デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

6章 旅行
1節 国内旅行
■綱文

第57巻 p.653-665(DK570306k) ページ画像

大正10年4月10日(1921年)

是日栄一、東京ヲ発シ、聖徳太子千三百年御遠忌法要ニ参列ノタメ奈良ニ赴キ、大阪・京都等ヲ経テ、十七日帰京ス。


■資料

竜門雑誌 第三九五号・第五七―五八頁 大正一〇年四月 ○青淵先生関西旅行(DK570306k-0001)
第57巻 p.653-654 ページ画像

竜門雑誌  第三九五号・第五七―五八頁 大正一〇年四月
○青淵先生関西旅行 青淵先生には令夫人同伴の上今般奈良に於て挙行せらるゝ聖徳太子千三百年御忌に臨席其他の目的を以て、四月十日午前八時三十分東京駅発の列車にて関西に向け出発せられたり。旅行日程左の如し。
 四月十日  午前八時三十分   東京駅発
       午後七時三十一分  京都駅着
       午後八時三十分   同駅発
       午後十時五分    奈良駅着
       奈良泊(奈良ホテル)
   十一日 午前九時三十分   聖徳太子千三百年御忌奉賛会評議員会(奈良ホテル)
       同十時       総裁宮奉載式(奈良県庁)
       法隆寺御遠忌出席の上奈良帰着
       午後六時      総裁宮御主催晩餐会(奈良ホテル)
       奈良滞在      (奈良ホテル)
   十二日 午後        法隆寺御遠忌に出席
       午後五時二十三分  王寺駅発
       同六時十三分    大阪(湊町駅)着
       大阪泊       (自由亭)
   十三日 大阪滞在      (自由亭)
       大阪市長並に大阪商業会議所訪問の予定
       午後三時      東洋紡績会社重役と会談
       午後五時      東洋紡績会社より招待(堺卯楼)
   十四日 叡福寺に於ける御遠忌に出席
       午後四時二十一分  古市駅発
       同四時三十五分   柏原駅着
       同四時四十八分   同駅発
       同五時三十二分   奈良駅着
       同六時〇八分    同駅発
       同七時三十分    京都駅着
       京都泊       (玉川楼)
 - 第57巻 p.654 -ページ画像 
   十五日 京都滞在      (玉川楼)
   十六日 午前九時二十四分  京都駅発
       同十一時四十六分  大垣駅着
       養老泊       (菊水楼)
   十七日 午前十時      養老発
       同十一時四十七分  大垣駅発
       午後八時二十五分  東京駅着
                  以上


竜門雑誌 第三九六号・第七二―七五頁 大正一〇年五月 ○青淵先生関西旅行日誌(DK570306k-0002)
第57巻 p.654-656 ページ画像

竜門雑誌  第三九六号・第七二―七五頁 大正一〇年五月
○青淵先生関西旅行日誌 左は青淵先生が四月十日令夫人同伴の上、奈良・大阪・京都其他へ旅行せられたる際の日誌なり。
大正十年四月十日(日曜日)晴
 午前八時卅分、数多諸氏の見送りを受け令夫人と共に東京駅を発せらる、青淵先生の副会長たる聖徳太子千三百年御忌奉賛会に於て奉修せし、聖徳太子の御遠忌に参列せらるゝ為め関西に赴かれたるなり。
 御殿場を過ぐる頃東京より同車せられたる桐島像一氏の訪問を受けらる、同氏も亦聖徳太子千三百年御忌奉賛会理事の一人として法隆寺御法要に赴かるゝなり、沼津を過ぐる頃、浜岡五雄氏の訪問を受け浜松に近づきし頃、塩沢富貞氏の来訪を受けらる。
 午後七時三十一分、京都駅着、中井三郎兵衛氏・田中源太郎氏・大覚寺門跡竜池密雄氏・舟坂八郎氏・野口第一京都支店支配人・同令夫人・中古賀同副支配人・中田五条支店・大西西陣支店各支配人等諸氏出迎へらる、高楠順次郎氏亦京都駅に在りて、聖徳太子御遠忌に関し種々打合さる。
 午後八時三十分、前記諸氏の見送りを受け、京都駅を発せらる、村上専精氏・南弘氏・桐島像一氏等同車せらる。
 午後十時過ぎ奈良着、黒板勝美氏・斎藤内務部長・小栗警察部長外数氏の出迎を受け、直ちに自動車にて奈良ホテルに向はる。
四月十一日(月曜日)曇、小雨
 午前九時、青淵先生には、聖徳太子千三百年御忌奉賛会総裁久邇宮殿下に拝謁せられたる後、殿下に従ひ公会堂に於て行はれたる総裁宮奉戴式に臨席せらる ○中略 奉戴式終りて、宮殿下には法隆寺に御出向遊ばされ、青淵先生は徳川会長・加藤理事長・桐島理事と同乗随行せらる ○中略
 午後四時半、自動車にて総裁宮殿下に御随行、法隆寺を発し、午後五時半、奈良ホテルに帰着せらる、同夜総裁宮殿下御主催の晩餐会に出席せらる。
四月十二日(火曜日)雨
