デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

13章 追悼会
節 [--]
款 [--] 6. 基督教関係団体追悼会
■綱文

第57巻 p.773-779(DK570354k) ページ画像

昭和6年12月9日(1931年)

是日、東京基督教青年会館ニ於テ、基督教関係団体共同主催ニヨリ、栄一ノ追悼記念会挙行セラル。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第八二―九二頁 昭和六年一二月 基督教関係団体催 故渋沢子爵追悼記念会(十二月九日午後三時より東京基督教青年会に於て)(DK570354k-0001)
第57巻 p.773-779 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第八二―九二頁 昭和六年一二月
    基督教関係団体催
      故渋沢子爵追悼記念会
        (十二月九日午後三時より東京基督教青年会に於て)
十二月九日午後三時より、神田美土代町東京基督教青年会の講堂に於いて、青淵先生追悼念記会が基督教関係団体によつて行はれた。渋沢家よりは青淵先生令夫人・渋沢篤二氏・同令夫人・穂積男爵御母堂・阪谷男爵令夫人・渋沢敬三氏令夫人・渋沢武之助氏令夫人・渋沢正雄氏・同令夫人・明石照男氏・同令夫人・穂積男爵・同令夫人の方々が出席せられ、一般参列者約百五十名参列のもとに開催された。壇のうしろに鯨幕をはり壇の中央より左手に花環で飾られた青淵先生の写真を掲げられてある。
 先づ長尾半平氏が立つて、
 『これより故渋沢子爵の追悼記念会を催します。司会者として一言申し上げ度いと存じます。頭脳の人は感嘆せられ、心の人は追慕景
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仰されると申しますが、故渋沢子爵は心の人でありましたが故に多くの人々から追慕景仰されました。
  故子爵はアメリカに最もよき一人の友人を持つて居られました、その人は故ジヨン・ワナメーカー氏であります。そして一人は論語を、一人はキリストの福音をもつて相愛し相敬して居られました。
  福徳円満なりし故子爵は、今地下に於て再び故ワナメーカー氏と手を握り合せてこの事を語り合つて居られる事と思ひます。
  今日は御多忙中にも不拘渋沢家御遺族の方々多数御出席下され、尚米国大使フォーブス閣下をはじめ、皆様御出席下さいました事を感謝致します。これより式を初めます。』
 司会者の辞がすむと、ゲーリー氏の奏楽につれて青山学院有志の合唱がある。次に生江孝之氏が厳かに聖書のミカ六章の七節を朗読される。朗読が終ると鵜飼猛氏によつて祈祷がさゝげられる。敬虔の裡に鵜飼氏の祈祷が終ると、渋沢事務所の小畑久五郎氏が『渋沢子爵に就いて』の題の下に語られるべく壇上に立たれる。
    故渋沢子爵に就て
                      小畑久五郎
 司会者、御遺族皆様及御列席の諸賢、私が「故渋沢子爵に就て」なる題を掲げて暫らく皆様の御清聴を御煩はしするに就きまして、一言御断りを申上げて置かねばならぬ事がございますけれども、其時間が御座いませんから御断りを省きますと云ふ御断りだけで御許しを戴きます。
 本日基督教的諸団体が一団となりまして故渋沢子爵の追悼記念会を催ふし、故子爵が御生前本団体の為に御尽力下さいました御功績を追懐し、御英霊に対し、又御遺族御一同に対して深い感謝の意を表し上げると云ふことは当然の事で、且つ美はしい事であると存じます。
