デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

13章 追悼会
節 [--]
款 [--] 9. 社会事業団体追悼会
■綱文

第57巻 p.792-819(DK570357k) ページ画像

昭和6年12月12日(1931年)

是日、東京市公会堂ニ於テ、東京市及ビ財団法人協調会・財団法人中央社会事業協会・社団法人国際聯盟協会ノ共同主催ニヨリ、栄一ノ追悼講演会挙行セラル。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第一一八―一五一頁 昭和六年一二月 社会事業団体催故渋沢子爵追悼講演会(DK570357k-0001)
第57巻 p.792-813 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第一一八―一五一頁 昭和六年一二月
    社会事業団体催故渋沢子爵追悼講演会
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      (十二月十二日午後一時より東京市公会堂に於て)
 「開会正二時」と書かれた掲示が出た頃から、参集の人々が公会堂へ列をつくつては入つて来た。今までまばらであつた座席が、見る間に一つぱいになる。階下は案内状の持参者、階上は一般の追悼者である、参会者は壮青年の男子が大半で、他は老いた婦人、若い婦人また老人の男子もかなりある。さすがに子供は一人も居ない、二階の正面と真横には写真機が置かれた。人々は静かに、この巨人の追悼式の開会を待つて居る。
 やがて正面の幕が左右に開かれると、香煙が舞台一面に立ち上つて霞をへだてゝ見るやうに、何となく夢幻の境に引入れられた、と香の香りが鼻をうつて故人を偲ばす。次第に香煙が無散し行くにつれて真黒なバックの前、正面真白い花に囲まれた青淵先生の大写真が現れるまことに在りし日のまゝの面影である、翠と白との花のうてなに今にも微笑だされさうに、温容を会衆に向けて居られる。しばらくは舞台に人なくて、たゞ青淵先生の御影に相対するを得せしめたのは主催者の心やりであつたらう。
 御遺族たる青淵先生令夫人・渋沢敬三子・同篤二氏・同武之助氏・同令夫人・同正雄氏・同令夫人・同秀雄氏・穂積重遠男・渋沢敬三子令夫人がしづしづと現れて上手の椅子につく、下手の椅子には若槻礼次郎男・徳川家達公・清浦奎吾伯・安達謙蔵氏・床次竹二郎氏・桜内幸雄氏・窪田静太郎氏・新渡戸稲造氏・永田秀次郎氏・鎌田栄吉氏其他が、それぞれ着席された。
 追悼式の司会者原泰一氏が、開会の旨を告げると、一堂人満ちて人無き静粛さに、声が場の隅々にまで徹つて行く。即ちその順序書に示された処は次の通りである。
                  司会者 原泰一氏
一、開会の辞                吉田茂氏
一、追悼式
 献花(一同起立)       東京市 永田秀次郎氏
              協調会 公爵 徳川家達氏
           中央社会事業協会 窪田静太郎氏
             国際聯盟協会 新渡戸稲造氏
 追悼の辞 (主催者代表)        斎藤守圀氏
 追悼の辞 (来賓代表)     男爵 若槻礼次郎氏
 遺族挨拶                  渋沢家
一、講演             司会者 赤松祐之氏
                  伯爵 清浦奎吾氏
                     安達謙蔵氏
                    床次竹二郎氏
                    永田秀次郎氏
                     鎌田栄吉氏
                    新渡戸稲造氏
                        以上
                       東京市
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                       協調会