 午前九時半、阪谷良之進氏の東道にて令夫人と共に自動車にてホテルを出で、博物館に赴かれ、阪谷氏及関安之助氏の説明にて観覧せられ、午前十一時頃同所を辞し、東大寺を見、更に春日神社を参拝し、転じて興福寺を訪ひたる後、帰宿せられ、食後直ちに自動車にて法隆寺に赴かる、青淵先生は実業家代表として式場に臨まれ、頌徳文を奉
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読せられ、其間令夫人は阪谷氏の案内にて、金堂・五重塔・経蔵等を拝観され、午後四時過ぎ共に辞去し、午後五時二十三分王寺駅発の列車にて大阪に向はれ、午後六時十三分湊町に着し、大川英太郎氏・田中二郎氏・有川金吉氏・石川範三氏等の御出迎へを受け、直ちに自由亭に投宿せらる。
 午後七時半、折柄来阪中の添田敬一郎氏来訪せられ、午後八時半、松方幸次郎氏・岸博士同伴来訪せらる。
四月十三日(水曜日)晴
 朝来池上大阪市長・伊藤伝七氏・斎藤恒三氏・熊谷辰太郎氏・舟坂八郎氏・田中二郎氏等来訪せらる。
 午前十一時、第一銀行大阪支店に赴かれ、行員に訓辞を与へられ、午後一時大阪府庁に於る協調会社会政策講習会終了式に臨まる、式後記念撮影の後、東洋紡績株式会社に赴かれ、重役諸氏と会見せられ、社員一同に対し約一時間に亘り講演せられ、更に午後六時より堺卯楼なる東洋紡績株式会社の招待会に出席せらる。
四月十四日(木曜日)晴
 午前九時十八分、湊町発列車にて叡福寺に向はる、田中・有川・石川・武田諸氏見送らる、大川英太郎氏同行せらる、柏原にて其日の御法要の導師たる本願寺連枝梅上尊融氏並に藤岡博士同車せらる、かくて午前十一時叡福寺に着、暫時御休息の上陵墓監川口知雄氏の案内にて聖徳太子御廟を参拝せられたる後式に列せられ、午後二時五十三分太子口貴志駅を発し、午後四時三十分湊町着、自動車によりて梅田駅に赴き、午後五時二十五分同駅を発す、田中一馬氏同行せらる、午後六時三十分京都駅に着き、中井三郎兵衛氏・舟坂八郎氏・野口支店長夫人・中田庄三郎氏・大西卯雄氏等出迎へられ、直ちに歌舞練場に赴かれ、都踊を見物せられ、これより中井氏の御招待にて一力に赴かれたる後、午後十時半頃、玉川楼に投宿せらる。
四月十五日(金曜日)晴
 午前十一時頃中井三郎兵衛氏・中田庄三郎氏と共に竹内栖鳳氏を訪問せられ、それより嵐山に向はれたるが、途中自動車を降り、小舟にて料亭不如帰に着かる、此間令夫人には野口夫人と二条離宮等御見物の上、不如帰に参着せらる、帰途午後三時頃、大覚寺を訪問せられ、竜池大僧正・田辺頼真氏等の出迎を受け、少憩の後、正寝殿・宸殿等拝観せられ、青淵先生には直ちに第一銀行京都支店に赴かれ、行員に対し訓言あり、令夫人は大沢池・御室・椿寺等を見物せられ、玉川楼に帰着せらる、やがて先生にも帰着せられ、直ちに同伴にて大極殿・紫宸殿等を廻覧し、午後五時半岡崎なる中井氏別邸に赴かれ、庭園にて記念の撮影をなしたる後、晩餐の饗応を受けられ、それより青淵先生には銀行集会所に赴かれ、京都経済会の為めに講演せられ、令夫人は祇園の夜桜を見物せられ、午後九時半頃、先生玉川楼に御帰着、直ちに田中源太郎・中井三郎兵衛・舟坂八郎・中田・大西等の諸氏を招かれ食事を共にせらる。
四月十六日(土曜日)晴
 午前九時二十四分、京都を出発せらる、中井氏夫妻・保田日本銀行
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支店長・野口氏夫人・舟坂八郎氏・中田氏・大西氏・木村氏等見送らる、午前十一時四十六分大垣に着せられ、第一銀行名古屋支店員中山弘之氏・養老菊水楼主人・高木九郎氏等の出迎を受けられ、駅前安田屋に少憩の後、大垣を後にし、午後一時二十分養老に着せられ、菊水楼に投宿せらる、午後三時半高田警察署長熊谷氏の東道にて養老滝を見物せられ、記念の撮影を為す。
四月十七日(日曜日)晴
 午前十時半宿を出で、自動車にて大垣に赴かれ、午前十一時四十七分大垣を発せられ、途中無事午後八時二十五分東京駅着、直ちに飛鳥山邸に帰館せられたり。


青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本(DK570306k-0003)
第57巻 p.656-665 ページ画像

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
    大正十年四月十五日《(別筆)》
    京都経済会ニ於ケル御演説筆記
                子爵 渋沢栄一氏談話
 只今御紹介して戴きました、渋沢で御座います、お集の皆様の中にはお知合の方も御座いますが、多くは初めてお目に懸る御方と思ひます、御地に於ける経済会で今夕お集が有り、私が当地に参つたのを機会に何か一場の話をせよとの会長よりの御通知を喜んで参上致しましたけれども、貴君等が御喜びなさる程よい御話を持つて居りません、況や御聴の通り声が大分疲れて居ります、之はたゞ二・三日間の疲れと云ふので無く、長い月日使つて段々声を使ひ尽したと云ふ疲方で有りますが、私は倒れて已むの覚悟で有ります、今晩も其の心で御話致します、御聴苦しう御座いませうがどうぞ御容赦を願ひます。
