デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

6章 旅行
1節 国内旅行
■綱文

第57巻 p.578-594(DK570286k) ページ画像

大正4年9月29日(1915年)

是日栄一、第一銀行広島及ビ熊本支店開設披露ソノ他ノタメ、東京ヲ発シ神戸・松山・広島・熊本ニ赴キ、帰途大阪・京都ニ立寄リ、十月十一日帰京ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK570286k-0001)
第57巻 p.579-581 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
九月廿九日 小雨
此日ハ関西旅行発途ノ約アルニヨリ、午前六時起床、入浴朝飧ヲ畢リ揮毫物数葉ヲナシテ、八時前家ヲ発シ東京停車場ニ抵リ、多数ノ送別人ニ会見ス、八時三十分発ノ急行列車ニ搭ス、車中蜂須賀侯爵其他ノ知人多シ、山下亀三郎氏ハ松山行ノ東道主人トシテ同行セラル、名古屋駅ニテ清水市太郎氏等来リ迎フ、昼食モ夜飧モ車中ノ食堂ニ於テシ京都・大阪等ノ停車場ニハ中川支配人・野口支配人等出会ス、午後九時神戸ニ達ス、杉田支配人・明石照男氏案内ニテ諏訪山ナル常盤ニ投宿ス、夜ニ入リテ雨強ク風ヲ加フ、明日ノ四国行海路険悪ナラント一同憂慮ス、夜十一時就寝
九月三十日 曇
午前七時起床、入浴朝飧ヲ畢リ、急遽旅装ヲ整ヘ八時半神戸停車場ヨリ発車シ、須磨・明石・舞子ノ浜モ雨中殊ニ景気ヲ添フルヲ覚フ、福山駅ニ抵レハ、広島支店支配人松井氏来リ迎フ、神戸支店杉田氏・山下氏等ハ神戸ヨリ同行ス、尾ノ道ニ着シテ汽車ヲ下リ、直ニ紅葉丸ト名クル小汽船ニ搭ス、松山ヨリ来リ迎フル者数名アリ、共ニ乗船シテ松山ニ向フ、瀬戸内ナレトモ風強クシテ船動揺ス、四方ノ風景雨中ナカラニ絶勝ナリ、午後六時高浜ニ着ス、松山ヨリ来リ迎フ者多数ナリ一同ニ擁セラレテ電車ニテ松山ニ抵リ、直ニ公会堂ニ抵リ、官民合同ノ歓迎会ニ出席ス、一場ノ謝詞ヲ述ヘ、宴畢テ道後温泉ニ抵リ鮒屋ニ投宿ス、入浴後深更マテ揮毫ス
十月一日 曇
午前七時前起床、温泉ニ浴シテ後朝飧ス、畢テ揮毫ヲ試ム、八時過松山商業学校ニ於テ植樹シ、又来会ノ学生ニ一場ノ訓示ヲ為ス、十時公会堂ニ抵リ、中学及師範学校生・農商学校生ノ会同ニ於テ、教育ノ変遷ト題スル問題ニテ一場ノ講演ヲ為ス、聴衆九百名余ナリ、畢テ農工銀行ニ抵リ、各地ヨリ来会セル実業家ノ集会ニ於テ、実業ノ沿革ニ付一場ノ講演ヲ為ス、後再ヒ公会堂ニ抵リ、婦人ノ集会ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス、来会者千弐百名余ナリト云フ、十二時過松山ニ有名ナル城山ニ抵ル、天守閣ニ於テ銀行者ノ開催セル午飧会ニ出席ス、記念撮影アリ、食卓上ニテ一場ノ謝詞ヲ述フ、宴畢リ物産陳列場ニ抵リ物産ヲ一覧ス、午後三時過松山ヲ辞シ高浜ニ抵リ、昨日便乗セシ小汽船ニテ広島ニ赴ク、途中雨降リテ四方冥濛タリ、宇品ニ抵レハ広島人多ク来リ迎フ
松井支店長・松本清助等モ来リ同車広島ニ抵リ、鷺沼旅館ニ投宿ス
十月二日 曇
午前七時起床、風邪気ナレハ入浴セス、朝飧後揮毫ヲ為ス、午前十時交魚会ノ請求ニ応シテ商品陳列館ヲ一覧ス、且来会者ニ一場ノ演説ヲ為ス、畢リテ陳列場ヲ一覧シ、更ニ松井支店長ノ案内ニテ旭亭ニ抵リ同盟銀行者ノ開催セル午餐会ニ出席ス、竹山純平氏モ来会ス、午飧畢リテ旅宿ニテ小憩シ、午後五時ヨリ公会堂ニ抵リ広島支店開設ノ披露会ニ出席シテ挨拶ヲ演フ、寺田県知事ノ答詞アリ、来会者百名許リ、盛況ナリ、散宴帰宿後、愛媛県知事及井上要氏ヘ神宮奉賛会ノ事ヲ書
 - 第57巻 p.580 -ページ画像 
状ニテ頼遣ス、十二時就寝、此夜朝鮮銀行市原氏ノ訃音到来ス
十月三日 快晴
午前七時起床、風邪気愈ヘス、入浴ヲ為ス能ハス、朝飧後揮毫ス、九時広島支店ニ抵リ、詰合ノ行員ニ一場ノ訓示ヲ為ス、寺田知事官舎ヲ訪ヒ、奉賛会ノ事ヲ委托ス、十時公会堂ニ抵リ、商業会議所・植民協会等ノ催シタル講演会ニ出席シ、商工業者ノ覚悟ト移民ニ関スル意見ヲ演説ス、畢リテ旭亭ニ於テ午飧会アリ、食後旅宿ニテ小憩シ、午後三時ノ汽車ニテ下関ニ赴ク、寺田知事及広島ノ実業者送別スル者多シ神戸杉田氏・広島松井等宮島停車場ニ抵リテ告別ス、午後八時四十分下関ニ抵ル、春帆楼ニ投宿ス、風邪気ニ付夜早ク寝ニ就ク
十月四日 晴
午前七時起床、朝飧後揮毫ス、午前十時馬関ヲ発シ、熊本ニ向フ、車中筑前・筑後等ノ旧跡ヲ望ム、午後三時半熊本着、竹村支店長及地方有志者ノ多数来リ迎フ、綿屋旅館ニ投宿ス、午後五時熊本偕行社ニ抵リ、支店開設ノ披露会ヲ開ク、来会者三百名許リナリ、席上一場ノ挨拶ヲ為ス、依田市長ノ答詞アリ、午後八時散会帰寓、此夜本店ヨリ竹山ニ電報アリ、朝鮮ニ開催スル銀行大会ニ参列ノ命アルニ付、明日出席シテ市原氏ノ葬儀ニ列セシム、夜寺内総督及朝鮮銀行三島・本村二氏、迫間房太郎氏ヘ書状ヲ作リ、竹山ニ托ス
 熊本ハ暑気強ク炎熱堪ヘ難ク東京ノ夏去リテ再ヒ夏ニ逢フノ感アリ
十月五日 晴
午前七時起床、入浴ヲ止メ朝飧ヲ畢リ、八時四十分熊本ヲ発シ、三池ニ向フ、万田駅ニテ下車、植木氏ノ案内ニテ炭坑ヲ一覧ス、設備頗ル壮大ナリ、畢リテ三池港ニ向フ、新築港ノ規模極テ其当ヲ得タルヲ覚フ、一覧後倶楽部ニ抵リテ午飧ス、植木氏ノ心配ニテ医員ノ診察ヲ受ク、午飧後石炭副産物製造場ヲ見ル、午後三時熊本駅ニ帰ル、第一銀行支店ニ抵リ店員ニ訓示ス、後九州製紙会社ノ案内ニテ、三浦ト云フ料理屋ニ抵リテ、夜飧ス、隈川ノ鮎魚殊ニ美ナリ、此夜修養団支部ノ請求ニヨリテ高等学校ニテ講演ノ約アリシモ風邪ノ為メ断リ遣ス、夜修養団ノ人々来話ス
 米国ナル沼野・牛島・高峰ノ三氏ニ書状ヲ発シテ、来ル廿三日発渡米ノ事ヲ報シ、且着米後ノ事ヲ依頼ス
十月六日 晴
午前七時起床、朝飧ノ後二・三ノ来訪客アリ、午前十時県会議事堂ニ抵リ、熊本県官民協同開催ノ歓迎会ニ出席ス、一場ノ謝詞演説ヲ為ス畢リテ開宴ス、十二時過帰宿、午後一時発ノ汽車ニテ馬関ニ向フ、五時五十九分下関着、再ヒ春帆楼ニ投宿ス、夜同楼ニ催シタル銀行者懇親会ニ出席ス、宴散シテ後東京佐々木氏及増田氏等ヘ書状ヲ発ス、夜白石ニ雑書ヲ音読セシム
