デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

13章 追悼会
節 [--]
款 [--] 8. 実業団体追悼会
■綱文

第57巻 p.780-792(DK570356k) ページ画像

昭和6年12月11日(1931年)

是日、東京市公会堂ニ於テ、日本経済聯盟会・日本工業倶楽部・日華実業協会・東京銀行集会所・東京商工会議所ノ共同主催ニヨリ、栄一ノ追悼会挙行セラル。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第一〇〇―一一八頁 昭和六年一二月 実業団体催故渋沢子爵追悼会(十二月十一日午後二時より東京市公会堂に於て)(DK570356k-0001)
第57巻 p.780-791 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第一〇〇―一一八頁 昭和六年一二月
    実業団体催故渋沢子爵追悼会
      (十二月十一日午後二時より東京市公会堂に於て)
 十二月十一日午後二時より日本経済聯盟会・日本工業倶楽部・日華実業協会・東京銀行集会所・東京商工会議所の五大経済団体主催のもとに、青淵先生追悼会が東京市公会堂に於いて催された。
 市政会館前の大広場は、陸続と乗り付ける経済界各方面の参列者の自動車で埋められて居る。
 数人の交通巡査が多忙相に整理して居る。会場入口から階段上の受付迄黒色の鯨幕を張りめぐらし所々に関係者が立つて挨拶して居る。
 受付で青淵先生の御写真と御沙汰書の複製とを合せた記念品を貰つて、入場すれば、会堂は既に青淵先生の遺徳を慕ふて集ひ列した経済界の有力者によつて一杯である。はるばる地方から参会した人も尠くない。全員壱千余名。
 今日は追悼会の次第を、特に放送局に於いて全国民に中継放送する準備になつて居る。
 正二時開会のベルが鳴つて静に幕が左右に引かれる。
 正面及周囲の幕は総て黒に、中央の祭壇をはじめ、演壇・床、演壇に備へたマイクロホンまですつかり黒布で覆ひ、祭壇には黒枠と純白の菊花に縁どられた青淵先生の御写真を安置し、写真の上には長大なる御沙汰書の謹写を掲げ、御写真の左右から祭壇一杯を純白の菊・百合・カーネーションで埋めて居る。
 祭壇の右側には左胸上に遺族の徽章をつけた、渋沢家御遺族の方々が二列にならんで居られる。
 前列左より
 青淵先生令夫人・子爵渋沢敬三氏・渋沢篤二氏・穂積男爵御母堂・阪谷男爵令夫人・渋沢武之助氏・同令夫人・渋沢正雄氏・同令夫人後列左より
 明石照男氏・同令夫人・渋沢秀雄氏・男爵穂積重遠氏・同令夫人・子爵渋沢敬三氏令夫人
の順序にて着席される。
 祭壇の左側には主催諸団体の各代表者、右より
 公爵徳川家達氏・男爵益田孝氏・男爵郷誠之助氏・男爵団琢磨氏・男爵中島久万吉氏が着席されて居る。
先づ拍手に迎へられて司会者中島男爵が壇に立たれて開会の辞を述べられる。
    開会の辞
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                   男爵 中島久万吉
 先頃渋沢子爵の薨去に際しまして、我財界の一部に於て所謂経済葬を以て子爵をお送り申上げんとするの議がございましたが、それも相叶ひませぬでした為に、今回東京商工会議所・東京銀行集会所・日華実業協会・日本工業倶楽部並に日本経済聯盟会の五団体が主催と相成りまして、本日、即ち子爵の薨去を去る正に一箇月後の本日に於て、玆に此追悼会を開きまして、子爵在天の霊を弔せんとするのでございます。歳末御多端の折柄にも拘らず、斯く多数の御来臨を辱う致しましたる段は、主催者に於て深く満悦と致す所でございます。
 扨是から追悼の式に移りたいと存じます。先づ挨拶、郷誠之助君。
 開会の辞についで郷男爵が立つ、悲壮な面持ちで荘重な口調でもつて挨拶される。
    挨拶
                   男爵 郷誠之助
 閣下、諸君。只今主催者に依つて御紹介に相成りましたる五団体が発起致しまして、各位経済産業団体を代表せられる名士各位の御賛同を得まして、玆に故渋沢子爵閣下の追悼会を挙行するに当りまして、私甚だ僭越ながら右五団体を代表致しまして一言御挨拶を申上げることは私の最も光栄とする所であります。