 故子爵が古来稀なる大人物であり、日本の国宝であらせられた事は上下貴賤老若男女の普く知つて居る所で、私が改めて申上ぐる迄も御座いません。欧米の諸新聞特に米国の新聞、各国の大公使、政治家・学者・実業家・宗教家は筆を揃へて故子爵の偉大なる人格者たる事を讚美して居ります。日本のジョン・ピー・モルガン。モルガン、ヴァンダビルト、ロックフヱラー、フォードを一緒にした実業家である。米国のワシントン及リンコン、英国のグラッドストン、伊太利のガリボルヂーに較ぶべき大人物、日本の偉人(グランド・オールドメン・オヴ・ジャパン)であると申して居ります。米国政府が日本の政府に弔文を発して故子爵を偉大なる日本人、世界の大市民、仏蘭西政府は一生涯を通じて我国に厚誼を示された人、仏蘭西国民の斉しく敬慕する人、ウヱネズエラの政府は明治大帝以来の名士と申して居ります。其上に畏き辺りからは「社会人の儀型」なりとの実に有難き御言葉を賜はつて居られます。「正二位勲一等」と相並んで故子爵の功労と人格とを永久に伝へる金玉の文字でございます。
 然らば何が子爵をかうした偉い人物にならしめたであらうか、是には非常に複雑な原因があるに相違御座いません。遺伝の力、境遇と交友との感化があつた事は争はれない事実であると考へます。大いに研
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究を要する事と存じますが、私は自分の平素子爵の御偉い所は之れが為では無からうかと考へて居ります、今一・二点を申上げて見たいと存じます。
 渋沢子爵が論語を尊崇せられた事は又世間周知の事実でありますが論語の中心点なる夫子の道は忠恕のみと言ふ、其忠恕を徹底的に体験せられた所にあると思ひます。一寸此処で忠恕の解説を試みる必要があると思ひますが、忠といふ文字は口の下に心を置いて、其心から真直に一本の管が通つて居ります。口に言ひ顕はす事が心の表現である事を意味して居ります。内自ら欺かざるを忠と申します。誠実・正直正義であります。恕とは女の心が口を通して現はれるので、即ち慈悲仁愛・憐憫で、恕とは己れを推して物或は他に及ぼすといふ事であります。故に忠恕とは正義人道、或は義理人情であります。故渋沢子爵は正義人道或は義理人情の権化でございます。言換ふれば非凡の道徳的人格者で御座います。旧約聖書の米迦書に「エホバの汝に要め給ふ所は唯正義《たゞしき》を行ひ、憐憫《あはれみ》を愛し、謙遜《へりくだ》りて汝の神と共に歩む事ならずや」といふ句がありますが、「汝の神と共に歩む」といふ代りに「天の命に従ふ」といへば渋沢子爵の完全に首肯せらるゝ教訓であると存じます。如何となれば子爵は常に「誠は天の道是を誠とするは人の道なり」といふ孟子の教訓を尊重せられたからでございます。故子爵が強健なる身体と明晢なる頭脳とを具備せられたと云ふ事は、私共の神、故子爵の天より給はつた霊魂を汚さず、害はず、其天真の性質を最も円満に養成なされたからであると私は堅く信ずる者であります。而して此一事が已に、故子爵の大人格者たる事を示して居るのでございます。私が十有余年も御世話になつて居ります間に受けました印象中の最も尊く、従つて衷心より感謝致して居ります事は、子爵に御世話になりませんヅット以前より主張致して参りました主義が、故子爵の御言葉と御生涯とに依つて裏書せられた事であります。其れは何であるかと申しますと、道徳は道徳として修養すべきものであつて、知識に伴ふ副産物では断然無いと申す事で御座います。斯く申し上げた丈では十分御了解にならないと思ひますが、此問題を細論する時を許されて居らないのが遺憾でございます。唯一言加へますならば、私共の悩みは善悪・正邪の区別を附ける知識がないのではなく、其区別した所を鋭く感ずる感情が鈍く、堅く行ふ意志が弱い所にあるのでございます。即ち道徳が欠けて居るので御座います。道徳を道徳としての涵養が足らないので御座います。故渋沢子爵は意識的に其涵養の必要を感じられ、且つ主張をせられたのであります。
