デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 21. 其他ノ交遊関係 [1]相楽総三関係
■綱文

第57巻 p.519-525(DK570256k) ページ画像

大正1月-2年(1922-1923年)

栄一、木村亀太郎ノ来訪ヲ受ク。木村ハ明治維新ノ際、祖父相楽総三及ビ其部下ガ偽官軍ノ汚名ノ下ニ処刑セラレタル冤ヲ雪ガンタメ年来努力セル者ナリ。栄一助力ヲ約ス。


■資料

相楽総三とその同志 長谷川伸著 序・第一頁 昭和一八年五月刊(DK570256k-0001)
第57巻 p.519 ページ画像

相楽総三とその同志 長谷川伸著  序・第一頁 昭和一八年五月刊
    自序
 相楽総三といふ明治維新の志士で、誤つて賊名のもとに死刑に処された関東勤王浪士と、その同志であり又は同志であつたことのある人人の為に、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけた此の一冊を『紙の記念碑』といひ、『筆の香華』と私はいつてゐる。
○中略
 昭和十五年三月から同十六年七月まで雑誌『大衆文芸』に掲ぐること前後十五回、約八百枚、そのときの題名は『江戸幕末志』であつた
○下略


相楽総三とその同志 長谷川伸著 第三五頁 昭和一八年五月刊(DK570256k-0002)
第57巻 p.519-520 ページ画像

相楽総三とその同志 長谷川伸著  第三五頁 昭和一八年五月刊
    木村亀太郎泣血記
○上略
 そのうちに元老院議官の芳野世経が、相楽の隊士で金原忠蔵のことを史談会で講演したとき、訪ねて行つて話を聞いた。そのとき、芳野は七十歳ぐらゐで、明治を過ぎて大正となつてゐた頃だのに、頭に髷をいただいて金色まばゆい大礼服で、日本刀をひつさげて参内するといはれた漢学者で、父は金陵といひ、有名な下総の漢学者だつた。昭和二年六月二十日、年八十で他界した。
 芳野世経は金原忠蔵に就いて語り、さうして云つた。「金原忠蔵本
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名は竹内廉之助、弟に哲といふのがあつた。哲は元治元年の筑波事件に加はり、潮来で闘つて死んだ、兄の廉之助は勤王に働らいたが信州追分で賊名を着せられ戦死した。竹内兄弟の家は笹屋といつて下総小金の豪家であるが、当主は兄弟のうち哲のみが靖国神社に合祀の恩命に浴し、廉之助は明治元年以来今に至るまで賊名のもとに埋まつてゐるので、何とか雪冤したいと常にいつてゐる、一度会つてみたが良い渋沢栄一さんは相楽さんのことを知つてゐる、是非、訪問するがよろしい」といつた、又、相楽の部将だつた渋谷総司の遺族があることも語つた。
○下略
   ○本書巻頭ニ竹内隆卿墓表ノ写真ヲ掲グ。之ニ「竹内隆卿墓表従三位勲二等男爵渋沢栄一題額」トアリ。年次ハ「明治四十五年二月」ト記ス。千葉県東葛飾郡小金町東漸寺境内ニ建立サル。大正二年二月二十一日栄一同碑除幕式ニ参列ス。本資料第四十九巻所収「竹内隆卿碑」参照。