               主催 中央社会事業協会
                    国際聯盟協会
 協調会常務理事吉田茂氏が開会の辞を述べるべく壇上に現れると、其処此処から拍手が起る。
    開会の辞
                      吉田茂
 本日故子爵渋沢栄一氏の追悼会を私共四団体で催すことになりました処、御遺族の方々、来賓の方々、また皆様多数の御来会を得ましたことを厚く感謝いたします、子爵が薨去されましてから一ケ月になりますが、日を経るに従つて追慕の念益々切なるものがあります、子爵の御功績に就ては私から申上げるまでもありません、殊にその実業界に対するものゝ如き前後に並ぶべきものがないのでありますが、更に社会事業・労資協調・教育教化・国際平和等に御尽瘁になりました功績の大さは、また決して、実業界に為されたものに比して異ならぬのであります、即ち夫々の部門の一つ一つに考へ及びましても、到底常人の企及し得ざる業績を遺されて居ります。従つて実業界の関係は昨十一日此処で追悼会を催されました、其処で今日は、経済団体以外の社会公共団体が主催致しまして、追悼会並びに講演会を催し、諸名士の方々に子爵に関する御講演を願ひ、その人格の崇高であられましたことを追慕敬弔したいと存ずる次第であります。
 尚本日の主催を東京市・中央社会事業協会・国際聯盟・協調会の四団体で致し、その関係者に御講演を願ふとしましても、子爵の偉大な人格を輝かしむるには足らぬでありませうが、御講演願ふ方々は何れも我国の権威ある名士ばかりでありますから、英雄は英雄を知るのたとへの通り、私共の知らない子爵の偉大さを御話し下さることと思ひます。また申添へまして御了解を願つて置きたいと思ふことは、前程申しました四団体が此会を主催しましたけれど、あながちそれが適当なと云ふ訳ではなく、他にも多方面に子爵の御世話になつた公共団体は沢山あり、それ等総てのものに御相談申すのが本旨でありましたが何分時日その他の関係から御相談申す余裕がなかつたのであります、その点他の公共団体及び御参集の皆様の御了察を願ふ次第であります一言本日此会合の主意を申述べ開会の辞と致します。

 次に追悼式に入る、参会者全部起立黙祷の裡に、東京市を代表して永田秀次郎氏、協調会を代表して公爵徳川家達氏、中央社会事業協会を代表して、窪田静太郎氏、国際聯盟協会を代表して新渡戸稲造氏、それぞれ青淵先生大写真の前に進んで、侍者の捧げた盛花を献じる。四つの花籠の上に朗らかに拝される青淵先生の大きな慈顔がはつきりと浮び上つて来る。一同謹んで礼拝。
 市助役斎藤守圀氏が主催者を代表して、追悼の辞を述べるべく壇に進む。
    追悼の辞
                      斎藤守圀
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 本日玆ニ東京市及財団法人協調会・財団法人中央社会事業協会・社団法人国際聯盟協会カ相図リマシテ追悼講演会ヲ開催スルニ当リ、私ハ此ノ四団体ヲ代表シテ故正二位勲一等子爵渋沢栄一閣下ノ英霊ニ対シ謹ミテ追悼ノ辞ヲ捧ゲマス。
 閣下ハ一世ノ人格者トシテ徳望四海ニ洽ク、識見高遠、夙ニ経済産業ノ重要ナルヲ認メ、其ノ開発進展ニ寄与セラレタルコト多大ナルノミナラズ、常ニ邦家ノ進運ト国民ノ福祉トヲ念トセラレ、社会公共万般ノ事ニ貢献セラレマシタ功績ハ到底枚挙ニ遑ナイノデアリマス。
 今私共四団体ニ対スル閣下ノ功労ノ概要ヲ挙ケルナラハ夙ニ意ヲ帝都ノ自治ニ致サレ、明治初年東京会議所ノ事務ニ参与セラレマシテ以来都政ノ振興ニ努メ、続イテ市参与ノ要職ニ推サレ、陰ニ陽ニ市政ノ円満ナル発達ニ寄与セラレマシタソノ業績ハ極メテ大テアツタノデアリマス。社会事業ニ就キマシテハ、早クモ明治七年養育院ノ事業ヲ主宰シ、東京市ニ移管後モ猶引続キ院長ノ重職ニ在ラレルコト五十余年同院ノ基礎愈々固ク、東京市ニ於ケル社会事業ノ中軸タルニ至リマシタコトハ、全ク閣下ノ熱誠ナル賜デナケレバナリマセン。又中央社会事業協会今日ノ発達モ、明治四十一年公私社会事業関係者ノ大同団結ニ依ツテ出来タ中央慈善協会ノ組織、続テ中央社会事業協会ト改称スルニ至ル迄、終始一貫二十有余年間寝食ヲ忘レテ奔走サレタ結果ニ外ナラヌノデアリマス。