 故子爵は真の意味に於ける善人でございました。従つて善事を立派になし遂げられました。忠君、愛国、社会奉仕、産業開発悉く見上げた成蹟を挙げて居られます。世には善人で無くて善事を不純な目的の為に行ふ人が少く御座いません。其心事は陋劣であります。人は行のみに依つて救はれないと、キリスト教が主張するのは其処にあるので御座います。善人があつて始めて真の善行が果し得らるゝのでございます。故子爵に取つては善を為す事は流水の低きにつくが如く、煙の高きに登るが如く、全く自然であられたのでございます。根が純乎た
 - 第57巻 p.776 -ページ画像 
る善で御座いますから。
 故子爵は清廉其物でありました。江原素六翁が嘗て門下生の一人に或時、渋沢子爵の非凡なる人格者なる事を証明する実例として、故子爵は巨万の富を造ると思へば容易に出来る境遇に往来された人であるが、其誘惑を退けて世道人心の改善に努められた事を挙げて感激に満たされたそうであります。之は振古未聞の美談として驚嘆に値するものと存じます。
 故子爵は襟度の広い方でございました。是れも子爵の善人であられた所から湧出づる清い流れであると思ひます。人には如何なる悪人とても善根即ち良心といふ物があります、此善根が必ず子爵の心琴に触れるのであります。故子爵が抱擁的で網羅的であられた所から、清濁併せ飲む底の人物であると評した人々もあつた様でございますが、実は故子爵は爰に十の内九つの悪い点を胸に潜めて居る人があつても、一つの善い点があれば必ず第一に其一つに注意を払はれたのでございます。而して其れを引き立てやう、引き揚げやうとなされたので御座います。
 故子爵は実に世界的、国際的の方であられました。是れは子爵の網羅的、抱擁的な所から生ずる自然の結果であります。近頃国際心と云ふ言葉が称へられる様になりましたが、子爵は六十年以前頃已に此国際心を抱かれて居つたのであります。故子爵に東西両洋の文化を一身に御集めになつた国際人であられた事を示す沢山の例がありますが、一寸其一つを申上げると、子爵は西洋人と握手をなさる時、握手と同時に必ず御辞儀をなさる習慣を有つて居られた事であります。東西両洋の文化の融合で御座います。
 最後に故子爵の健康に就て一言致したいと存じます。外国の訪問客は、故子爵の御高齢と其御容姿の威なる事には驚いて居つたのでございます。従つて故子爵に対して「貴方には何か御健康法が御座いますか」と御尋ねする事が屡々御座いまして、是に対して故子爵はラプソン・スミツスと云ふ英国の医者の「百歳不老」といふ本を引き合ひに出されるのが常でありました。而して斯く申されました。人は三十歳迄は一生懸命に準備をする。後の三十歳は学び得た所を活用する。夫れで六十歳になる、六十歳以上は従来と同様活動を続ける、然し無理をしてはいけません。又物事に屈託したり、或は苦悩してはいけませんと申されました。是れも精神的、倫理的であります。
 故子爵は何処何処迄も忠恕の主義で通した方でございます。
 私の亜米利加の友人が或る冬の朝白雪皚々たる富士山を仰ぎ見て、 「あの富士は地に属するよりは天に属するものと見るべきでは無いか」と感嘆されましたが、実に詩的な而も穿ち得た言葉であると思つて居りますが、此評が彼の山部の赤人の不二山の歌
 「天地の分れし時ゆ、神さびて、高く貴き、駿河なる、ふじの高根を、天の原、振り放け見れば、渡る日の、かげも隠ろひ、照る月の光も見えず、白雲もいゆきはばかり、時しくぞ、雪はふりける、語りつぎ、言ひ継ぎゆかむ、不尽の高根は」
 を思ひ起させたのでありましたが、富士の偉い所は其腰をドツシリ
 - 第57巻 p.777 -ページ画像 
と地上に据えて居つて、而も天を摩する高峰峻嶺である所にあると思ひます。
 故渋沢子爵は人格化した富士山であると云ふべきであります。故子爵は人間味をたつぷりと備へられたる方で、而も群を抜いて天に近い方でありました。