十月七日 曇後雨、昨夜ヨリ暑気漸ク減退シテ秋冷ヲ覚フ
朝飧後二・三ノ来客ニ接シ、午前九時五十分発ノ汽車ニ搭シ大阪ニ向フ、広島支店松井氏来リ迎フ、馬関西条氏モ送リテ広島ニ抵リ、松井氏ニ別レル、午後ヨリ雨降リ出シテ車中寂タリ、白石ヲシテ独乙国民ノ将来ト題スルベルンハルヂー将軍ノ著書ヲ音読セシム、夜十時過神
 - 第57巻 p.581 -ページ画像 
戸着杉田氏モ来リ会ス、停車場ニ小憩シ、夜十一時二十分御影ナル明石照男ノ家ニ一泊ス
十月八日 晴
午前七時起床、朝飧シ、八時二十六分発ノ汽車ニテ神戸ニ抵ル、杉田明石二氏同行ス、県庁ニ抵リ、服部知事・鹿島市長及地方有力者十余名ノ会同アリテ、神宮奉賛会設立ノ顛末ヲ報告シ、当地ニ於ル献金ノ事ヲ依頼ス、畢テ神戸支店ニ抵リ小憩、十一時発ノ汽車ニテ大阪ニ抵リ、野口支店長ノ出迎ヲ受ク、直ニ公会堂建築事務所ニ抵リ、定礎式ノ打合ヲ為ス、十二時大阪支店ニ抵リテ午飧シ、二時半公会堂ニ抵リ定礎式ニ列席ス、定礎ノ二字ハ先ニ揮毫セリ、大阪人士数百名ノ来会アリ盛大ナル式典アリ、畢リテ宴会席ニ於テ一場ノ祝詞ヲ演説ス、宴畢リテ旅宿ニ於テ休憩シ、午後七時灘万楼ニ催ス処ノ宴会ニ出席ス、夜十時帰宿ス
十月九日 快晴
午前七時起床、朝飧後二・三ノ来客ニ接ス、午前十一時半大阪ホテルニ抵リ、成瀬女子大学校長ト共ニ住友氏ニ会見シテ学校寄附金ノ事ヲ依頼ス、十二時大久保知事・池上市長其他関係ノ人々二十有余名来会セラル、依テ神宮奉賛会成立ノ顛末ヲ報告シ、大阪ニ於ル献金ノ勧募ヲ依頼ス、畢リテ午後三時二十一分発ノ汽車ニテ京都ニ抵リ、直ニ同地市役所ニ於テ大阪・神戸両所ニ依頼セシ順序ヲ以テ尽力ヲ托ス、市長・地方局長・田中・浜岡・内貴ノ諸氏来会ス、畢テ玉川楼ニ抵リ夜飧ス、夜井上春子来リ、御大典ノ新曲ヲ演ス
十月十日 晴
午前七時起床、朝飧ヲ畢リ、九時三十九分ノ発車ニテ住吉ニ向フ、大阪ニテ成瀬・野口二氏ト会シ、共ニ御影ナル久原氏ヲ訪フ、明石照男モ来リ会ス、久原氏ノ邸宅ハ御影ニ有名ナル壮宏ノ結構ナリ、種々談話ノ後鄭重ナル午飧ヲ饗セラル、午後二時過明石ノ家ニ抵リ、野口・杉田・明石等ト第一銀行業務外国関係ノ得失ヲ協議ス、後東洋紡績会社ノ重役モ来会シ、囲碁会且夜飧ノ小宴アリ、夜十一時散会、大阪松塚ニ投宿ス
十月十一日 晴
午前七時起床、朝飧後二・三ノ来客アリ、八時三十分発ノ列車ニテ東上ノ途ニ就ク、車中実業ノ世界社野依氏等アリテ談話多シ、時々白石ニ読書セシメ、又ハ同車ノ人々ト談論シ、一路平安夜九時過東京駅ニ達シ、直ニ自働車《(テ脱カ)》ニ帰宅ス、家ニ還リテ家族ト共ニ旅行ノ景状ヲ談話ス、夜十二時就寝
堀井医師来リテ風邪ヲ診察ス、熱気ナク、且身体ニ疲労ノ模様ナキニ付、懸念ニ及ハストノ事ナリ


竜門雑誌 第三三〇号・第五七―七五頁 大正四年一一月 青淵先生西南紀行 随行員 白石喜太郎記(DK570286k-0002)
第57巻 p.581-589 ページ画像

竜門雑誌  第三三〇号・第五七―七五頁 大正四年一一月
    青淵先生西南紀行
                 随行員 白石喜太郎記
      二、東京より松山迄
大正四年九月二十九日は靄に明けて街路雨後の如く柳樹露を帯びぬ。
 - 第57巻 p.582 -ページ画像 
午前八時三十分東京を後にす ○中略 明れば九月三十日なり ○中略 午後零時三十二分尾道に着す ○中略 匆惶として乗船し ○中略 午後五時四十分、船高浜に着すれば、桟橋には出迎の人、堵の如く折柄の雨を物ともせず寂として先生の下船をまてり ○中略
      三、松山
        (一)官民合同歓迎会と道後湯の町
松山駅プラツトホームの群衆の中を分けて駅前に出づれば、数十輛の腕車は吾等の為に用意せられたり、急ぎ打乗り、幌を連ねて走らすれば街上見物人堵の如く、降り頻る雨の中に立ちつくせり。
歓迎会場たる県公会堂に至れば、正門前に翠色麗はしき大緑門を設け門上中央に大国旗を交叉し、其下に渋沢家の定紋を黄菊にて表したる大扁額を掲げ、更に数十の小国旗を配し電飾の光照り添ひて美しかりき ○中略 小憩の後、振鈴の響に促されて会場に入り、設けの席に就かる折柄会衆三百有余人の拍手一時に起りて堂も破れんばかりなりき。
軈て井上要氏発企人を代表して歓迎の辞を述られて曰く
○中略
亜いで先生は徐ろに立たれ、大要左の如き挨拶をせらる。
 臨場の閣下並に満場の諸君、私は始めて御当地に罷出まして斯の如き多数の御会同を辱ふし、御懇篤なる御款待を拝受するは誠に望外の次第でございます。途中で承りました時には、斯く迄盛大であらうとは全く思も寄らなかつた事で、之によつて見ても松山の富の偉大なるに驚かざるを得ませぬ、甚だ卒爾の申条で心なしと思召すかも知れませぬが、私の今度の旅行の第一の用向は、広島と熊本へ新設しました第一銀行支店の披露に出席し、尚ほ大阪市の公会堂定礎式に列席する等、夫れ是れの用向の為め一週間乃至十日間の予定で出かけたので、四国に迄参る考は毛頭ございませんでしたが、偶々山下君より広島と松山は目と鼻の間で、僅に一日を費せば往復する事ができるし、生先短い老人のお前……とも申されませぬが……兎に角生きて居る間に一度松山に行て見るが宜からう位の御趣旨で以て御誘ひ下されたに依り、急に御当地にまゐることになりました次第、それも両三日前に俄かに取決めた様な訳でございますので、斯の如き御盛宴を特に私の為めに御催し下さる抔とは思ひもかけず、全く恐縮に堪へぬ次第でございます。
 さて、唯今井上君より御述べになりました通り、私は明治六年官職を辞してから本年で丁度四十三年になりますが、此間引続き御国の為めに及ばずながら微力を致しましたが、其功績に至つては何等云ふべきものなくお恥しい次第でございます、併し其実行した事実に就ていふと、終始一貫些の変る処なく、自ら堅く其信ずる処に従ひました次第でございます。維新当時には、未だ容易に階級思想を打破する事が出来ませず、否其端緒さへ得る事が出来ませず、役人ばかりを尊いものとするの弊風滔々として天下に瀰漫し、又如何ともすべからずと云ふ有様でございました、斯様な有様では如何に欧米の文化を模倣したとて、真に国家の実力を増進する事は出来ぬ、国家の実力を増進せしめやうとするならば、今日の所謂実業を振興さ
