デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

7章 実業界引退
■綱文

第57巻 p.703-707(DK570335k) ページ画像

大正6年4月21日(1917年)

是日、京浜間ノ実業家及ビ其他ノ有志四百余名ハ、栄一及ビ其一族ヲ帝国ホテルニ招待シテ、発起人総代中野武営、栄一ノ実業界ニ於ケル多年ノ功労
 - 第57巻 p.704 -ページ画像 
ニ対スル感謝状ヲ朗読シ、且ツ記念品ヲ贈呈ス。


■資料

竜門雑誌 第三四八号・第七九―八一頁 大正六年五月 ○青淵先生招待会(DK570335k-0001)
第57巻 p.704-705 ページ画像

竜門雑誌  第三四八号・第七九―八一頁 大正六年五月
    ○青淵先生招待会
 京浜間の主なる実業家諸氏は、青淵先生が昨年喜寿を機として実業界を引退せられたるに依り、先生が四十有余年間、終始一貫社会国家特に実業の為めに尽瘁せられたる功労に対し、感謝の忱を表せんが為め、青淵先生・同令夫人を首めとし、穂積男爵・同令夫人(病気の為め欠席)・阪谷男爵・同令夫人・渋沢武之助・同令夫人・渋沢正雄・同令夫人・渋沢秀雄・同令夫人・渋沢敬三(旅行の為め欠席)・渋沢信雄・渋沢智雄諸君、即ち青淵先生一家一門を招待して、四月廿一日午後五時より帝国ホテルに於て慰労会を開かれたり。当夜の出席者は四百有余名にして其主なる人々左の如し。
 侯爵 大隈重信  男爵 三井八郎右衛門 男爵 三井八郎次郎
 男爵 中村覚次郎 男爵 近藤廉平    男爵 高橋是清
 男爵 武井守正  男爵 郷誠之助    男爵 古河虎之助
 男爵 大倉喜八郎    中野武営       安田善次郎
    山本達雄     水町袈裟六      木村清四郎
    志立鉄次郎    柳谷謙太郎      原六郎
    早川千吉郎    豊川良平       団琢磨
    有賀長文     大橋新太郎      和田豊治
    小池国三     服部金太郎      加藤正義
    柿沼谷蔵     高田慎蔵       村井吉兵衛
    串田万蔵     松方巌        馬越恭平
    益田孝      浅野総一郎      日比谷平左衛門
    茂木総兵衛    藤山雷太       杉原栄三郎
 諸氏にして、先づ余興室に於て松尾大夫の常盤津(釣女)、踊藤間勘右衛門の越後獅子等の余興ありて後、「渋沢男爵招待記念」として特に右田寅彦氏作の新曲松竹梅即ち「功績は成りて身退く家の風こそ久しけれ」の帝劇女優の舞踏あり、六時三十分発起人総代中野武営氏青淵先生外主賓一同を壇上に導き、左の感謝状を朗読し、且つ記念品として寿像一基(伊太利人ペシー氏作大理石胸像)、蒔絵料紙文庫・同硯函一具(耕作之図)を贈呈せられたり。感謝状は即ち左の如し。
      △感謝状
  吾等之を古語に聞く、功成り名遂げて身退くと、然れども豊功偉績身名美満の日に於て高踏勇退して晩節の芬芳を放つもの世上果して幾人かある、況んや其身已に社会の重鎮に膺り、社会の信頼尤も深きに於てをや、而るを明智別に見る所あり、翻然として首を回らし、更に余勇を以て世道を仔肩せんとする吾渋沢男爵の如きは、蓋天下の第一人と謂ふべきなり、窃に惟ふに、男爵は聡明の資を懐きて身を国家多事の際に起し、其関係せられたる事業は甚広汎にして其功績の偉大なる、殆んど言辞の以て名状する所にあらず、然れども銀行家として一世の由斗と為り、四方の仰望を一身に集めたるは誰れか復た男爵に比肩すべき者あらんや、明治の初年社会各般の事
