デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 19. 中野武営
■綱文

第57巻 p.510-514(DK570249k) ページ画像

大正7年10月12日(1918年)

是日、青山斎場ニ於テ、中野武営ノ葬儀行ハレ、栄一、葬儀委員長トシテ告別ノ辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三六五号・第七九―八〇頁 大正七年一〇月 ○中野武営氏薨去(DK570249k-0001)
第57巻 p.510 ページ画像

竜門雑誌  第三六五号・第七九―八〇頁 大正七年一〇月
○中野武営氏薨去 青淵先生と与に多年一日の如く、社会国家の為めに尽力せられたる前東京商業会議所会頭、現東京市会議長中野武営氏は、本月初旬以来腎臓炎の大患に罹り療養中の処、薬石竟に効なく、八日午後一時五十五分溘焉として逝去せられたり、享年七十一、葬儀は十二日午後二時青山斎場に於て仏式を以て執行することゝなり、其の葬儀委員は左の如く決定せり。
              葬儀委員長 渋沢栄一
 伊藤幹一 ○外二一名氏名略ス
 葬儀当日 ○中略 右終つて、葬儀委員長青淵先生には斎場の中央に起ち霊柩に向て感慨無量なる告別辞を述べられ、続いて喪主以下一同の焼香ありて式を終りたるは午後四時なりき ○下略


向上 第一二巻第一一号 大正七年一一月 故中野武営氏の霊柩に対して 顧問 男爵 渋沢栄一(DK570249k-0002)
第57巻 p.510-512 ページ画像