 一箇月前の今日、即ち十一月十一日は吾々の最も悲しむべき日でありまして、此日午前一時五十分子爵は溘焉として逝かれたのであります。子爵の薨去は我日本が蒙りたる国家的損失の大なるものとして、全国に於ける新聞雑誌は固より、外国に於ける言論機関は筆を揃へて哀惜の意を表したのであります。就中或者は曰く、日本に於ける合本の制、即ち今日の会社組織の制は子爵に依つて創始せられ、銀行・取引所・鉄道・海運・製紙・紡績・鉱山・電灯・瓦斯・造船業乃至麦酒セメント・肥料等、各種新興の事業は固より、養蚕・製糸或は牧畜・綿糸工業に至るまで、苟も我国に於ける産業経済に関する百般の事業は、子爵の御指導御斡旋に依つて興らざりしものは殆ど罕であるのでありまして、子爵の御一代記は我国の産業の発達史なりと論じた者もあります。或者は子爵の日米、日支親善に対して国民的外交の御努力慈善事業或は教育、社会事業、労資の協調等に寄与せられたる所の御功績に対して是等を思ひ合せますると、子爵の功績は単に産業経済界に限られずして、九十二歳の御生涯は幕末維新を経て明治・大正・昭和に亘る日本の振興史の反面を語るものなりと述べられた者もあります。又或者は子爵が論語と算盤を合一せられ、即ち経済道徳は離るべからざるものであると云ふことを提唱せられ、躬行実践、範を垂れ、一世を指導せられたる其功績を追慕致しまして、活きたる国宝を失つたと痛恨せられました者もあります。私は此総てのものに対して全く感を同じくする者であります。併ながら未だ何とやら竜を画いて其睛を点ぜざる――即ち画竜点睛を欠くの感を抱いたのであります。然るに畏くも 聖上陛下に於かせられましては、子爵の御霊前へ優渥なる御沙汰書を賜つたのであります。其御沙汰書は玆に謹写して掲げてあります。私は此御沙汰書を拝誦致すに当りまして、初て子爵の功績の
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全貌が窺はれると思ふのでありまして、転た聖慮の畏きに感泣致した次第であります。尚此以上私が子爵の御行績等に対し彼れ此れ申上げることは、却て御盛徳を傷ける虞ありと存じまするなれども、此機会に於て一言私の見る所の一端を申上げることのお許を得まするならば子爵は空前にして、絶後なるお方であると申上げたいのであります。古来英雄は雲の如く起り、我日本は東洋に於ける英雄国なりとの感が致すのであります。而して其何れもは武力の支持に依るとか、或は官権の背景のあるとか致しまして、それに依つて功を樹て名を揚げたのであります。然るに渋沢子爵は何等是等の支持背景なく、一草莽の臣として空拳彼の大業を樹てられたのであります。子爵は維新の初頭欧洲に漫遊せられて御帰朝になるや、其翌即ち明治二年、時の大蔵卿大隈侯の御推薦もだし難く、時の新政府に仕へられたのであります、而して三等出仕に任ぜられたのであります。今日御来会の皆様の中には当時の事を御承知の方がおありになると存じますが、三等出仕と申しますると勅任官であります。而して当時薩長土肥、此藩閥の後援なくして勅任官になると云ふことは殆ど罕の事実であつたのであります。而も当時は官尊民卑の最も旺盛なる時代でありまして、此三等出仕の勅任官たる地位を得られることは容易でなかつたのであります。然るに子爵は一朝其議の相容れられざるや、此容易に得難き光栄ある地位を一弊履の如く棄てられまして民間に下られたのであります。爾来第一銀行をお振出に如何なる文勲武功にも匹敵すべき偉大なる功績を樹てられたのであります。而も子爵は何等名声を求められることなく、一意国利民福を念とせられ、其振興に向つて一生を傾倒せられたのであります。何等武力官権の後援なく、而も名利に恬淡なりし子爵の如きは、実に我有史二千六百年以来、古来の英雄豪傑と其典型を異にするのでありまして、是れ即ち私が空前のお方であると申上げる所以であります。更に又子爵が産業界に志を立てられました時には我国の産業経済は極て幼穉な時代でありまして、申さば経済政策の序幕総論とも申すべき時代でありました。子爵は其総元締として経済界産業界に於ける部門に対しお世話をなされたのであります。今日は其各部門が著しく発達を遂げまして、其部門々々には各代表的の方がおありになるでありませうが、子爵の如き全般を総括して指揮指導せられたる方はないのであります。是は一には子爵の如き不世出なる偉材が容易に現れない故ではありますが、一面には時勢の然らしむる所以であると思ふのであります。従て今後子爵の如き一代の尊敬と信望を一身に集め得る方は再び現れ得ないと信ずるのでありまして、之が即ち私が子爵の如きは絶後のお方であると申上げる所以であります。渋沢子爵の前に渋沢子爵なく、渋沢子爵の後に渋沢子爵なしと感ずる所以であります。子爵の御臨終は誠に聖者の大往生でありまして、いつもの福徳円満なる相貌其儘安らかに何の御苦痛もなく微笑を湛へつゝ瞑目を遊ばされたのであります。今や子爵と幽明其境を異に致しまするなれども、子爵御自身も申遣されて置かれましたる通り、子爵の尊霊は尽未来際不朽不滅で、吾々を御指導遊ばされるのであります。吾々は又一国の守護神として仕へることが出来るのであります。
