デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

9章 終焉
■綱文

第57巻 p.730-733(DK570341k) ページ画像

昭和6年11月9日(1931年)

是日、天皇皇后両陛下ヨリ病気御尋トシテ、葡萄酒一打ヲ賜ヒ、又侍医ヲ差遣セラル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第一二―一三頁 昭和六年一一月 病状(二)(DK570341k-0001)
第57巻 p.730-731 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第一二―一三頁 昭和六年一一月
    病状(二)
○上略
九日
 前日稍々心安く感じて居た青淵先生の容態は早朝急変の兆があつたので、同族・親戚の人々へそれぞれ電話、或は電報を以て通知した。朝靄の深いうちから、奔せつける人々が続いた。
 即ち主治医の午前八時三十分発表した容態によつて、その急変を知ることが出来やう。
 今暁三時体温昇騰三十八度に至る、五時悪寒を伴ひ更に四十度に達し、脈頻数微弱、呼吸不整、意識も亦不明となる、応急手当に拠り午前七時半脈及呼吸恢復し体温も稍下降す
      体温 三九・六
      脈搏 一二六
      呼吸 三〇
また正午の発表は左の通りである
 今朝八時三十分発表後意識依然不明にて、体温・脈搏・呼吸共に今以て同様の状態にあり
      体温 三九・六
      脈搏 一一六
      呼吸 二七
更に午後五時の発表を見れば次の如くである
 体温稍々下降せるも、未だ佳微を認むるに至らず、依然今朝来の容態を持続す
      体温 三八・六
      脈搏 一一六
      呼吸 三四
 而して本日の体温・脈搏・呼吸の経過は次の通りである。

    午前六時 同九時  同十時  同十一時 正午   午后一時 同二時
 体温 四〇・一 三九・〇 三九・七 三九・五 三九・六 三八・九 三八・九
 - 第57巻 p.731 -ページ画像 
 脈搏 一二六  一二〇  一二〇  一二〇  一一六  一一四  一一〇
 呼吸 二八   二八   三六   三六   二七   三〇   三五
    午後三時 同四時  同五時  同七時  同八時  同九時  同十時  同十二時
 体温 三八・九 三八・七 三八・六 三八・〇 三七・九 三七・九 三七・九 三八・二
 脈搏 一一〇  一一〇  一一六  一〇七  一〇八  一〇六  一〇八  一〇四
 呼吸 三五   三〇   三四   三〇   三二   三二   二九   二八

 斯様に先生の容体急変があつたので、近親の人々は勿論、召使の者もまた、御挨拶をすることになり、愁に沈んで居る邸内の人々は次々に病室へ呼び入れられた。
 高い寝台は南向に、先生は上気したやうな艶のよいお顔を心持ち東の窓へ向け、かなり深い呼吸をしてゐらつしやる、周囲には近親の人人と白衣の医師や看護婦が先生を真近く護つて居られるが、何れの人人も興奮のさまで、室内の空気は緊張して一分のすきも与へない。
 此の日病篤しとの報天聴に達し、病気御尋ねとして、畏くも天皇皇后両陛下よりブドー酒を下賜せられたが、尚ほ九日午後十二時を過ぐること十五分の深夜、村山侍医を御差遣あり、診察を賜つたのであつて、大御心の厚きに対し先生初め一同感涙にむせんだ次第であつた。
○下略


中外商業新報 第一六四四一号 昭和六年一一月一〇日 葡萄酒御下賜(DK570341k-0002)
第57巻 p.731 ページ画像

中外商業新報  第一六四四一号 昭和六年一一月一〇日
    葡萄酒御下賜
なほ子爵の病篤しとの趣き天聴に達したので、畏くも両陛下には宮内省佐野属を御使ひとして滝野川の子爵邸に差し遣はされ、葡萄酒一ダースを賜はつた


中外商業新報 第一六四四一号 昭和六年一一月一〇日 依然意識不明 曖依村荘憂色深し 見舞客ひきも切らぬ ゆふべの渋沢子邸;畏き辺りより村山侍医御差遣 大演習に行幸中の聖上陛下に診察結果を直に奏上(DK570341k-0003)
第57巻 p.731-733 ページ画像

