デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

10章 葬儀・法要
2節 法要
■綱文

第57巻 p.757-766(DK570346k) ページ画像

昭和6年11月17日(1931年)

是日、飛鳥山邸ニ於テ、栄一ノ初七日法要営マレ、爾後百ケ日忌ニ至ルマデ各忌日ニ、飛鳥山邸又ハ上野寛永寺ニ於テ、ソレゾレノ法要営マル。十二月十五日ノ五七日忌ニ当リテハ、法要後、帝国ホテルニ於テ供養晩餐会催サル。


■資料

泰徳院殿御葬儀記録 四 【一、御法要】(DK570346k-0001)
第57巻 p.757-766 ページ画像

泰徳院殿御葬儀記録 四        (渋沢子爵家所蔵)
    一、御法要
○中略
      (三) 初願忌(初七日)
昭和六年十一月十七日午前九時より飛鳥山邸に於て、初七日の法要を営む。
凌雲院・春性院・護国院・元光院・修善院諸師の読経があつた後、随意墓参された。法要参列者は次の通りであつた。
 穂積歌子氏   穂積重遠男   穂積仲子氏
 穂積律之助氏  穂積季子氏   阪谷芳郎男
 阪谷琴子氏   阪谷希一氏   阪谷寿子氏
 渋沢篤二氏   渋沢敦子氏   渋沢敬三氏
 渋沢登喜子氏  渋沢信雄氏   同令夫人
 渋沢智雄氏   渋沢武之助氏  渋沢美枝子氏
 渋沢昭子氏   渋沢正雄氏   渋沢鄰子氏
 渋沢博子氏   渋沢正一氏   渋沢純子氏
 渋沢良子氏   渋沢秀雄氏   渋沢一雄氏
 渋沢栄子氏   渋沢秀二氏   渋沢花子氏
 明石照男氏   明石愛子氏   明石景明氏
 渋沢元治氏   渋沢孝子氏   渋沢治太郎氏
 尾高文子氏   尾高豊作氏   横山徳次郎氏
 横山氏令夫人  同令嬢     浅野総一郎氏
 浅野氏令夫人  古河虎之助男  同令夫人
 渡辺得男氏   白石喜太郎氏  井田善之助氏
 佐治祐吉氏   小畑久五郎氏  鈴木勝氏
 根岸乙一郎氏  保志嘉十郎氏  高田利吉氏
 小川功暉氏   久米郁子氏   川口さだ氏
 田中くら氏   二宮つね氏   竹内昌氏
 浅倉かね氏   中野時之氏   八木仙吉氏
 芝崎猪根吉氏
○中略
      (四) 以芳忌(二七日)
 - 第57巻 p.758 -ページ画像 
昭和六年十一月二十四日午后七時より飛鳥山邸に於て、二七日法要を営み、寒松院、春性院両師の読経があり、左の人々が参列した。
 阪谷芳郎男 ○外四四名氏名略
○中略
      (五) 洒水忌(三七日)
昭和六年十二月一日午后七時より飛鳥山邸に於て、三七日法要を営み津梁院・修善院両師の読経あつた。参列者は左の通りであつた。
 横山徳次郎氏 ○外五一名氏名略
○中略
      (六) 阿径忌(四七日)
昭和六年十二月八日午后七時より飛鳥山邸に於て、法要を営み、寒松院・元光院両師の読経あり、続いて同族親戚その他参詣の人々の焼香があつた。参拝者は次の通りであつた。
 篠井律平氏 ○外三三名氏名略
○中略
      (七) 第一御命日
昭和六年十二月十一日午后七時飛鳥山邸に於て、御命日読経あり、参列された人々は次の如くであつた。
 徳川実枝子刀自 ○外五三名氏名略
      (八) 小練忌(五七日)
昭和六年十二月十五日は五七日に相当した。予て満中陰は十二月二十九日に当ることゝて、年末而も余りに余日なき際、普通例に従つて重き儀式を執り行ふことは如何かと云ふことから、三十五日の法要を重く取扱ふことになり、且御供養晩餐会を催すことに決したので、次の如き準備をした。