 - 第57巻 p.583 -ページ画像 
せる事が最急務であると信じ、遂に自ら率先して身を実業界に投ずる様になりました、それが即明治六年のことで、爾来種々の方面に携りましたが、就中只今井上君より過分の御称讚を加へられました教育に就てその一・二を申して見ますと、当時教育の必要を感ぜぬ者は一人もありませず、皆其必要を力説したけれども、独り実業教育の方面に向つては、何人も注意しませず、動もすれば其無用をさへ説くものがありました、唯今の一橋の東京高等商業学校の如きも屡々之を廃止しやうとする説が起りました
とて、東京高等商業学校との関係、其設立及び其後の種々の事情を述べられ、更に進みて過般催されたる同校四十年記念式に於ける感慨を叙せられて、話頭を一転せられ
 我国の富は今や大いに進みその各般の事業の歳と共に盛になるのは洵に喜ぶべきことではありますが、併し我々は決して之に満足する事は出来ませぬ、否却て大いに憂ふべきものがあると思ひます、第一今日我国実業の力は未だ甚だ鞏固と云ふ程度に達して居りませぬ維新以来五十年間に我国民一般の富力は非常に向上し、特に或事変に際しては実に驚くべき進歩を見ましたけれども、さて堅実なる基礎の上に立て居るかと云ふと決して左様でありませぬ、一言にして云ひますと我国の富は仁義道徳の上に基礎を置けるものでございませぬ、だから次第に進んで行く間には必ず変化を来すに相違ございませぬ。此点より考へると敢て喜ぶべきでもありませぬ、国家の富力が進歩したと云ふて未だそれを以て諸君と共に満足することを得ませぬ、富力の向上と共にそれが堅実なる基礎の上に立ち、一般風俗人情の向上を見なければ安心する事が出来ないのでございます。
と淳々として実業道徳に就て論ぜられ、次で女子教育に対しては、単なる女大学流、若くは賢母良妻主義は之を採らず、其婦徳を研かしむると同時に又其の智識を進めしむる必要ありと述べられ、尚ほ慈善乃至救貧問題に就ては、救貧よりも防貧を急務とすと説かれ、最後に重ねて感謝の意を述べられ、満場の拍手の裡に席に復せられ、それより宴会に移り、和気洋洋の間、記念撮影等あり、深町知事の発声にて先生の万歳を三唱し、先生之に対し愛媛県の万歳を三唱し、満堂之に和し続て拍手一時に起る、之を機会に場を退き、万歳の声に送られ車を連ねて道後に向へは、夜は漆の如く細雨粛々として幌為に重かりき。
○中略
      (二)講演より講演へ
○中略
公会堂に到れば松山中学校、北予中学校、師範学校、農学校、商業学校並に工業徒弟学校等の上級生徒合計八百余名、及主なる教員並に前田内務部長 ○中略 着席して先生の来着をまてり、故に先生には直に会場に入られ、山路師範学校長の紹介にて演壇に立たれ、約一時間に亘り大要左の如き講演をせらる。
○中略
右を終るや直に愛媛農工銀行に赴かれ、同行階上大広間に於て実業家諸氏の為に実業家の本領と題し左記の講演をせらる、堀内商工会長の
 - 第57巻 p.584 -ページ画像 
挨拶に次で先生の演壇に立たゝるゝや、拍手一時に起りて堂も揺がん計りなり。
 皆様には初めてお目に掛ります、私も御覧の通り老人に相成りましたが、用向きの為め日本をあちらこちら旅行して居りますが、四国には未だ参つた事なく今回初めて脚を踏み入れた次第であります、山下亀三郎君とは従来の因縁もあり、尚ほ井上君からも是非来て見よとのお勧めがあり、遂に御当地に罷り出る事に決した次第であります、此度の旅行は誠に忙しく、之から広島に渡り、熊本に行き、帰りには大阪の公会堂定礎式にも立会ねばならぬのですから、御当地にモウ一泊したいのでありますが、是非今日中に広島に行かねばなりませぬ、夫れが為め諸君に悠くりお話をする事の出来ませぬのは誠に残念に存じます。
 私も実業家の流れを汲む一人でありまして、玆に集まられた諸君も大体実業に従事せられる方が多数を占めて居られるだらうと存じます、私は其諸君に対して講釈を申上ぐる様な学者ではありませぬ、唯自分は諸君に向て意見を申上げ、諸君は如何思召さるゝかと御相談を申上ぐるに過ぎませぬ、故に講演、演説などゝ改つてお聴きにならず、相談としてお聴取りの程を願ひます。
 商工業は明治維新以来四十年、殆ど五十年近き歳月の間に著しい進歩を来たした事は、我々お互に喜ばしい事であります、古い事実は我々老人等のよく存じて居る処でありまして、夫れ丈け維新以来の変化を感ずる事が強いのであります、私に限らず、年のよる者程、維新以前に比べて今日の変化の度の烈しさを感ずる事が強からうと存じます、私共が往時を回想する毎に、或は精神上に、或は物質上に驚くべき推移を発見するのであります。
 彼の物質上に於ては、未だ維新以前には完全な金融機関と申しては無かつたものであります、別に規則立つた設備はなかつたものであります、江戸ではお蔵前辺に不完全な金融機関があつたり、又は小さな質屋が小金を貸してゐた位であります、其他交通機関としても僅かに駕籠舁位があつたもので、各地の模様は存じませぬが、江戸大阪にはお伝馬助蔵と云つて駕籠屋があつた、私共も其頃は百姓でありまして駕籠舁きにも出た事があります、其後役人に取立てゝ貰つては其駕籠に乗つた事もあります、さう云ふ都合で一ツ橋公に取立てゝ戴くまでは、駕籠を担いだり、担がれたりで色々の事に遭遇しましたから、其時代の事でありましたなら稍々存じて居ります。維新以後は実業の発達を図り、国の富を造らねばならぬと云ふので政治界に於ても力を入れる事になり、彼の大隈・松方・伊藤・井上侯等の元勲も力を入れられたのでありますが、併し四名の内二名までは既に故人になつて仕舞はれました、さう云ふ都合で、唯国の発達は兵事・法律・衛生許りで発達するものではありませぬ、人民の実業が根本であります、貨幣制度・財政・金融機関・運輸機関、之を総て便利にして国を富ます材料を作らねばなりませぬ、そこで右四名の元勲等も玆に心を用ゐられたのであります、尤も此点に力を用いたのは右四名のみに止まらずまだ外に沢山ありますが、右四名