相楽総三とその同志 長谷川伸著 第五五―六二頁 昭和一八年五月刊(DK570256k-0003)
第57巻 p.520-523 ページ画像

相楽総三とその同志 長谷川伸著  第五五―六二頁 昭和一八年五月刊
    木村亀太郎泣血記
○上略
 日本橋にある渋沢栄一男爵(後の子爵)の事務所に、紹介者なしの瘠せて細い亀太郎が、粗末な服装で現はれ、「お目にかかりたい」といつた。事務所の人はみすぼらしい若者にも慇懃で「私用ですか、それでは邸の方がよいでせう」と教へた。翌くる朝の九時に滝の川の渋沢邸の玄関に亀太郎は立つた。
 ここでも若者のみすぼらしい姿を邸の人は、気にかける様子なく、「主人は毎朝八時には邸を出ますから面会は六時半から七時迄となつてゐます。尚先客からお話を伺ふことにして居りますので、六時ごろまでにお出でください、折角お出でになりましても、先客が多く時間がなくなりますと、お断わりする場合があるかも知れませんから、その辺のところは予め御承知を願ひます。尚、お話は相成るべく要点を御腹案くださいまして、約十分ほどにして頂きたいと存じます」、かういはれた。
 その日は役所へ出勤し、翌朝、昏いうちに起き、朝飯もそこそこに飛鳥山へ急いだ。急いだといつても自動車が雇へる身ではないので、赤坂から初発の市電で飛鳥山へむかつた。電車だけでも一時間余りかかつたので、渋沢邸の門前に着いたのは六時半を過ぎてゐて、門の外には自動車が三・四台、大きな甲虫のやうに黒光りを放つてゐた。
 亀太郎はけふも又、みすぼらしさに負け目を感じながら玄関に立ちゆふべ更めて書いた名剌を出した、それには相楽総三の孫と肩書をして置いた。渋沢さんは相楽を知つてゐるさうだと聞いたので訪ねる気になつたのでもあるし、名もなき者が何の用できたかと、僅かでも思はせることを避けたかつたからだつた。恰度そのとき、自動車が一台着いて、立派な服装の身分ありげな一紳士が玄関に立ち、差出した名刺の表がちらと亀太郎にみえた。子爵何のなにがしと印刷されてあつた。永年、明治維新に関する資料を漁つてきただけに、亀太郎は、そ
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の紳士が近畿地方の大名華族であることを知つた。亀太郎と大名華族と二枚の名刺が、わづかの差で玄関の人に受取られた。
 程なく引返してきた玄関の人が、子爵には「主人の申しますには、最早、出かけます時間でございますので、本日はお気の毒ながらお引取りくださるやう、何れ午後に御電話を差上げます。かやうに御座ります」といつた、それを聞いて亀太郎は落胆した。子爵でさへ断わられたのだ。自分など何として会つてくれよう。子爵は「それでは」と帰つて行つた。すると、「木村さんには一寸でしたらお目にかかりますと申してをります、どうぞお通りください」と玄関の人がいつた。亀太郎は驚きの余り茫となつた。
 案内された控室には紳士が四人ゐた、一人づつでなく、二組だつたらしかつた。固くなつて隅の方に坐つてゐる亀太郎の耳に、隣室から聞えてくる皺嗄れたやうな声が渋沢さんだとすぐ判つた。聞くともなく耳に入るのは、話合つてゐるのでなく渋沢さんが訓へてゐる雄弁だつた。
 最後の先客が隣室へはひると渋沢さんの声で、「もう時間がありませんから、五分間ぐらゐで要点だけお話しください」といふのが聞えた。それをきくと亀太郎は当惑した。もともと咄弁で、初対面の挨拶だけでも五分ぐらゐかかる自分だ、きのふ注意されたので、十分間で要点を話せる練習をやつたが、旨くゆかなかつた、十分間でさへそれなのに、その半分の時間では、何からどう云つていいか迷ひ切つてゐるうちに、隣室へ呼び入れられた。先客がどこへ去つたか、そんな事どころか、夢中で歩いた。
 渋沢さんの前に坐つてお辞儀はしたが、そこがどんな部屋だつたか亀太郎の眼に映らず、ただ愚図々々してゐるだけだつた。「あんたが相楽さんのお孫さんか」と渋沢さんの方で先に口を切つた。亀太郎は固くなつて「はい」とだけいつた。「ゆつくり別室でお話を伺ふことにしよう」と、渋沢さんが先に立つて歩いた。亀太郎は身ぶるひが出るほど感激して、そのあとに随つた。居間らしい座敷へ導かれた。
 桐胴の火鉢を中に渋沢さんと相対した亀太郎の眼がすこし充血してゐた。応接室からここまでくるまでに心を落着けることに努めた。新聞でよく見る通りの渋沢さんは黒紋付の羽織に袴で、水際立つた老熟さだ。それに打たれて息詰りながらも喋舌り出した。「突然、今日お伺ひしましたのは、私の祖父につき不審がありますので、いろいろ調べました処、梟木に晒されるやうな悪人とはどうしても思へません。それどころか、勤王無二の者でござりました。あれは何かの間違ひで冤罪を着せられ殺されたものと確信いたします」といふうちに、涙が眼から溢れ出た。「それが為に部下だつた者も寃罪で殺されました。私は相楽総三の孫ですから、部下の方々の寃罪が気の毒心外の至りです。汚名を一掃してあげることは相楽の孫たる私の責任だと思ひ、十二歳のとき発念いたしまして、今日まで貧窮の中から費用をつくり、雪寃の資料を集めて十年の歳月を越えました。相楽とその部下とは、偽官軍といはれ死刑に処され梟木にかけられました。死後今日に至るも、強盗といはれ、無頼の徒といはれて居ります。この儘では悪名は
