デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

6章 旅行
1節 国内旅行
■綱文

第57巻 p.631-644(DK570299k) ページ画像

大正7年5月4日(1918年)

是日栄一、東京ヲ発シ名古屋ニ赴キ、伊賀上野・山田・鳥羽・四日市ヲ経テ、九日帰京ス。


■資料

竜門雑誌 第三六〇号・第七九頁 大正七年五月 ○青淵先生旅行日程(DK570299k-0001)
第57巻 p.631-632 ページ画像

竜門雑誌  第三六〇号・第七九頁 大正七年五月
○青淵先生旅行日程 青淵先生には去る五月四日前記市村名古屋商業学校長謝恩会に特に臨席の為め、令夫人同伴にて東京駅出発西下せられ、九日無事帰京せられたり。各地に於ける演説其他は追て報道すべきも、左に其日程を掲げ置くべし。

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      前八時半 東京駅発 五月四日 後四時八分 名古屋駅着      夜  青年実業家饗宴      名古屋「丸文旅館」泊 


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      前九時 於国技館市村氏謝恩会 五月五日 夜   市村氏ノ為ニ宴会      名古屋「丸文旅館」泊 


 - 第57巻 p.632 -ページ画像 

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      前八時廿一分 名古屋駅発      前十一時四十六分 伊賀上野駅着 五月六日 於上野町講演      後四時五十三分 伊賀上野駅発      後八時四分 山田駅着      山田「戸田屋旅館」泊 


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      午前 大廟正式参拝 五月七日 午後 二見浦見物後鳥羽ニ至ル      鳥羽「待月楼」泊 


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      前十一時半 鳥羽駅発 五月八日 後二時廿七分 四日市駅着      四日市「松茂旅館」泊 


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      前九時廿七分 四日市駅発 五月九日 前十時卅四分 名古屋駅着      後十二時四十六分 同駅発      後八時半 東京駅着 