 - 第57巻 p.585 -ページ画像 
が其大立物でありました。
 然るに此人々の内、大隈・伊藤公等は、海運会社・御用会社等を五つも六つも造られた、私は未だ其頃は微賤な身分でありましたからどう云ふ性質のものであるか知りませなんだ、扨て御用会社は出来たが、其社長になるべき人がない、凡そ学校でも官庁でも其部局の発達は決して制度の如何によりませぬ、人物の如何によります、治人あつて治国なく、乱人あつて乱国なしとか申して、各府県の自治政体に於ても然りで、よい長官の居る府県は必ず進歩をします、知事あつて地方なしとか申して、其国の進歩は其人物に依る、又衰頽も人物に依る、さう云ふ都合で、折角出来た会社にも人物がない為め皆破れて仕舞つた、明治二年には皆倒れて仕舞つて、僅かに蠣殻町の為替会社のみが余命を保つて居る、私は玆に於て奇異な思ひをしたのであります。
 本日も県公会堂に於て各学校生徒諸君に向つても、実業家に対する教育の模様をお話し申した次第でありますが、昔、江戸・大阪辺りの商人は役人の前に決して主人が顔出しをすると云ふ事はなかつたのです、必ず番頭が顔出しをしたもので、其番頭も礼儀・作法等を弁へて居る者は少く、悪く云へば何も知らぬ連中が多く、漸く其場限りの受け答へが出来ればよかつたのである、そして何れも其場に於て即答を以て意見を申し上げると云ふ事はなかつたもので、一応主人に伺ひまして、後日お答へを申上げますと其場を引退つたもので、決して役人の前に於て即答はすまじきものとしてあつた、故に商人間に於ては小才の利く者は沢山ありましても、大きな知慧を以てゐる者は無かつたのです、夫れ故江戸の商人間に於ては協同一致の考へを以て仕事をすると云ふ者は一人もなく、唯自分さへよければよい、他人の事はかまはぬ、と斯う云ふ考への者が多数でありましたから、会社の成立つ道理はありませぬ、多くの会社が軒を並べて破産するに至つたのは斯ういう理由でありました。
 自己を誉め、他を譏る事は君子の為さゞる処でありますが、併し事実は右申した様な事実で、私は現在の日本の様な状態では決して組合会社等の成立つものではないと思ひました、政治は追々進んで来て、幕政は王政になり、封建が郡県になり、人事平等、人の資格を引立つる様になつた事は至極結構です、併し乍ら実業は微々として少しも振はない、尤も江戸・大阪辺りでも一人一人の商売は却々盛であつたが、数人相集つて仕事をすると云ふ事は少しも振はない、従来日本は海外に比べて頗る微力であつて、儲けの少い国である、然るに斯う云ふ風で進んで行つた際には、真正の進歩発達を期する事は到底覚束ない、そこで私は僅かな間にもしろ仏蘭西にも居つた事があるのですから、会社法は是非海外の者に頼るより外はないと心付きました、そこで明治四年の夏でありましたが、立会略則と称する本を著して大蔵省から発行致しました、そこで私は合本事業をやるより外はないと信じまして、大隈・伊藤・井上侯等に向つても合本事業をやるより外はないと屡々意見を述べ、役人は望みがないから商売人になつて見度いと度々お話を致しました、其当時の事は
 - 第57巻 p.586 -ページ画像 
大隈さんに聞かれてもよく分るだらうと存じます。当時井上侯が大蔵大臣を務め、私が次官を務めて居りましたが、何分官途に就て居つては自由に仕事をする事が出来ませぬから、井上侯が大蔵大臣を辞すると共に私も辞しました、処が井上侯は、俺れは辞してもお前は居つて呉れ、さうしないと後から入る者が困るではないかと申されました、併し私は大に不平を鳴らしました、それは余りに得手勝手と申すもので、以前から辞職しやうと思つてゐたのを暫時やつて呉れとお話があつたので、自分は辞し度いのを今日まで我慢をしたので、万一此場合、人が無いと云ふ理由の下に辞せなかつたならば此次入つて来た人が又人がないと云つて引止められ、私は一生涯辞する事が出来ず、遂には私の目的を達する事が出来ぬかも知れませぬ、此際あなたもお止めになり、私も辞するに至つたならば、一時世間に対して相済まぬやうでありますが、併し私は我国将来の為め退かうと思ひます、私が今日去る事が出来ないならば一生涯役人を止める事は出来ませぬ、と斯う申して遂に辞職致しました。私が実業界に身を投ずるに至つたのは敢て金持ちになりたい為めではありませぬ、模範的株式会社をやつて見たい為めで、明治六年に始めて実業界に這入りました、実業界の事を申上ぐるに当つては、自己に関聯する事が多いので止むを得ず斯く申上ぐる次第であります、遂に私は明治六年に至り、今の第一銀行に入りました、其頃は専ら三井家が経営して居りましたが、私は一の世話役と云ふ名義で入りました、処がどうも世話役と云ふのでは不規則でいかぬと大蔵省から注意もあり、旗色を明かにして、万一遣り損つたら自分の損、よく行つたら自分の徳と、玆に当面の矢面に立つ事となり、明治八年に初めて頭取の名を汚す事となりました、それから四十年を経たる今日まで第一銀行の頭取としてやつて居ります。
 其頃一般、東京の実業家は、伊勢町・堀留・伝馬町等に居りましたが、実際の商売をする事は知つて居りましても、株式の事などは一向知らぬのであります、夫れで私等のする事は異様な事をすると怪しんで見て居りました、第一私等の洋服を着てゐるのを見ても、直ぐ破産をするだらうと疑惑の眼で見て居りました、併し欧羅巴の文明を心懸けるに当つては、如何に前垂れ懸けの商売とは云ひ条、只前垂れ懸けのみで押通す訳には行かぬので、矢張り欧羅巴式の態度を以て事業をやらねばならぬと云ふので、私のみは現今通りの態度を以て仕事をやり続けました。
 夫れから諸種の事業を企てました、どうも銀行丈けでは世の中が進み様がありませぬ、銀行業は一個の事務に過ぎませぬ、銀行計り完全でも四囲の事物が進歩する道理がありませぬ、夫れ故各種の事業を起す世話をなし、一方銀行に於ては其金融を図り、己れ自身も其事業に参加し、死力を尽して之を助け、更に進んでは其事業を会社組織に組立てる事に力を致し、遂には四十も五十も会社の世話をする事になりました、夫れ故渋沢と云ふ男は唯会社の世話をする人間だと世間から誹謗を受くるに立至りました、併し乍ら私は株式会社を作る見本を造つた一人であります。