而カモ閣下ハ其間社会立法ノ制定及之レカ実施ニ当路者ヲ激励シ、粉骨砕身只管指導誘掖ニ当ラレツヽ、一方各種ノ社会事業、社会教化事業ニ会長トシテ或ハ顧問トシテ尽瘁セラレマシタ、特ニ晩年癩予防事業ニ意ヲ致サレ、癩予防法ノ制定ヲ促進シ、官民一致ノ癩予防協会ヲ設立シ、会長ノ要職ニ就テ大ニ為ス所アルヘク企劃セラレタノデアリマス。欧洲大戦後労働問題ガ擡頭致シマシタ為大正八年労資問題解決機関設立ノ議ガ起リマスルヤ、深ク我国産業ノ前途ヲ憂慮シ、一身ヲ此ノ事業ニ捧ケントノ決意ヲ以テ、日夜東奔西走朞日ナラズシテ協調会ヲ成立セシメラレマシテ、爾来十有余年副会長ノ重職ニ在ツテ、其ノ基礎ヲ固メ、本邦労資問題ノ一大権威タラシメタノデアリマス、更ニ又欧洲大戦ノ終熄ト共ニ国際聯盟ガ組織サレマシタ際ニハ、翁ハ是レガ達成ニ国民輿論ノ支持ヲ必要トセラレ、朝野ノ識者ヲ糾合シ、国際聯盟協会ヲ創立シ、推サレテ会長トナリ、爾来十余年一意世界ノ平和ト国際親善ノ為ニ卓越セル識見ト世界的信望トヲ以テ指導皷舞シテ、協会ノ隆運ヲ図ラレ、今日世界有数ノ国際聯盟協会タラシメタノデアリマス。
 列挙シ来レハ閣下ノ国家社会ニ貢献セラレマシタ業績ハ尚甚ダ多イノデアリマシテ、玆ニ其ノ詳細ヲ尽スコトノ出来ナイコトヲ深ク遺憾トスル次第デアリマスカ、要スルニ閣下ノ薨去ハ実ニ我ガ国ニ於ケル国宝的存在ヲ失ツタノデアリマシテ、単リ国家社会ノ不幸タルノミデナク、吾等朝夕其ノ恩沢ニ浴シタル者ニトリマシテハ、恰モ慈父ニ別レタルノ感ガアルノデアリマス、実ニ欽慕切々哀惜極リナイノデアリマス。
 私共ハ玆ニ謹ミテ追悼ノ辞ヲ捧グルト共ニ、時局愈々多難ノ秋只管閣下ノ遺訓ヲ体シマシテ、誓ツテ目的ノ達成ニ勇往邁進シ、閣下ノ英
 - 第57巻 p.796 -ページ画像 
霊ニ応ヘ奉リタイト覚悟致ス次第デアリマス。
  昭和六年十二月十二日
               主宰団体代表 斎藤守圀
 若槻男が鶴の如き瘠躯を壇上に運び、来賓を代表して追悼の辞を述べやうとするや、四方から嵐の如き拍手が起る。
    追悼の辞
                   男爵 若槻礼次郎
 本日東京市外三団体ノ御主催ニ係ル故子爵渋沢栄一翁ノ追悼会ニ御招キヲ受ケマシテ、一言追悼ノ詞ヲ述ベマスコトハ洵ニ光栄ト存ズル所デアリマス、子爵ノ訃ガ一度伝ハルヤ、社会ノ人々ハ何人モソノ死ヲ惜マザルハ無カツタノデアリマスガ、本日此ノ追悼会ニ臨ミ、御肖像ノ前ニ立チテソノ慈愛溢ルルガ如キ温顔ヲ仰キ見マスル時、追慕敬愛ノ情又更ニ新タナルモノガアルノデアリマス。
 故子爵ノ輝ヤケル一世ノ功業ハ、今改メテ申上グルマデモアリマセン。唯一言私ノ申上ゲテ見タイ事ハ、翁九十余年ノ生涯ハ幾多ノ変遷ヲ経テ居ラルル如ク見ユルノデアリマスガ、ソノ変遷ノ間ニアツテ終始一貫変ラザルモノガアツタト思フコトデアリマス。
 故子爵ハ夙ニ野ニ下リマシテ実業界ニ身ヲ投ゼラレタノデアリマスガ、其ノ志ハ決シテ営利貨殖ニ在ツタノデ無カツタ事ハ勿論デアリマシテ、国家ノ将来時勢ノ大局ヲ達観セラレテ、商工業其ノ他ノ産業ヲ振興スル事ガ国家興隆ノ上ニ於テ最モ必要ナルニ拘ラズ、当時官尊民卑ノ風盛デアツテ、一世ノ俊秀挙ツテ朝ニ上リ、有為ノ士ニシテ民間産業ニ従フモノ殆ト之ナキヲ見テ、身ヲ以ツテ之ニ当ラントシタノデアリマシテ、其ノ志ハ一ニ経国済民ニ在ツタノデアルト思フノデアリマス。此ノ経国済民トイフコトコレガ子爵ノ生涯ヲ通ジテ終生変ラナカツタ理想デアリ、指導精神デアツタト思フノデアリマス。故ニ世相ガ変ジテ社会問題ガ擡頭シテ、之レガ治国ノ眼目トナルニ至レバ、率先シテ之ニ方リ、対支対米ノ問題ガ国家ノ運命ニ関スル大問題トナルニ至レバ、亦進ンデ之ニ当ルトイフ工合ニ、其ノ関係サルル処多方面デアリマスガ、何レモ皆之レ其ノ経国済民トイフ一貫シタ精神ノ発露ニ外ナラヌト思ハルルノデアリマス。故ニ故子爵ハ実業界ニ入ツテモ実業家トナラズ、社会事業ニ尽力シテモ社会事業家トナラズ、常ニ一大経世家タルノ態度ヲ失ハナカツタノデアルト思フノデアリマス。之レハ儒教ノ感化ト偉大ナル天稟トノ結合ニ依ルモノデ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、一世ガ慈父ト仰キマシタコトモ寔ニ理由アル事ト思ヒマス。