        以上


竜門雑誌 第三六一号・第六九―七七頁 大正七年六月 ○青淵先生愛知三重両県下旅行記事(DK570299k-0002)
第57巻 p.632-638 ページ画像

竜門雑誌  第三六一号・第六九―七七頁 大正七年六月
    ○青淵先生愛知三重両県下旅行記事
 青淵先生が令夫人同伴にて五月四日西下せられたるは既報の如くなるが、右に付き各都市に於ける諸新聞紙は筆を揃へて青淵先生の消息を伝へ、或は歓迎辞を掲げ、或は講演を詳記して以て先生の人徳を崇敬愛慕せざるなし、依つて左に其一班を掲げて先生の行を偲ぶことゝせり。(前号雑報日程参照)
      ○市村校長謝恩会
○中略
 斯くて先生は翌六日名古屋駅出発、伊賀上野駅より山田駅へ、七日大廟参拝後、更に二見浦並に鳥羽の風光を愛でられ、鳥羽駅出発、八日四日市駅に向はれ、九日同駅出発、帰京の途に就かる。而して名古屋駅出発以来、四日市駅より帰京の途に就かるゝ迄の記事は、総て勢州毎日新聞の報道に依ることゝせり。蓋し同新聞は同地方に於て最も有力なる新聞紙なるのみならず、先生の功労を伝へ先生の意見を聴収し、或は講演に或は消息に詳述縷々として能く其要を得たればなり。
      ○渋沢男の車中談
 本邦実業界の偉人渋沢男は予報の如く六日三重県に入り、同日午前九時卅九分四日市駅通過の列車に搭じ、伊山に向へり、桑名駅に男爵を出迎へたる伊藤東紡社長先づ下車するや、井上第一銀行支店支配人・斎藤市助役・本社の森永社主等出迎へ、井上支配人には嚮導役として同車し、記者亦た亀山駅まで見送り、青淵先生には兼子令夫人を同伴し、中野・斎藤の両氏随行して外に附添の召使あり、一行は白線鮮かなる一等室に席を占め、七十九の高齢に達するもフロツクコート姿にして何時もながらに意気壮者を凌ぎ
 △慈眼豊頰 而も自然に備はる重味は、流石に財界の巨人として吾
 - 第57巻 p.633 -ページ画像 
れ人共に畏敬せしむ青淵男の風丯見るからに懐かしきを覚ゆ、列車やがて四日市駅頭を離れ轣轆として進む程に男はいとも打解けたる態度にて、記者の訪ふがまゝ快然として種々の思ひ出を語り「三重県には明治十七年頃より数次来り大廟には五・六年前にも参拝したる事あり、併し其後は絶えて来らざりしを以て久々にて参宮に来れり」と述べ、四日市の事に及ぶや「先年来れる時は伊藤君の別邸に泊れるが」と坐ろ当時を回想さるゝものゝ如し、記者乃ち四日市港が金融機関として信用広大なる第一銀行の支店を得、又た紡績業に製紙業に製油業に今日の発展を見るに至れるものは主として是れ
 △男爵閣下 が終始深厚なる援護を与へられたる賜に外ならずと感謝の辞を寄するや、男は莞爾として壮重にして快活に元気満てる言葉もて「伊藤君は川島と云ふ所にて紡績所を経営せしが、其の温厚篤実にして正直至誠、事に当るの熱列なるを知りたる予は斯の人ならば斯の事業も必ず遂行し得られんとの念を強めしが、予は明治拾年同志と謀り、大阪紡績会社を起せる経験もあり、故に予は伊藤君と相語るや其の為す有るを信ずるも、惜むらくは好漢事業に対する主義消極に流れ、規模小さき憾みあり、須らく思想雄大、何事も積極的に進まざる可らずと訓戒忠告せしが、予は明治維新に際し、諸事更革され、頓に与国の機運を招徠せしは、総て積極主義なりし為めに外ならずと確信すれば也、何事も
 △積極主義 の下に為さざれば真の大発展は望む可らず、此を以て三重県に来り、津市の藤堂家山荘たりし偕楽園に、当時の知事にて今の石井駐米大使の先考なる石井邦猷君、伊藤君及び地方の有志と会合するや、予は規模を大にして積極の方針を執らん事を力説したり、斯る主義の下に予は技術者を欧米に派遣せよと慫慂せしが、其の様の事をしては費用の出場がなしと、当時は伊藤君も躊躇したれど、予は之が実行に努め、浅草蔵前なる高等工業学校の出身なる工業学校長の正木泰蔵君などに諮り、優秀の技術者を求しが、斎藤君(恒三)なども未だ少年の一技術者に過ぎざりき、今や工場も十六ケ所の多きに達し、今日の興隆を見るに至れるが要するに
 △人材配置 宜しきを得たるが為め、従つて事業の経営も順調に好成績を収めたるならん」と語り、記者が男爵の功績を頌するや「褒辞は敢て当らざれど、唯自分が三重県の事業の為め力を尽したりと云ふ事は過言にあらずと信ず」と軽く気焔を漏し、唇頭に会心の笑あり、汽車は進みて河原田を過ぎ、加佐登を経て亀山へと走る中にも男爵は言葉を続け、話頭一転して四日市の現況に入るや「四日市は貿易港として発達はしつゝあれど、実力に於て未だ誇るに足らず此の点に於ては確かに名古屋に一籌を輸するものゝ如し、元来四日市人は沈着の為め進取の精神に欠如し、従つて世界又は日本の大勢に、順応するだけの事業も起らざるは惜むべし」と言外の意味深き「沈着」の語あり、又た「予が斯く云へば然らば何を行るべきやとの反問もあらんか、开は予とても直ちには明言し難く、先づ土地の状勢、工業の原料工場に使用すべき労働者及び販売の政策等を考査研究せざる可らざるが、斯くせば之を発見する事必ずしも難事にあ