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永遠でござります。それでは部下の方々の遺族に申訳ない、死んだ人人の霊に面目ない。相楽のおなじ部下ではあつた方々でも、他国で自殺し、幕兵に殺された中の幾人かは御贈位の光栄に浴してをります。江戸の薩邸で戦死したものはその名すら没し、信州で働いたものに至つては悪名を被つてをります。私このたび決心を固め、御贈位の請願をいたします。それにつき恐るることは薩人の心です。元来、相楽とその部下は江戸の薩摩邸以来、一番親しかつたのは薩藩です、殊に明治維新の暁の鐘とも申すべき鳥羽伏見の戦ひは、相楽等が誘引いたしたものです。信州下諏訪を押へ、上信国境の碓氷峠を押へ、旧幕臣の人心に大影響をあたへましたのも相楽の功だと確信いたします、でありますのに、薩人に憎まれ、相楽等は狡兎つきて煮られた走狗にされましたのみならず、今日は明治維新後五十四年に及んで、いまだに相楽等は憎悪敵視をうけてゐるとしか思へません。請願書の一ツは長野県知事に差出しますが、長野県知事赤星典太氏は薩人であります。万が一赤星知事が只今申上げた薩人の例に漏れない人でしたら、請願は閉塞され、苦心水泡に帰し、志士の枉屈、慰むるに途がなくなります願くば一寒生の心事をおくみとり下すつて、御尽力を伏して哀願いたします」。亀太郎の顔が蒼白になつて、瘠せた頰が熱い涙でびつしより濡れた。
 渋沢さんはときどき瞑目して聞いてゐたが、「あなたのいふことは実によく判つた、よく祖父のためそれまでの苦心をなすつた、感じ入りました。この上とも勇気を出し目的の達成をなさることを祈る、私も及ばずながら出来るだけ尽力しますから、何なりと遠慮なく注文を出してください。たゞ申して置かなくてはならないのは、私の立場上御贈位請願の運動ができないことです。元来、私は微禄ながら一ツ橋の家来で、只今でも主家と一ツ橋を仰いでゐる旧幕臣です。相楽氏は討幕派の領袖ですから、義として相楽氏の御贈位請願の運動ができかねる――関八州であのころ勤王浪士の第一人者といへば指をまづ相楽氏に屈したものでした、私も相楽氏の名声を慕つた一人で、幾度も同志の列に投じようとしたが、その実行を遂にみなかつたのは運命の支配で、他に原因はなかつた。私の友人に竹内廉之助(金原忠蔵)といつて下総小金のものがある。その竹内が相楽氏に投じ同志となつたと聞き、竹内の為に喜び、自分は羨望に耐へなかつた。私は勤王と佐幕の中間に立つて苦悶に苦悶し、外国へたうとう渡航した」といつて言葉を絶ち、回想でもしてゐるのか眼をとぢた。やがて口をひらいたときは話題が一転してゐた。「若いころわれわれは遊廓へよく行つたものだ。しかしそのころの青楼は志士の密談所で、現在のやうに遊興本位の場所とわれわれはしてゐなかつた。さういふ場所で私は相楽氏の部下の人々には会つたが、相楽氏には一度もお目にかからなかつた、数百の士を指導してゐるだけにそんな処へはなかなか来ないやうだつた。年齢は私より二ツ上と承知してゐる。相楽氏が関東の浪士でなくすこし大きな藩の士で藩主を擁してゐたなら、今ごろは阪本竜馬や高杉晋作や水戸の武田耕雲斎などより有名になつてゐる人だつた。存命でゐられたら、立派に天下を料理する人材であつた。実に惜しむべき
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だ。不幸な英傑だつたと思ふ。もし生地の赤坂区から御贈位の請願をするやうだつたら、東京府知事が取扱ふ訳だから、宇佐見東京府知事《(宇佐美)》によく話をして置かう。しかし、いづれにしても手続きをよく聞いてからにしないと可けないから、私から府知事に話すから、暇のとき府知事に会つてみるがよい。それから長野県で請願するやうだつたら、知事へ依頼状を書いて置くから、二・三日中に又来てください。又そのときよくお話をしませう」。
 渋沢さんは辞して去る亀太郎を、玄関に立つて見送つた。往来へ出た亀太郎は百万の味方を得た気がして、日の光りがこんなにも明るかつたかとさへ思つた。
      ◇
 亀太郎は宇佐見東京府知事を訪ねた。宇佐見氏は懇切だつた。亀太郎は世の中の諸所に好い人がゐることをますます知つた。
○下略