私は今年八十二歳の老人で御座います、お集の中には多少御老体も御見受致します、中井様は私と余り違はん様ですが――私は八十でも猶若い気が致しますが、此の世の中に数年は生存出来る気で居ります、私は数年前から実業界を退いて居ります――之は大正五年からで御座いますが、何時迄も会社の重役と云ふ様なことで一生を終るのも何やら意義が無い生存の様に感じ、晩年を何か社会的に奉仕し、何の役に立たぬでも必要の時に際して多少なりとも御国に貢献する心算を持つて居ります、かう云ふ感念は昔から持つて居りましたので、私は若い時外国が日本を侵略しはしないかと云ふ敵愾心を持つて居りました為終に攘夷論者となり、百姓を廃めた様な訳で有ります、之は方針を誤つた一時の心得違であつて、若し其の通り致しますればたゞに私の一生を過るのみならず、世に害を残したかも知れませんが、兎角する中に少しく世間の事を知つて参り、之からはとても攘夷を主張すべき時代で無いと悟り、目的を変へたので有りますが、其の時は矢張り政治家として世に立つと云ふ気が有りました、其の事は忘も致しません、元治元年私が二十五歳の時で京都に転居した時代で有ります、京都に参りまして一橋慶喜公に御奉公致しました、之には色々理由が有りますが、詳しく申し上げる必要は有りませんが、当時は徳川幕府は倒れるかも知れぬと云ふ考も有りましたが、よしや幕府が倒れても一橋公
 - 第57巻 p.657 -ページ画像 
ならば国家に尽す事が出来る人だと云ふ念から斯る人に仕へて居れば必す国家に尽す事が出来ると想像致しまして仕へた次第で有ります、当時学ぶと云ふ程でも有りませんが海外の事情を少し知り度いと勤めて居る内に、偶然にも一橋公が将軍に成られ、私は其親弟民部公子の御供で仏蘭西に旅行を命ぜられました、之が私に海外の事を知る一つの便宜を与へて呉れたのであります、それは丁度慶応三年で、此の地から旅行致し、仏蘭西に参りました、然るに出て参りました其の年の冬終に慶喜公は将軍を止めなければならん様な時代と成り政権を奉還すると云ふ事に立至りました、之は私が欧羅巴滞在中の事で有りますが私は之を聞いて一時は驚愕致しました、或はかう云ふ事が有りはしないかと思ひましたが、斯く急に王政復古に成らうとは私の凡眼では明に知る事は出来なかつた、かう云ふ事になつた為、とても海外に留学は出来なかつたので有りました、当初の目的は民部公子は仏国の博覧会に臨まれ、引続き仏蘭西に留学する筈で、其の学問は何を学ぶと云ふ事は課程は有りませんが、其の時代の事で有りますから多くは軍事に関する事を学び、私共は経済とか政治とか云ふものを学んで来やうと云ふ考で有りましたが、前に述べた通の事でそんな勉強も出来ないで翌年の冬日本へ帰つて参りました、私は故郷を出ましたのが二十四歳の時で、四年計り京都に在つて五年を経過して、二十九の年に帰朝したので有りますが、今考へても膚に粟を生ずる程その時は辛かつたのであります、早く死んだ方がよいと思ふた事が幾回かありました併し男子として国家に尽さうとして出た上は何んとかして国家の為になる様な事が出来ぬ筈は有るまいと思ひ、科学的の修業は致しませんが、普通の常識で以て欧羅巴の有様は如斯きもので有ると云ふ事を知つたので有ります、併し帰つても主人の慶喜公は政権を奉還し駿河に蟄居して居られる、況や政治に関する智識の夫程無い私は自然政治をやり度いと云ふ観念は無くなりました、それでは家に帰らうか、帰つて百姓に成るのも意気地が無いと云ふので再び考へた結果、たゞ常識上の見聞には過ぎんが、欧羅巴の物質文明を日本に移し度いと云ふ考を起しました、之が私が経済界に入りました原因で有ります、只今会長から私が日本の経済界に尽した一人で有ると云ふお褒の言葉を戴きましたが、大変光栄で有ります、深く感謝致します、兎に角今日迄は首尾よく参りましたが、悲しい哉大した智識の無い、又学問も無い私で、たゞ渋沢栄一微力なりとも幾らか日本の為御奉公出来るだらうと考へ実業界に這入つたに過ぎません、故に決して何等自ら此処に立つて申上げる事は御座いません、併したゞ私が深く感じましたのは、其の時分の日本の商業・工業と云ふものは多くは個人々々でやつて居り少しも組織立つて居りません、日本の物質文明を進めて行くには、どうしても之ではいけないと云ふ事を深く感じました、それと同時に私に強い刺戟を与へましたのは、当時我国では商売人と政治を執る人との地位、若くば待遇が余り離れ過ぎて居ると云ふ事で御座いました。私が仏蘭西に参りました時、ナポレオン三世から民部公子に特に近衛のミルトと云ふ人を附けられました、之は所謂御家老と云ふ格で有ります、軍人で御座いますが留学に来たプリンスの世話をする程の人で