○中略
      御法要概要
かくて、すつかり準備の出来上つた上野寛永寺は、落葉も掃き清められて参拝の人々を待つてゐる。
午前九時を過ぐる頃から、拝列の人々の自動車が引続いて大玄関前に止り、立ち出でた人はすぐに庫裡へ案内される。十時を稍過ぎて、参会者一同は準備成つた本堂へと長い廊下を渡つて行く、本堂には早くも泰徳院殿の御位牌が正面に安置され、その前には夫々供物が飾られ灯明の光も淡々しい、御遺族・御親戚の人々は須弥壇に向つて右側に他の人々は左側に座を占めると、やがて導師大多喜大僧正以下十三人の僧侶が鐘の音に誘はれて、静かに読経を初める、胎曼供の次第は次の通りである。
  先列讚     四ツ鈸
  次着座讚    早鈸匝
  次唄
  次逆洒水
  次散華     一段
  次対揚     鐃一丁
  次法則     鐃有
 - 第57巻 p.759 -ページ画像 
  次供養文    壬宝マデ白頭同音無量ニツヾク
  次唱礼
  次驚覚
  次九方使    三方使、作礼、出罪、廻向、鐃有
  次大讚     鈸上段
  次仏讚     鈸一匝
  次甲四智
  次切声     鐃一丁
  次導師廻向   鐃一丁
  次終讚     四ツ鈸
  次始経円頓章
  次焼香
御遺族の焼香が終ると、次で親族、更に参集の人々の焼香が終り、それぞれ自由に散じて行つたが、休憩もせず墓参する人々が多かつた。墓地は砂がならされ、清々しく掃除され、手洗桶の水も美しく、墓標の左右から、ずつと墓地の右の方まで新らしい華が供へられてある。須屋は御葬儀当時のまゝに新らしく、楠の太樹の下に、子爵の安き御眠りを守つて居る。
    参列者
当日御法要に参列された人々は次の通りである。
 渋沢敬三氏       大奥様      渋沢篤二氏
 渋沢敦子氏       渋沢登喜子氏   穂積歌子氏
 阪谷芳郎男(玄関マテ) 阪谷琴子氏    渋沢武之助氏
 渋沢美枝子氏      渋沢正雄氏    渋沢鄰子氏
 明石照男氏       明石愛子氏    渋沢秀雄氏
 穂積仲子氏       穂積季子氏    阪谷希一氏令夫人
 穂積まつ子氏      渋沢孝子氏    渋沢信雄氏
 同令夫人        尾高文子氏    尾高豊作氏
 同令夫人        市河晴子氏    渋沢智雄氏
 石黒光子氏       渋沢よしゑ氏   近藤正通氏
 池田男令夫人      田中孝子氏    阪谷希一氏令息
 福原米子氏       野依辰治氏令夫人 福原信義氏
 佐藤用能氏       久米治平氏    同令夫人
 和田二郎氏       同令夫人     渋沢義一氏
 同令夫人        橋本実斐伯    平岡八重子氏
 佐々木哲亮氏令夫人   福原信三氏    福原信和氏
 後藤信氏        大川平三郎氏   田中栄八郎氏
 同令夫人        諸井恒平氏    同令夫人
 諸井六郎氏       田辺たか子氏   迫本てい子氏
 植村澄三郎氏      同令夫人     久保田理好氏
 横山徳次郎氏      同令夫人     木村雄次氏
 織田国子氏       織田雄次氏令夫人 麻生正蔵氏
 斎藤守圀氏       大倉喜七郎男   同令夫人
 清水釘吉氏       鈴木紋次郎氏   同令夫人
 - 第57巻 p.760 -ページ画像 