 故子爵の御遺骸は上野寛永寺境内の墳墓にとこしなへに収められて御座います。然し其精神は等しくとこしなへに日本国民の徳義心を刺戟し、且支配するであらうと存じます。
 木枯吹き荒ぶ昨今の日本は何となく物寂しく感ぜられるので御座いますが、渋沢子爵を失つた日本は一層寂しさを深くせしめるので御座います。

 言々句々熱意の中に二十分に亘る小畑氏の追悼演説が終れば、次に米国大使フォーブス氏が立つて追悼の辞を述べられる。
    追悼演説
                 米国大使 フォルブス
 偉人の死は世人の注意を惹くものである、故渋沢子爵の到達せられたる如き地位に達すると、各国の市民は皆垂頂して其功績に対して尊敬と感激の讚辞を呈するのである、其功績たるや唯日本に対するのみならず、自国を発達せしめ、それに依つて人類一般の福祉に貢献したのである。
 私は今日米国民の代表として敬弔の意を表さんがために列席したるものでありまして、私共は今何れの国に於ても最も偉大にして最も勢力ある市民中に列せらるべき偉人を追悼敬慕しつゝあるといふ厳粛なる思ひを以て居るものであります。

フォーブス大使の追悼の辞に次いで、小崎弘道氏が日曜学校及基督教聯盟がそのはじめより種々の御世話を受け、日本に於ける基督教が今日一本立ちになつて行かれる様になつたのは、その背後に故子爵の如き方があられて、不断の御支持を吝まれなかつた為である事を諄々と述べ、現在の日本に於ても、又我が基督教に於ても、その教導を乞ふ可き事の益々多き時逝去された事は、まことに哀惜に堪へないと結んで降壇すれば、次にS・H・ウヱンライト師が立たれる。
    追弔演説
               エス・エーチ・ウェーンライト
 故渋沢子爵は同情の広きこと万人に勝れて居りました、世界的親善に深き興味を持つて居られました、併し実際問題として此の広い同胞主義は子爵に取つては日米親善となつたのである。ペルリ提督が日本を訪問した時子爵は未だ青年でありました、ペルリ提督の日本訪問は親善を目的としたもので、子爵一生涯を通じて此目的を敷衍説明し且つ熱心に支持せられたのである、子爵が、日米両国間の親善主義を懐くに至られたるは、貿易のためではない、感情のためではない、又理想家の心情とか云ふ様なものゝためでもない、該問題は子爵に取つては一生涯の大問題であつた、此広き親善主義は子爵の最も深き感情を
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現はし、子爵の真実なる自己を表現したるものなることは子爵を知る人々には諒解されて居つたのである。
      公共的精神の現れ
 故渋沢子爵は公共的精神を有する人として優れて居つた、新しい広汎なる意味に於て公共的精神を有する人であつた、子爵に取つては一般社会の福祉に関する興味が広い範囲を占めて居つたのである、全世界は一つの社会、日本と米国は種々なる共通の利害を有する一つの社会、と云ふことは子爵の真面目に考慮及不断の努力の主題であつた、子爵は米国を訪問されて其処に多数の友人を造られた、米国漫遊中到る処に於て人々より注意と尊敬とを払はれたのである、国際親善の促進に対する子爵の熱心なる希望は一般に認められた。
 子爵の同情は斯の如く広汎であつた、しかも子爵以上に其周囲の社会のために尽力したる人を挙ぐることは殆ど不可能である。子爵の慈善的事業は多数で其同情の広汎なることを物語つて居つた、封建制度の下に生涯を始められたが、子爵は最も真面目なる現代的の意味に於て博愛家で、現代の産業主義及都市生活の齎らせる必要を認め、常に之れに応ずる心組で居られた。基督教信者とは名乗られなかつたが、基督教の社会事業に深き興味を持ち、基督教式日曜学校の組織を大いに嘆賞せられたのである、子爵は「猶太人を愛し、そのために会堂を建てたる」彼の羅馬の百人の長の如くであつた。