 国家多事ノ秋此ノ偉人ヲ喪ヒマシタ事ハ寔ニ寂寞ノ感ニ堪ヘザルモノデアリマシテ、深ク痛惜スル次第デアリマス。
 私共ハ故子爵ヲ追慕スル事ニ依ツテ自ラ反省シ、其ノ感化ニ依ツテ翁ノ如ク至誠至純一点ノ私心ナク邦家ノ為ニ努力致シタイト思フノデアリマス。
 一言所感ヲ述べテ追悼ノ意ヲ表シタ次第デアリマス。

 荘重なる各演説を終つて、司会者原氏より、各地からの追悼電報の多数ある旨を報告し、その内大阪癩収容所の収容患者よりのものを
 - 第57巻 p.797 -ページ画像 
代表的に朗読した。やがて遺族として挨拶を述べるべく、渋沢敬三氏が、若かりし頃の青淵先生を偲ばしめて拍手を浴びながら演壇の前に進まれる。
    謝辞
                   子爵 渋沢敬三
  今日はかく盛大且つ御心のこもりました祖父の追悼会を、東京市協調会・中央社会事業協会・国際聯盟協会で御主催下さいましたことを感謝致します、又若槻男爵閣下初め皆様からの追悼の御言葉を頂戴いたしまして光栄これに過ぎませぬ。祖父の晩年は身を社会事業、国際関係、労資協調に委ね、さうした問題に心を痛めて居りました故、晩年御目にかゝつた多数の方々は、この方面に努力して居られた方であつたと思ひます。従つて本日の追悼会は祖父としまして真に喜ばしく御受けして居ることと存じます。
  十月十四日手術を致しまして後も、東京市養育院の子供の身の上などを何かと申して居りましたやうに、その念頭には斯うした方面のことが去らなかつたやうであります。殊に亡くなりましてから直ちに、三陛下から御弔問を賜りましたが、その内にあつて皇太后陛下の御言葉を此処に申述べさせて頂きます。慈恵会や、東京市養育院に対する渋沢の心尽しを大変喜んで居た、また癩患者の救恤に就ては色々と心配して居たが、此時に際し渋沢を失つたことは、返す返すも惜しいことである、と云ふ御旨でございまして、この大御心の厚きには、私共も感極つて涙を流したのでありまして、祖父も地下で有難く感激して居ることだらうと存じます。
  総じて祖父は弱い者の味方となつて居りまして、死にますまでその気持で居りました、恰度亡くなります三日前、十一月八日の日に遺言めいたことを申しました内に「私が死んでもよそよそしくして下さるな」と云つて居ります、どうか将来とも、祖父は皆様と共に在ると思召して下さいますやう希望致します。尚ほ今日の此の心をこめさせられた荘重なる追悼会の席に上りまして、私の思ひ起しますことは、祖父米寿の祝賀会を開いていたゞいた時のことであります、私は決して今日の会とそれとを比較しやうとするのではありませんが、官尊民卑の風を鞏正しやうとの志であつた祖父は、米寿の時田中男爵が御出で下さつて祝辞を述べられたのを非常に喜び、素志を貫徹したと申して居りましたが、今日はまた若槻男爵の御叮重なる追悼の辞を頂きましたので、有難いことと大変喜んで居ることと存じます。御沙汰書のことを申上げますのは畏れ多いことでありますが、遠く慮つて野に下り、とありますやうに、野に下りました祖父が斯様な追悼会を開いて頂戴し、また一流の方々から講演をしていたゞきますことは、真にその志が実を結んだと申してよいかと思ひます、閣下皆様に対し遺族を代表して厚く御礼を申上げます。

 斯くて追悼式を終り、講演会に移つたが、その間徳川公爵・若槻男爵・桜内幸雄氏等退出する、しかし場内一つぱいの会衆は次第に増すばかりであつた。
 - 第57巻 p.798 -ページ画像 
 やがて講演会に移り、司会者赤松祐之氏が次で現れ『本日御講演を御願ひする方々は、何れも当代第一流の人々でありますから、特に御紹介申上げる要はないと思ひます、斯様な方々に御講演を御願し得られるのも故渋沢子爵の御遺徳の然らしむる処と考へます』とて、伯爵清浦奎吾氏を先づ紹介する。
    講演
                   伯爵 清浦奎吾
