公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第57巻 p.767-769(DK570347k) ページ画像
昭和6年12月2日(1931年)
是日、栄一嫡孫敬三、東京区裁判所ニ於テ、栄一ノ遺言書ニ対スル検認ヲ受ケ、遺言ニ基キ、飛鳥山邸及ビ維持資金十万円ヲ、財団法人竜門社ニ寄贈ス。
泰徳院殿御葬儀記録 二 【第四 葬儀後始末】(DK570347k-0001)
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泰徳院殿御葬儀記録 二 (渋沢子爵家所蔵)
第四 葬儀後始末
十一月十六日以降二月十三日まで
○中略
(七)遺言書に関して
子爵の手書に係る昭和六年六月二十六日附の遺言書に関し、諸種の手続を為したが、該遺言書の全文は左の通りである。
(イ)遺言書
余ハ壮年郷関ヲ出テタル当初ヨリ、常ニ国家社会ヲ念トシ、道徳風教ノ振作、経済産業ノ発達、実業教育・女子教育ノ興隆、社会事業ノ助成、資本労働ノ協調、国際親善・世界平和ノ促進等ノ為メニ潜心努力シ来レリ、其業績ガ竟ニ所期ニ副ヒ得サルノ遺憾ハ暫ク措キコレ実ニ余ガ以テ己ガ任ト為セル所ニシテ、余ニ於テ死而後已ノ覚悟アルハ勿論、此素志ニシテ身後ニ継ガルルアランカ、余ノ喜何者カ之ニ如カンヤ、余ガ後半生朝夕起居ノ地タル飛鳥山ノ邸宅庭園ノ如キモ、実ニ一身安息ノ為メニアラズシテ、抑モ上記諸目的ノ用ニ供センコトヲ主トセルモノナルガ故ニ、余ハ此邸宅及ビ庭園ガ余ノ生前ニ於ケルト同様、永ク上記諸目的ニ相応スル公共ノ使用ニ供セラレ、国家社会ニ対スル余ノ微志ガ余ノ死後ニ継続達成セラルル一中心点タランコトヲ切望ス、此ニ於テカ余ハ右ノ希望ヲ実現スヘキ最善ノ方法トシテ
一東京府下滝野川町大字西ケ原字第六天所在所有土地全部
一本遺言効力発生ノ際前項ノ土地ニ存スル一切ノ建造物並ニ其附属品(但遺言執行者ニ於テ受遺者ト協議ノ上建造物中不要ノ部分ヲ除去シ、且附属品ノ範囲ヲ決定スベキモノトス)
一維持資金壱拾万円也
ヲ財団法人竜門社ニ遺贈スルコトヲ遺言シ、余ノ家督相続人ガ遺言執行者トシテ右ノ遺贈ニ関スル一切ノ手続ヲ執ルベキコトヲ命ズ、其綱領ニ於テ余ノ主義ト一致スル竜門社ガ、必ズヤ余ノ旧地ヲ管理スルニ適当ノ方法ヲ以テシ、余ガ生前特ニ心ヲ致シタル諸方面ニ裨補スル所アランコト余ノ信頼シ且懇嘱スル所ナリ
昭和六年六月二十六日
子爵 渋沢栄一
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(ロ)遺言施行手続
御遺言書は裁判所の検認を要する為、渡辺氏より堀江専一郎氏に其手続を依頼し、十一月二十日夕刻渋沢子爵手書の「自教鑑序」「楽亭壁書解説序」「多摩川園祝辞」を高田利吉君持参同氏に手交し、同日左の如き委任状と御遺言書写三通を渡辺氏より堀江事務所梶谷丈夫氏に交付し、且故子爵御手書の昭和四年八月付渡辺氏宛書翰一通を堀江氏に預けた、猶堀江氏の申出により御遺言書と殆ど全く同一のものを作成した。
委任状
拙者儀弁護士堀江専一郎氏・梶谷丈夫氏ヲ以テ代理人ト定メ左ノ事項ヲ委任ス
一、自分保管ニ係ル遺言者渋沢栄一ノ作リタル遺言書ノ検認ヲ申請スルニ付テノ一切ノ行為
右代理委任状依而如件
昭和 年 月 日
東京市芝区三田綱町一〇
渋沢敬三
斯くて十二月二日午後一時、東京区裁判所指示の通り渋沢敬三氏御遺言書及右極似の写を携へ堀江・梶谷両氏及白石氏同行、東京区裁判所に出頭し、野田判事より検認を受け、翌三日竜門社評議員会に於て御遺言の通り受領と決定したので、日本電報通信社及新聞聯合社を通じ一般に発表した。
(ハ)遺言発表
渋沢子爵が後半生起居の地たりし飛鳥山の邸宅は、子爵の遺言により財団法人竜門社に寄附することになつた。 ○中略 渋沢家では右を竜門社に通じたので、同社では本日評議員会を開催し、満場一致之を受領することを決議し、管理の方法を熟議決定することになつた。そして右の管理に付ては道徳・経済・教育・社会事業・労資協調・国際親善等各方面の有力者数十氏を顧問に依頼する意嚮である。猶渋沢家では過般東京市から贈られた渋沢子爵功労金拾万円は之を受領し、其一部によつて墓地に樹木数株を植え、其余は挙げて市の主なる社会事業に寄附することになつた旨を発表した。
之が新聞記事は十二月四日の朝刊に現れたが、その代表的なものとして時事新報の記事を左に掲げて参考としやう。
渋沢子遺言書で
邸宅を竜門社に寄附
市の功労金は社会事業に分配
遺言書発表さる
渋沢子爵が後半生起居の地たりし飛鳥山の邸宅は、左記子爵の遺言により、財団法人竜門社に寄附することになつた。右遺言書は本年六月二十六日附で全部子爵の自筆になるもので、渋沢家では右を竜門社に通じたので、同社では三日評議員会を開催、満場一致之を受領することを決議し、管理の方法を熟議決定することになつた。
○中略
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子爵の遺志に副ふやう
穂積博士語る
右につき穂積重遠博士は語る
『飛鳥山の邸は、住宅としては実に念入りな位不便に出来てゐるので、故子爵の生前中「もう少し便利なところに住はれては」とお勧めしたことがあつたが、今にして思へば、公共のために利用しやすい様に、初めから其考へで建たものであることがうなづける訳である、集会等をするには非常に便利に出来てゐるし、竜門社としても之を最もよく子爵の遺志に副ふ様に管理することは責任極めて重大である』
○本資料第四十三巻所収「財団法人竜門社」昭和六年十二月三日ノ条参照。