 - 第57巻 p.634 -ページ画像 
らざるべし、唯欧米
 △化学応用 盛んなればとて其の化学工業を穿き違ふれば甚だ良からざる結果を来さん、富田は車窓より瞥見せしが、紡績の工場も設けられし為め非常に面目を新たにして好くなれり」と、傍には淑かに座を占めらるゝ兼子夫人あり、流石に帝都の巾幗社会に重きを成せる方だけに服装も高尚、且つ質素にして言葉優しく、而も快活に「先年大廟に参拝し、二見ケ浦の風光を賞し、帰りに四日市へ立寄れる節は伊藤邸に泊り、楽しき網曳の光景などを見せられたり、其の蟹の二つ三つ獲られしなど面白く、夜は亦た料理店より珍味佳肴を取寄せ饗応されしが、妾等は蟹好きなれば、斯く価貴き料理の馳走よりも昼獲れたる蟹を調理し下さらばと思ひぬ」と夫人が倹徳を偲ばしむ談片あり、又た「大観亭に泊れる時は東京などで聴かざる
 △源氏節を 始めて聴かされ、非常に興ありと覚えしかば、之を褒めたるに、四日市の伊藤邸にても聴かされ、遂に伊勢路の旅に三度まで聴かされき」とて昔物語りに打興ぜられ、天然や養殖の真珠談始まるや、夫人には曾て倫敦へ赴きし際、其の当時ですら参拾万円と云ふ高価の真珠の頸飾りを見、自分も日本髷に適する根掛けを購はんかと思ひしが、二千円と云ふ値段なりしを以て勿体なしと見合せ来れりと語られたり、男爵夫人として二千金の如きは僅々たる金高なれど、倹素身を持せらるゝ夫人が心掛けこそ、今の新夫人などには好き教へ草なれと記者は心床しく崇敬の念禁じ得ざりき、軈て汽車亀山駅に入り、記者は玆に別れを告げしが、同駅には川崎克・木津慶次郎・中条沙陀吉等の諸氏出迎へらるゝを見受く、斯くて男爵は
 △講演会場 へ臨まれ、夫人は其の間に自動車を駆り、月ケ瀬探勝に赴かれ、夫より夕景五時、上野町を出発し、宇治山田市に抵り、戸田屋に一泊され、七日朝両宮に参拝後二見を経て鳥羽町に行き、一森氏の経営に係る遊園地を見て同夜は対月楼に投宿さるゝ由、尚男爵は車中記者に「四日市に知つて居る人がある、田中武君(先代)や山中伝四郎君(先代)を知れり、松岡(忠四郎)と云ふ人もあつたし、水谷(孫左衛門)と云ふ事業家や下里貞吉と云ふ人もあつた貿易港の声価を発揮して四日市の盛大と隆興を築成せしは伊藤君等の力だ」と語り、記者が其の知人の多く故人となり、松岡氏の矍鑠として壮者の如きを語れば、渋沢男は大きく首肯つゝ感慨深きものの如く見受けぬ(七日)
      ○渋沢男と四日市
 青淵先生渋沢栄一男、親しく県地に来り、伊山の首都上野町に先づ貴重なる而して権威ある講演をなし、次で大廟に参詣し、志勢の各地を巡閲されむとす、四日市亦た男爵夫妻を迎へ、其の謦咳に接して、工既に半ば成れる築港を始め、第一銀行支店其の他、曾て明治廿六年来泗されし後、絶えて高風を仰がざりし四日市が面目を新たにしつゝある最近の状勢は男爵の眸裡に反映せむとす、想ふに四日市の金融界及び事業界が渋沢男に負ふ所の深く且つ大なる、市民は之を牢記して今尚遺亡せざるべし、左れば市民は簟食壷漿之を迎へ
 - 第57巻 p.635 -ページ画像 
報徳謝恩の微忱を表するに怠らさるべきを信ずると共に、此の機会に於て四日市と男爵との関係、特に偉大なる其の力を得て基礎を確立し、健全の発達を遂げたる各種の事業を回顧し、経過の一班を叙するも決して徒爾ならざるを思ふもの也。
 △過去は勿論 現在に於ても四日市繁栄の一大要素を成せるものは東洋紡績会社にして、其の前身、即ち三重紡績会社あらしめし功労者の一人は実に渋沢男なるを知らざる可らず、抑も三重紡績会社は伊藤伝七氏等の発企に係るものにて、明治十九年七月一日開業せるが、渋沢男の賛襄を得て男爵が相談役となり、創業の当初より終始同会社の為め尽力されし事は遂に今日あるの一大素因たらずんば非ず、是れより先き、四日市港が勢州の咽喉にして東海の要衝に位し全国屈指の貿易地たるに愧ぢざるも、独り工業の利乏しく、一・二旧式の製造物ある以外、未だ新業の興起するを見ざりしが為め、有志相謀り綿糸紡績業を起さんと欲し、議纏まるや伊藤伝七氏出京し
 △渋沢栄一氏 に之を諮り、翼賛を得て計画定まり、尋で同志を糾合し、三重紡績会社と公称し、浜町に設立され、川島に在りし三重紡績所を買収せしが、明治十九年六月三日、男は東京株主総代として四日市に来り、高砂町の浜田屋に於て地方の発起株主と会議を開き、同社の創立に就て協議決定する所ありき、而して当初事業を開始するや、男爵は曰く、工業会社を設立するの要素には種々あるべしと雖も、最も肝要なるは工務主幹の採用、即ち会社の為めに誠意専心之に従事するの技師を得るにあらざれば、到底其の好結果を収むる能はず、故に之を得ると得ざるとは大に其の会社の運命に関するものなりと、此に於て乎当時