長谷川伸回答(DK570256k-0004)
第57巻 p.523-525 ページ画像

長谷川伸回答               (財団法人竜門社所蔵)
相楽総三の孫(木村亀太郎)渋沢栄一子を訪問雪寃を
訴ふるの記 長谷川伸
 赤報隊の犠牲者相楽総三の孫木村亀太郎、宮内省給仕たりし少年時代より祖父の雪寃に苦辛を重ね、目的の一部を昭和三年十一月 聖恩に浴して達するを得たり。此の数葉は木村亀太郎の記述したるものより抜萃したるものにて、原本は木村所有し、写本を小生所蔵す小生は十余年来、三田薩邸屯集浪士と赤報隊の雪寃を志し、目下その幾分を果さんとしつゝある関係にて右の写本を所蔵するなり。渋沢子は南信州追分戦争に戦死したる金原忠蔵(竹内廉之助)の友人なりしと解せらる。(昭和十五年十二月)長谷川伸

渋沢栄一翁ヲ初メテ訪問シタ話
 渋沢男(後ニ子爵)ヲ始メテ訪問シタノハ大正十一年カ十二年ノ初冬ダツタト思フ。最初日本橋ノ事務所ヘ訪ネタ処ガ、私用ハ邸ノ方ガ宜シイト云フ取次ノ話デ、其翌朝九時頃参邸スルト、玄関ノ人ノ云フニハ、面会ノ時間ハ六時半頃カラ七時ニナツテ居ル、又先客カラ御話ヲ伺フ事ニナツテ居ルノデ、六時頃マデニ御出ナサイ、又御出ニナツテモ先客ガ多イ場合ハ御断リスルカモ知レナイノデ、其点悪カラズ、又御話ハナルベク要点ダケ御腹案下サツテ、約十分位ニシテイタダキタイ、ソフ云フ注意ヲ受ケテ其日ハ空シク役所ヘ出勤自動車ハアツテモ其頃ハ中々乗レル身分デナク、市内電車デ赤坂カラ飛鳥山迄ハ一時間以上カカルノデ、翌朝薄暗イ時家ヲ出タガ、邸ノ玄関ニ立ツタ頃ハ六時半ヲ過ギテ、既デニ三・四台ノ自動車ガ列ンデ居タ。
 畏ル畏ル玄関デ名札ヲ渡シテ居ルト、同時ニ一台ノ自動車ガ着イテ同ジ様ニ名札ヲ渡シタ、子爵岡部某ト読マレタ。
 間モナク玄関ヘ引返シタ取次ノ人ハ「只今伺ヒマシタ所ガ、主人ノ申スニハ最早出カケル時間デスカラ、本日ハ御気ノ毒ナガラ御引取
 - 第57巻 p.524 -ページ画像 
下サイ、何レ午後ニ御電話ヲ差上ケマス」ト岡部氏ヲ帰シ、「木村サンノ方ハ一寸ナラバ御会ヒスルソウデスカラ」ト控室ヘ通サレタ私一安心ト同時ニ、顕門ニ媚ビズ、一歩デモ先ヲ先トシテノ公平ブリニ一種ノ感激ヲ覚ヘタ、控室ニハ未ダ三・四人居タガ、二人組ノ人ラシカツタ。次ノ応接室デ翁独特ノ一寸皺枯レタ様ナ雄弁デ、話合フト云フヨリ訓シテ居ル様ナ声ガ手ニ取ル様ニ聞ヘタ。