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 最後に是非皆様に申上げなければならぬ一事があります。それは子爵の薨去三日前、即ち十一月の八日に吾々実業界の後進に向つて遺されたる御遺言であります。私は当時飛鳥山のお屋敷へ御見舞として罷り出ましたのでありますが、後に承りまする所に依りますと、是非郷に会ひたいと仰せられたさうであります。併し行違ひがありまして、私はお目に掛かることが出来なかつたのでありますが、若し幸に当日お目に掛かることが出来ましたならば、或は私が直々に此遺言を承り得たのかも知れませぬ、幸に御令息の篤二君が御筆記になりましたものがありますから、誤りのないやうに此処で私が朗読を致します。
 帝国の臣民として又東京市民として、永年の間不行届ながら御奉公を致した積りでありまするが、尚ほ是れ以上の寿を保ち、一層努力を致したいと思つて居りましたけれども不幸にして病を獲、或は再び起つことが出来得ないかと思つて居ります。私の亡い後には、刻下財界多事の場合皆様に宜しくお願ひ申上げます。併し私は幽明界を異に致しましても、霊は何時迄も残つて、財界の隆盛なること及び皆様の御健康ならんことを祈り、又守護致す積りで居ります。それ故に死んでしまつても、どうか他人行作にして下さらず、渋沢の心は何時迄も生きて皆様と共に働き居るものと思つて頂きたい。其事を呉々も皆様に申上げるやうに、尚ほお先へ失礼でありますが、是は私が悪いのではない、病気が悪いんですと申上げてお呉れ
後段にあります「それ故死んでも他人行作にして下さらず」とあります此行作と申しますのは子爵の御在所の方言ださうでありまして、他人行儀にして呉れるな、私が死んでも仏扱ひにして呉れるな、お前方と一緒に働いて居るのである、斯う云ふ思召に拝承致しました。又お先へ失礼でありますが、是は私が悪いのではない、病気が悪いんですと斯う申された点を伺ひますると、如何にも死生の間を超越せられた哲人の心境が窺はれるのであります。目下我国の内外時局は頗る重大でありまして、先刻号外に依りますると、幸に国際聯盟の方は大体我が主張が通りまして、玆に一段落を告げたやうではございまするが、併ながら之を以て国際政局が安定に至つたとは考へられませぬ、彼れ此れ考へ合せますると、此難局を打開するが為には、国民一致協力なる決心、最善なる努力を必要とすると思ふのであります。而してそれが軈て子爵の御遺言に添ひ奉る所以であると信ずるのであります。之を以て御挨拶を終りと致します。
 約十五分に亘る切々たる哀悼の言葉を述べられ、急霰の如き拍手に送られて郷男爵が席にもどれば、次に団男爵が中央祭壇に進み、写真に向ひて長文の弔辞を読まれる。
    弔辞
                   男爵 団琢磨
 子爵渋沢栄一君薨去せられて玆に一ケ月、子爵の音容猶ほ彷彿として耳目に在り、追慕の情転た禁ずる能はず、玆に謹んで本日をトして追悼の会を開く。
 惟ふに子爵は我財界の先覚者たり指導者たりしのみならず、平和に専念して常に之が実行に力め、東洋道徳を皷吹して躬自ら之を実践し
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洵に我財男の泰斗として、深く内外の尊敬する所なりき、我九重また深く子爵の功績を念はせられ、勲爵を賜ひ位階を陞せ、その薨去せらるゝや、辱くも優渥なる誅詞を賜ふ、この人今や則ち亡し、痛惜、哀悼の至りに勝へざるなり。
 子爵九十二年の生涯は実に新日本建設の歴史なり、子爵は明治維新百事草創の際に当り、その先見の明と卓越の識とを以て、国家不易の基礎の経済に在るを看破し、身を以て殖産興業に当り、拮据経営能く我国経済の基礎を定め、維新以降百般の新経済機関の創設、新産業の創始にして子爵の籌画参与に依らざるもの蓋し少し、我国経済発達の実に子爵に負ふ所の頗る多きは吾人の永く忘るべからざる所なり、子爵は心常に平和を念とし、外に対しては力を国際の融和に致して屡々海外に游び、内に在りては資本労働の協調に心を砕き、育英感化救恤養老等、苟も我国の文化的事業に属するもの、殆ど子爵の撕に俟たざるなし、子爵は人格高潔にして、情誼に厚く、忠恕を以て一生を貫き口を開けば則ち論語を説き、諄々として老の身に在るを忘る、其一朝病を獲て復た起つ能はざるを知らるゝや、財界の人に遺嘱して曰く、予の没後努力以て国運の発展に貢献せよ、予が魂魄は必らず我事業界を護るべしと、生死の境なほ我経済界の安危を憂慮せらる、子爵の薨去は実に我財界の一大損失なるのみならず、抑も亦我帝国の損失にして、更に復た世界の損失なり、吾人は内外多事の今日当に子爵の志を継ぎ、微力を竭くして子爵の意に背かざらんことを期すべし、謹んで子爵の霊に告ぐ、在天の霊其れ之を鑿せよ
