 明治四四年四月一九日  (渋沢子爵家所蔵)
其後心外御疎音ニ打過候得共賢台益御清適御坐可被成奉遥賀候、貴方よりハ毎々御消息被下候処、其都度御回答も不申上、等閑之段御海容可被下候
日米間爾来之政況ハ、新条約も締結ニ相成、且先頃加州ニ於て上院之議ニ上りし土地問題も、幸ニ大統領之尽力ニて沙汰止ミと相成候由ニて、稍小康之姿ニハ候得共、兎角物情騒然之嫌有之、懸念不少義ニ御坐候、もしも両国間ニ於て代表的人物にても撰出し、其胸襟を披きて討論を尽さしめは、東洋ニ於る商工業之競争を除くの外ハ、何等両国間ニ介意すヘき筈無之と確信いたし候事ニて、且其事業上之競争とても、共々道理ニ基き善意之勉強ニ出候事ニ候ハヽ、決而悪感情抔之生すヘき訳ハ無之ものと存候、賢台ニハ定而引続き其辺御高配と察上候得共、将来之成行ニ付如何御考慮被成候哉、乍序貴案御伺申上候
西部方面ニてハ永井領事・牛島君抔と時々文書往復いたし、右等御商議仕居候、既ニ頃日も両君より、加州土地問題ニ付来書を得候ニ付、夫々回答およひ向後之注意をも申通候義ニ候
貴地高峰君よりも過日来書ニて、書中ヘンリ・ジョーヂ氏議員当撰之事有之、且テモクラット派之勢力拡張之模様抔も被申越、米国今日之有様ハ寧ロ反対之政党ニして政権を握り候時ハ、却而日米之親善ハ期すヘしとまて申越有之候、右等も如何之ものなる哉、乍序御伺申上候一月中ハ貴地ニ設立之職業紹介所之報告書御送付被下忝存候、右事業ハ所謂防貧ニ関し有効なるものと存候ニ付東京其他ニても模倣為致度と頻ニ唱導罷在候、又井上氏帰国ニ付貴地日本倶楽部之義ニ付来書有之候由拝承仕候、いまた井上よりハ何等申聞無之候、其中承合可申と存候、又過般ハ貴地新聞紙之切抜御送与被下、カーネキー氏ニ関する
 - 第57巻 p.483 -ページ画像 
記事両度まて閲覧仕候、同氏か平和協会ニ寄附金せし際之趣意抔ハ実ニ卓説とも可申大文字と敬服仕候、又同氏之力ニよりて多数之財産家を作りし事記載有之候新聞も頗る趣味あるものと一覧仕候、総而此等之偉人之行為ハ著々人意之表ニ出候事多く、只々感歎之外無之義ニ候右ニ付玆ニ申上候ハ、先年内々御打合之大坂岩本栄之助氏寄附金之一挙も弥以決心いたし、三月八日を以て発表と相成候、其事ニ付而ハ既ニ本人よりも書状差上候よしニ候得共、発表ニ至りし顛末ハ別紙 ○欠ク記載之通ニ付一応呈貴覧候、小生此事ニ関係候も如何と相考候得共、岩本氏之北堂たる者ハ実ニ賢夫人ニて、此盛挙ニ対する断案より将来岩本氏之注意ニ関する訓示まて真ニ敬服之事多く、而して其母之厚意ニ付而ハ、小生其間ニ立入候事必要と相感候旁終ニ三月八日ニハ特ニ大坂ニ出張して、地方有力之人々ヘハ小生より岩本氏之企望申伝候都合ニ取扱申候、要するニ岩本氏之此挙ハ全く米国旅行より生せし動機ニして、所謂善事模倣之尤以有効なるものニ御坐候、御悦可被下候
玆ニ筆を止むるニ臨ミ、更に一事特ニ得貴意候義ハ、一昨年小生等実業団之一行か賢台之御世話ニ相成候義ハ真ニ容易ならさる次第ニて、賢台ニしてハ公務なりと御申聞有之候得共、一行中之有志者ハ深く御勤労御尽力を感謝罷在候、乍去何分其御報酬之致方ニ困却いたし、殊ニ申上候も頗る恥入候義ニ候得共、各商業団体其外之向々ヘ挨拶致候さヘ経費ニ不足を告け、東京商業会議所抔ハ別段ニ工夫して其支出を議決致候等之厚意ニ出て、辛ふして万般之始末を付候位ニて、賢台ニ奉呈すヘき余資を得す、依而昨年全般之結了を議するニ当り、特別ニ中野・日比谷・佐竹等之諸君ニ内議し、乍軽少金壱千五百円を物品料として賢台ヘ進呈仕候事ニ決定し、就而小額たりとも其筋之内意相伺候方と存し、其辺百事小生ニ委托せられ候ニ付、過頃石井次官ニ罷越懇々内話仕候処、次官之言ハ小生等之厚意ハ全然之を諒とするも自分限りニて聞置と申事ニも致兼候ニ付、大臣ニ承合申度との答ニ付、小生ハ之を打消し、是非右様表面之手続ニ不相成様にと再三再四相談を尽し、稍領意之姿ニも相見ヘ候も、全く承諾との確答ニハ接せさる義ニ御坐候、乍併小生等之決議ハ既ニ不可動事ニ相成居、小生其取扱人ニ相立候義ニ付、瑣細之事ニ多弁を費し候申上方ニ候得共、何卒小生等有志之微衷御諒納被下、右送呈之金員御領受相成候様切ニ拝願仕候右爾来之御不沙汰御詑旁一書可得芳意如此御坐候 敬具