向上  第一二巻第一一号 大正七年一一月
    故中野武営氏の霊柩に対して
                 顧問 男爵 渋沢栄一
 左の一文は青山斎場に於て中野氏の霊柩に対つて泣いて述べられた
 - 第57巻 p.511 -ページ画像 
告別の辞の梗概である。此に之を掲載して氏が生前の高風を偲びまつり度い。
 居士が一朝病に侵さるゝや、御家族御親戚の御手厚き看護を受けられ、而も日頃強健なる居士の事故、必ず近く恢復せらるゝ事と深く信じて、只管其日の一日も早からん事を祈つたのであります。然るに事玆に出でずして幽冥境を異にし、今日玆に居士の霊柩を送るとは、私の少しも予期し得なかつた所で御座います。居士は本年七十一歳、私は七十九、年齢から申しましても私が先にまゐるべきでありましたのに、今は其の位置を換へて私が居士を送るとは実に感慨無量に存じます。居士と私との関係は、明治二十年頃からであります。始めは左程親密と云ふ程でもなく、有り体に申すならば、居士は私を何でも政府に媚る御用商人の如く思はれたらしく、私も亦居士は能く議論を好む一個の論客として目したのであります。然るに其後交情を重ねますに従ひ、互に理解し合ひまして、次第に共鳴を感じ、遂に今日の親交を結ぶに至つたのであります。居士と私との関係を玆に申し上げます事は、此場合或は当を得ませんかも知れませんが、居士の崇高なる人格を忍ばんが為め、玆に其二・三の実例を開陳致しまして、居士の霊を弔ひたいと思ふのであります。
 居士は日米の親交に多大の力を致されました。当時小村侯が外務大臣でありまして、日米の国際関係を親密に致す為めには、是非彼の地の実業家と親交を結ぶの必要あるを説かれ、時の東京商業会議所会頭たる居士に相談せられたのでありました。居士は大に感を同じうせられて、早速彼の地の実業家と連絡し大に日米間の感情を融和されたのであります。
 明治四十一年には我国より実業渡米団を組織致しまして、全国に亘り五十余名の代表者を糾合し、彼地に渡つて更に親善を計るの計画を立てました。此時私は誤つて団長に推されましたが、彼地に於て予期以上の効果を収め、日米親善の目的を達し得まして幾分たりとも御国の為めに貢献する事が出来ました事は、一に居士の力に依るのであります。彼の地に在ること四ケ月、其の前後殆ど半歳の間、居士は多大の尽力を致されたのであります。
 其後パナマ地峡開通の折に際しまして、各国の代表者が参列すると云ふ事を承知しました居士は、これ亦国際関係上親善を結ぶの好機会なりとして、我実業界よりも是非参列するの必要を主張し、私をして其の使命を果さしむべく尽力せられたのであります。為めに私は彼地に渡り、列国の代表者に交り、微力の私ではありますけれども、相当の効果を収めて国家に尽す事が出来ましたのは、之又与つて居士の力に依るのであります。此時帰途米国に立寄ました所、或る米人は日本の製鉄業の甚だ幼稚にして不振なる事を切言し、我国の為めに、中心《(衷)》から忠告して呉れました。此の言は私の如き老人をも痛く刺戟致しまして、其の結果私は帰朝後之を居士に相談し、国家の為め製鉄会社の設立を促したのであります。然るに居士は当時会社の設立、殊に其の責任者たる事は一切避けて居つたのであります。けれども、私はもう既に実業界を退いて居つたので、自ら其の任に当る事は出来ませんの
 - 第57巻 p.512 -ページ画像 
で、是非国家の為めに起つて欲しいと懇請致しました所、居士は「国家の為めならば」と言つて、一切自己を犠牲にして素志を翻し、身を捧げて之が経営に任ぜらるゝに至つたのであります。是れ即ち東洋製鉄株式会社であります。普通の人であれば、会社の社長などには種々なる運動を試み、他を排して迄も自分が其の位置を占めやうとする者が多い世の中であるに不拘、而も利益のある社長の位置に推れ乍らも私利の為めには素志を抂げず、堅く辞して容易に動かず、而も「国家公衆の為めとあらば」の一語を以て一切を引受けられた居士の人格の高潔にして偉大なる、当世稀れに見るところであります。尚ほ居士は教育事業に就ても熱心なる斯界の恩人であります、先刻平沼早稲田大学長より縷々申し述べられました通り、居士は同大学の維持員として多大の尽力を致されて居ります。昨年来同大学の問題起りました時分には、卒先して之れが調停に当られ、冷静なる思慮、穏健なる手段、而も毅然たる態度を持して之が解決を促された事は、私共維持員一同の推服して措く能はざる所であります。最後に一言致したい事は、居士が家庭を深く思はれた事であります。居士は今日ある事を予期されたものか、本年八月、三子一令嬢に対し、夫れ夫れ訓言を書いて与へられました。私は之を拝見致しまして非常に感じました。其の筆蹟も立派でありますが、其の訓言が何れも立派なもので、居士の精神は之に依つてよく窺はれるのであります。居士は財を残した方ではありません、又、書を沢山読んだ方でもありません、けれども徳を隠密の間に施した事は事実であります。居士がこの家憲を以て子孫を戒められました事は、甚だ深い意味のある事と思はれます。
 今日の文明は物質方面は長足の進歩を見ましたけれども、之に伴つて精神的方面も進歩して居るとは申されません。私共老人の婆心かは存じませんが、此分では我が国の前途甚だ寒心に堪へないものがあると思ふのであります。己れ一人の幸福を得れば、人はどうでも構はんと思ふ思想は、甚だ社会の平和を被《(破)》り、幸福を傷ふせのであります《(も)》。其故私共は老人ではありますけれども、若い人々とこの弊風を矯め、仁義忠孝の道の行はれるやう風教の改善に努力致して居るのであります。将来は居士と共に大に提携し、斯道の為めに協心努力せん事を期して居りました所、今玆に居士を失ひました事は寔に遺憾に堪へない次第であります。
 けれども、御子息令嬢始め御遺族一同、居士の精神を継承せられ、其の実現を期せらるゝ事と信じて疑はない次第であります。斯くてこそ居士の霊も亦長へに安かるべく、私は切に御遺族の御清福を祈り、玆に謹んで告別の辞を呈するのであります。