 本追悼会の席上に於て故人を偲ぶため一場の講話を致しますことは私の最も光栄とする処であります。故渋沢翁が九十二年の永い生涯中国家及び社会奉仕に一身を貢献せられ、世人の崇敬と哀惜の中に、翁が最も因縁の深かりし国際平和記念日の朝、穏かに永眠に就かれましたが、其功業徳化の崇高博大なるに対して追慕の念已み難きものありて、昨日は実業家の連中が当公会堂に於て盛大な追悼会を催され、本日は中央社会事業協会が東京市其の他の二団体と共に、子爵が社会事業の発達に尽され以て社会の福祉増進並に国民の生活向上に貢献せられた功徳を追慕し追悼講演会を開催することゝ相成り、玆に諸君と共に故人を偲ぶ機会を得まして、私は同君とは此の方面に於て最も関係が深かつたので、一層感慨に堪えないものがあるのであります。
 今から二十余年前、我国の社会の状勢は産業の興隆、文化の発達、国運の増進等々の輝かしい事実の半面に漸く貧富の懸隔著しくなり、為めに国民生活の不安を惹起し、窮民困難の程度一層深刻となりつゝあるのに、従来我が邦の美風とされて居りました隣保相扶け、親類縁者相救ふと言ふ事が日を逐ふて薄れて行く有様であつたので、此の時弊を匡救する為めに社会事業の発達の必要なる事を痛切に感じた一人として、私は渋沢子爵と共に中央社会事業協会即ち当時の慈善協会の創立に参与した深い関係がありますので、今般同協会の理事者諸君から渋沢子爵亡き後は是非私に会長を引き受ける様にと言ふ懇請があつたので、私も老体ではあり、仮令ひ老体ならざるも、渋沢子爵のような行届きたる世話はとても出来兼ますけれども、先年慈善協会の会長とならるゝよふ私が親しく懇請して其の受諾を得たる因縁もあり、子爵の遺された仕事の一つに今後出来る丈の力を致して参ることが、故人の霊を慰むる所以であると考へまして、敢て之をお引受けした次第でもあります。
 抑も渋沢子爵が社会事業に関与せらるゝ様になつたのは、明治七年に東京市養育院を担当せらるゝ事となつたのが始めであつた様であります、然るに故人が養育院に関係された事由として聞いて居りますのは、其の当時外国の使臣が来朝されることになつたに就て、東京市内の乞食その他の所謂浮浪者狩りをして之を一時、収容保護して居たのを、その後も引続き世話することになつて、その収容所の経営は、東京市その当時の東京府が所有してゐた共有金を以て之れに充てることになりました。
 此の共有金と言ふのは旧幕の頃に松平楽翁公が執政であつた時、江戸の町費を節約して積立てられた所謂七分金と言ふのが維新後東京市に引継がれたもので、其の共有金の管理を東京市から委託せられて居
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た関係上渋沢子爵は自然その共有金で経営する事業の管理者ともなられたので、勢ひ養育院の統轄をもせらるゝ様になつた訳であります。
 斯様な次第で養育院の世話をされる様になつたのは偶然と言へば偶然と言へるので、渋沢子爵は常に謙遜して自分が社会事業に関与する事になつたのは、深く思索を遂げ計画を立てた結果ではなく、偶然の機会からそうなつたのだと申されて居たのであります、成程之を同君が曾て官界の要職にあつたに拘らず、決然多望なる前途を棄て去て野に下られたことが、実に当時同君が世界の大勢に鑑み、我が国運の進暢は偏に民間財界の基礎を鞏固にするにありと深く思索し、堅く信ぜられた結果であつたに比ぶれば、其の動機に於ては或は偶然の行掛りであつたと言へよふが、然し渋沢子爵が養育院を世話する様になられてから実に七十年、終始変らない御熱心を以て同院の為めに尽され、或は自費を投じ、或は有志を説いて寄附金を集めて院の整備拡充を図られた計りでなく、常に頻繁に同院に足を運ばれて、親しく其の収容者に接して、彼等を愛撫訓育された情愛の温かく濃かであつたことは何人も感激せざるはなかつたのであります、又憐なる癩病患者がその生ける醜い体を、人目の多い神社仏閣及び街頭に曝し、或は屋内深く蟄居して社会的交際を断ち傷ましい生活を送つてゐる実状に深い同情を寄せられ、且つ世間には癩は遺伝病とのみ誤信せられて居つて、その伝染病であることが知られて居ない為めに、癩患者の一家は固よりその六親眷族に至るまで甚しい疎隔をうけ、一方その恐る可き病毒に対しては一向無頓着で、予防智識が欠けて居る為