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有りますから、たゞ単純なる軍人で無い、多少政治観念を有する人で有りますが、此の人が民部公子を世話するに就て、金の事を頼んで居る人は仏蘭西の銀行者フエルヘラートと云ふ人で有るが、其の外運送の事を扱つて居るクローと云ふ人が有る、之は今で云へば郵船会社の取締役の一人で、フエルヘラートは銀行の頭取で有りますが、ミルトが之等の人に対する待遇はどう云ふ風にやるかと云ふ事を私は最も注目致しましたが、少しも待遇上区別すると云ふ事は無い、寧ろ銀行者のフエルヘラートが一番勢力が有る、之が日本ならば私の如きは極く微官ながらも一般人民から特別の待遇を受けます、所が仏蘭西では日本と雲泥霄壌の差で有る、実に不思議だ、何故かう云ふ有様で有るか外国の商売人は大相賢いのか知らんと疑ひましたが、特に賢いことはなさ相で有る、又それに似た官辺の人が来ても待遇は変らない、して見れば之は普通で有るかと私は大変異様に感じました、実に日本とは非常な違で有る、私は一橋の家来をして居つたが町人なりお百姓なり出会すと大変威張る、又向も大変恐縮する、如斯き有様を常に見て居つた私で有りますから、仏蘭西の有様を見て深く感ぜざるを得ない、それで如斯く主治者が被治者を奴隷視する事は間違つて居ると云ふ即ち近頃云ふデモクラシーの感念が大変起つて来た、而し斯る風習を日本に入れ度いものだと考へました、それから当時の日本の工業は少しも発達せず、たゞ原料品を外国に売ると云ふ風でしたが、此の原料を売ると云ふ事を無い様にし度いと深く感じましたが、之が私が実業界に這入る原因をなして居ります、斯る事はたゞ私の身の行懸を述べるのみで、諸君には何等益する所が無いが、今会長が兎に角日本の実業界に対して大いに功労が有る人たとおつしやつたが、多少私を知つて下すつた御言葉と嬉しく思ひまして、何故かう云ふ位置に立つたかと云ふ原因を此処に告白致しました。それから丁度明治二年大蔵省に呼出され、大蔵省の役人になりましたが、其の当時今存在せらるゝ大隈さんとお話しました、之は今申上る程の話では有りませんが、私は大蔵省の役人として我国の経済方面を発展せしめなくてはならん事を申しましたが、大隈さんの云はれるには君の説は大変よいがもう一つ考へて見たらよいではないか、如何に経済を働かさうとしても第一に財政が旺盛でなければならん、財制経済は相関連して居る、大蔵省としては此の財制の基礎を立てる為に色々の事を仕組まなければならん、君は年は若いから大いやつて先づ財制の基礎を立てなければならんと大隈さん其時から大風呂敷を私が面喰ふほど拡げました、之は私の先輩の人で有るし私も其の説に服従し数年間やつて見ました、其の間にやつた事は決して誇る事は出来ないので有りますが、あの時総て行はれた事が即ち明治政府の財政を作り直す根元と成つたので有ります、例は廃藩置県の如きも何時迄も行は無つたなら之は出来ない事で有ります、之は今の支那の有様同様に成つて居ると思ふ、今悪い悪いと諸君は小言を云ふが、支那の現状と比較すれば余程よい、諸君にお喜びなさいとは申さないが、支那の督軍制度とは比較に成らん、併し之は別問題で有ります、かう云ふ様な事で丁度二・三・四・五と丸三年間余り勤めましたが、六年の夏全く実業家に成りました、之は私が実業
 - 第57巻 p.659 -ページ画像 
界に這入る沿革で有ります、偖て実業界に這入つて見れば実に何から手を著けてよいか分らん、殊に其時大きな事業は私人組織より株式組織がよいと思ひましたが、之には銀行業を第一に之でやらなければならんと思ひました、それから不換紙幣の発行を廃め、之を兌換制度に引直すに何等か方法がなくてはならんと、大隈さんなり、伊藤公爵なり、井上侯爵なりと相談致しました、其時伊藤公爵は矢張り大蔵省の事務を取扱つて居られました、それまで伊藤さんは金融制度の係で無く、財務の職掌で夫に就て外国の有様を見て来度いと云ふので、明治三年十二月亜米利加へ旅行致しまして、亜米利加の大蔵制度を大相丁寧に調査され、其の序に銀行制度を調査せられました、即ち南北戦争后亜米利加に成立したナシヨナル・バンク・システムと云ふ様なものを見られ、日本の紙幣を兌換制度にし度いと御考に成りました、之が銀行を起す初で有ります、而して伊藤さんは四年の五・六月頃帰られまして、進んで之に依つて日本銀行を組織し度いと云ふので、伊藤公は其の事に就て色々相談をせられました、所が其の時吉田清成と云ふ人が有つて此の人は英吉利の事を知つて居る――どれ程知つて居つたかは知りませんが、先づやゝ知つて居つたと云ふのが本当で有りませう、それで此の銀行組織に関して両説が有つた、亜米利加制と英吉利制と有つて之が仲々大問題と成り、盛に両者が相論じた、其頃は井上馨さんが大蔵省の全権を握つて居つたが、私は其の幕下で有りましたが、私は伊藤案に賛成致しました、吉田さんは大分議論されましたがとうとう亜米利加説が勝つて、明治五年十一月国立銀行案が一法律と成つて発布されました、そこで之を株式会社にすると云ふ事になると進んでやると云ふ人が無い、余義なく三井・小野・島田の三組、之が其の時分の金融界の有力者で有りましたから、此の三軒と相談し、之を一番重な株主として銀行を設立致しました、今の第一銀行が之で有ります、所が銀行は出来たが、肝心の之に従事する人が無い、些細な仕事で有るが、新しい事で有るから一寸かう云ふ事に手を著ける人が無い、私は当時一方には銀行を立てやうと云ふ一方には財