              故渋沢子爵追悼会発起人総代
                   男爵 団琢磨
  弔辞が終ると、司会者の言葉により一同起立し礼拝する。厳粛な気が満堂に充ちわたる。真に満堂粛として声なく、偉大なりし自分達の大先輩の上に心よりの崇敬と哀悼の真情を捧げる。黙祷が済んで一同が着席すると、遺族を代表されて子爵渋沢敬三氏が拍手に立ち上がり壇上に進まれ、落ちついて澄み徹つた声で一場の謝辞を述べられる。
    謝辞
                   子爵 渋沢敬三
 今日斯の如き盛大にして且つ荘重、而もお心の籠りました追悼会を皆様方からお開を頂きましたことは、遺族一同真に申上げる言葉のない程光栄且つ感涙に堪へぬ次第でございます。私共常に多くの場合に於きまして、斯う云ふやうな壇上には能く祖父の後から附いて参りましたことがございましたが、今日祖父の居ない時に吾々が立たなければならなくならうとは、真に思ひがけないことでございまして、吾々遺族と致しましても残念に存ずる次第でございます。
 十月の七日の夜でございましたが、前々からお医者さん方から御心配頂き御注意を受けて居りました部分に於きまして、腸の狭窄が起り甚しき苦悶を覚えたのでございます。平常から病には余り強い方ではございませぬ祖父と致しまして、真に堪へ難き苦悶を抱きまして、悶え苦んだ有様でございます。幸にしてお医者方の御尽力に依りまして
 - 第57巻 p.785 -ページ画像 
其苦悶は一時退きましてございます。此狭窄は後二度三度続いて起る状態である故に、一面は九十二の老体にメスを振ふことは医学上から云つて甚だ好ましくないけれども、之を若しせざる時は、非常な苦しみの後に悶死をしなければならぬ場合が起らぬとも限らぬので、佐藤博士・入沢博士・塩田博士の皆さん方が慎重熟議して下さいました上に、遂に人工の肛門を造るべく、十月十四日に手術を致した次第でございます。其日も祖父と致しましては、何せ大手術でもございましたし、従て初めは中々手術を肯んじませぬでした。其肯んじなかつた理由は全く手術が怖いのではなかつたので、何だか老人と致しまして現代の医学に通暁致しませぬ為に、非常な新しい奇抜なる手術でもするのぢやないか、もう自分は老体である、老先短い。何も自分から求めて余命を貪ると云ふ態度に出たくない。それも極く普通一般の手術ならば差支ないが、態々自分なるが故に奇妙なる手術までして呉れる。それをして呉れる御親切は有難いが、さう云ふ奇を好むやうなことはしたくないと云ふやうな意味から、賛成を致しませぬでした。いや、其手術はさう珍らしいことではない、多くの人がして居る手術であるからと云ふことを、能くお医者さんから懇々説明を致しました時にははつきり分りまして、宜しい、それでは手術を受けませうと云ふことになりまして、其日手術に取掛かることになりましたが、至極平静でございまして、丁度三国史の中に関羽が華陀と云ふ有名なお医者さんに毒矢に当つた骨を剖いて貰ふ所などを思出しまして、自分は迚も弱いから麻酔薬なしではさう云ふことは出来ないと言つて、笑つて居りました。そして局部麻酔で手術は実に立派に出来まして、其予後も極めて順調なる経過を致しました次第でございます。其後約一週間ばかりの間は大体に於て順調の経過を辿つて居りまして、吾々も手術致すには、聊かあの老体どうかとも存じましたが、平常の態度と云ふものを過信致しました為に、必ず回復することゝ思つて居りました。併し矢張老齢にありました為に其後食慾が止りました。若し祖父にしても是非生きんと云ふことを願ふならば、仮令食慾がなくとも何等かの方法を以て食物を摂つたに違ひないと存じますが、常に口癖のやうに余命を貪ると云ふことを嫌つて居りました祖父と致しましては、食事の振はざるに聊か任せ過ぎた傾向もあつたやうであります。併し大体に於きまして、皆様は勿論、他人にも余り迷惑を掛けることが嫌ひな質でありました為に、吾々が熱心に勧めれば一椀・一匙と云ふ風には食べましたが、其後は食べぬと云ふことで、段々体力が消耗致しました次第でございます。余り食事も思はしくございませぬので、十月の三十日に相談致しまして、容体が面白くないことを発表致しました次第でございます。
 畏くも皇太后陛下に置かせられても其病気の御見舞として態々特に其前日、明治節に菊を眺めよと仰せられて菊の花を頂戴致しました。尚ほ御心入れの牛乳・鶉の卵等を頂戴致しましたのであります。是は祖父も幸に陛下の御志を有難く頂戴致しまして。全部頂きました次第でございます。