  四月十九日
                      渋沢栄一
    水野盟台
         坐下
 尚々令閨ヘ宜敷御伝声被下度候、爰許家内よりも呉々御疎情之段御詑申上候



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛 (明治四四年)八月三日(DK570239k-0006)
第57巻 p.483-484 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  水野幸吉宛 (明治四四年)八月三日  (渋沢子爵家所蔵)
貴方五月初旬之御発信ハ其際落手いたし、来示之趣一々拝承仕候も、兎角多忙ニ取紛れ其後出状も延引ニ相成、等閑之段御海容可被下候、
 - 第57巻 p.484 -ページ画像 
偖先頃内書ニテ申上候渡米実業団之有志者中より賢台及令閨之御勤労ニ対し軽微之金額奉呈之事ハ、幸と御諒納被下、且御考案も被為在候ニ付、右金額ハ其儘第一銀行ヘ御預入被成度趣拝承いたし、来命之通り速ニ取計ひ、別紙 ○欠ク保護預り証書封入さし上置申候、但銀行之方ニ五ケ年定期之預金例無之ニ付、毎年継続御預ケ入と被成候ハヽ、矢張御企望ニ適し可申ニ付、其通り取扱申候間御領掌可被下候
大坂市公会堂建設之事ハ先頃来色々と物議有之候得共、当初之見込通り決定致し、多分近日ニ財団法人を組織し、其法人ニて建築工事取運ひ、出来之上市ヘ引渡し候都合ニ御坐候
此等新事業ニ付而ハ時々面倒なる紛議相生し、鬱陶敷事ニ御坐候
別状ニて御申越相成候貴地日本協会会長ラツセル氏及インデヘンデント雑誌記者ホルト氏日本漫遊ニ付而ハ相応之注意を以て滞在中之待遇致し度、殊ニホルト氏之旅行ニ付而ハ経費之関係も有之候ニ付、東洋汽船会社ニ於てハ、同社之営業を広告致候交換物として汽船乗組之船賃相殺相成候様同会社ニ申談候義者其際速ニ小生より重役之人々ヘ申入、評議之末同意せられ、直ニ石井外務次官ヘも内話之上其段貴女《(マヽ)》ヘハ電報いたし、同時ニ東洋汽船会社よりも桑港同支店ヘ電報相成候義ニ付、ホルト氏桑港着之際ニハ定而都合能く乗船し得ヘき筈と存候
右両氏日本到着後接待等ニ付而ハ、来示之如く井上・福井・今西其他之諸氏とも打合せ、不都合無之様取計可申と存候
之ニ反し日本よりハ新渡戸博士貴方ヘ罷越候筈ニて、是も来月上旬ニ出立と申事ニ御坐候、斯く両国之名士相往来して胸襟を開きたる講演有之候義者両国親善之為め頗る可喜事と、切ニ其効果之完全ならむことを企望仕候
太平洋沿岸よりも近々スタンホルト大学総長ジョルダン氏来月上旬渡来之由ニて、永井領事より通知有之、東部之両氏と同しく引受方々即今心配中ニ有之候、其上十一月ニハ鉱山組合之人々男女百六名渡来之由ニて其歓迎準備中ニ候、真ニ米国より之御客ニ付而ハ殆ント常務之如き有様と相成、毎月其事ニ奔走致居候義ニ御坐候
加之目下桑港日本人会ニ於て、日本より代議士・新聞記者招待之企図有之候由ニて、其人撰方も電報ニて被申越候得共、何分其意志ニ尽し兼候事共有之候ニ付頻ニ往復中ニ御坐候
又先日来桑港新聞社クロニクルより申来候一件、もしくハ基斯督教青年会等ヘ寄附金之事も色々と工夫いたし、稍行届候得共、随分多事なる世之中と独り自ら相感候次第ニ御坐候
廟堂之変更云々ハ小生等門外漢之容喙すヘき事ニ無之、其中いつれニか相分り可申、詰り可成平静之交迭企望之至ニ御坐候、右過般御恵投之尊書拝答まて匆々如此御坐候 不宣
  八月三日
                      渋沢栄一