 古河虎之助男      同令夫人     八十島政子氏
 増田まつ氏       服部金太郎氏   塘茂太郎氏
 井上秀子氏       西条峰三郎氏   白石元治郎氏
 篠原三千郎氏      佐々木勇之助氏  同令夫人
 森村市左衛門男     山下亀三郎氏   原泰一氏
 浅野総一郎氏      大橋新太郎氏   石井健吾氏令夫人
 堀越善重郎氏      同令夫人     清水一雄氏
 原胤昭氏        土橋みき氏    渡辺得男氏
 白石喜太郎氏      井田善之助氏   小畑久五郎氏
 佐治祐吉氏       高田利吉氏    小川功暉氏
 中野時之氏       岡田純夫氏    杉本行雄氏
 根岸乙一郎氏      鈴木勝氏     田島昌治氏
 芝崎猪根吉氏      芝崎さき氏    (綱町邸)きよ氏
 酒巻幾三郎氏      上田他敬理氏   斎藤其治氏
 高橋毅一氏
尚ほ服部金太郎氏金卅円、森村男爵金壱円の御布施を持参されたるより、直ちに寛永寺へ納めた。
○中略
      飛鳥山邸仏前参拝者
飛鳥山邸へ参られた人々は次の諸氏である
 横山徳次郎氏  同令夫人    後藤信子氏
 渋沢治太郎氏  同令夫人    篠井律平氏
 川口さだ氏   二宮つね氏   浅倉かね氏
 渋沢栄三郎氏  山崎とき氏   小林金太郎氏
 竹内昌氏    渋沢新一郎氏  渋沢とく氏
 渋沢竜一氏   渋沢春二氏   渋沢忠平氏
 渋沢美枝子氏  渋沢鄰子氏   野村浄光氏
 結城豊太郎氏  大塚直次郎氏  田中くら氏
 大亦熊枝氏   渋沢正雄氏   渋沢博子氏
 渋沢正一氏   八木仙吉氏   池田男令夫人
 本間靖也氏
      (九) 御供養晩餐会
上野寛永寺に於て御法要を営んだ後、引続き午后五時半から帝国ホテルにて御供養晩餐会を開催したが、それに先だつて次の如き案内状を同族・親族・懇意向及委員の主なる方々に発送した。
       (イ)案内状
  拝啓 益御清適奉賀候、然者来る十五日泰徳院五七日に相当致候に付粗餐差上度と奉存候間、同日午后五時三十分帝国ホテルへ御賁臨被成下候はゞ幸甚の至に御座候
  右御案内申上度如斯御座候 敬具
    昭和六年十二月五日         渋沢敬三
       (ロ)設備
帝国ホテルにては先づ控室の正面に、花を以て飾つた故子爵の大写真額を掲げ、その前に一対の生花を供へ、在ましゝ折の泰徳院殿の温か
 - 第57巻 p.761 -ページ画像 
なる面影をしのばしめた。又食堂は正面と左右とに植木鉢を置き、正面に横長くメーン・テーブルをしつらへ、それに向つて縦に七列のテーブルを設けた。即ちメーン・テーブルを睡蓮と称し、その中央の縦のテーブルを蘭とし、向つて右へ桃・蔦・柳、向つて左へ藤・萩・柿とされたのである。
       (ハ)テーブル着席順
而して定刻より帝国ホテル大宴会場にて晩餐会を開いた、出席者は百九十一名にて、之を各テーブル別に分ち、メーンテーブルたる睡蓮の外、蘭の部、桃の部、藤の部、蔦の部、萩の部、柳の部、柿の部の席を予め定めた。其各食卓の人名は次の通りである。
○中略
       (ホ)渋沢敬三氏挨拶
  今日は泰徳院の三十五日忌に相当致しますので、祖父の生前特に御懇親を願ひました皆様に御出を願ひ、一夕ゆるゆる御懇談願ひ度いと存じまして、御招き申し上げました所、寒さの折柄且つ御多忙の折柄にも不関、御来臨下さいました事は、遺族のみならず、親類一同まことに感謝に堪へない次第で御座います。