制整理をしなくてはならんと云う考でした、之は丁度明治六年の五月でしたが、其の前年から今喧しく申して居る軍備制限――十五億七千万円の予算から八億近い金を軍備に使つてはいけないと云ふのと同様、財政問題が大変喧しく成りました、之は私が先年感想として書いて置きました明治四年から経済事情と軍備事情が相交叉して、ことによれば多少の衝突が起ると云ふ有様に成り、大変喧しく成りました、今年の議会にも同様の問題が出ましたが議論が無つた、私は之は余り無さすぎると思ふ、文部大臣の事は大変喧しく申しましたが、此の軍備問題に就ては少しも議論が無つたのは私は甚だ奇異に思ふ位で有ります、明治四年頃から明治六年頃にかけての軍備問題に対する争は非常に劇しかつた、而して終に之が原因と成り、井上さんは職を辞すると云ふ事に成りました、其の時井上さんは私に、僕は職は辞するが大蔵省を棄てる訳にはゆかないから君暫く力は弱くとも残つて辛抱してやつて呉れと云ふ事でしたが、私は考へました、私が取残されては私の平常の目的を達する事が出来なく成る、如何に先輩でも其説には服従は出来ない
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と大に争ひまして、終に私も役人を廃めました、其の当時前申しました通り、三井さんなどの銀行が、成立致しまして、私にこゝへ這入らんかと云ふ事で、私は銀行者に成つたので有ります、私が銀行者に成つた沿革を詳しく申せばかう云ふ事情で有ります、其時大隈さんは少し井上さんと説を異に致しました、悪く云へば井上さんと大隈さんが反目致しました為、私は銀行に這入る事に成りましたが、貴方が生れたばかりの銀行を虐待される様では私は困りますと大隈さんに話をし虐めなければ這入る事にするがと聴いて見ました、すると大隈さんは決して銀行に這入つた為に君を虐ると云ふ様な事はしないと云ふ事で私は之に這入りました、所で銀行は出来ましたが客が少しも無い、こんな事を只今申してもそんな事はあるまいと御思になりませうが、仲仲矢張り昔風の商売取引をしやうと思ふ者が多く、銀行を危ながる、此方が信用せうとしても向が危ながる、故に新しく銀行が出来たと云ふても之と取引をし、うつかり取掛り、飛んだ目に会つては大変だと思ひ取引をしない、而して初めて商売人に成つた人が来て、何の信用も無いが、俺は今度かう云ふ事をやつて見度いと思ふが資本を出して貰ひ度いと云ふ様なことが多かつた、こんな事で新しくよい得意を作る事は仲々出来なかつた、之には随分苦みました、今日から見ればそんな事はなからうと御思に成りませうが、仲々其の時分はよい商売人と接触し、向からも信用し此方からも信用してやつてゆくと云ふ事は一寸一朝一夕に出来なかつた、其の間にまずい者に引掛つた銀行は倒れる、之が又仲々多かつたので有ります、こんな事で銀行業と云ふものが、幾らか目立つ様になりましたが、困つた事には之を完全に利用しないと云ふ事で、小切手などもなんぼ云つても取扱をやつて呉れない、其の当時田口卯吉と云ふ人が経済雑誌と云ふものを出して居られたが、此の経済雑誌に手形取扱法を載せて、方々に配ると云ふ様な事をやりましたが仲々思ふ様にゆきません、けれどもそれで幾分取引が初まりましたが、併し事業はさつぱり起つて来ない、事業を初めて見たいと思ひましたが仲々疑念を持つて手を出す人が無い、明治七年に成り、漸く紙漉事業を初めました、之は今三井がやつて居る王子製紙会社の成立で、紙漉事業と云ふものを株式会社としてやつた初で有ります、それから段々紡績事業、或は麻会社等が、今申した様に明治六七年頃から進歩して参りました、其の間に此の銀行制度も変つて参りました、銀行は前申した通り英吉利西制で無く、亜米利加のナシヨナル・バンク・システムを採用して成立つたもので有りますが、どうも之ではいざと云ふ場合に困ると云ふ懸念が有りましたが、松方侯爵が其後大蔵省の事務を執つて居られましたが、我国の兌換制度を定め、亜米利加式の銀行を英吉利式に程良く直したのは此の方の功と申してよいと思ひます。日本銀行の成立は多分明治十五年と思ひますが、私も矢張り十年以前の如く亜米利加式のみを論ずる時代で無いと感じましたから、此の銀行の成立に対しては大に賛意を表しました、続いて十六年に各国立銀行発行の紙幣を兌換紙幣と引替しました、此の様にして我国の経済方面が段々進歩して参つたのは、財政が経済を保証した為で、又かう云ふ仕組で無ければ銀行者は立つて行けぬ、若し当時