 - 第57巻 p.587 -ページ画像 
 私が実業界に身を投じて既に四十有余年間を経過して居まりすが、当松山には会社の数が、井上君から承る処に依れば五十程有つて、其資金が千何百万円有ると云ふ事で、私は之を聞いた丈けでも嬉しい事だと思ひます、兎に角全国の会社が斯くも進歩を来たした事は喜ばしい次第だと思ひます。
 次ぎに私は実業と政治の関係に就き一言申上げたいと思ひます、実業家であつて政治政党等に踏み込む事があつては大変です、私自身には明治の初めに於て実業界の発展に精力を注ぐ為め官を辞し、政治界と絶縁して仕舞つたものであります、併し乍ら政治界と絶縁すると申した処で、政治界を離れては仕事の出来ぬものであります、例へば貨幣即ち政治、銀行即ち政治、衛生即ち政治、凡そ世の中の事は大抵政治の下に発達をするものであります、故に良い政治が行はれる様に心懸けねばなりませぬ、併し乍ら実際の舞台に立つて芝居をするのでなく、只見物人として善政の布かれん事を願つて居ればよいのであります、特別観客として芝居を見物して居ればよいのであります、憖ひ取つたり大根役者になつた処が何にもなりませぬ私は元来一ツ橋侯の家来でありましたが、お国の大変以来例へ身は微賤な者であつたと雖、此場合自分が再びお上の役人になると云ふ事は屑しとせず、所謂武士の心に恥る点があつて、遂に政治を断念して実業の方に赴いた訳でありますから、諸君にも必ず私の様にして戴き度いと申す訳ではありませぬ、併し乍ら、世の実業家に私より希望する処は、今は政治界の舞台に立つて仕事をするよりも、見物人として良い桟敷を持つ方が得策だと思ひます、然るに実業家であつて政治界に足を踏み入れ度がる者が多く、甚しきは陣笠連となつて政党政派の手先に使はれる者が多いとは、実に不見識も甚しいと云はねばなりませぬ、実業家はも少し地位を高めねばなりませぬ実業家にはも少し確固たる見識を持たさねばなりませぬ、実業家には実業家として大切な本分があります、其本分を忘れぬ様にしたいものであります、然るに四国に於ては実業家と政党との関係が頗る深い様に承つて居ります、殊に本県は政党の関係が烈しいお国柄だと承つて居ります、此際、政党と実業との分界を明かにして、其の態度を過るが如き事のない様に心懸けたいものだと思ひます、実業家の今後は舞台に立て芝居するよりも、見物人としてよい芝居を見物すると云ふのが第一だと思ひます、彼の舞台に立つて漸く馬の脚を務めたり、又は新田の太郎兵衛が玉織姫になつて世の物笑ひの種を作らぬやうにせねばなりませぬ。私は僅かに昨日来た計りでありまして、一寸御当市を見物したに過ぎませぬから、決して正確な調べは致して居りませぬが、昨日以来観察した処に依れば、御当地は温和な人の多い土地として誇られる丈けの力を持て居ると思ひます併し乍ら又一方には小成に安ずる人が多くはないかと思ひます、私なども本月下旬には亜米利加に旅行する考へでありますが、人の生命は決して座敷の上に於てのみ保つものではありませぬ、夫れ故私も実業家として大に奮闘する覚悟はありますが、併し後の始末をようつけぬ様でも却つて面白くありませぬから、他の会社との関係を
 - 第57巻 p.588 -ページ画像 
断つて仕舞つて、今日では第一銀行の頭取として丹誠を凝らす計りであります、併し乍ら老衰を以て自ら任ずるものではありませぬ、聊か国家社会の為め慮る処あつて亜米利加まで出掛けて行く考であります、蓋し人間は死ぬる迄働かねばなりませぬ、殊に有為の諸君にあつては小成に安ずるが如きは断して避けねばなりませぬ、得て沃土の民は逸すると云ふ事が小学と云ふ本に書いてあります、又瘠土の民は苦しむと之と反対の事が矢張り小学と云ふ本の内に書いてあります、沃土の民は小成に安ずる弊害があります、帝国の臣民は帝国の為めに本当の富を作る事に尽さねばなりませぬ、然るに己れ一人さへ良ければよい、他人はどうなつても関はぬと云ふ者がありますが、之は蓋し国家は如何なつても関はぬと云ふに等しく、全国は一人であつて決して二人ではありませぬ、即ち一人一人が本当の覚悟を以て働けば、之れ即ち全国人挙て本当の力を以て働く事となり、国運の発展を期する事が出来ます、若し松山の内に俺れ一人は如何なつても関はぬと云ふ者がありとしますれば、自暴自棄の甚しい者であります、土地の良い為めに小成に安ずる者が多いとしますれば、諸君は不仕合な土地に生長せられたと云はねばなりませぬから、奮励一番充分粉骨せられん事を望みます。
      (三)天守閣より公会堂へ
農工銀行を辞して、腕車に打乗り、県庁裏の新道より城山に登る ○中略 二の門に車を捨て、戸無門・一の門を過ぎて玄関に入り、直に古典の匂饒かなる武具陳列場を経て傾斜急なる階段を上れば、即ち天守閣にして ○中略 軈て同盟銀行、伊予鉄道会社、伊予水力電気会社主催の歓迎午餐会は開かれ ○中略 午後二時之を辞し ○中略 直に公会堂に向ふ。公会堂に到れば聴衆は既に着席して待つこと半時計りなればとのことに、先生には直に前田内務部長の案内により演壇に立たれたり、聴衆は県立高等女学校、松山済美、崇徳、技芸の各女学校生徒、並に愛国婦人会員等約千名にして講演の要旨左の如し。
 従来日本では吾々商人と皆さん婦人とは頗る不幸な地位に在つたのである、即ち商売人と女子とし云へば頭から軽蔑したもので、紀貫之が六歌仙の歌を評した言葉にも、市の男の子の好き衣着たるが如しとか、病める女を担へるが如しとか云つてゐるが、孰れも之は甚だ軽蔑の言葉である、其他商人を卑んだ言葉は昔から至る処に発見され、女子に対しては論語にも唯女子と小人とを養ひ難しと為す、之を近くれば則不避、之を遠くれば則ち怨むなどゝ云つて、偏に度し難いものとせられてゐるが、之は其欠点計りを云つた者で、女子にせよ商人にせよ、必しも爾かく軽蔑さる可きものではない、欠点と云へば女子にも商売人にも其れ其れの弊がある、錙朱の利を争ふ商売人は稍ともすると金に対して卑しい根性となり、婦人はどうかすると口さがなくなつたり、智識に乏しかつたり、無暗に遠慮深かつたりする事がある、女子や商人に対する軽蔑は畢竟此等の弊に就いて云はれるのである事と思ふが、兎に角吾々と女子は無暗に軽蔑されて居たのであるが、明治になつて実業家が国富の基として段々と世間に重んぜらるゝと同時に、女子も漸く其地位を進める事とな