 - 第57巻 p.705 -ページ画像 
業は尚ほ混沌として未だ施設するに遑あらず、殊に経済界の事情に至りては尤も巨人の手を待つもの多かりき、時に男爵は挙世未だ嘗て銀行の機能を解せざるの日に於て、衆人に率先して其妙用を発揮し、以て牛耳を斯界に執らること玆に四十有余年、其間毎ねに国力の発展と相伴ひて社会の進運を裨補し、凡そ実業界各種の事業に於て直接間接に其啓発指導を与へられざる者少く、其関与せられたる銀行会社及公私の団体幾んど挙て数ふ可らず、其他或は国際的国民的施設に斡旋し、或は社会的慈善的事業に尽力し、或は人材を養成して国家の用に供し、或は交通の便を開きて公共の利益を興し、又或は風俗を改良して文明の域に躋さんと欲し、東奔西走遑々として寧処に暇あらず、殆んど一身を以て国家に靖献せられたるが如き、其忠信篤実誠に天性に発し、之を行ふに剛健の気象を以てせられたるにあらざるよりは安んぞ能く此に至らんや、昨年喜寿の佳辰に値ひ、気力未だ衰へざるも、自ら老の已に至るを思ひ、一律に其関係事業を辞謝して、専ら意を精神界の事業に傾注せられんとす、蓋哲人の志は自ら世情と異るものあり、其操行大節啻に一世に師表たるのみならず、亦将さに以て百歳に炳垂せんとするなり、吾等本と其豊功偉績に対して衷心感佩を懐き、又其高世の人格を仰ぎて毎ねに景慕を深ふするものなり、玆に此の機会に於て同志相謀りて謹みて寿を膝下に献じ、又別に目録を呈して聊か感謝の忱を表す、不典の儀固より以て其大徳に報ゆるに足らざるを知るも、寸心は寓せて微物に存す、伏して祈る男爵閣下及令夫人の並ひに福寿康寧にして高門本支益々繁栄限りなく均く天の霊寵を享けられんことを
  大正六年四月廿一日           渋沢男爵招待会
 之れに対し青淵先生には「余が従来の微功に対し斯く鄭重なる式を設けて款待せらるゝは、自分の身の限りなく光栄として深く感謝する所なり」とて農民より身を起して廿四歳の時、家出したる当時の事情より、五十余年間に亘る経歴談を為して感謝の意を表せられ、是れにて式を終りて、八時食堂を開けり。軈てデザート・コースに入るや、発起人総代として奥田市長は「渋沢男爵が実業界のみならず、慈善事業に将た教育事業に、社会万般に亘りて尽力せられたる功績の偉大」なるを頌し、且つ男爵の為めに一同と共に盃を挙げて万歳を三唱し、次いで大隈侯爵は「予は渋沢男爵とは五十年来の知己なり、抑も渋沢男爵は我国経済界革新の先覚的一大勢力者なると同時に、社会的、精神的事業にも大いに努力せられたり、之を要するに男爵は富力と仁義との調和者なり」と称讚せられ、之れに対し青淵先生は「自分の衣食住に就ては正さに七十七旬循環の感なきに非ざれども、社会及国家的事業に対しては吾れ未だ及ばざるの憂へなきに非ず。随て陶淵明の所謂富貴何ぞ求めんの流れに憧がるゝ次第には非ざれども、天爵を楽みつゝ余命を社会事業並に精神的教育の為めに尽さんことを期するものなり」と挨拶せられ、主客歓を尽して散会せられたるは十一時頃なりしといふ。