 △大阪造幣局 製作部に勤務せし斎藤恒三博士(当時は学士)を強ゐて技師長に聘し、紡績事業を実習せしめんが為め欧米各国に派遣せしめたり、斯くて三重紡績会社は漸次健全なる発達を遂げ、初め資本金二十二万円なりしもの、社運の隆興に随ひ事業の拡張を図り工場を増設し、中央・伊勢・津島・西成の四紡績会社を買収し、尾張・名古屋・桑名・知多・下野の五会社を併合し、大正三年六月、大阪紡績会社と合併の当時に於ては資本総額一千二十五万円を算し紡機二十六万九千百錘、織機は五千三百三十台を有するに至り、又た明治十二年渋沢男爵等の発企計画に係る大阪紡績会社と右の如く合併の結果、今や両社を打つて新立されし東洋紡績会社は資本金二千五百万円、精紡錘数四十六万三千四百二十四錘、撚糸錘数二万二千一百八十四錘、織機一万一千三百五十三台に達し、工場数は十六ケ所、三府及び三重・愛知・愛媛・埼玉の四県下に及べり。
 △男爵と製紙 此の外、四日市港に於ける事業として男爵の援護を蒙れるものに四日市製紙会社、四日市製油場あり、前者は明治十九年設立したる四日市工業会社より分離し、明治二十年十二月設立したるものにて、漸次発展し、資本金二百五十万円に達して全国屈指の製紙会社となれるが、本会社の今日ある、蓋し男爵に負ふ所大なるが、後者即ち四日市製油場も初め四日市製油会社と称し、男亦た株主の一人たりしも、明治廿五年六月に至り、之を現在の持主に譲
 - 第57巻 p.636 -ページ画像 
渡し、三十万円の資本金を以て敷地千五百余坪を算す、工場には約百名の従業者を有し、盛大に経営せられつゝあり、之を要するに男爵が創立し主宰されし第一銀行の支店が明治十七年四日市に開設され、金融機関の効用著大なりしを始め、四日市は
 △今日の小壮 人物に於て当時の状態を知らざるもの漸次多くなれど、過去の事業其の他が男爵に依て助成されたる功績真に没す可らず、是れ吾人が今聊か主要なるものゝ一班を紹介し置く所以なるが今次来市の如き、井上第一銀行支店支配人が上京の都度、特に市勢の変遷を述べ、来遊を懇請されし為め玆に愈々実現せられたるものの由にて、恁は亦た井上支配人に対し市民の深く謝し、且つ其の労を多とする所ならん(同上)
      ○男爵の産だ銀行
○中略
      ○錦浦湾の落日を浴びて
 △渋沢男爵は 夫人随員を従へて七日午後一時五十二分鳥羽町に着赤坂町長、一森氏其他官民有志数十名の盛なる出迎を受けられ、用意されたる腕車を連ねて先づ樋ノ山々麓に至り、夫人と共に元気よく赤坂町長を始め一森氏と共に登山して廻春楼に入り、少憩の後遊園地経営の一森氏の案内にて
 △全山を一週 して頻りに風光の美を賞し「予て東洋一の風景なりと聞き及びしが、今親しく来りて此風物に接すれば一層の美観に打たれざるを得ず」と激賞し、将来の施設を篤と聴取して時の移るを知らず、落陽斜に錦浦湾上に映ゆる美観と壮観とをめでつゝ夕刻近く下山し、再び腕車にて旅館待月楼に投じたるが
 ▽官民有志の 歓迎会は男爵が連日の疲労中の事とて差控ふる事となり、赤坂町長は町民を代表して旅館待月に男爵を訪ひて歓迎の誠心を述べたり、男爵は明八日午前十一時鳥羽発にて四日市に向はる事予定の如し。(同上)
巡遊匆々、先生本日正に四日市市に着せられんとす
      ○迎渋沢男爵
  青淵先生、男爵渋沢栄一閣下、親しく駕を枉げ、正に本日を以て泗水の地を踏まる、先生は明治年代の生める偉人にして、当代尚ほ比儔罕なる我が財界の巨人也、位高きは多く、富大なるは少からずと雖も、国家社会に貢献する所多大にして、人格崇高、徳望隆々たる先生の如きは亦た現代他に之を索む可からず
  功名声誉を欲せば政治家に之を求むべし、富貴利達を欲せば実業家に之を求むべし、而も彼等は一面に於て人類の最も貴ぶべきものを欠く、実業家にして政治家の志を有し、卓越の識見、偉大の人格を兼ね備ふるものは是実に我が青淵先生に非ずや、殊に四日市の如き先生は発展の基礎を築成されし大恩人也、先生にして微りせば今日の繁栄を見る、恐らくは難かりしならん、之を徳として此の大恩人を待つの道は挙市其意を輸し、物質的に足らざる所は精神的に補はざる可からず、乃ち一篇の蕪辞、以て歓迎の意を表す(同上)
      ○幾歳振の渋沢男
 - 第57巻 p.637 -ページ画像 
  幾歳振に伊勢路の旅、伊山に志州に老躯尚ほ壮者を凌ぐ意気旺んに巡旅されし渋沢男爵には予記の如く兼子令夫人を同伴し、八日午後二時廿七分四日市駅着列軍にて来泗さる、是れより先き森永本社長は亀山駅まで出迎へしに、男爵には軽微ながら風邪に罹られしと聞けるも元気旺盛にて、車中も回顧しつゝ種々の快談あり、殊に