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り、貝原益軒流の唯無暗に従順でありさへすれば其で役目は務まると云ふ考は一変された。従つて教育の方針も欧洲式となつて、大に智識を進め、人格を高め、又社交を重んずる様になつた、私は女子教育には経験がないが、女子の社交の必要なる事は夙に主張した一人で、明治十八年頃聊か此方面に力を注いだ、処が一時は多少一方に偏した嫌ひがあつた為め、女子の社交と云ふ事は其後一頓挫を来し、幾分後戻りをした観はあるが、教育の方面は滞りなく進歩し、今日の隆盛を来す事となつた、勿論女子大学校設立当時に在つては女子に大学の必要があるかないかに就いては識者の間にも議論があり、今に多少の議論もある事かと思ふが、既に女子に教育の必要を認めたる以上、大学の必要は理論として否定する事の出来ぬ筈である、但し今日皆さんに大学迄進む事を勧める訳では決してないが、女子として今日相当の学問をする事は是非必要である事を断言せざるを得ない、志あらば事竟に成ると云ふ事もあれど、志計りで智識がなかつたならば完全に事を行ふ事は出来ない。之は家庭に於ても社会に於ても同じ事で、如何に親切な志があつても、其志を成熟せしめる智識がなくは志は却つて反対の結果を来す事がないとも限らぬ、智識は畢竟志を成熟せしめる手段で、之が無くては婦人の美徳譬へば貞操・従順・優美・緻密等の諸徳も之を十分に発揮せしむる事が出来ぬ、然しながら玆に注意す可き事は、智識を注入する為めに前述の如き婦人の美徳を滅却する様な事があつてはならない、若し之れが為めに婦人の美徳を滅却する様な事があれば、智識は寧ろ無きに若かずである。昔女子は全く人格を認められず、結婚の如きも、彼の家康が已に嫁して居た娘を無理に引捩いで之を秀吉に嫁せしめたるが如き、女子を一種の道具と心得て、政略上に応用した様な社会状態より脱して今日女子が重ぜられるに至つたに就いては、恰も吾々商人が社会に認められるゝに従つて益其品格を保たねばならぬと同様、智識の為めに婦人特有の美徳を害する事なく大に人格の修養に勉めねばならない、終に私が婦人の為に作つた歌を皆さんに申上げ度いと思ふ、即ち「新しき御代の色増せ梅の花昔ながらの香に匂ひつゝ」と云ふ歌を残して置き度い、若しも頂門の一針ともならば幸であります。
かくして午後二時四十分降壇せられ ○中略 松山駅に着し ○中略 午後三時四十分煙火を合図に先生を先にプラットホームに雲集せる見送人の歓呼の中を貴賓車に塔ず ○中略 午後四時二十五分高浜に到着せり。
○下略


竜門雑誌 第三三一号・第五五―五六頁 大正四年一二月 青淵先生西南紀行 随行員 白石喜太郎記(DK570286k-0003)
第57巻 p.589-590 ページ画像

竜門雑誌  第三三一号・第五五―五六頁 大正四年一二月
    青淵先生西南紀行
                 随行員 白石喜太郎記
○上略
      五、広島
        (一)交魚会講演と同盟銀行歓迎午餐会
十月二日は雨に明けて、朝来蒸暑く、ジメジメとして恰も梅雨中の如
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くなりき。先生には午前十時旅館を出でられ、当地青年実業家の団体たる交魚会の為に講演せられんが為商品陳列館に向はる、西条、杉田松井の諸氏と共に随従せり。
館に到れは会衆は已に着席して先生の来着を待ちつゝありとのことに先生は階上休憩室にて小憩の後急ぎ講演場に入られたり、場は同館の階下会議室にして、会衆は約五十名、先生を迎ふるや拍手一時に起りたりき。やがて松本喜代造氏起ち、歓迎の辞を述べて先生を会衆に紹介せらる、於玆先生は徐ろに演壇に進まれ、約三十分に亘りて概要次の如き講演をせられたり。
 余は今より二十年前、即ち日清戦役の際大本営を進められし時初めて当地に来り、爾来今回にて五たび来広せり、従来当地には余の関係せる広島呉水力電気株式会社を初め種々の縁故あり。
 余の今回当地に来りたるは第一銀行広島支店設置披露の為なり、地方事業に仲間入をなすからは自然古き銀行と競争を惹起するが如きことなき様に深く注意し居れば、何分御引立あらんことを希望して已まざるなり。
 昨年余が当地に来り、公会堂に於て講演をなしたる事柄は日支関係の問題にして、当時欧洲には未だ戦雲も起り居らざりしなり、即ち其際は欧洲に斯の如き大戦乱の起るべしとは予期せられざりしなり尚先年平和会議の首唱者たる米国のジヨルダン博士来朝の時、余は博士と日米問題に付親しく意見を交換したるが、博士は心ある米国人は日米間は飽迄も平和ならざるべからずとの意見を抱き居るもの多しと主張し、又世界は何処迄も平和なるべし云々と述べたり、然るに平和の説は其予想に反して間もなく欧洲の天地に大戦乱を見るに至れり、然れば今日玆に将来の事を予想して諸君に御話するは洵に困難の至りなれども、既に欧洲大戦乱の勃興せる今日に当りては其戦争の終局を告げし時に対する覚悟なかるべからず、之に付ては青年は勿論壮年及び老人に至るまで、如何なる考へを廻らして之に当るべきかは今より決心する所なかるべからざるなり、即ち此点に付ては第一軍国主義に依るべきか、第二制限的平和主義に依るべきか二者一を択ばざるべからず、我日本の重要問題は此の二案に付て深く考慮を費すことにあるべきなり、我国民が戦後に処するの覚悟は智勇及び道徳を標榜して猛進するに在りと信ずるなり、要するに我国民の戦後に処する道は、宜しく自己の信念を強固にすると共に之を偉大ならしめて以て天道を尽すべきなり、天に尽くすは君に尽くす所以と同一なればなり、諸君は何れも有為の少壮実業家なれば此点に向つて猛進せられんことを希望す。