中外商業新報 第一一一〇三号 大正六年三月六日 ○渋沢男慰労会 実業家の発企(DK570335k-0002)
第57巻 p.705-706 ページ画像

中外商業新報  第一一一〇三号 大正六年三月六日
 - 第57巻 p.706 -ページ画像 
    ○渋沢男慰労会
      実業家の発企
五日午後二時東京商業会議所に於て左記諸氏会合の上、多年我邦実業界の為め尽瘁し、昨年の喜寿を機会に実業界より退隠したる男爵渋沢栄一氏の慰労会を開く事を申合せ、四時散会したるが、右慰労会は四月初め帝国ホテルに於て開かるべく、奥田市長・中野東商会頭主催の下に都下銀行家其他の実業家を合せ五十名によりて発企せらる
 男爵三井八郎次郎・同大倉喜八郎・同中村雄次郎・浅野総一郎・大橋新太郎・藤山雷太・団琢磨・和田豊治・加藤正義・柿沼谷蔵・町田豊千代・杉原栄三郎・早川千吉郎・安田善三郎・奥田義人・中野武営・水越理庸諸氏


中外商業新報 第一一一二八号 大正六年三月三一日 ○渋沢男隠退慰労会 来廿一日に内定(DK570335k-0003)
第57巻 p.706 ページ画像

中外商業新報  第一一一二八号 大正六年三月三一日
    ○渋沢男隠退慰労会
      来廿一日に内定
京浜実業家主催となり、渋沢男の実業界隠退慰労招待会開催の件に就き、卅日午後一時より東京商業会議所に加藤正義・大橋新太郎・和田豊治・藤山雷太・服部金太郎・杉原栄三郎・中野武営の諸氏出席協議したる結果、来る四月二十一日午後五時より帝国ホテルに於て晩餐会を開催することに決し、尚同日同男に対し記念品として蒔絵の料紙箱硯箱並に大理石の同男寿像を贈呈する由


中外商業新報 第一一一四六号 大正六年四月一八日 ○渋沢男に対する大感謝会 有力実業家四百余名の発起で廿一日挙行(DK570335k-0004)
第57巻 p.706 ページ画像

中外商業新報  第一一一四六号 大正六年四月一八日
    ○渋沢男に対する
      大感謝会
        有力実業家四百余名の発起で廿一日挙行
廿一日午後六時より帝国ホテルに於て、三井・岩崎両男を始め京浜実業界の有力者四百名発起を以つて、多年実業界に貢献せる渋沢男爵に対し感謝の意味を有する一大招待会を開く事となれるが、当日は男爵に感謝状及び記念品を贈呈する筈にて、記念品は寿像・蒔絵料紙文庫と硯函なり、而して寿像は目下来朝中なる伊太利の美術家ペッシー氏の手に成る等身大の大理石の胸像なりと


中外商業新報 第一一一五〇号 大正六年四月二二日 ○渋男慰労 昨夜の招待会(DK570335k-0005)
第57巻 p.706-707 ページ画像

中外商業新報  第一一一五〇号 大正六年四月二二日
    ○渋男慰労
      昨夜の招待会
渋沢男の功績に対し感謝の忱を表せんが為め、京浜間の有力なる実業家等によりて組織せられたる渋沢男爵招待会は、二十一日午后五時より帝国ホテルに於て開会せらる、当日の主賓は渋沢男爵及男爵夫人・各令息並に同夫人を始め穂積・阪谷両男爵並に同夫人等の一家一門にして、余興に常盤津釣女、踊越後獅子ありて後
△青淵渋沢男爵 招待記念として特に右田寅彦氏作「功績は成りて身退く家の風こそ久しけれ」の新曲松竹梅を帝劇女優の舞あり、六時三
 - 第57巻 p.707 -ページ画像 
十分式を挙げ、発起人総代中野武営氏左の感謝状 ○前掲を朗読、且記念品として寿像一基(伊太利人ペシー氏作大理石胸像)、蒔絵料紙文庫同硯函一具(耕作之図)を贈呈せるに対し、渋沢男爵は斯く丁重なる式を設けられたるは自分の身の限りなく光栄とし真に感謝に勝えずとなし、男爵が農民に身を起して廿四才の時家出したる当時より五十余年間に亘る身の上話しあり、式を終りて八時食堂を開き、軈てデザート・コースに入るや、発起人総代として奥田義人氏は渋沢男爵が実業界のみならず、慈善事業に将た教育事業に社会万般に亘りて功績偉大なるを頌し
△男爵の為に万歳 を三唱す、次で大隈侯爵は、男爵五十余年の知己なりとし、男爵は我国経済革命界の先覚的勢力者なるが、同時に社会的・精神的事業にも大に努力したりき、即ち男爵は富力と仁善の調和者なりと説きたるに対し、渋沢男は自分の衣食住に就ては悠々七十七旬躯したるの感聊か是なきに非ず、然れども国家事業に対しては吾未だ及ばざるを憂ふるもの、随つて陶淵明の所謂富貴何ぞ求めんの流れに全く憧るゝの次第に非ざれど、天爵を楽みつゝ余命を社会精神的教育の為に尽さむと述べ、歓談裡に十一時散会したり、当日の来会者は左記京浜間重なる実業家並に関係者を始め四百余名にして、頗る盛会なりき
 大隈侯・三井家各男爵 ○外三六名氏名略ス