 △男爵の強記 真に驚くばかりにて、四日市へは伊藤伝七君に誘はれ初めて明治十五年に来れるが、東京の邸に於て招客すべき要件ありし為め、其の十二月廿六日に四日市港より汽船に搭じ、廿八日着京して間に合はすを得たりなどゝ過ぎし昔し語りを聴かされき、軈て列車四日市駅に着するや、玆には飯田市長・加藤警視・伊藤伝七九鬼紋七・伊藤小左衛門・小菅剣之助・松岡忠四郎・高田隆平・高本秀通・今村多吉・橘広・川澄恭・松永直次・井島茂作等の諸氏を始め、官民多数の出迎へあり、男爵は夫人と共に嚮導の井上徳治郎氏及び男爵自ら東洋一の遊園地と激称せられ、帰京の上は知人にも紹介吹聴せんと語られつゝある彼の
 △鳥羽樋の山 遊園を経営さるゝ一森彦楠氏等同車し来れる人々を随へ、下車し、一同に出迎へを謝し、駅頭に交歓の辞を残して豊頰笑を湛へつゝ停車場を出で、夫より俥を聯ねて蔵町通りより順路高砂町の伊藤邸に向はる
      ○伊藤邸に入る
 佳賓を迎ふべき市内高砂町伊藤伝七氏の邸にては、前日来既に諸般の準備整へられしも、男爵に私淑し、其の性行を崇敬さるゝと共に躬自から去華就実の気風に富まる伊藤伝七氏の事とて、装飾も飽く迄華美に流れず、清楚にして質実なる見るさへ心床しく、洒掃行届ける応接室には曾て伊藤氏が
 △還歴の記念 にと男爵より贈られし「人は老衰を口にすべからず元気飽く迄旺盛ならざる可らず」と云へるが如き意味籠れる訓言の翰墨を仕立てたる横物を飾られ、書院風の大広間には伊藤春畝公の有名なる「治乱誰言有両途、修文講武是良謨、胸中所画無他策、欲使韓山草木蘇」の七言絶句と欅の盆栽を飾れるのみ、而して別館には富岡鉄斎筆に係る大幅の山水と、青淵男爵の筆になる「放目千里外」とを以て装飾され、添ゆるに躑躅の花今を盛りと咲乱るゝが活けられ、安楽椅子、錦の褥を配置され、清々しき装ひにて佳賓を待てり、斯くて四日市駅頭を出でし
 △男爵の一行 愈よ伊藤邸に入るや、先づ大広間に通られし男爵は玆に飯田市長・九鬼商業会議所会頭・伊藤小左衛門・小菅剣之助・松岡忠四郎・山東友三郎・国松半三郎の諸氏を引接会見し、終つて本社の乞を容れ、記念の撮影をなし、夫より案内さるゝまゝ庭園伝ひにて別館に入り、小憩されし後、同邸を出でゝ四日市築港事務所に抵られしは三時半を過ぐること少許、事務所にては皿井主任技師養痾の為め引籠り中なるを以て、広瀬・浅尾の両技師玄関に迎接し応接所に迎へられたる男爵には
 △卓上に展開 されたる築港の設計図に就て両技師より懇到精細なる説明を聴き、自からも防波堤は那辺迄延長するや、浚渫したる港
 - 第57巻 p.638 -ページ画像 
内には何噸迄の汽船を入れ得べきや、将又た貿易の実勢は如何に、輸出入の重なるものは何かとて、棉花肥料等に就ても質問され、技師を始め飯田市長・伊藤伝七・重盛信近の諸氏交々之を答へ、亦た曾て四日市港が孟買航路を開始したればとて、自分の来泗を請はれ来るや、雨天にて雨に濡れつゝ演説したる事ありなど、玆にも懐かしき
 ▽回顧の挿話 あり、感冒の為めに港内の巡閲は見合はされて俥上新港の光景を一瞥し、去て第一銀行支店に俥を進めらる
      ○銀行の要訣
○中略
      ○講演会場へ
  第一銀行支店に於ける事務の実際を視察し、権威ある訓示を与へられたる男爵は、更に同所を出で、予て市民の熱望せる講演の為め浜一色の県立商業学校に至り、主として青年子弟の為め豊富なる経歴を公示して講演せられ、終つて大正館に於ける歓迎会場に赴かれたり。(九日)
      ○歓迎の盛宴
  実に財界の巨人に対する歓迎日和とも言ふべき夜来の雨は霽れて泗港湾頭の浪静かなる八日、築港を見て第一銀行支店、講演会等に臨みつゝ旅の疲れも厭はれず大正館の歓迎会に出席されし渋沢男爵には、更に有益なる演説あり、次で愈よ開宴となるや、飯田市長満腔の熱誠を籠め、市民を代表して歓迎を述べ、之に対して男爵の簡潔雄勁なる答辞あり、宴に移りて九鬼商業会議所会頭乾杯の辞を呈し、泗水校書の艶麗なる舞踊ありて酒興を助けしが、四日市港を背景として、紫のゆかりの色も鮮かなる藤の花を配したる宴席は奥床しく、折からの初夏の風滑らかに夜気いと衣袂を襲ふ所漲る興は尽くべくも見えず、散会せしは早三更の交なりき。(同上)
先生今や四日市市を辞して、帰京の途に就かれんとす。
      ○渋沢男出発
 渋沢男爵並に夫人の一行は予定の如く、九日午前九時十二分四日市駅発上り列車にて出発されたるが、駅頭には飯田市長・加藤署長・井島代議士・九鬼商業会議所会頭・伊藤東紡社長・伊藤小左衛門・松岡忠四郎・田中武・重盛信近・小菅剣之助・八木製紙会社員・山東紡工場長・松永商業会議所書記長・斎藤市助役・国松第一銀行員本社森永等多数の見送人に対し鄭重なる別辞を述べられつゝ、名古屋迄同乗見送の井上第一銀行支配人と共に出発されたり。(十日)
○中略
斯くて先生は五月九日午前八時半東京駅に安着せられ、親近者の出迎を請けられ、無事帰邸せられたり。
○下略