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銀行者が将棋倒に成つて居れば我国の経済界は大変であつたと思ひます、財政と経済とは一致しなくてはならんと云ふ事は之等の事で分ります、兎に角之に就ては全く松方侯爵の果断であつた事に負ふ所が多いと考へます。更にもう一つ侯爵の功労を申さなくてはなりません、之は金貨制度になすつた事で有りますが、之は私は当時金貨制度にする事は危いと思ひ、数回お諫め致しましたが、其の当時丁度支那の償金が這入りましたのを利用して、此の機会に金貨制を断行されましたそれからもう一つは納税法を改革せられた事で有ります、之は仲々困難な問題で有りました、其の時分は品物で納税したので、之を金で納めると云ふ事に引変へるのは今申せば直に出来る様で有りますが、永い習慣を変へると云ふ事は容易ならん事で有りました、之は私も大蔵省に居る内に是非やらくてはならんと思つて居りましたが、丁度明治二十六年から七年にかけ終に之が実施されました、財政の整理と云ふ事に就ては申し上げる事が沢山有りますが、其の中私が最も深く記憶して居る事が御座います、それは丁度今申した納税法の整理時代でありましたか、我国の海運事業を発達せしめなくてはならんと云ふ事になりましたが、之は従来の帆前船や千石船と云つた様なものでは我国の富を増す事が出来ない、どうしても之は西洋型の船を採用しなくてはならんと云ふので、明治四年に藩を廃し県とした頃、藩の持船全部を政府の船として之を以て民間で汽船会社を作らせました、それで当時山路兼助其他二・三の人が主となり会社を作りましたが、とうとう失敗に終りました、丁度其の頃成立致しましたのが今の三菱汽船会社で有ります、それから段々と蒸汽船事業が起り、海運が進んで参りましたが、其の時私の考では海運事業と云ふものを一手に属せしめるのは面白くない、他にも会社を作つて盛にやらなくては成らんと云ふのでしたが、丁度鈴木海運会社《(ママ)》の成立を見るに至りましたが、之が明治十六年頃から二十三年頃に至り非常に経営が困難に陥りました結果、政府では大相心配致し、終に今日の日本郵船会社の成立を見るに至りましが、之で我国の海運界の基礎は立つて参りました、それから陸運の方で有りますが、鉄道は明治三十九年遂に国有に成りましたが、其の国有に成る迄の鉄道会社の有様と云ふものは随分変化したもので有ります。総て何の事業でも何か或る刺戟を受ける時は一時盛になるものですが、日清戦争後鉄道会社は一時大相盛になり、各地に鉄道事業が勃興致しましたが、此の事業が極めて安全にいつたものも有りますが中には途中で挫折したものも大分有りました、之が遂に明治三十九年国有となり、今日では鉄道に就ては私が喋々する要は有りません。それから今度は紡績会社の事で有りますが、之は其の前の明治二十一二年頃から之が盛に成つて参りましたが、何故其の頃紡績事業や、鉄道事業に力が這入つたかと云へば、丁度兌換法の出来た明治十五年と思ひますが、兼ねて其の頃の経済学者が喧しく云ひましたが、兌換法が出来たら通貨が余計になる、通貨が余計に成れば景気がよく成ると云ふ説が有りましたが、私共は其の事実を疑ひましたが、矢張り学理は争はれんものと見へ、兌換制の実施された頃からさう云ふ傾向に成り、我国に色々事業が盛に成り、紡績の如きも大阪紡績・三重紡績、
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其他各所に紡績会社が出来、明治二十五年頃には益々此の事業が発達して参りました。総て事業は一時進めば又一時困難に陥る、之は経済界に屡ば繰返すものと見へ、丁度紡績事業なども、一時進めば其次には困難を惹起すと云ふ事は屡ば有りました、要するに其間に多少の蹉跌は有りましたが、併し此の事業は年一年と進歩したと申してよい。それから最初申しました如く、実業界に於ては官尊民卑の観念が強かつたので有りましたが、之も年一年と此の風習が緩和されました、殊に其の後段々学問界から実業に就く御方が大相多くなりましたし、又其当時は実業界の人が学問する人は少い様で有りましたが、今日では決して政治界・教育界と実業界とは余り違はん様になり、高等学府を出た御方がドンドン実業界に這入つて来られると云ふ時代に成りましたから、私が最初仏蘭西でひどく憂慮した事柄は何時とはなく無くなり、私の考へて居つた事が実現されて参りました。それに就て今商科大学と成りました高等商業学校がどう云ふ経過を致したかと云ふ事を申しますが、此の例で、如何に実業界が世の中から軽んじられたかが分ります。
あれは明治七年、森有礼さんが亜米利加から帰られ、どうしても日本の教育はたゞ政治上のみではいかん、実業教育も共に発達せしめなくてはならんと云ふので、自身ばかりの力では足らんから幾らか東京府から金を出して貰ひ度いと云ふので、漸く一万に足らん金をホイツチニーと云ふ教師を補助する為と云ふ名義で出したのが商業教育の初で其の時は商業講習所《(法)》と云ふ名を附けて居つた、其後森さんは役人に成られ支那に行く事と成り、此の学校を持続するに困つて、多分明治七年で有つたと思ひますが、此の学校を東京市に引取つて呉れんかと云ふので、私は当時東京市の金の世話をして居つた関係上其の相談に与りましたが、其の時は商業会議所を起さんとする場合でしたから、此処で世話して此の学校を維持しやうと云ふ事になり、遂に森さんの学校が東京府のものと成つた、而して数年間東京府で経営する内、明治十年東京府会が出来まして、府会から此の学校に一年一万か一万五千の補助金を出して学校を維持して居りましたが、府会の人々はこんな教育をやつた所が何の効も無いと云ふので、此の学校を廃すると云ふ事に成