 それで十月三十日に至りまして、突然発熱を致し、気管支肺炎の症
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状を呈して参りましたが、之が最も医師としては恐れて居りましたことで、又それまでの間に起らなかつたことは寧ろ不思議と言はれた次第でございます。一度起りました為に、其後は遂に本当に之を根治するの機会なしに段々と再発致しまして、弱つて来たやうな次第でございます。八日の日には余程気分が好しうございました為か、先程郷男爵からお話のございましたやうに、遺言めいたことを皆様にお伝へ申した次第でございます。九日の朝に至りまして、突然高熱を発しまして、それ以来十一日の息を引取ります迄、全く人事不省、其間皆様方に特に邸の方へお出頂きました方々皆様にお目に掛かりまして、末期の水を頂戴致しましたことは、祖父と致しましてはこんな有難いことはなかつたらうと、今尚ほ吾々は思つて自ら慰めて居ります次第でございます。
 死は怖くないけれども、唯苦んで死にたくない、それから死ぬまではつきりした頭で居たいと云ふことは、常々口癖のやうに申して居りました希望でございましたが、幸に其希望が達せられまして、八日の日にははつきりしたことを申して、九日から全く痛み其他苦痛を感ぜずに終りましたことは、祖父としても全く本望だらうと存じて居ります。其後畏れ多くも宮中から或は侍従の御差遣を頂き、或は侍医を御差遣頂き、御弔慰を賜ひ、更に最後に此処に掲げまする御沙汰書を拝受致しました。此御沙汰書を拝受致しました時の吾々の気持は、全く何とも申上げやうのない有難さに胸が塞つたのでございます。真に其時に存じましたのでございますが、せめて此御沙汰書だけは生きて居る中に頂きたかつたと云ふことを、甚だ矛盾した話でございますが、吾々感じました。此御沙汰書を若し聞きましたならばさぞ喜んで有難く感じたらうと、是だけは失礼に当る申分だつたかも知れませぬが、真にさう云ふやうな感じが致しました。就きましてはせめてもの心遣りと致しまして、此御沙汰書を謹写致しまして棺の蓋の上に、丁度顔に当る所に張つて、永遠に其御沙汰を拝し得るやうに致しましてやりましたのは、遺族のせめてもの心遣りでございます。
 斯かるお席で申上げることは如何とは存じますが、昭和三年でした祖父が米寿の祝賀会を帝劇で皆様方からお開き頂きました、あの時の祖父は真に嬉しがつて、皆さんに長い御挨拶を申上げましたやうに存じます。私は今玆に立ちまして畏多くも御沙汰書のみならず、今日の此会合にどうかして祖父を此処に立たしめたいと云ふ気持が一杯でございます。あの時の盛大のお催しを想起しますに付きまして、又今日の心からなる皆様方の心持を頂戴致しますに付きまして、祖父は何と言つてお礼を申上げるだらうか、想像も着かぬやうに存じます。祖父と致しましては、あの米寿の時に申上げました言葉と、御沙汰書、又今日の此盛大にしてお心入れの此追悼会をして頂きまして、真に無上の光栄又同時に祖父の気持が是でちやんと遂げられたと云ふやうな感じが致しましただらうと存じます。甚だ畏れ多いことではございますが、御沙汰書の上にある「遠ク慮リテ野ニ下リ」と云ふ御言葉が真に其実を結んだやうな感じを致すのでございます。祖父が此処に立ちまして皆様に心からお礼を申上げられないことを真に残念に存じます。
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併し先程郷男爵がお話下さいましたやうに、祖父は皆様方と決して別れたんではないと遺言申して居りますやうに、必ず此処に霊は居りまして、皆様のお心持を有難く頂戴致して居ることゝ存じます。
 遺族を代表致しまして、今日の盛大にして且つ荘重にお心の籠りました追悼会を頂きましたことを有難く御礼を申上げます。

 落ちついた一場の謝辞が終ると、追悼演説になつて先づ徳川公爵が立たれた。
    追悼演説
                   公爵 徳川家達
 私は故渋沢栄一君追悼の盛儀に臨み、洵に感慨の新しいものがございます。惟ふに君が実業界・教育界に尽されたる功績は私の言を待ちませぬ。一般社会の大恩人にして、又日米・日支間の親善に貢献せる所多く、君の薨去は独り我国家の一大損失なるのみならず、世界万民の不幸と存じます。殊に君が旧誼を重んじ、終始一貫して徳川家に対して致されたる誠意は、私の感激措く能はざる所でございます。加之私を首班とせる東京慈恵会・協調会・婦人会等の副会長として親しく私を補佐致しまして、私の不敏を以て能く其任に堪へるは、君の力に依ることと信ずるのでございましたが、忽ち君の訃に接して驚き悲み恰も左右の手を失ふが如く、今より後誰に従つて教を乞ひませう。君は何故に私を捨てるの早きことでございませうや、併ながら君が九十二の長寿を保ち、正二位勲一等に上り、華族に列し、功成り名遂げて寿を全うし、死しては万人に惜まれ、且つ薨去に際し優渥なる御沙汰書を賜りしことは、実に無上の光栄と存じます。希はくは積善の余慶子孫に及び、其霊永く私等を冥護せられんことを望みます。謹で玆に哀悼の微意を表します。