中外商業新報  第一六四四一号 昭和六年一一月一〇日
  依然意識不明―
    曖依村荘憂色深し
      見舞客ひきも切らぬ
        ゆふべの渋沢子邸
九日朝病勢急変した渋沢子爵の容体は、依然として意識不明のまゝ午後に及び、急電に接して馳せつける見舞客の往来に、あわたゞしい空気の中にも暗たんたる気運が漲り渡つてゐた、前日までの午前午後の容体発表は改められて、九日は林主治医から頻々と容体が発表され、どれも
 油断ならぬ病状の持続に家人は全く憂ひに沈み切つてゐた、子爵が昏々と眠りを続けてゐる南面十二畳の病室には兼子夫人、交代の看護婦つききりで、隣りした控へ室には篤二氏夫妻・武之助氏夫妻・秀雄氏夫妻を初め穂積男夫妻・阪谷男夫妻ほか親戚一同がつめきりで、本館に通ずる廊下には時折病室を出た林主治医・入沢博士・佐伯・桜沢両医師等が鳩首して、最後の手当についての相談をしてゐる姿も傷々しく見受けられた
 憂ひの色に包まれたまゝ飛鳥山の邸は夕刻を迎へて、控室には明明と電灯が点ぜられたが、病室は六時過ぎまで明りをみせず、六時半
 - 第57巻 p.732 -ページ画像 
過ぎ子爵の病臥する南側に僅かに一灯が点ぜられ、枕頭に廻らす論語を細字した屏風に薄明りが反影して、枕にうづもれた老子爵の横顔とは思はれぬ程それは童顔に輝いてゐた
見舞客は午後から夜にかけて陸続として引きも切らず、前庭から玄関にかけては自動車に埋めつくされ、エンヂンの音も心なしか遠慮勝ちに低く遠ざかつて行く――病躯を押して見舞に来た高崎男夫妻が八時過ぎ帰つて行つた他は、親戚では誰一人子爵邸を出て行く人はない、体温も夜に入つては卅八度から卅七度へ下つて、脈搏も少しづゝ数字を減じて来たが、安堵の域に達せず、入沢博士を始め林主治医・佐伯桜沢両医師は
 枕頭を辞せず、つめきりの看護りをすることになつた、夜に入つて益々見舞客織るが如く、渋沢家の紋章のついた提灯が門から玄関までづらりと列んで、邸内の静けさに比べてこゝだけが僅かにざわめきをみせてゐる、病室を廻つて白いカーテンに閉された窓に、梧桐の葉ずれも淋しく、憂ひ深き曖依村荘の夜は更け行くのであつた。なほ午後渋沢子邸の主なる見舞客は次の諸氏である
 高木正年・元田肇・藤山雷太・竹山純平・原富太郎・秦豊助・今井五介・星野錫・松本社会局長官・馬越恭平・塩沢昌貞・田中穂積
  昨夜の容体
昨朝容体急変し、意識不明のまゝ午後にいたつた渋沢子爵の同正午後の容体は左の如し
 午後五時 体温三八・六 脈搏一一六 呼吸三四
林主治医は語る
 体温やゝ下降せるも、未だ佳調を認むるに至らず、依然今朝来の容体を持続してゐる
 午後九時 体温三七度九分 脈搏一〇六 呼吸三二
 午後十時 体温三七度九分 脈搏一〇八 呼吸二九
 午前零時 体温三八度二分 脈搏一〇四 呼吸二八
  畏き辺りより
    村山侍医御差遣
      大演習に行幸中の聖上陛下に
        診察結果を直に奏上
滝野川別邸に病を養つてゐる渋沢老子爵は、七日夜の急変後八日一旦平静にかへり一族愁眉を開いたのも束の間、九日午前九時に至り容体俄に悪化し体温四十度に上り、同午前八時半ころより意識不明となり正午ごろより体温やゝ
 降下し、脈搏また多少減少を示したるも微弱にして、更に佳調の模様なく、滋養注腹を行ふも効なく、そのまゝ夜に入つたが、体温は次第に降下し、加ふるに前日来ほとんど営養をとらず、僅かに綿に含ませた水によつて命脈を維持するのみにて、同午後十一時四十分には全く
 危篤に陥つた、畏き辺りにては右の趣きを聴召され、十日午前零時十五分村山侍医を差し遣はされ、子爵の容体を診察し同三十分退邸したが、同侍医は直ちに大演習に行幸中の天皇陛下に右診察の結果を奏
 - 第57巻 p.733 -ページ画像 
上し、更に西園寺公にも急報するところあつた