右を終るや陳列館長の案内にて陳列品を一覧せられたる後、同盟銀行歓迎午餐会に向はれたり。○下略


竜門雑誌 第三二九号・第三一―三三頁 大正四年一〇月 ○広島市公会堂に於ける講演 青淵先生(DK570286k-0004)
第57巻 p.590-594 ページ画像

竜門雑誌  第三二九号・第三一―三三頁 大正四年一〇月
    ○広島市公会堂に於ける講演
                      青淵先生
 本編は雑報欄記載の如く十月三日広島市公会堂に於ける青淵先生の
 - 第57巻 p.591 -ページ画像 
講演にて、芸備日々新聞紙上に連載せるものなり(編者識)
余は昨年支那に遊びて、帰途この席に於て一場の視察談をなしたり、諸君は当時の聴衆と異るや否やを知らざるも席は正に同じ席なり、余が此度の来広は第一銀行支店開設に付頭取として来りし次第なるが、斯る機会に我が店の披露をなすは甚だ便利なれば、何卒お引立を願ふ(とて聴衆を笑はせ、夫より本題に入りて)偖日本に於ける実業界は是の如く進みたし、又植民協会あり、移民も多く出で居る米国布哇は如何にせばよき乎、是等の事は政治上より云ふも経済上より云ふも、将た国家の上より云ふも緊要の問題なるが、余が言ふ所の果して正鵠を得るや否や、兎もあれ其所信を玆に談らんとす、但しお引立を願ふための報酬にする積りとお聴誤りなからんことを願ふ(とて再び聴衆を笑はせ)元来商業といつぱ貿易売買の事のみにはあらす、余は農も工も含めるものと解せんとす、而して之が完全なる発達を遂ぐるに於ては、国富期して待つべきも、其発達完全ならざれば、帝国の将来気づかはしと謂はざるべからず、明治より大正へ掛け、年を数ふばれ幾んど五十年、政体既に一変して野に遺賢なく、智あり思慮ある人々は皆政府に採用せられたるが、這は 先帝の御偉徳と深く感佩し奉らざるべからず、之れを翼賛せし人々の労亦た多とすべし、然れども熟考するに今日旧習尚ほ未だ脱せず、官尊民卑の弊未だ去らず、政治又は軍事と実業とは孰れが重き孰れが軽きかと云へば、彼れありて此れありと思へるが如し、こは間違ひなり、封建制度の世は国君ありて人民あり(ここに松山城の例を引き)未開の世は、国富を保つよりも国君の威福を張るの要具とせり、お互は三百年間その道具視されたりしなり、余弊今におよび、政治・軍事を偏重視し、役人が一人代りても新聞は号外を出すと云ふが如き風習に馴致せらる、こは東洋ばかりにてはなく、或ひは欧米とても然るやも知れざれども、然し何とかして実業を重視することゝしたし、其目的を達するには、政治家に学者に斯くありたしと我々より望むは可笑しけれど、之を唱導することは決して無用の事にあらず、而も商人は然る事を言ふを憚り、兎角事勿れと考へたるが如き傾あり、先般当地には原氏来り加藤氏来りたれども、要するに主とする所は政争にして、国家的観念あらざるが如し、而して時あつて其事の見ゆるが残念なり、是を以て真に実業を重視せしめんには、或る場合に大声疾呼することも亦必要なり、而も責任は己れに在り、蓋し自から起つて人之を信ず、自から欺かずして人之を重んず、須らく人格・事業・信用等の堅実ならんことを期すべし、即ち事を成すには道理によりて能く考へざる可からず、当地に於ても精査すれば、或ひは合一す可き事業を区々の利益の為に二つにせるが如き事もあらん、是等は自から抑損して其宜しきに適せしめざるべからず、乃ち余は人格を重んぜられん事を勧む、一己の私をのみ主張すれば纏まるべき事も纏まらず(こゝに一人都合よき商業をなせば、他の一人直ちに之と競争するが如き悪例を引き)甚だしきに至りては詐術を以て商業となすものあり、斯ては如何に政治家などが之を尊重せんとするも能はず、即ち今日に於て尚封建の世の如く、政治・軍事のみを偏重視するは実業界にも亦欠点あるに由る、此は是れ自から反省せざる
 - 第57巻 p.592 -ページ画像 
所なり、因て諸君は己れ一人進むのみならず人をも進ましめ、延て隣県に及ぼされたきものなり、欧洲の戦乱は其影響もとより大、或ひは是に由りて大いに進歩するものあるべく、兎もあれ今後は大いに変化を来すべき時なり、我々にして若し赤色なりとせば、其貿易地図を赤色にしたく、此進取の時に当つては充分の注意を以て将来に対する企画をなさゞるべからず、然らば我々は自から一般社会よりも重視せらるべき今日、なほ見下げらるゝは罪自らに在り、己れ其責任を免れず商業会議所諸君は何卒発奮して此時代に副はれんことを望む。
次に殖民協会の事に付愚見を述べん、従来余は日米関係に付政治圏外に立ち多少苦心し居れり、当地は加州又は布哇に行ける人々も多ければ、此機会を以て之に関するお話をするも無用の事に非ざるべき歟、想ふに従来海外に出づる移民に付ては注意不行届きなりしと謂ふべし今春大隈伯の邸に於て移民協会設立の事ありし際、余も出席して愚見を述べよと云はれたれば、余は遠き昔は知らず、近く三百年以来各地方にある奉公人請宿、人入れ等の事を引きて愚見を述べたるが、此人入れの業は、元禄・享保の頃には親方なるものゝ扱ひし所に係り、凡そ斯る人を扱ふ業体は最も卑近なる階級の人の手に属せしかば、明治の初めに至りても移民の如きは大人君子は何等の考慮をも運らさゞりき、随つて道理もなく名法もなく、移民は唯勝手に出で行けり、因襲今日におよび依然その余弊を受く、すべて何れの国にも皆相当の風習ありて、例へば銀行の仕組の如きも、英仏露独其他の国々各々多少異る所あるも、孰れが是、孰れが非なるやは其地方々々の便利を考へて定まることなり、我国にては其学理も実際も整ひたるものを輸入し、夫れを我が実情に合ふ様にし以て基礎を立てたるなり、移民にも亦彼方の進みたる事情に合ふ必要あり、たゞ行きたければと云ひて行くは不可なり、之を相当なる会社などが世話して行かせることにせねばならず、若し初めより其方向を定め居らば可なりしことは言ふ迄もなく移民の生活の上に於ても都合よかりしならん、而も前述の如く因襲に依り、斯る事には誰も世話をやかず、よし移民協会が成立したればとて奉公人雇人請宿式に出来てゐては初めより啓発する所もなし、必らずや彼方の風土なり、人情なりを考察してやらねばならず、斯くて其行く人々が四角ならば寄せ集めたる所にて能くキチンと合ふも、三角や六角にては少し推せばそこに齟齬も出で来る所以なり、移民に共同心なきは其点にあらん、然れば元の起りより強い考案を置かざりしは誤りなり、こは政治上に欠点ありとも謂ひ得可きが、我々にも心づきの行届かざる所ありしなり、是を以て移民協会はまことに必要なれどもドウカ完全を期し、大体に於て能く考察したる所を誤解せざる人々にして此に当らば、従来渡航せる人々の為めにも将来渡航する人々の為にも便宜なるべし、との意見を述べたり。