めに、此の悪疾は益益我国民を蝕みつゝある事実を悲まれて、最後まで癩予防の為めには非常な努力を払はれたことは、諸君の耳に新しい処であらうと思ひます、又人間が失明をする程不幸なことはない、然るに斯うした不幸に陥つた盲人が、此のせち辛い世の中に、身体にも頭脳にも何の故障のない人達と一緒に、少しの保護もなしに生存競争をして生活に喘いで居る惨めな有様に心からの同情を寄せられ、そして世間の人達が無智又は不注意の為めに此の不幸な失明者になつて行くものゝ尠くないことを嘆かれて、盲人保護失明防止に力を濺がれたのであります、斯くの如きはその一・二の例に過ぎません。
 君は曾つて或席で人の困難して居る有様を見、或は窮迫に陥つてゐる次第を知つては、身を殺いでも之を救はねばならぬと言ふ感を惹き起すのは人間の至情であると、熱心に説述せられたことを聞いたことがあります。(慈善協会発会式の際の挨拶の一部)又同君が書を求むる人に書いて与へられた言葉に本日皆様に記念品としてお配りした絵葉書にあります処の「待有余而済人終無済人之日、待有暇而読書必無読書之時」と申すのがありました、之に依つて見まするに、実際渋沢子爵の心の中には常に人類愛の燃ゆる情熱が溢れて居つたものと信ぜられます。それと同時に、同君が年少の頃から研鑽せられた論語即ち孔子の教を遵守し、彼の所謂仁慈惻隠造次不離節義廉退顛沛匪〓語を、如何に実践躬行するに努められたかを推測するに難くないのであります。
 斯く君は自ら博愛仁慈を体得実践された計りでなく、此の社会苦に直面して社会事業の第一線に刻苦精励して居らるゝ社会事業家諸君を
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慰安奨励せられ、又広く世間に訴へ、殊に有資産家の人達に対して、社会事業を理解し之を援助する様熱心以て勧説に努められたのでありまして、君は常に社会事業の発達は、その当事者自身が熱心をこめ久しうして屈せぬことが必要であるは論を俟たないが、其の当事者の黽勉努力のみでは其の事業が十分功を奏すると言ふものではない、即ち一般社会の人達の間に共存共栄の観念が強く高まり、社会事業に就て充分了解し、以て当事者の黽勉に援助協力されて、始めて十分その事業は効を奏するのであると申され、機会ある毎に社会事業を世人に紹介し、有資家諸君に対しては之に関与することを勧説されたのでありました、従つて我国の社会事業家で直接間接君に勧め励まされ、又君の指導援助をうけたものは非常に多いのであります。
 さればと言つて無暗に人に同情を寄せ、只金品を与へて、却つて惰民を作る様な自己満足の慈善、或は慈善をすることに依つて自己の評判を高めようとする功利的なのを、名聞慈善であると言つて強く戒められたのでありました。
 先頃支那漢口方面に於ける洪水氾濫の為め、民家飢寒の苦境に彷徨しつゝある惨状の伝はるや、翁は既に衰弱して静養し居らるゝに拘はらず、人道上黙視すべからずとし、且善隣の交誼を重んぜられ、自ら起ちて救恤の趣意書を宣伝せられ、或は宣伝放送の労を取られたるは諸君の耳に猶ほ新なる所、是蓋し最後の公けにせられたる声ならむ。其の仁慈惻隠の情は死に至る迄少しも渝らざりし、是れ翁の天性の然らしむる所、敬服の外はありませぬ。
 従来君は中央社会事業協会で、屡々社会事業の大会又は会議を催した際に、病気でない限り必ず出席せられて、親しく来会者に接せられたのでありますが、その温容に包まれた牢固たる精神と、之を表現する愛情に充ちた言葉とは、如何に来会者を慰め励ましたか知れなかつたのであります。
 渋沢子爵は何時も社会事業の経営に就ては、私は素人だと謙遜されて居られたが、実際は中々そうではなかつたのみならず、その豊富な経験に基いて常に事業の改善拡充を図られたのであります。