      宗教統一を支持す
 儒教が日本人間に殆ど権威を失はんとして居る時子爵はこれを固執した、併し子爵が宗教に無関心であつたと想像するは謬りである、宗教をして宗教たらしめたる「一元に帰するため」諸宗教の真髄たる特徴を基督《(マヽ)》とし宗教を合同せんとする計画を熱心に支持せられたることは、子爵の心情を証明したるものである。該事業は成就せず、寧ろ試験的企画に終つた、されど子爵がこれに興味を有したる事は子爵が宗教を重んじたる記録を残したるものである。
 現存しつゝ吾等は既に冥界に入りたる人々に負ふ所がある、吾等は遺物を受けて感奮し、仁義を重んじ利己を忘れたる人々に対して感謝すべきである、故渋沢子爵の像は永く我々の記憶に留まるであらう、国際親善者としてペルリ提督の親交主義を敷衍したる人として、窮乏者の訴を決して空しく聞き流さゞりし慈善家として、其食卓には各国より来訪せる客人が歓待を享受したる寛容なる主人として、徳川時代の記憶を吾等に齎らすと共に満腔の熱誠を以て活動的・精力的・奮闘的なる現代を受け容れたる人として、子爵は追慕せらるゝであらう。
 終つて救世軍代表瀬川中佐が、山室司令官の次の如き弔詞を代読される。
 故渋沢子爵ハ救世軍ノ最モ理解アル賛助者、又最モ真実ナル友人トシテ、多年ソノ時ト場合トニ応ジ、種々ナル方面ヨリ厚キ援助ヲ与ヘラレマシタ。蓋シ日本ニ於ケル救世軍ガ曾テ有シタル最大ナル恩人ノ一人デアリマス、私ハ個人トシテ子爵ノ知遇ニ感ズル所最モ多キモノデアリマス、幸ニ子爵ノ晩年数回共ニ聖書ヲ捧読スルノ機会ヲ与ヘラレ、子爵ガ如何ニ神ノ国ニ近キ人ナルカヲ知リ、尚更敬慕
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ノ念ヲ深フシタノデアリマス、玆ニ日本ニ於ケル救世軍ヲ代表シ、謹ンデ渋沢子爵生前ノ重ネ重ネノ御高誼ヲ感謝シ、其ノ英霊ニ最モ深厚ナル敬意ヲ表スルモノデアリマス。併セテ其ノ御遺族ノ上ニ天恩ノ豊ナランコトヲ祈リマス。
  昭和六年十二月九日  救世軍司令官 中将 山室軍平
 次いでモットー博士よりの弔文を基督教青年会館の斎藤総主事が代読邦訳され、ハインツ氏よりの弔文を日曜学校々長杉村三郎氏が代読邦訳される。中田羽後氏の讚美歌の独唱が終ると、一同が一分間の黙祷をする。
 最後に井深梶之助氏が立つて御遺族への挨拶をされる。之に対して御遺族を代表して渋沢篤二氏が謝辞を述べる。
 私は渋沢篤二で御座います。本日は嗣子の敬三が罷り出る所で御座いましたが、よんどころない差支へが御座いまして、私が代つて出席致しました。本日は基督教諸団体の御申し合せで意義深い父の追悼会を御催し下さいまして、遺族一同と共に深く感謝致します。尚フォルブス大使閣下及皆様の、心からなる御言葉を段々拝承しまして、父が如何に地下で喜こんで居るだらうと思ひまして、感慨無量でございます。
  父はこれと申す宗教は特に持つては居りませんでしたが、終始一貫論語を遵奉して参りました。そして各種の事業界殊に実業界に於いて義と利が常に相一致しなければならないといふ事を唱道して参りました。司会者が申されました如く、ワナメーカー氏は父の最もよき友人の一人で御座いまして、先年かの地に於て親しく語り合ひました時に、ワナメーカー氏が『あなたは国家社会の為に色々と骨を折つて居られるが、何にか宗教を持つて居られるか』と問はれました、その時父は『私は特に宗教といふものを持つては居りません然し論語に言ふ人の道を守るといふ事を心して働いて居る』と答へました。
 皆様及び神の恵みによりまして九十二の高齢迄生きながらへましたといふ事は哀しみの中よりせめてもの満足で御座います。
 遺族を代表しまして一言感謝の意を表します。
斯くて四時半しめやかな中にこの追悼記念会は閉ぢられた。