 朗々たる声で、徳川公爵の追悼演説が終れば、次に益田男爵が代つて八十以上の老齢とは思はれない、強い真剣味の溢れた声で述べられる。
    追悼演説
                   男爵 益田孝
 閣下、諸君。大偉人故渋沢子爵閣下の今日の追悼会に、私まで罷り出て追悼の演説をしろと云ふことの白羽の矢が立たりました。併し此老耄、世の中を退いて如何なる場合にも公会に出たことのない人間でございまするし、又此大偉人の前に立ちまして追悼の演説をすると云ふ資格は自ら考へてもございませぬ。長く恩顧を受けました私のことでございますから、唯自身の翁に対する追悼の情を述ぶることに致したいと存じます。暫く御清聴を希ひ上げます。
 只今徳川公爵閣下の御追悼のお言葉は、之が一番故翁の御満足な所と思はれるのでありまして、私共までも有難く感銘仕りました。翁が功績と徳望とは今更私共などの申すべきことではなくて、皆世上能く承知して居ります。実は私は過去六十年、故人に対しては師父と心得て仕へて来たのであります。御承知の通り故翁は御幼少の時より論語
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大学・中庸等の孔子の教に大いに親まれて、畢生之に立脚して世に処せられたのであります。十七・八の頃既に有志家と交りて国事に奔走されたのであります。然るに慶応三年に徳川民部公子が仏蘭西の万国博覧会へ幕府より派遣せられましたときに、翁は随行して仏蘭西に赴かれまして、仏蘭西を根拠として和蘭・白耳義・伊太利等を巡歴されて、先進国の文明を視察せられ、殖産工業其他百般の文物を見て来られたので、即ち我国の開発に最も必要なる知識を持たれて帰られましたのであります。私は故翁にお目に懸りましたのは明治五年で、当時翁は井上大輔侯爵と最も困難なる財政の衝に当つて居られまして、二百八十諸侯の財政を皆明治の大蔵省に引受けられて、先づ財界の始末藩札の始末、非常なる難物を調理されて、先づ明治の財政の基礎を立てやうと云ふことに努力致されまして、既に明治六年に執行した所の物品税を廃して金納にすると云ふことまでの方案を尽く調査されたのであります。然る所維新の大事業に成功した諸豪傑が、皆各行政の機関を扱つたものでございますから、其引受けた行政の機関を忽ちに立派にしやうとするものですから、其金を大蔵省に望むこと甚しい訳になつて、如何に財政の基礎を堅固に立てやうと云ふても、さう一時に行政機関を発達させると云ふことは到底望むべからざることであるから、先づ徐々にやらうと云ふことを両氏が最も説得に掛かつたのでございますが、中々さう云ふ説得は聴きもしなかつたので、大蔵省との衝突は甚しかつたものですから、到頭井上侯爵は肝癪玉を破裂して、さうして明治六年に両公共に政府を辞されて民間に立たれたのでございます。私は明治五年に井上侯の勧めに依つて、造幣権頭に任ぜられて、其時初て故翁にお目に懸かりましたが、大阪に勤務中に辞職されたものでございますから、私は此両氏が政府に居らぬ以上は、何条政府に居るべきやと、直に東京に帰りまして辞表を呈しました。故翁は吾々に仰せられました、以来己は生涯政治には関係しないことを誓ふぞ。成程其通りでありました。故翁は当初より金融機関を発達させることが最も国家の為に大事であるが、先づ一つ銀行を造らねばならぬと云ふことで、それに努力せられました。自分が銀行を奨励し、即ち翁の働きに依つて明治五年に条例を発布されて、三井・小野組が大株主となつて第一国立銀行と云ふものを設立しました。然る所明治七年に至つて小野組が倒産致しました為に、第一国立銀行も余程困難に陥つた、大打撃を受けましたが、是に至つて故翁の何とも言へぬ堪忍力と云ふものは、種々なる智嚢を生出し、三井の三野村利左衛門などゝ相談をされて、到頭善後の処置を為して御覧の通りの立派な第一銀行と云ふものになりましたが、初め翁は総監役と云ふ名義で指図して居られました。七年の其変動がございました以来は、同行の頭取となられて、近来迄御経営の任に当られましたのであります。さて第一銀行が出来たとなると、御承知の通り諸国に国立銀行が起つて、皆其教を故翁に乞うたのでございます。日夜引きも切らず、各所から其教を受けに参りました。吾々も傍に居つて何ともお気の毒に存ずる程、其事に御多忙で努力なされましたのでございます。私は初の中は余り屡々お目に懸かる機会もございませぬでしたが、明治九年に三井物産会社