 先客ガ済ンデ、次ノ人ガ這入ルト翁ノ声デ「最早時間ガ有リマセンカラ、約五分位デ要点タケオ話シ下サイ」ト相手方ニ注意シテ居ル一体自分ハ非常ニ咄弁デ有ル為、初対面ノ挨拶ダケデモ五分位経ツテシマイソウデ、内心弱リナガラ何カラ話ソウカト考ヘテ居ル内ニ自分ガ呼入レラレタ。
 今考ヘテ居タ事デモ中々云ヒ出セズニグズグズシテ居ルト「アンタガ相楽サンノ御孫カ、ユツクリ別室デオ話ヲ伺フ事ニシヨウ」ト云フテ立アカツテ別室(居室ラシイ)ヘ導イテ、桐胴ノ火鉢ヲ間ニシテ座ツタ。翁ハ黒紋付デ袴ヲ着ケテ居ラレタ、私ハ率直ニ、今日突然御伺ヒシタ事ハ、私ノ祖父ノ死ト云フ事ニ対シテ何フモ不審ナ点ガ多ク、種々調ベテ見マシタ結果、梟木ニ曝サレル程悪人トハ思ヘナイ、寧ロ非常ナ勤王家デ有リナガラ、何ニカノ間違デアヽシタ最后ヲ遂ゲタ為ニ、多クノ部下モ皆寃罪ヲ蒙ツテ居ルノガ非常ニ残念デアル、就テハ私トシテハ決シテ贈位ナドト云フモノヲ相楽ダケイタダイテ私ハ嬉シイトカ、自家ノ名誉ダトカ云フ意味ハ少シモナイ私ハ真実ノ処、最高ナ贈位ト云フ形式的ナ栄誉ヨリ、今行ハレテ居ル諏訪デノ慰霊祭ノ方ガ遥カニ有難ク、此上何モ望ミタクハナイノデスガ、相楽ノ部下ニナツタ為ニ、偽官軍ダノ、強盗無頼ノ徒ト云フ汚名ヲ永遠ニ残サレルト云フ事ハ、夫レ等ノ遺族ニ対シテ申訳ケナイ、然シテ贈位ト云フ制度或ハ恩典ト云フカガ有リナガラ、其撰ニ漏レル事ハ、寃ガ実トナリ、今行ハレツツヽ有ル毎歳ノ慰霊祭モ近イ将来ニ中止断絶スル事ヲ畏レル。又部下中デモ他国ヘ逃レ自殺又ハ幕兵ニ殺サレタ者数名ハ、贈位ノ恩命ヲ蒙リ、味方ノ官軍ニ殺サレタ相楽等ノミ賊名ヲ帯ヒルト云フ事ハ理不尽ナ事ト思フノデ、此度贈位ノ請願ヲスル事ニ決心シマシタ、原来相楽ノ隊ハ江戸薩州邸屯集当時カラ一番薩州トハ親シク、ホトンド薩州ノ勤王ヲ助ケル為ニ働イテ居タカノ様デアルニモカカワラズ、西郷始メ其他ノ連中ハ後ニナツテ相楽ヲ殺シ、其ノ功名ハ総テ薩摩ガ成シタカノ様ニシテシマツタ、ソシテ彼等ハ自己ノ非ヲ覆フ為ニ、相楽ノ名ガ世ニ出ル事ヲ恐レテ極力ソレヲ妨害シテ居ル形跡ガ有ル、就テハ今度贈位ノ請願ヲ提出スルニモ、現在ノ長野県知事赤星典太氏ハ薩摩ノ人デアルダケニ、万一ソフシタ意味ノ事ニナツテハ困ルノデ、此際御尽力ヲ御願ヒニ参邸シタ次第デス。