 養育院に於ては、固と老人と子供と同一場所に於て世話して居つたのでありますが、子供の養育上面白くないために分離せられた如き、又重病患者を切り離して特に病院を造られた如き、或は身体の虚弱な子供のために、特に安房に分院を設けてその保育に充てられた如き、又不良の傾向ある少年を区分して特に感化部を設置せられた等、事業経営上に着々と科学的方法を採つて行かれたのでありました。又救護の任に当るものが、その世話をうけて居る人達に対する取扱ひ方に就ても、中々注意して改善を計られたのでありました。曾て養育院の子供の世話に当つて居つた人が武士あがりで、相応文筆も出来見識もある人でありましたが、余りに厳格に過ぎた為子供達が妙にいぢけて仕舞つてゐる事に気附かれて、屡々その世話人に注意をされました、然るにその人は「厳格にしなければ彼等のいたづらは益々増長する計りで始末に終へなくなる」と頑強に抗弁するので、普通の家に居る子供達を見よ、父母がそれ程叱責したり罰したりしないけれども、自と善
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悪の区別、辞儀を覚えて行くではないか、加之子供等は自分の信頼する人に倚つてその愛情を満足させ、其処に人間らしい柔和さを増し加へて行くものだ、君たちの様にすがらうとする子供等を押へて叱つたり叩いたりする様では、さらでだに淋しい不遇な境遇に育つた彼等は一層ねじけ者になつて仕舞ふではないか」と戒められたが、其の後遂に真に彼等の父母としての適任者を其の係に選任して、院の制度を普通の家庭の様な組織にして、子供達を養はれたのであります。それは外国等でも致して居る所謂家庭主義であつて、今日では何処の育児院でも採用してゐる子供の取扱ひ方であります。
 君はまた中央社会事業協会で催した各種の調査会・研究会などにも万障を排して出席されて、社会事象に関する攻究、並に之に応ずる社会事業の科学的発展などに就いて、熱心に専門家の人々を誘掖せられたのであつたが、殊に社会事業の経済化には非常に力を注いで当事者を指導せられ、またその組織化に就ては、熱誠をこめて政府当局に働きかけてその進展を計られたのであつた。
 乃ち時相に則して、中央社会事業協会はじめ済生会・協調会・結核予防協会・癩予防協会等の設立に直接間接に貢献せられ、或は時世匡救のために感化法・癩予防法・結核予防法及び救護法等の制定実施を促進せられ、以て民衆の教化並にその生活の向上に資せられた如きはその功績永へに記憶し、国民として感謝すべきところであります。
 曩に私は渋沢子爵が社会事業に関与せられたのは、深い思索の結果ではなかつたと言はれて居つたことを申しましたが、君は最初は経済人として活動の余力を社会的方面に用ひられたのであつたが、大正五年七十七歳で喜寿を迎へたるを機会に、第一銀行頭取その他凡ゆる実業界の事業から引退せられ、それからは尚壮者を凌ぐ健全なる身体及び頭脳を以て専心社会的方面に尽力し、最後迄その領野に活動して、平素口ぐせの様に言はれた世の為め人のために終始せられたことは、その当時言明せられた通りであつて、誠に敬服にたへないところで、然かもそれは矢張、君が当時我邦に於ける社会の動きを見極めて、深い思索の上社会的方面の事業の進展の必要なることを痛感せられたからであることに思ひ至りますと、此内外多難の時に、この齢増々高く徳愈々篤かつた君を失つたことは誠に痛惜に堪えないのであるが、それ丈け私共としては、君が最後迄尽されたその方面の事業を今後益々助長発展せしむることが、君の霊を慰むる所以であることを信じますので、只今諸君と共に君を偲ぶと共に、深くこの事を心に止め度いと存じます。

 次に安達謙蔵氏歯ぎれのよい口調で演説される
    講演
                      安達謙蔵
 私ハ渋沢子爵ガ重態ヲ伝ヘラレタ日ニ東京ヲ後ニシテ九州ヘ出張シタノデアリマスガ、ソノ不在中子爵ハ遂ニ御薨去ニ相成リ、告別式モオ済ミニナツタ後ニ帰京致シタヤウナ次第デアリマスノデ、本日斯ウシテ諸君ト共ニ巨人渋沢子爵ヲ追悼スル機会ヲ得マシタコトハ私ニト
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ツテ誠ニ有難イコトデアリマシテ、先刻カラ彼レ是レト思ヒヲ馳セ深イ感慨ニ打タレテ居ルノデアリマス。
 私ハ渋沢子爵ニ親シクオ目ニカカツテ其ノ人格ニ触レル機会ヲ得マシタノハ極ク最近ニナツテカラノコトデアリマス。然シ多年子爵ノ国家ノ為メニ尽サレタ偉大ナル功績殊ニ衆望ヲ集メラレタ徳業ニハ心カラ尊敬ヲ払ツテ居ツタ一人デアリマス。