  本日御招き申し上げました外にも、実は御招き申し上げたい方々が多数御座いましたが、生前御懇意の御方々が余り多数の為其意を得なかつた事を遺憾に存じます。
  月日の立つのは早いもので、祖父がなくなりましてから既に三十五日たちました。遺族としましてはまだ亡くなりました気が致しませず、多数の席へよく出ました祖父の事を思ひますと、今日は感冒で臥せつて居て出られない様な気が致します。
  今夕こゝへ御出席下さいました御医者さん方々の、祖父生前の、又病気に際しましての御親切にして行とゞいた御世話に対しては、唯々感謝に堪へませず、殊に永年親身になつて御世話下さいました林先生の御心情に対しましては、申し上げやうの言葉もない次第で御座います。祖父の『亡くなる時には安らかに、然もそれ迄意識が明瞭でありたい』と言ふ願望を余す所なく遂げさして下さいました事は、ひとえに諸先生方の御努力の賜と、感佩措く能はざる所で御座います。
  かゝる多数の席に何時も和やかな気分で居ります祖父が居らない事は、まことに残念で御座いますが、祖父の霊は必ずやこの席に止まつて、万障御操合せて御出席下さいました皆様の御厚意に、心よりの満足と喜びとを感じて居られる事と存じます。
 尚我々若年のもので御座いますから、今後は何卒御指導御鞭撻下さいますやうに、且祖父生前と同じ御懇親を給はらん事を御願ひ申します。簡単ながら一言御挨拶申し上げます。
次で列席者を代表して、徳川公爵が立つて謝辞を述べられる。
       (ヘ)徳川家達公爵来賓代表謝辞
  今夕御招きを受けました一同を代表いたし、僭越乍ら一言御礼を申述べます、只今御主人より御懇篤なる御挨拶を承りまして恐縮に存じ、御叮重なる御招宴に厚く御礼申し上げます。
 - 第57巻 p.762 -ページ画像 
  渋沢子爵の薨去は、尚ほ近頃の様に思つて居りましたのに、早くも五七日を営まるゝに及びましたことを思へば、実に月日の経過の早いのを感じ、我々の心に追慕敬愛の念が日と共に却つて益々深く心の奥底に染み込みつゝある様な感を痛切に致し、感慨無量、万感交々胸中に至ると言ふ言葉は、只今の私の胸中を其儘に何の誇張もなく言ひ表はして居るのであります。故子爵九十有余年の長い御一生の間に、国家・社会に御尽しになられた非常に範囲の広い、且つ非常に奥行の深い御功績は、皆様十二分に御承知であつて、私から申すを要せないのであります、只聊か申上げたいのは、私個人や徳川家に子爵の寄せられた御好意、御親切、御努力は、誠に非常なものであつた事は一門の感謝して居る所であります。殊に第六天の徳川家に対しての長く誠を尽されたことは、私の銘記して感謝せる処であります、又私個人と致しましては、幾多の公益事業に子爵と共に役員として関係して居りましたが、それ等各種の事業に対し、完全なる常識、円満なる人格、豊富なる経験を以て、その事業の発達目的の達成に尽力せられましたことは、此亦胆に銘じて忘れ得ない処であります。
  此の哀しみの間にあつて、私共の心強く感じますことは、御遺族が何れも立派な方のみで、各方面に活動して居らるゝことでありまして、現子爵の如きはその体格、性質共に先代子爵に頗る似て居らるゝのであつて、その人を髣髴せしめるものがあります、此の御一族あり、此の御世嗣あり、必ず子爵の挙げられた御家名は、益々永世に亀鑑とならるゝと信じ、真に故子爵の後ありと存するのであります。