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を創立するの任務に就きましてから、屡々お目に懸かりましたし、又丁度其年の十二月に大蔵卿大隈侯の内命を受けて、翁に随行して上海に出張致しました、其用事は両江総督の借款問題でございましたが、是は成立致しませぬでしたが、此旅行で翁と一層のお親みを厚く致しました。段々御懇親を厚くして見ますると、故翁の偉大なる人格には夙に敬服を致しまして、後には此お人は神であるとまで思ひましてございます。其神と云ふ意味は人間以上と云ふ意味で、一旦決心すれば如何なる困難の事でも遂行せられました。面会を求めて来る人があれば如何なる人にも会はれ、実に懇切に申すことも聴かれ、腹蔵なく胸襟を披いて説き、玄関に送つて出られても繰返し繰返し丁寧に注意を与へられたることは、お集りの諸君の中には随分お出会ひのことで、実に恐入つた御丁寧の事であると思召したこともございませうと考へます。人にも亦事柄にも親切で、一旦世話をし始めたならば、徹底的に世話をされました。普通人間にどうしても出来ない事をなさる。始終傍に居つて見まして人間以上と吾々は信じて居りました。
 故人は零細の金を集めて衆と共に事業を起さうと云ふ主義でありました。私も若い時から外国人に就て学びました為に、此主義は無論賛成で、益々故翁に深き関係を結んだのであります。私は明治二十年と明治四十年とに洋行を致しましたが、斯様な事を日本に始めたら宜いと思いますと云うて、帰つて愚見を申上げますると、一つとして賛成を得なかつたものはございませぬ。実に今以て其思召には感激に堪へないのであります。何か故翁に建議致しまして、好し、やらうではないかと云うて賛成を得れば、もう実行と云ふ場合になると、故翁は主動者の地位に立つて、申出た私は後より附いて中々歩みきれぬ位に、ずんずん熱心にお進みになつたのには実に驚きました。明治十二年に西南の事件が治つて、追々日本に機械工業を起すの時に進みましたが其当時第一に故翁のお頭りに浮み、又私も共々賛成をしまして起しましたのが大阪紡績会社でございます。是はプラットに関係を附けまして、其主宰者として故翁の門下生である山辺丈夫君が丁度倫敦に居りましたから、プラットに這入りまして修業されて、さうして帰つて来て大阪紡績を始めましたのが、之が日本に於ける紡績の第一の会社でございます。随分其時には横浜の外国人にも反対をされまして、ガゼット新聞などは生意気千万だと言つて悪口を書きましたが、今如何でございませうか。日本の紡績業は其本家本元のマンチェスターを凌駕して、実に其盛況を示して居るではございませぬか。是も故翁が率先指導した賜ものであります。其他数々の事業――私が驥尾に附いて働いた事業も随分ござまして、今尚ほ存在致して居りますが、是は一々此処では申上げませぬ。
 故翁は単に事業界に尽力せられたのみでなく、公益事業に非常に尽されました。其為には自ら財を惜まず、自ら先頭に立ち寄附金を集められたことは枚挙に遑ありませぬ。寄附金勧誘のお手紙に接し、又かと云ふ感じも随分起りましたが、どうも後から考へると、さう思つたのは恥入つたことで、矢張善い事をなさつたと実に敬服を致しましたが、其根気の強いこと、此処に居らつしやる諸君も、はて又か、困つ
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たことだとお思ひなさつたお方もあらつしやいませうと思ひます。私が驥尾に附いて働きました公益事業と申しますのは、東北振興会又は東北の凶作に当つて、それを救恤する会などでありましたが、先づ今日の青森・北海道の凶作に遭つた所を御覧なさつたら、故翁が在らせられたならば、第一に発起されて之が救済に努められたであらうと私は信じます。
 私は少しも関係を持ちませぬでしたが、故翁から伺つた事がございますから、一応申述べたいと思ひますのは養育院、養育院の事業は諸君の御承知の通り、もう始より終まで故翁が御自分で指図をされ担当をされたのでありますが、其養育院のお世話中に、其濫觴は白河楽翁公の善政に発して居ると云ふ関係から、故翁は楽翁公の事蹟を能くお調べになつて、書物なども能くお調べになりました所、天明の飢饉に出遭つてどうぞ之を救済したいと云ふ為に、楽翁公自身の生命に代へて神に祈請を凝らした、其願文がお手に入つて御覧になつたと云ふことを、私は直接に承つて居ります。爾来深く楽翁公を尊信申上げました、今日から故翁の偉大なる事蹟を見ますると、全く楽翁公の魂が故翁に乗移つたのではないかとまで思はれる程、同じ主義で善事を尽されたのでございます。
