デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 20. 和田豊治
■綱文

第57巻 p.516-517(DK570252k) ページ画像

大正13年3月4日(1924年)

是日、和田豊治逝ク。八日栄一、麻布飯倉ノ同邸ニ於ケル告別式ニ列ス。


■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK570252k-0001)
第57巻 p.516 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
三月八日 土 午後一―三時 和田豊治氏告別式(同邸)


中外商業新報 第一三六五〇号 大正一三年三月九日 盛んな告別式 和田氏邸の名士数千に達す(DK570252k-0002)
第57巻 p.516 ページ画像

中外商業新報  第一三六五〇号 大正一三年三月九日
    盛んな告別式
      和田氏邸の名士数千に達す
財界の巨頭故貴族院議員和田豊治氏の告別式は、八日午後一時より午後三時まで麻布区飯倉片町の自邸において仏式に依り執行された
導師以下衆僧の読経があつた後、未亡人織衣刀自外家族親戚、葬儀委員長森村男・同副委員長磯村・大橋両氏、日下葬儀委員等の焼香拝礼あり、会葬者は各大臣・徳川議長・渋沢子・三井・岩崎・大倉各男、団琢磨氏その他実業界は勿論各方面の名士数千名に達し、すこぶる盛儀であつたが、かしこき辺から祭粢料金一封を下賜、久邇宮家から花輪を賜はつた、遺骨は郷里大分県中津町に護送本葬執行する由
 和田氏余栄 かしこきあたりでは、和田豊治氏が現に社会局参与の職にあるので、八日午前十時勅使として清水谷侍従を同邸に差遣され幣帛(白絹二匹)を下賜された


竜門雑誌 第四二八号・第六九―七〇頁 大正一三年五月 ○故和田豊治君の事ども(DK570252k-0003)
第57巻 p.516-517 ページ画像

竜門雑誌  第四二八号・第六九―七〇頁 大正一三年五月
○故和田豊治君の事ども 左は実業界の重鎮たりし和田豊治君が、三月四日病の為め六十四歳を以て逝去せるに就き、同君に対する青淵先生の追懐談として実業之世界に掲載せるものなり。
△和田君は 昔から親しくした人でないから、若い時分はどんな人であるか知らぬが、紡績事業に尽瘁し、之が発達を策した人と云ふことが出来る。人格も亦高潔であり、経済界に貢献したことも大であつたと云へる。
 私は和田君とは、事業上の関係が少いから事業上のことは知らぬが色々な関係から、親しくするやうな機会が多かつた。
 ある経済問題に関し、和田君と共に調停したことがある。処が、頭脳が緻密であつた。一寸見ると豪放のやうであつて緻密な人ではないと思へる。処が仲々さうでなかつた。そして親切で決断が早い。事の是非得失を見るに敏であるが為に、拒否、取捨が非常に早いのには敬服した。
△豪放な人は そゝかしい事があり勝ちであるから、和田君もさうか
 - 第57巻 p.517 -ページ画像 
と思つたら、それが間違つて居つた。
 私は現にある事柄について記憶して居る。ある時一つの書面を作つて、之れを丁寧に書いて抜かした所は無い積りで居ると、和田君はこれに意見を挟まれた。その云ふことが尤もなので、その通り訂正したことがある。落付いて居ると思ふ私が、そゝかしい人と見られる和田君の為めに、その欠点を指摘されたから、この時に和田君は妙な特長がある人だと敬服したことがある。
 和田君の家庭は非常に能く修まつて居つて、和田君の親孝行は至り尽せりであつたと云ふことである。然るに今八十以上の母が和田君の不幸に会つては、定めし嘆いて居られることゝ思ふ。この点から見れば、和田君は親不幸と云はねばなるまい。併し人寿は天であるから、如何ともすることが出来ない。
△私は和田君の 孝行に感じて、伊香保に於て孝経を書いた。孝経は十八章からあるから可なりに長いものである。これを私としては綿密に書き上げて和田君に贈つた。和田君は私の如きものゝ為めにかうして呉れるのは誠に有難い。併しかうして置くのも惜しいから石版にしやう、そして序文は土屋鳳洲に書いて貰ひ、跋は自分が書いて出版することにして居つた。処が之れを出さずに逝かれた。けれども工業倶楽部の喜田君はもうその手続を践んで居る筈であるから、出版されることと思つて居る。(大正十三年三月)