  私共永く御懇情を受けた者は、今後常に故子爵を追慕致しまして常々の御言葉を守り、一層の努力を払ひ、吾々に残されたる各方面の事業の発展、目的の達成に一層の努力を払ひ、聊かなりとも在天の霊を御慰め申上げたいと存じます、終りに臨み重ねて今夕の御寵招に対し深甚の謝意を表します。
次で馬越恭平氏が九十歳に近い老人とは思はれない元気さで立たれて語り出される。
       (ト)馬越恭平氏感想
  満場の諸君、私の御話は甚だ御聞き苦しうございませうが、自分の大御恩人青淵先生と私との関係に就いて聊か申上げたいと思ふのでありますから、どうか暫く御清聴を願ひます。
  指折り数へますと、早や六十年の昔になります、恰度私が阪谷男爵の先代阪谷朗廬先生の塾に食客をして居ました時御目にかゝりましたが、その後子爵は第一国立銀行を経営になり、民間の実業家の先達として商業会議所の設置に尽され、その会頭となつて居られました、私も幸にその議員となり、引続いて御指導を受けて居りました。実際その頃のことを思ひ出しますと、色々と故子爵に御礼を申述べねばならぬことが沢山あります、当時の人々は皆年を取りました、否多くの人々は故人となりました、子爵と共に野に下られた井上侯も早く亡くなられました、私は只今八十八歳で、子爵とは四ツ
 - 第57巻 p.763 -ページ画像 
下でありますが、その考へなどは四十年も極端に申せば四百年も相違して居ります。
  申上げるまでもなく、我国では士農工商と云つて商を一番卑んだ商人と云ふものは利さへ得ればよいものとして、低い地位に置かれて居た、処が今日では商工農士と云ふ風に商人の地位が最も高くなつて来ました、実際実業家の勢力は大したもので、或る意味からは政治家以上である、之は何人の力に依つたのでございませうか、総て青淵先生即ち泰徳院殿の御力に依ると申すを憚からぬ。青淵先生の御徳に就ては私が特に申述るまでもないが、私の記憶に依ると此の実業と云ふ名も、青淵先生によつて広まつたのであります。
  私は前申す様に、青淵先生よりは四歳年下でありますけれども、四十年も相違して居る程な考へで、頗る喧嘩早いのでよく「貴様は気が早くていかん」と叱られましたので、先生の前に出ると、如何な気早の私も、自然に頭が下つて反抗心など聊かも起りませんでした。過日先生が薨去されました時、実業の世界の野依君が訪ねて来て、青淵先生の話をせよと申したので、先生の話は沢山あるが、大日本麦酒会社が今日の盛大を為し、私がその社長で居ることの出来るのも、青淵先生の御蔭である、札幌麦酒・恵比寿麦酒・朝日麦酒三社が競争後その弊を感じて合併した、その時一同は社長には先生がよい、と申してその就任を願つたのでしたが、先生は「社長には馬越君がよい、君でなくてはならん」との御話で、今日まで二十六年間その地位を保つて居るのであります、青淵先生には敬服の外はないから、その私淑して居る有様を形に現したいとて、昨年門下生の一人に加へてもらひました、と云ふやうな話をしました又実業之日本の増田君の処からも同じやうなことを云つて来たので、青淵先生が如何に偉大であつたかと云ふ一つの例として、先生の人に対するに一視同仁、少しも分けへだてがなかつたことを申しました、例へば佐幕党にもよければ勤王党にもよい、井上侯にもよければ、大隈侯にもよい、主義・主張、政党・政派を超越して誰にでもよい、人格円満なる紳士に対しては勿論、粗野剛慢なる人間に対しても一視同仁、よくこれを人格の力によつて導かれたのである、かゝる点に先生の偉大なる人格の光があまねく世人をうるほし、明治維新後に於ける実業界の大恩人と仰がれるに至つたのであると云ふやうな話をしました。