〔参考〕中野武営翁の七十年 中野武営伝記編纂会編 第五八一―五八三頁 昭和九年一一月刊 【○十一 故人を偲ぶ (4) 渋沢子爵の追悼詞】(DK570249k-0003)
第57巻 p.512-514 ページ画像

中野武営翁の七十年 中野武営伝記編纂会編
                      第五八一―五八三頁 昭和九年一一月刊
 ○十一 故人を偲ぶ
    (4) 渋沢子爵の追悼詞
 『私は、故人とはむしろ末年に交があつたといふべく、其始には多くを知らなかつた。
 - 第57巻 p.513 -ページ画像 
 私が病気の為に隠退するので、商業会議所会頭になつてもらつたのは、明治三十八年の頃であつて、夫から互に交を厚くし、私の後継者といふ関係から御相談を受け、悲喜を共にしたのである。誠に私は故人に於て理想的な後継者を見出したのであつた。
 殊に、此の商業会議所の関係から、国交上の関係が起つた。明治四十一年に加州に於て学童問題が起り、我が移民は圧迫を受けて、日米国交の危期を見た。時の小村外務大臣は、単に政事上のみにては国交を全ふする能はずとして、国民外交の必要を説き、之を商業会議所によつて遂ぐべしとしたのである。そこで、我六商業会議所は、米国太平洋岸の八商業会議所に対して来遊を勧めた。此任に当つたのは中野氏であつて、四十一年の秋、彼地の八商業会議所の人々の来遊した時には、東京の商業会議所が中心になつて、之を待遇して彼等に満足を与へ、又各地の巡廻に於ても彼等を満足せしめた事は、日米間の大事件であると言はねばならぬ。四十二年に、今度は米国から我が六商業会議所に来遊を勧めて来た。そこで私達は五十人以上の一行が、之に応じて彼地を旅行するに当つても、私は万事故人と共力した。此時、私は会長となつて居たので、名は私は知られたが、陰に働いて予め規則を作り、之に依つて団体をまとめ、巧に旅行を為した大成功は、之を故中野氏に帰しなければならぬ。
 かくして加州問題も漸く緩和するに至つたが、折しもパナマ運河開通の時で、桑港で大博覧会が開かれ、日本も之に加り出品した。
 此時に、中野氏が立案して、少しでも、日本人が米国で理解されるのはよい事であるから、此際に米国へ旅行してはと私に勧められた。之が大正四年六月であつた。此に於て私は彼の地に渡つて見ると、氏の勧に従つて、よくも来たものであると思つた。といふのは、加州問題も漸く緩和されては来たが、未だ日本に対して十分な関係に至つては居らない事を知つたからである。そこで彼地で日米の関係の為の会を作り、之と我国に於ける同様の会とが、明年には相会して、日米関係を協議するといふ事になつてゐるのも、此の旅行に起因して居るのである。
 又、あの早大の物議の起つた時、病床に在る大隈侯から、事の始末を頼まれた私達は、之を温和に解決して、校名をも傷ける事なく、学生は安心して勉学出来るやうにしなければならないのであつた。時に私は、旅行前であつたので、之を簡単に厳格に処置しようとすると、中野氏は之を不可とし、私に旅行に出る事を勧め、私の留守の間に、充分問題の解決され得るやうなして置くと引受られた。旅行から帰つて見ると、事態は氏の言の如くなつて居たので、此問題は満足な解決を見る事が出来たのである。
 是等の事は、私が故人と共に憂へ、共に喜んだ事であるが、大体からいふと、氏の為す処は皆至誠に出て、お世辞などは使はぬ人であつたが、其間に愛嬌のあつたのは天稟といふべきである。氏や、私達の眼から見ると、今日は剛毅の観念がなく、犠牲の精神がなく、利己主義が多い、誠に任重而路遠の感があるのである。孟子の所謂大丈夫は氏の理想であつた。時勢の益々険悪になり行くのを見ては、故人を偲
 - 第57巻 p.514 -ページ画像 
んで自ら鞭撻し、その早き死を惜む次第である。』
   ○本資料第五十六巻所収「東京商業会議所」大正七年十月十二日ノ条参照。