竜門雑誌 第三六一号・第三七―四四頁 大正七年六月 ○四日市有志歓迎会に於て 青淵先生(DK570299k-0003)
第57巻 p.638-644 ページ画像

竜門雑誌  第三六一号・第三七―四四頁 大正七年六月
    ○四日市有志歓迎会に於て
                      青淵先生
 - 第57巻 p.639 -ページ画像 
 本篇は過般青淵先生が四日市の官民有志歓迎会に臨席せられたる際飯田市長より一場の講話を先生に懇請せるに対し試みられたる演説の由にて、同市「勢州毎日新聞」に掲載せられたるものなり
                         (編者識)
 斯様に演壇迄御設け下されて恐縮致しますが、此場合皆様に対してお話するには勢ひ座談も如何と考へまして、只今市長殿よりの御言葉もあり、一言お話を致します、然し演題も掲げませず、従て申上る事は纏らぬ思ひ出の談片をお話するに過ませぬ、又つゝまやかに申上る事も出来ませぬ点は御諒承を願ひます、偖只今市長殿は私しの当市に対しての関係を有功のものとして御賞讚下されて恥入つた事で、如何にも当四日市市を回想致しますと古い関係があり、唯今も昔し四日市へ参つた当時を思出しまして――卅五・六年前四日市へ参りました当時の事は皆様も御存知無く、私が第一銀行の頭取を長い間致しまして大阪や京都に度々参り、何でも明治廿五年頃船で東京へ帰りますのに此の四日市から乗船致した覚があると記憶致して居ります、其後一・二の方にお目に掛りましたのも今は記憶に存じて居りませぬが、明治十七年に伊藤伝七君と御交際を始めましたが之れは紡績事業に就ての御交際で、元来私は規律立つた商売でなくば理に合ぬ事と存じ、銀行と工業との関係も同様の理合で明治六年第一銀行を起しましたが、どうも発達が鈍く又一般商工業家も銀行を利用して下さらぬ、或は銀行の力も無かつたのでもありませうか、兎に角事業が区々別々になつて改進の経路を辿りませず、経営も組織の念に乏しかつた為に、金融界も今は株式組織の銀行も多く出来、工業も大に多望になりましたが、当時は規則立つた経営が少く、商売の規則等はどうでも宜い力さへあれば個人経営でも宜しいが、私が銀行を起した考も、欧米各国の人々が企てまする事と日本従来の区々別々の資本の運用とを見まして国立銀行法の制定を望み、銀行は孤立の姿ではいけ無いと思ひ、銀行自身も発達すると共に多数の事業も之に依て資金を得る方法に致し度いと存じ、金融集散の共同利益を得る様に工業も又銀行に依て発展する事が、欧米の様に致し度いと考へ、明治六年銀行を起し、七年に製紙会社を企でました、現今の王子製紙会社は即ち之が拡張されましたもので、素より当時とは比較になりませぬが、時恰も西南戦争後で我国は不換紙幣が多く流通し、為めに諸物価が引上る時代で、今日も通貨が膨脹し物価が高くなりましたのも矢張同一の軌道を走る理で、今日は幸ひ不換紙幣ではありませぬが、当時は不換紙幣の事とて一方ならぬ光景でありました、又輸入品が増加しまして、殊に木綿類即ち金巾・紡績・キヤラコ等が著しく輸入されて、明治十二年頃と記憶致しますが、之れでは成らぬと私は紡績の必要を感じ、日本は木綿国であるに海外から之を仰ぐ様では残念な事であると紡績工業を企てまして、唯今東紡の大阪工場であります三軒家紡績を起しましたが、当時政府も矢張同様の考を有しまして、多分品川弥二郎氏が主として心配されたと思ひますが、紡績業を奨励する為に二千錘を限つて之を望む人に貸付け紡績事業を企る事となりましたが、私が専門家に聞く処に依ると二千錘や三千錘は一会社としては少数で到底経営して収支が償はず、
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一万錘以上でなければならぬとの話、然し政府も民間に資本を与へて此事業を起さす場合に、東京の華族で資本を投じて紡績業を起す人もあり、相談も受けましたので玆に大阪に紡績を起す事と致し、山辺丈夫君が当時英国に留学して居らるゝ事故に工業学を修められん事を求め、其人も未だ見ぬ私しの希望を容れて、倫敦で一通り工業の有様を視察され、工場へ這入て実地の研究を試み、漸く大阪紡績が起りましたが、伊藤君と紡績から交際を願つたのも是等の関係からで、当時伊藤君は川島(三重郡川島)と云ふ処で二千錘の紡績を起されたので、政府は十六・七年頃から始めたのですが、大阪紡績は渋沢が四日市地方に紡績事業を起すと云ふ事は果して大阪の事業に影響せぬかと非常に心配して相談がありましたが、私しが三重県で紡績事業に賛成して起業するとも決して心配する必要は無く、世界の大勢から見るも大阪紡績の人が憂ふる様な事は無いと、私しは先見の明を誇る訳でありませぬが、英国倫敦等の例で見まするも斯る小さな考を起すべきもので無いと信じて三重紡績を起した原因であります、其後十五年か十七年頃かと思ひますが、時の知事も力を入れまして、伊藤君も尽力致し今日あるに到りましたが、私しは引続て金融界も之に伴ふ必要があると存じ、第一銀行四日市支店を置く事と致し、幸に銀行の方も経営宜しきを得て今日に成りましたと申すよりは銀行の方は段々皆様の御引立で、今日に成り得ましたので、銀行が諸君を引立たと云ふ事は山から里への議論で正反対の事であります、而して事業関係は進みまして製紙会社も起り、其他の事業にも御相談に預り、御力添へも致し、一方銀行は諸君の御引立の為に世の進運と相呼応致しまして相倚り相助けて今日に及びました次第であります。