りました、私は其の時之は実に怪しからん事だ、之位の事が東京で維持が出来ぬと云ふ事は有るまいと申したが、府会は聴きません遂に廃止と云ふ事に成りました、其の当時は政府に頼んだ所が、商業教育などはどうでもよいと云ふので、補助はとてもして呉れん、それでどうかして之を維持したいと云ふので、三菱が之を引受けると云ふ事に成りましたが、私共が非常に苦心して、僅に農商務省が資金を出して再び之を維持してゆく事に成りました、併し明治十八年に成りまして、又無用の声が高く成り、殆ど廃滅に終らうと云ふ事に成りましたが、其の翌年もう一年だけ試験的にやつて見やうと云ふ事に定まりましたが、其の時森さんが文部大臣に成りました、之は最初先生が創立者で有ります為、私共が段々御話して漸く商業学校と云ふものが確立致しました、之が東京高等商業学校と相成り、遂に今日繰返す学校騒動にも関与せず昇格したのは早くから心配した為で、之はお互に幸
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福な事と申さなくてはならん、実に其の時分は実業家が卑められて居つたばかりで無く、教育すら如斯く軽蔑されて居つたので、如何に当時の社会が実業に対して冷淡で有つたかゞ分ります、併し兎に角今申した様な訳で色々の困難は有りましたが、其の間に日本の実業界は段段進んで参つたので有ります、前に申した様に、経済界の有様は或る刺戟の有る毎に盛に成りました、即ち明治二十七年、明治三十七年の両戦争は我が実業界は非常な変化を致しました、殊に今度の欧羅巴大戦争は世の中に大変化を与へましたが、之が為に我が実業界は大進歩を致しました、併し一方から考へて見ますと、単に数字上から見れば我が国の富は二倍なり三倍に成つたと申しますが、実物は夫程増して居らない、之は我々が空喜をするのも同様で有る、品物の数から云へば数は増さずに其の価値が上つただけで有る、例ば貯金が五十円のものが百円に成つたと喜んで見ても、出して使つて見れば前の五十円の値しか無いと云ふ様な訳で有ります、併し実業界が進歩したと云ふ事は事実で有ります、例ば紡績の如きは二万錘のものが何百万錘に進んだと云ふ事は事実で有ります、如斯欧羅巴戦争は総の方面に大進歩を与へましたが、其の終結と同時に大変化を起すと云ふ事は分り切つた事で有りますから、もう少し早く之に気が附き之に注意を払へば其の弊害は少なかつたと思ひます、併し戦後経済界に大変動を与へたと申しますが、成程船とか鉄とかは俄に変化致しましたが他の諸物は余り急激に変化しなかつた、株式の如きは寧ろ景気がよく成つて居る有様で有ります、悪く云へは一夜漬の学者は社会一般の注意が足らんから斯る大変動を招いたのだと云ふが、注意し研究しなければ何故さう云ふ有様に成るか、其の明瞭なる解決は出来ない、之は諸君は御分りに成つて居るか知れんが、昨年の春から俄に変動を起したと云ふ事は、諸君が変動を御受にならなくとも経済界の風潮を御心配に成つて居られると思ふが、私はたゞ単に憂慮するばかりでは仕方が無いと思ふ、こゝに到らん前に早く止めなくてはならん、若し多少なりとも先見の明が有れば其の時分に今日の事情を察し、其の局に当る人々が充分の注意を与へて居れば充分なる効果はなくとも夫程の事はなかつたと思ふ、が当局者が大分時勢の観察を誤り色々迷惑を惹き起し、たゞ単に自己の迷惑のみならず之に関係せる総の人が共に迷惑し、終には其の間で甚しい争をすると云ふ非常な結果に成りました、炭坑者間にかう云ふ有様が起つて居ると云ふ事は多分諸君の御耳に這入つて居ると信じます、私は今日実業界を退て居る身で有りますが之等に対しては調停の労を執る事も有ります、実に此の変化は世界全体の変化で有りますが、私の希望する所は之が有る為過度に我が経済界を緊縮せない様にしたいと云ふ事で有ります、経済界を緊縮して我国の事業を之以上益々萎縮せしむる事は甚だ宜しくないと思ふ、殊に其の位置に立つて居られる諸君――或は銀行者側から申せば、勉めて斯る場合には注意を加へ、最初こそ進む時分には飽迄手を引かなくてはならん場合も有るが、今日の場合事業は成可之が保存を計る事を考へなくてはならんと思ふ。此の間大蔵大臣は東京で銀行業者に対し、充分注意して事業の緊縮を計らなかつたから斯る結果に成つたので有る、自ら引起した
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結果で有る、故に今後は成可投機的の事業には銀行は注意しなくてはならんと云ふ意味の訓諭的演説を致しました、一応御尤で有ります、私は高橋蔵相と討論は致しませんが、之は仲々困難な問題で有る、講釈はどうでも出来ますが、事実に当りどうすれば宜いかと云ふ事は誰にも分らん、殊に事業に関しては之が甚しい、一例を申せば二十年程前に石坂尚三と云ふ人が石油事業をやつて失敗した事が有りましたが当時世間では石油の如きものに金を出すから潰れるので有ると笑ひましたが、今日石油事業の如きものを危険視する者は無い、要するに銀行者側から云へば勉めて事業の経営に就ては其の人の能力を察し、又一面其の事業が国家に対し如何なる影響を及ほすかを充分に考へて投資すればよいと思ふ、此処にお集りの諸君は必ずさう云ふ観念を持つたお方と思ひます、勿論矢張り人間で有りますから或は過つてどんな結果に成るかも知れんが、之に就ては充分の御注意を願ひ度いと思ひます、私の考へでは今日の場合各方面に就て考へるに、銀行は数を少くして其の資本を充実させ度い。