当地の殖民協会に付ては、其成立、働き振等も詳細は知らざれども、姑らく東京の移民協会と同じ考へを以て話さんと思ふ、之に関係ある日米の国交に関する余一個の考へは真相を得たるものなるや否やは知らざれども、唯行掛上その事に任じ居れり、比年両国間の風波は高まり来れるが、元より我国の不利益や侮辱は忍ぶ可からざるも、然る場
 - 第57巻 p.593 -ページ画像 
合果して唯力を以て之を抑へ得べき乎、若し然るを得ずとせば彼れをして反省せしめ、我に対して道理ある待遇をなさしめ、以て国交の親善貿易の進歩を図らざるべからず、余が是が為に力を尽すは報国の微志衷情に発するのみ。六十年前コンマンドル・ペリー来りしが、米国は日本を欧米に紹介し呉れたる国と謂ふも不可なし、安政五年には其最初の使臣タウンセンド・ハリス来り、追々各国との国交も結ばれたるが、其安政五年の条約こそは憂国の志士の最も憂憤したる所なれ、蓋し三百年前葡萄@のジエスイツト教渡来し、其教師中には異図を抱きし者もありしより、幕府は之に対して警戒し鎖国論を唱へたるなり開国の今日となりて当時の事を顧れば、其端緒は実に米国によりて発かれ、同国は日本誘導の恩ありと謂ふも過言に非ざるべし、是を以て彼れも親しめば我も頼みに思ひ居りしに、出稼ぎの為渡航したるものの行動に付よからざりしこともあり(若し良き会社ありて世話し、よき人が往けば悪風習も持ち行かざりしやも知れず)且三十七・八年頃までは米国一般の気風日本に傾き、露国との戦争に付ても日本をして勝たせたしと言ひ居りしが、果して日本勝ちたれば之を喜ぶと同時に恐怖心も起れり、或ひは又日本人中米国人の前にて何角と威張りたる人の有りしやも知れず、又日本人中には日露媾和談判に付不満を抱けるもの有りしが、両国の仲介はルーズベルト氏之をなしたることゝて米人は当時の始末に付仮令一時にもせよ悪感を抱きしならん、是等の事情湊集して彼此相激成し排日の気勢を高めたり、而して其の状たるや恰も胃腑に何か消化せざるものゝ存するが如し、加ふるに此間また彼国労働党の之を煽れるあり、此仲間は欧洲の労働者を容るゝを喜び或点に於て之を職業とせるものなり、随つて勢ひ日本の労働者を敵とす、こゝに種々の非難攻撃あれば、又自家の営業上より日米戦争を誇張し、其経営せる事業(造船、武器製造の如き)に資せんとするもあるらし、是に於て排日の気勢弥々高まり、明治四十年の学童排斥となり、或ひは日本人の職業制限となりしが、恰も小村氏外相たりし時深く之を憂ひ、我が国情を了解せしめん為余等も同感なりしより東京を始とし沿海八ケ所の商業会議所より米国の重なる実業家の来遊を促すことゝなり、其結果はじめて日米間の団体旅行成立ち、四十人ばかりの米人来遊せしは明治四十一年の事なりき、来遊者は真実に我が好意を喜び、是が幾分か悪感を取り去りたるらしく、次で其翌年には先方よりの希望に依り、我が実業界の重立ちたるものと、専門学を修めたるもの等にて五十三人一団となり、余その団長として渡米したりき、其際三ケ月に五十余の都市を歴訪し、到る所演説をもなし、諸種の招待をも受け、其間感情を融和したること尠からず、たとひ是等の事が完全に米国西部地方の排日熱を全く除却すること能はざりしにもせよ何程か其効はありしならん、その後又交換教授の事も行はれ、米国よりも名士の来れるありて之と意見を交換せしに、其人々は排日熱を以て唯是れ安い労働者(日本の)を厭ふ経済的観念より来れるに過ぎざれば、敢て憂ふるに足らずと云へるも其気休めのみにては承知し難し現にサクラメントにては州会に土地所有禁止案さへ出たり、其影響決して小なりとせず、是に於て余は我国が自国にても道理を履むと同時
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に、他国にも道理を履ませ、米国をして差別的観念を除却せしめんことを願へるも今尚行はれず、因て先般来遊せしマシウス博士は今帰化法をおこす事に配慮し、又彼我労働者の握手に尽力すべき友愛会の鈴木文治氏も渡米し、海老名弾正氏等も種々尽力し居れり、桑博に対する出品に付ては余等も助言をなし出品することゝなりたるに頗ぶる好感を以て迎へられ、州知事ジヨンソン氏及州会議員等もやゝ反省したるらし、斯の如く余は日米関係に付尽力し来れるより、是迄の関係上当月末には渡米し、先方の意見をも聴き、当方の意見をも述べ、年内一杯か或ひは正月早々帰朝せんとす、此両国国交の将来に付ては諸君も余程注意せられんことを願ふ、尚注意したき事あり、移民の人々は全く一時の出稼ならばそれも宜しけれど、先方に日本を移したる様にてはいつかな彼れと同化せず、夫れにては彼も嫌ふことゝなるべし、因て米人となりて発展せんとならば、郷に入りては郷に従へなり、此点に注意せられんことを望む、又本県より出稼せる人々は故郷に家を造る位の考へをなせるもの多からんが、其人達は少々高くとも土地を買ふより自然その辺りの地価を高め、結局地方の不利益を醸すことゝなれるが如し、さる事をなさんよりは、他によき事も段々あり、然れば其得たる金を以て国富を増すべく役立てんことを願ふべきなり、即ち小成に安んずるの心を棄て、今少し雄大なる志を養はれたしと思ふ此事は渡米の節、先方にある同胞諸君に話す積りなり云々
   ○本資料第五十巻所収「株式会社第一銀行」大正四年十月二日ノ条参照。