 前申上る様な次第で今から考へますると昔の事は玩具の様なもので三重県に紡績事業を起しましても、三重県の方が廿二万円、大阪が廿七万円と云ふ少ない数字ではありましたが、一万そこそこの政府の二千錘の時代の営業に比し漸次進捗し諸所に紡績が起り、遂に大阪紡績は三重紡績と併合されて東洋紡績と成り日本唯一の大会社となり、斯く迄事業が進みました今日往時を回想致しますと感慨は無量で御座ります、然し其間には印度棉花の関係、棉の買入方又は輸入に伴ふ船会社の運賃関係が起りまして、彼のピーオー汽船会社に年貢を納める様に運賃を払つて居ります間に郵船会社が起り、新らたに印度航路を開始しまして、ピーオー会社と競争を起しましたので、ピーオー会社は郵船会社の行為は不都合だと強硬な態度で競争に応じ来り、従来十七ルビーの運賃を一ルビー半迄も下げまして、激しい競争中にジヨーゼフと云ふ人が在りまして数回双方に仲裁致しましたが、郵船会社の方でも好き対手と攻撃なし、致方なく戦は愈よ激しくなり相争ふて居りますので此場合協定は成立致しませず、翌々年即ち二年を過て日本政府は孟買航路に補助を与へる事となり、ピーオーは之れは到底力づくでは押付る事が出来ぬと思ひ、一歩を譲て相当の条件でお互に競争を止めようではないかと云ふ申込が参り、其結果郵船の一手航路と定りましたが、こんな話も無用な事でありますが是も紡績事業に付ての一のお話で、後には追々孟買の棉が日本に参り大阪の方へ陸上を致しま
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したが、四日市港の方でもどうか四日市へ船が這入る様に仕度と三重紡績の希望で、何でも明治十五・六年から廿年の頃と覚えますが四日市港へも船が這入る様になり、右等の事柄から御当地に製紙の原料が集るので工場を起す事となり、第一銀行の支店に次て他の銀行も出来諸君の御尽力で紡績其他の事業も何かと新しいものが出来てお力入れになり、又私も思付た事を申上げたのであつて、年一年と追々に進み来りました、併し乍ら従来の経過を申上ると十数年は之ぞと申して殊更に申上る事もありませぬが、地方も追々と進歩致し、格別私に御相談なくとも引続て経営し来つた事業も年々発展し、金融事業も歩一歩と発達し、第一銀行も進況に向ひましたが、諸君の御満足をヨリ以上得る丈けの仕事も仕得ませず打過ぎましたが、私も十年計り以前より玆に申上る各地の事業にも段々年を取りました為に左様相携て居るでも無いと存じ、一時事業界を退く事を考へましたが、甚だ自負の言葉の様でありますが規則立つて改進された事業を顧みますと、或る事業は自ら経営致したものもありますが、限ある身で左様手も廻りませず十年以前七十歳に達しましたを機会と致し、成可く関係先を辞退致し只其際第一銀行丈けは辞任致しませず、数年の間頭取の任にありましたが、私しも余命の迫つた身体とて第一銀行以外海外の関係、即ち支那・朝鮮にありますもの二・三を残して悉く辞退し、更らに一昨年七十七歳の高齢に達し、再び考へました事は老衰し来つたと云ふ程でも無いが限ある生命に死ぬ迄職責にあるも心苦しいと存じ、之を機会に実業界引退を決心して第一銀行の頭取も辞し、今日は全く無責任の身柄と相成りましたが、長い間同銀行の頭取で皆様と変り無く本分を尽し、次て佐々木が頭取となり、支店の人々も引続て御世話になります事で、相変らず御懇情を御願ひ申上るので、今日皆様が御集り下されました序に私から御礼を申上る次第で、甚だ略儀千万で御座ります、渋沢も八十歳に相成つても未だ全然能力が無く成つたのでなく、一事業位は出来るに何故引退したかと申される方がありますが、何等仔細も六ケ敷しい事情も無く、商売人で一生を終る考へで、出発点から申せば私しは政治家と成り天下国家に号令し、国政を料理する人物に成らうと青年時代に野心を有て居りましたが、或る動機から変化致しました。私しが政界に意を断て実業界へ這入りました動機は、今日の場合、日本の国は或は実業の発展が必要でないか――、私しは必要であると認めました、之れが動機でありますが、当時の有様は心ある人が政治にのみ走る時で、政治に断念致した私しは実業界に力を注ぐ事を決心し、力を之に向けて明治六年五月大蔵省の役人を止めて一昨年迄四十三年間実業界に微力を注ぎました処から考へて見ましても、人が出所進退に付きましては仮令ば従来の商売人で金持で且つ家柄で主義として先祖へ対して適当である人は知らず、私し自身の考へは田舎に家を持つて時世に浮かれて飛出し、政治に関係したが、商売人でも国家に尽されぬ事はないとの国家観念から、いつ迄も同じ仕事に従事せずとも相当時期に足を洗ひ、更らに余命を他の方面に尽し度いと存じまして、一昨年引退したのであります、処で他の方面とは何かと云へば、今日の世の中に物質的文明は先づ目鼻が付て来たと思ひますが、
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同時に更らに一般の気風が道徳的に正しく富と精神と並行して進まぬ期間ではないかと思ひました、商売をするにも、工場を経営するにも又学問をするにも其他実業上に就ても追々智識の発展に見るべきものがあるが、道義に基礎をおく道徳観念が進まぬ、否進まぬ処か反対に下落する有様ではないか、富が増すと邪念が増して人格の向上が反対に退却するでは無いか、果して然らば私しが云ふ実業界は進んでも人間の精神は却て衰へて了ふ、之れは甚だ憂へねばならぬ、富を増すと云ふ事は、人の富も増して自己の利益も増さねばならぬ、人の利益を妨げる如きは人義の道を破るもので、富を増すも段々人の精神界が退歩してゆくから起るので、之を考へると私しも黙しては居られぬ、仮令ば銀行の事業とするも銀行が発展せば工業も発展する様に相互に利益を得なければならぬ、富の為人心が自己的になり、夫れが段々と増長すると、一般人気に及し、道義観念が薄らいで将来は人々日々相争ひ相奪ふと云ふ事になる、斯く考へますと、道は家を治めるであつて人の心を向上せしむると共に大に努力せねばならぬ事となるので、甚だ微力でありますが、物質文明以外人の道を踏む様自ら努めまして、之より精神的に道徳と経済の一致なり又経済の進歩と道義の上に力を尽して見度いと考へて居ります、尚一つ考へて見度い事は工業家の注意を望む事で、資本と労働の関係で、御当地等は斯る事はお座いませぬが、東京や大阪の様な都会では同盟罷工が起ります、思ふに労働者の処置は今後如何にせば宜しきや、資本と労働との調和、之は東京・大阪の諸君も研究しつゝありますが、第一には家族的制度を以て労働者を収容し、労働者は仲間を集めて資本家と相対向すると云ふ方法もあり、種々研究されて居りますが、欧米の諸国でも英米は同様日本の従業者や労働者の様に家族的に仕込み、一会社が一組となつて成丈け相愛し、いつくしむ様に取扱て居ります、之等は中々六ケ敷い問題で自から社会政策に及す事でありますが、只学者の考る計りにもなりませず、私しも実業界を退きましたから、一方学者の社会政策も聞き、一方労働者仲間にも接しまして、更らに従来の関係ある工業会社の御人とも打解けて親しく御説も聞き、資本と労働の調和を図り得る従来よりも完全な方法を発見仕度いと思ひます、御当地でも今よいと思ふて決して安心だとは申上げられませぬ、何とか宜い断案が出来ぬかと存じますが、然し是は六ケ敷い事で深く考へねばなりませぬ。