  斯くの如くでありますから、先生は私如き者に対しても、同様に色々の御配慮を御与へ下さいまして、自分の今日をしてあらしめられたのであります。そして先生は実に多方面に力を致され、万能の観があつたのであります、申上げたいことは尚ほ沢山ありますが、只今徳川公爵閣下が、青淵先生の御話をなさいましたに就て、昔を思ひ起して、先生に関する感想を申上げた次第であります。
やゝあつて渋沢篤二氏はさびのある声で、次の如く御遺族としての最後の謝辞を述べられた。
       (チ)渋沢篤二氏主人側謝辞
  私は此処に、御詫やら御礼を申上げて蛇足を添へやうと存じます
 - 第57巻 p.764 -ページ画像 
先づ寒さの厳しい日、且つ御多忙の皆様が今晩御出で下さいましたことを御礼申上げます。さきに敬三から申上げました通り、泰徳院は病中安らかに暮し、平素からの望み通りに何等苦痛なく大往生をとげましたが、これ一つに皆様の御同情の賜物と存じて居ります。然るにまた今晩は、六十年来の御友達であられました馬越さんから色々の御話がございまして、父が此席に居てその御言葉を聞いて居たら、どんなに喜んだらうかと思ひます、更に徳川公爵閣下よりは徳川家と泰徳院との関係に就て誠に身に余る御言葉を頂戴いたしましたことは、何よりも喜ばしいことであると、遺族と致しまして感激に堪へませぬ。泰徳院は初め浪人となつて京都に上りましたが、その時慶喜公の御見出に預つたのであつて、若しその事がなかつたら、亡父の今日はなかつたらうと思ひまして、一層感謝致す次第であります。
  扨て死んだ子の年を数へると云ふことはありますが、死んだ父の年を数へると云ふことはありますまい、しかし聊か申して見たいと思ひますのは、一昨日竜門社の追悼会の日に、大橋新太郎氏が明治三十四年の秋、井上馨侯が内閣組織の大命を拝した時、父に是非大蔵省を引受けてくれとの御話があり、当時瓦斯会社の監査役で、第一銀行の重役であつた西園寺公成さんに、山県さんが『国家が大事か、第一銀行が大切か』と云はれた、西園寺さんは返答に困つて、『国家も大切ですが、第一銀行も大事です』と苦しい答をしたと申されましたが、実際あの時、父は大変に困りました。何分明治維新以来の懇親な間柄である井上さんが、初めて内閣を組織すると云ふのであり、且つ各方面の人が大蔵省を引受けることを奨めるので、その断りに困難した、よく芳川さんなどが見えました、また都筑さんが回向院の角力場で、穂積の先代に、是非内閣へは入るやうに伝へて尽力されたいと云はれたが、我々親戚としては何とも申上兼ねる、兎に角第一銀行の重役会の結果によることになつて居るからと云ひ、父の進退は一つに第一銀行の重役会で決定することになつたすると第一銀行では佐々木さん・日下さん・西園寺さんなど、何れも阻止されて、結局銀行から断ると云ふことになりました。当時私などは若かつたものですから、昔取つた杵柄だ、やつて見たらよいなどゝ考へて居りまたけれども、極力お断りすることになり、第一銀行から重役の皆さんが夫々の方面へ御断りに出られたので、遂に父が出ないばかりでなく、井上さんの内閣が遂に出来ずに終りました。私思ふに、此の時若し第一銀行の人達が、では名誉だから大蔵大臣をやつて御覧になつたらと申され、再度政治に関与して居ましたとしたならば、或は大蔵省の仕事は立派にやつたと致しましても今回畏れ多くも、聖上陛下から頂戴した御沙汰書にある『遠く慮つて野に下り』と云ふことがなくなつてしまつたでありませう、故にその時の第一銀行重役の御はからいこそは、父をしてその最初からの主旨を貫徹せしめられたものであると、大いに感謝して居る次第であります、甚だぶしつけなことを申上げましたが、皆様の御光来に対して厚く御礼申上げます。