 故翁は明治三十五年と四十二年――三十五年には欧米、四十二年には米国商業会議所より我実業家を招待し来りしとき、数十名を率ゐて渡米されました。此関係から米国に居ります移住民の状態を能く視察されて、是はどうしても盛に出て行かなければならぬものだと云ふことをお頭りに入れたものでございますから、米国が法律を以て東洋人を入れぬと云ふことになつたときには、余程故翁のお頭りを刺戟して困つたものだと云ふことで、其以来亜米利加のお交際になつた立派な有力者などに懇々御通信になつて、其事に御心配をなされことと推察致します。段々亜米利加の輿論も変つて参りまして、どうがな好い結果を見ることが出来はしないかと存ぜられますが、若し其事が旨く届きましたならば、それこそ故翁の霊も如何に満足して、是で己も成仏すると仰しやるかも知れぬと存じます。
 支那の水災救恤は、九十二歳の老齢を以て、而も病中でおはせしに拘らず、ラヂオを通じて全国に同情を促されましたのは、決して是は外交関係でも何でもない、全く孔子の教の仁義と云ふ精神を以て此事を御担当なされたのに、それも解らぬで退けたと云ふことは、如何にも故翁から御覧なさつたならば、イヤハヤ、支那にも孔子の教が絶えたナと御歎息遊ばされることであらうと存じます。以上は私が関係致しましたり、又は承知して居る一端であつて、実業上幾多お国の為に貢献せられた実に不世出の大偉人であると追慕の情に堪へませぬ。今や此大偉人は此世を去られました。噫、悲しい哉。

 言々句々熱誠に溢れた二十分に亘る追悼演説を終り、深い感銘の中に益田男爵が自席にもどれば、司会者中島男爵が閉会の辞を述べられる。
    閉会の辞
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                   男爵 中島久万吉
 終に臨みまして一事御報告を申上げたいことがございます。それは先年渋沢子爵米寿祝賀会に際しまして、発起人の側から皆様にお諮りを申上げまして御賛同を得ましたる渋沢子爵寿像建設の計画に関することでございます。爾来財界の事情にも御遠慮を申し、且は子爵の御心持にも斟酌申上げまして、荏苒日を移して居りまする間に遂に今回の薨去を見るに至つたのでございます。尤も其間東京市当局者との間に屡次の相談を致しました結果、略々敷地に関する見込も相立ちましたるに依りまして、遠からず計画を発表致しまして、改めて皆さんの御賛同を得るに至るであらうと存じます。其際は宜しくお願を申上げます。就きましては是で今日の追悼会を閉ぢます。
 時午後三時十五分、今更に新なる悲傷と哀惜とに心を閉されて黙々として退席して行くこの人々と共に、今ラヂオを通じて、その模様を知つた、全国幾十、幾百万の人々は、何れも共にさらに新なる哀しみと淋しさとに胸を打ち震はせて居る事であらう。


中外商業新報 第一六四七二号 昭和六年一二月一一日 故渋沢翁の追悼会の状況 日比谷公会堂から第二で中継(DK570356k-0002)
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中外商業新報  第一六四七二号 昭和六年一二月一一日
    故渋沢翁の追悼会の状況
      日比谷公会堂から第二で中継
 故渋沢翁は九十二歳の永い生涯を国家奉仕に一身を捧げ、万人の崇敬と追慕のうちに翁が最も因縁の深かつた国際平和記念日の朝、眠るが如く大往生を遂げた、いま一月を過ぎ追憶の念やみ難きものがある今回日本経済聯盟会・日本工業倶楽部・日華実業協会・東京銀行集会所・東京商工会議所が発起となり、本日午後二時より日比谷公会堂にて故渋沢翁追悼会を挙行し、心からなる哀悼の意を表し、幾多の功績を追慕することになつた、当日は主催者側をはじめ朝野の名士他一般の参列は数千名に上り、非常な盛大を予想されてゐる、AKではその状況を中継放送する、なほ追悼会の順序は次の如くである
 一、開会の辞      男爵 中島久万吉
 二、挨拶        男爵 郷誠之助
 三、弔詞        男爵 団琢磨
 四、礼拝(起立黙祷)     参会者一同
 五、挨拶 遺族代表   子爵 渋沢敬三
 六、追悼演説      公爵 徳川家達
             男爵 益田孝
 七、閉会の辞      男爵 中島久万吉


中外商業新報 第一六四七三号 昭和六年一二月一二日 故人の徳を偲ぶ渋沢翁の追悼会 経済葬にも優る盛儀(DK570356k-0003)
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。