    水野賢台
          侍史
 尚々令夫人ヘ宜敷御申上可被下候、当方家内よりも御無沙汰之段厚く御詑申上候 ○下略
 - 第57巻 p.485 -ページ画像 



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛 (明治四四年)九月二日(DK570239k-0007)
第57巻 p.485 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  水野幸吉宛 (明治四四年)九月二日  (渋沢子爵家所蔵)
拝啓《(別筆)》 残暑尚未退候処益御清安可被在奉敬賀候、陳ハ今般正貴著漢口と御名付之書籍壱冊御恵投被下難有拝受仕候、右ハ貴台公務の余暇を以て御著述相成候由、一入感服之次第にて、拝読致候へば必す裨益仕候事可不尠と奉存候間、清国に志ある商工業者にハ普く此著を知悉せしめ、以て貴意之存する処を領知せしむる様仕度と奉存候、先ハ乍延引一書御礼迄申上度如此ニ御坐候 敬具
  九月二日
                      渋沢栄一
    水野幸吉殿



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛 明治四四年九月五日(DK570239k-0008)
第57巻 p.485-486 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  水野幸吉宛 明治四四年九月五日   (渋沢子爵家所蔵)
爾来益御清適御起居可被成遥頌仕候、偖先頃御投示之尊書中御内報被下候内閣之更迭も、弥以て事実と相成候、併東京之経済界ハ余り相動候様之事も無之、株式抔ハ幾分か引立候位ニ御坐候
山本氏之蔵相ハ銀行者間ニも頓と其前評判なく、全く寝耳ニ水之有様ニ御坐候、但今日之蔵相ハ栄転名誉と言はむよりハ、真ニ御気之毒と同情仕候次第ニ御坐候、何卒実業界出身之面目完全ニ相達候様企望之至ニ候、外相も或ハ林・加藤二氏抔と予想せしニ、意外ニも内田君ニ落札いたし候、右ニ付賢台将来之御進退如何、是ハ敢而御伺申上候ニハ無之、呉々も弥増好き御都合懇祈仕居候
過日来太平洋沿岸之本邦人ニて経営致居候農場之実況を、本邦之名士ニ一見せしめ度との趣旨ニて、桑港日本人会之発起ニて、数名之人士招待之事有之、其撰定方を牛島会長より小生へ申来り候ニ付、種々心配之上新渡戸・島田二氏出張之事と相成、去ル三十一日春洋丸ニて開帆仕候、但此撰定ニハ色々と苦心仕候得共、幸ニ論説主義共ニ穏当なる講演家を得たるハ幸慶此事と存居候、就而島田氏ハ此序を以て紐克日本人団ニ於て相招き、東西之情意相通候様いたし度と申居候ものも有之、高峰博士へ一書申通置候、小生ハさまてニ相考不申候得共、為念申上置候、又新渡戸氏ハ其前外務省ニて内々尽力せられたる米国各大学ニ講演相開候為めと申事ニ御坐候、是ハ先頃尊書有之候例之ホルト氏抔と交換的ニ罷越候とも可申義と存候、定而新渡戸氏とも貴地ニ而御面会と存候、本邦之事情御聞合可被下候
昨今スタンホルト大学総長ジョルダン博士来朝中ニて、種々接伴罷在候、其中兼而御通知之ロッスル及ホルト氏も来着と存候間、又接待ニ関係を要し候、十一月ニハ鉱山家之大連渡来之由、是以其引受方之会長被相托、時々饗応等ニ評議致居候、其間英仏独抔之来人も有之、一一来訪を受候有様ニて、随分雑沓を極め申候、御察可被下候
過般尊書ニて紐克之絹業協会理事ホーマー氏死去之事御知らせ被下拝承仕候、多分一昨年同地へ罷出候際スキンナー氏と共ニ一同を案内致呉候人と存候、右ハ近況御通知旁一書可得貴意如此御坐候 不宣
  九月五日
 - 第57巻 p.486 -ページ画像 
                     渋沢栄一
    水野賢兄
          坐下
 尚々令閨へ宜敷御申上可被下候