 - 第57巻 p.765 -ページ画像 
斯くて宴後冬の夜の更くるを忘れて、泰徳院殿の思ひ出話の尽くるを知らなかつた。
○中略
      (一〇) 檀弘忌(六七日)
昭和六年十二月二十二日午后七時より飛鳥山邸にて、六七日法要を営み、津梁院・修善院の読経あり、次の人々の焼香があつた。
 池田男令夫人 ○外三五名氏名略
○中略
      (一一) 大練忌(七七日)
昭和六年十二月二十九日午后三時より飛鳥山邸にて、法要を営まれ、寛永寺の大多喜僧正導師として、春性院・修禅院・福衆院・臨光院の読経あり、左の人々参拝、霊前にて焼香を行つた。
 高田利吉氏 ○外五〇名氏名略
      (一二) 第二御命日
昭和七年一月十一日午后七時より飛鳥山邸に於て、寛永寺住職大多喜守忍僧正外一人の僧侶の読経があつた。焼香に参詣した人々は次の如くである。
 尾高文子氏 ○外二九名氏名略
      (一三) 第三御命日
昭和七年二月十一日午后七時より飛鳥山邸に於て、寛永寺住職大多喜守忍僧正及護国院の読経があつた。又当日焼香に参詣した人々は次の如くである。
 小林つな氏 ○外二八名氏名略
      (一四) 卒哭忌(百ケ日)
昭和七年二月十八日午前十時半から泰徳院殿百ケ日の法要が寛永寺で営まれた。当日午前九時半には正面大玄関の障子が左右に開かれて、続いて参列の人々が後から後から着かれる。其の氏名は次の通りであつた。
       (イ)参列者
 久保田理好氏 ○外五六名氏名略
○中略
       (ロ)法要概要
定刻本堂にて鐘が打ち鳴らされると、渡廊下を経て渋沢家位牌堂へと向つて行く。位牌堂には寛永寺住職大多喜守忍大僧正を中心に、現竜院浦井亮玄師・本覚院大照晃道師・泉竜院青沼寂諶師・覚成院高橋考全師が左右に二人づゝ居並び、伴僧三人も下手に座を占めて居る。
大蝋燭に明るい須弥壇の後には沢山の御厨子があり、その中央に泰徳院殿の御位牌が安置されてあるが、御厨子の扉は何れも開かれて金色に燦いて居る。上手寄りに御遺族御親戚の方々が座を占め、入口近く知己の人々が居並ぶ。南と東との障子には一つぱいの陽がさして、香のにほひが鼻をうつ。開眼供養の経が厳かに読まれると、何とはなしに頭が下る。先づ御奥様の泰徳院様御位牌の開眼焼香があり、次で渋沢篤二氏の、宝光院様御位牌の開眼焼香があつて、法華三昧の読経に入る。
 - 第57巻 p.766 -ページ画像 
○中略
読経終つて、遺族の方々から順次焼香が始まり、親族の人々、次で他の参拝の人々何れも之を終り、此処に百ケ日の法要を了した、そして各自墓参したが、此の日は御供養のため参拝者へ一々虎屋の蒸饅頭一包づゝを配つた。又墓所には墓標を中心に左右へ供花がずらりと並びさらに納骨堂前へ一文字に置かれてある。
       (ハ)供花其他
○中略
御塔婆は施主・阪谷家・西ケ原渋沢家・宮仲渋沢家・明石家・上ノ台渋沢家・穂積家にて御墓前へ。更に御位牌堂の御霊前へ渋沢武之助氏久保田理好氏より各生花一対を供へた、また服部金太郎氏は金拾円、森村市左衛門男は金壱円、鈴木善助氏金壱円の御布施を持参されたので、これは直に寛永寺へ納めた。
尚ほ当日飛鳥山邸へ参邸され、御霊前に焼香された人々は次の如くである。
 徳川慶光公御母堂 ○外一一名氏名略