 大略以上ノ様ナ意味ヲ申述タ。
 翁曰ク
 貴下ノ気持ハヨク解ツタ、祖父ノ為ニ苦心シテ居ル事ヲ心カラ感心シタ。今後モ勇気ヲ出シテ目的ノ達スル様祈ル、又私モ及バズナガラ出来ルダケノ尽力ハスルカラ、何フカ遠慮ナク注文シテクレ、然
 - 第57巻 p.525 -ページ画像 
シ唯私ノ立場上表立ツテ贈位運動ヲスルト云フ事ハ出来兼ルト云フノハ、元来私ハ幕臣デ極メテ微禄ナガラ一橋家ノ家来デ有リ、現在デモ一橋家ヲ主家ト仰ヒデ居ル、ソウシタ立場デ有リナガラ、当時ノ相楽氏ハ倒幕派ノ領袖デアリ、実ニ関東八州デ勤王浪士ノ第一人者ト云ヘバ相楽氏ナド第一ニ指ヲ屈シラレル人ダツタ、私モ相楽氏ノ名ヲ慕ツテ同志ノ列ニ加ハロウカト思ツタ事ハ幾度モ有ツタ位ダ夫レ故友人ノ竹内(金原忠蔵)ナドガ相楽氏ノ部下ニ加ツタ事ヲ非常ニ喜ビモシ、亦羨マシクモ思ツタ、ソウイフ苦シイ立場ノ私ハ、勤王佐幕ノ中間ニ立ツテ随分煩問《(悶)》シタ、ソノ結果私ハ外国ヘ行ク事ニ決心シタノダ(話ハ一転シテ)
 若イ頃ノ吾々ハ随分遊廓ヘ行ツタモノダ、然シ其頃ノ女郎屋ナルモノハ一種ノ志士等ノ密談所デ有ツテ、現在ノ様ニ遊ビ本意《(位)》デ行クノデハナカツタ、私ハソウ云フ場所デ随分相楽氏ノ部下ノ方々ニハ会ツタガ相楽氏ニハ一度モ面会シナカツタ、一度ハ会ヒタイト思ツテ居タガ、数百ノ士ヲ指導スルダケニ中々ソウシタ所ヘモ来ナイ様ダツタ、年ハ私ヨリ二才上ノ様ニ聞テヰタ、相楽氏ガ浪士デナク、少シ大キナ藩主ヲ擁シテ居タナラバ、今頃ハ坂本ヤ高杉、水戸ノ武内《(武田)》ナドヨリ以上ニ有名ニ宣伝サレル人デ有リ、又存命デアレバ立派ニ天下ヲ料理スル人材デ有ツタ、実ニ惜シムベキ人デ、且ツ不幸ナ豪傑デ有ツタト思フ、若シ都合デ生地ノ赤坂カラ御贈位ヲ請願スル場合ハ、東京府知事ガ取扱フワケダカラ、知事ニヨク話ヲシヨウ、然シ何レニシテモ種々手続ナドモ聞イタ方ガヨイト思フカラ、私ハコレカラ知事ニ会ツテ大体ノ話ヲシテ置クカラ、暇ノ折君モ知事ニ会フテ見タ方ガイイ、又長野県ヘ出ス様ナラ、ソノ知事ヘ依頼状モ書テ置クカラ二・三日中ニ又来ナサイ、又其時オ話ヲシヨウ
 自分ハ厚意ヲ謝シテ立上ルト、翁自ラモ玄関迄送ツテ来ラレタ事ハ返ス返スモ恐縮モシ、畏敬ノ念ガ湧イテ来タ。
   ○右ハ本資料編纂ニ当リ、編纂係ヨリ長谷川伸氏ニ発セル問合ハセニ対スル氏ヨリノ回答ナリ。