又船の方面では――私は海運は充分発達せしめなくてはならんと思ふので、今日国際汽船の如きは少し困難して居りますが、之は何とかして救つてやり度いと思ふ、日本が今日の如く盛に成つたのは海運に力を注いだからで有る、海運の方は明治二十五・六年頃に航海条令が出来て之を保護したので、あれが無ければ日本の海運は衰微し、従つて貿易は減じたに違ひ無い、実に海運の発達と云ふ事が日本の進歩を大変助けたので有ります、故に此の国際汽船が日本の現状に適するかは明言出来ないが、今危殆に瀕して居るので有るから、何とか方法を立てゝ之は救ひ度いと思ひます。
それから鉄に対してゞ有りますが、私共は鉄に対して是非此の欧羅巴大戦を機会として日本に立派な事業を起し度いと思ひます、現在の儘では到底亜米利加や英吉利に対抗する事は出来ません、併しどうも我国には原料がないから之は矢張り支那に求めなくてはならんが、たゞ大冶のみならず外にも相当な鉄山を得て、支那に於ける日本の製鉄事業を統一してやるのがよくはないかと考へて居ります、兎に角鉄事業は我国にとり重大な問題で有りますから、私は事業界を退いたに拘らず東洋製鉄の方には余程力を入れて居りますが、之は大正五年九月、其の創業総会を東京商業会議所に開きましたが、之は今委任統治と云ふ事に成る様ですが、受ける委任なら結構だが、之は不都合千万な有様に成り相で洵に面目を失しましたが、之はどうなるか、若し私をして之に関係せしむればこんな馬鹿な事はしないと思ひます。併しやつて見ればそれ以上馬鹿な事をするかも知れんが、私はかう思つて居ります、何だか御話が漠然として参りましたが、要するに私は戦後の経営としてはどうしても事業を緊縮する事はいけないと思ふ。
それから私は少し経済と道徳に就て御話したいと思ひますが、経済と云ふものはたゞ自己の富を増す為にのみ必要なものでない、国の富を増す為に必要なものだと云ふ観念で、経済に従事し度いと思ふ、さうなれば経済と道義、即ち仁義道徳と生産――道徳と経済は全く離る事が出来ないものに成る、全世界をして完全なる文明に進め度い、完全なる平和を求めるに就ては、経済と道徳が伴れなければ之は実現出来
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ないと深く考へます、此の事に就て充分の御研究が願ひ度い、私は多少道徳と云ふ文字の解釈に就ては些か学んで居る積で、其の筋の学者とも始終討論致しました、三島中洲と云ふ漢学の大家が有りましたが此の人が健在中色々討論の末、道徳経済合一説を書きまして之を私に呉れました、私は之を印刷致し持つて参りましたが、今日会長に上げて置きました、帰する所どうしても商売は道理と相伴なはなくてはならん、道徳と云ふ事は広く云へば利益、公利で有る、国家社会の富と一致すると云ふ事が最も進んだ道徳的経済で有る、道徳と云ふ言葉は支那人が始終論じたもので、昔日本の幕府が儒学を進めた場合、丁度朱子説が最も多く伝はり、従つて仁義道徳と云ふ事が始終論ぜられましたが、中には仁義道徳は人を修むるもので、生産と一致しないと云ふ者が有りますが、之は極く下級の人の仁義道徳で大変な誤解で有る現に物徂徠、荻生徂徠と云ふ人はかう云ふ論を書いた位で有りますから、従つて商売と云ふものはたゞ損得さへ考へて居ればよい、道徳とか仁義とか云ふ人は利益に甚だ疎い者だと云ふ誤解をして居りました此の考が実業と道理を相背馳せしめた原因で有ると考へます、之では駄目で有る、経済は道徳によつて遠久に保持出来るものである、又道徳は経済に依つて益々光輝を増す、道徳無くして経済は永続しない、又経済無き道徳は礼儀のみに止まつて居るので、実際昔はさうで有りました、今日もさうで有ります、又未来もさうで有ると申しても過言で無いと思ふ、お集りの皆様方は道徳に依つて経済に従事せられると思ひますが、富を増すと云ふ事は道徳以外のことで、成功と申す事は己れだけ儲けるものだと云ふ考は大変間違つたもので有ります、さればとて己れ一人損をしても皆が儲けたらよいと云ふ意味でもない、道徳と経済とは必ず一致すべきもので有ると思ふ、斯く道徳と経済が一致すべきもので有ると云ふ事を充分御攻究を願ひ、日本の経済界を更に光輝あるものに進め度ひと思ひます、甚だどうも取留の無い御話で諸君を益する事は出来ませんが、私が実業界に這入つた原因はかう云ふ訳で有ります、甚だ申方が錯雑して要領を得ぬ御話で御座いましたが之で御免を蒙ります。以上
          大正十年四月十五日  於京都経済会
   ○本資料第四十九巻所収「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」大正十年四月十一日ノ条参照。