 尚一ツ申上げ度い事は、貧富の懸隔で、全体富は努力すれば益々富を増すもので、貧者との懸隔を生ずるのは免れ難いものである、一例を挙げますと東京市は段々人口が増すと共に貧民が増す、私は古くから窮民救済の為に養育院長の名義で其仕事をして居りますが、東京市から費用を出すのみでは経営が出来ず、一方慈善家の寄附金を得て経営して居ますが、入院の人に対しては衣食を給与して居る、其被保護者の種類は窮民行路病者其他で、市の制度から救済して居る人は十分の一で、今日は四百人の人が財産を失つて世話に成て居る、行路病者として入院して居る人は、東京へ出掛くれば人夫等が入用で沢山の稼が出来ると思て国元から出て来た人で、病気に罹り、食ふ事も出来ず区役所へ行路病者として引取られた人であります、一体東京市の調査
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にかゝる窮民は二千五百人にも達して、依然年々に増加する一方で、富が進むにつれて貧民の増加すると云ふ事は此例を見ても知れます、斯る人を打ちやり放して置けば夫れ迄であるが、文明人としては左様な事は出来ぬ、英国や米国其他の国に見るも斯様な例となつて居るので、人道の上から見ても救護せねばならぬ、併し玆に救護する事を専に走しると、遂に貧民は他人に依て生活する様になるから制度を立てねばならぬ、貧民の内でも六ケ敷い貧民もあり、病の為に苦しむもの出稼ぎに来て急に病に罹つたもの、病気でも肺結核と云ふ様な悪性な病気もあり、夫々救助せねばならぬが、之れが段々地方々々へも及して来る様になる、東京では養育院の外に赤十字・慈善病院・三井慈恵病院等数ケ所に救護団体があるが、之等は心ある人々が世話をするから宜しいが、地方に於ても大丈夫だと思つて居る間に段々と窮民が出来て、之等を救済するのも労働と資本の調査をせねば成りませぬ、私しが実業界を隠退して数年の余生を尽さんとするのも、斯の如き事業に従事せんと思ふのであります。
 偖私しの平素から考へ又将来の事を思ひますると玆に諸君に申上度いのは、四日市の今日の有様では諸君が丹精されるので御進には成つたと思ふものゝ、尚考へると未だ事業の起る工風がありはせぬか、チト不足はせぬか、多少疑問を挟む余地がありはせぬか、今日も埋立地を拝見し、場所も出来相当の事業と種々の工業が起り、海も利し陸も働かせる事になりませふが、今日の希望は此上に一段の御奮励が入用で無いか、紡績も製紙も段々発展致しましたが、拝見する処私共へ御相談に預つた以外で私しが始めて拝見し又拝見せぬ処もあり、今日も泊り明日も明後日も滞在致し三日間も掛つて見付けるならば少しは如何であるか、全く事業が無いか、諸君の御働が届かぬか、何れにするも相進まねば成りますまい、近い所に名古屋もあります事とて、此土地を第一の物貨集散地とする事は六ケしいかも知れませず、或は名古屋を凌駕すると云ふ事は無理かも知れませぬが、此土地として企る事が少しも生じ無い事はありますまい、或は進歩したものもありませうが、又従来から諸君のお働があつても御丹精になしても全く無いのかも知れませぬが、御懇親の間柄でありますので、失礼のみを申上る事と成りましたらお許が願度い、左様考へまして申上た事で……凡て着実で、歩々序を追ふて進むと云ふ事は大切で、軽挙盲動は喜ぶべき事ではありませんから、私の申上げた事は難きを責る様な事を申上る事になるかも存じませぬが、御希望もありましたから申上た次第であります。前にも申上げた通り実業は富さへ進めば宜いと云ふ事ではいかぬ、一方に道義上より人格を進めなければ今日日本の実業界は危険である、世界の有様は如何に成りまするか、欧洲戦争が如何に納りまするとも一般の人気は蓋し黄金世界を夢る事がありませふ、必ずや力の平和は免れませぬ、力さへあれば万事足れりで、弱い肉は強いものゝ食料で人道の滅却を恐れるので、文明も何のその、世は修羅の巷となり、殆ど人類は豺狼と、相選ばぬものとなりませふ、今日は実に人類としても大切の時であります、私は先達て米国人でベリーと申し廿六年間我国に居りまして御維新後より宗教を伝へて居りました人に、基
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督教からしても此欧洲戦争が宗教上から斯の如く人慾の増長するのを取締る事が出来ぬか、現在より戦後には如何にして人慾を防ぐか、宗教として出来るか出来ぬかと、出来ぬ相談を申出して居ります様の事で、斯る難問を致しますると夢を語る様でありますが、物質文明は決して油断すべからざるものであります。
 故に道徳と経済の一致する様に致さねば、富さへ出来れば宜いと申して居りますと、独逸のみならず直に此四日市にも大なる不平波瀾が生じまする事は目の前に明かで、鏡にかけて見る如しで御座ります、斯く力を入れてお話するも、私しが三・四十年間不行届ながら実業界に居りました経験から、今又一歩を進めまして道義観念と物質的文明の調和に尽したいと思ひまして申上る事で、何卒諸君は事業を今一層御進めになる事を希望致しますると同時に、富と道義の観念に御努力を願ひ度いので、甚だ無理な御注文を致しますが、今此席にお集りの諸君は諸君の力で、四日市地方の気風は如何様とも出来る有力な方と承知致し、四日市に対する希望を申上げまするので、深く渋沢を御信用下されると存じお話を申上げた次第で御座ります、之れで御免を蒙ります。
   ○右愛知・三重旅行ニ就イテハ本資料中左ノ各条参照。
    第四十四巻「市立名古屋商業学校」大正七年五月五日。
     〃 〃 「三重県立四日市商業学校」大正七年五月八日。
    第五十巻 「株式会社第一銀行」大正七年(第一七〇頁)。