 明治・大正カラ昭和ニカケテ、我国ニハ各方面ニ亘ツテ優レタ人物ガ沢山輩出セラレタ、ソノ中ニハ特ニ傑出シタ人モ尠クナイノデアリマスガ、国民ガ心ヨリ尊敬ヲ捧ゲルニ足ル人ハ余リ多クナカツタト考ヘマス。然ルニ渋沢子爵ハソノ稀ニ見ル尊敬スヘキ偉人中ノ偉人デアツタト信ジテ居ルノデアリマス。
 今カラ余程以前ノコトデアリマシタ。私ハ計ラズモ関西ヘノ旅行ノ途次、渋沢子爵ト同車致シタノデアリマス。子爵ハ至ル処ノ停車場デ多数ノ人々ノ送迎ヲウケラレタノデアリマスガ、ソノ都度アノ温容ヲ汽車ノ窓カラ乗リ出シテ其ノ労ヲ謝シ、非常ニ含蓄ノアル言葉デ諄々ト孔孟ノ道ヲ説キ、天道ヲ語リ、人道ヲ教ヘ、更ニ突込ンデ之ヲ実践躬行ニ移ス、子爵ノ所謂論語ト算盤ニ就テ訓ヘラレルノデアツタ、之ヲ謹ンデ傾聴スル送迎ノ群ハ、何レ実業界ニ一銭ノ損得ヲ争フ人達デアラウト推測サレルノニ、其ノ人達ハ恰モ昔ノ村塾ノ門下生ガ日頃尊敬スル師匠ノ訓ヘヲ一言モ洩サジト耳ヲ傾ケル姿ニ彷彿タルモノガアツタノデ、私ハ子爵ノ説カレル処ガ平素私モ又信奉致シテ居ル孔孟ノ教ヘデアツタカラト言フ理由計リデナク、未ダニ忘レラレナイ深イ印象ヲウケ、一層私ハ子爵ヲ尊敬スル念ヲ深メタノデアリマス。
 曩ニモ申シタヨウニ、私ガ親シク子爵ニ接スル機会ヲ持ツタノハ極ク最近ノコトデアツテ、確カ私ガ逓信大臣ヲ致シテ居リマシタ時ニ、航空会社ヲ設立スルコトニナリマシテ、ソノ仕事ノ性質ガ国家的事業デアリマス関係カラ、ドウシテモ子爵ニモ一骨折ツテ戴カネバナラヌ必要ガアツテ、無理ニ御世話ヲオ願ヒシタノガ抑モ最初デアツタカト思フノデアリマス。当時子爵ハ既ニ実業ノ方ニハ関係ヲ持タレナカツタノデハアルガ、国家ヘノ御奉公ナラ御断リ致シカネルトテ色々御配慮下サツタノデアリマス。私ハ親シクソウシタ御言葉ナリ御働キナリニ接シテ、ソノ公ニ奉ゼラレル志ノ厚イノニツクヅク感ジ入ツタノデアリマシタ。
 ソノ後一昨年ノ夏私ガ浜口内閣ノ内務大臣ニ就任致シテ間モナイコト、突然官邸ヘ老子爵ノ御訪問ヲウケタノデアリマシタ。其時ノオ話ハ癩ノ問題デアリマシテ、子爵ハ涙サヘ浮ベテ熱心ニ癩ノ悲惨ナコトヲ話サレタ、殊ニ御自分ガ養育院デ御世話ヲサレタ子供ノ一人ガソノ働イテ居ツタ家ノ主人カラ伝染シテ癩ニカカツテ哀レナ死ヲ遂ゲタ事実カラ、夫ガ伝染病デアルコトヲ知ラレタノデアルガ、世間ニハ夫ガ遺伝病ト思ヒ違ヘラレテ居ルタメニ、聞クニ堪エナイ数々ノ悲劇ガ演ゼラレテ居ルコトヲ語ラレ、人道上ハ固ヨリ、国民保健上カラモ此ノ儘ニ打チ捨テ置ク可キデナイト強ク主張セラレマシタ。
 更ニコノ癩患者ノ多クガ、自分ニハ何ノ罪科モナイノニ醜イ姿ニナリ、世間カラハ忍ビ難イ爪弾ヲウケルノデ、捨鉢ニナツテ世ヲ怨ミ人
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ヲ憎ム反社会性ノ強イ状態ニナツテ居ル実証ヲ挙ゲテ、社会防衛上カラモ考ヘナケレバナラヌコトヲ力説サレ、最後ニ子爵ガ屡々米国其他文明国ニ対シ国民外交ノ衝ニ当ラレタ経験カラ、外人間ニ我国ガ他ノ文明諸国デハ既ニ十四世紀ノ頃撲滅シテ仕舞ツタ癩病ヲ、未ダニ何ウスルコトモ出来ナイ事実ヲ以テ甚シク我国ヲ軽蔑シテヰルコトヲ挙ゲテ、国際的ニモ国家ノ体面上一日モ早ク之ヲ撲滅スルノ大策ヲ立テル必要ガアルコト等、懇々ト人ヲ思ヒ国ヲ思フ誠ヲコメテ説カレタ言葉ハ、一々強ク私ノ心ヲ打ツタノデアリマス。ソノ時老子爵ハ国家デモ相応予算ヲトツテ此ノ事業ヲヤツテ貰ヒ度イガ、然シ我々国民トシテモ決シテ当局ノミニ任シテ置カナイ、必ズ国民ノ総意ヲ合セタ一ツノ大キナ機関ヲ設ケテ、ソノ事業ノ促進ヲ計ル覚悟デアルカラ、夫モ是非援助シテ欲シイトノ申出デアリマシタ。
 私自身モ平素ドウカ我国ヲ世界一ノ健康国ト為シ、我ガ国民ガソノ生ヲ楽シム国トシ度イト願ツテ居タ折柄デモアリマスノデ、心カラ子爵ノ言葉ニ共鳴致シマシタ。ソシテ言下ニ
 「政府当局トシテ必ズ何等カ癩ノ対策実行ニ就テ考慮致シマセウ、尚若シ老子爵ニシテ癩予防撲滅ノ国策遂行ヲ促進スル国民的機関ノ設立ニ御尽力下サルナラバ、私ハ喜ンデ御手伝ヒヲスル」
旨御返事申シタノデアリマシタ。ソノ後モ私ハ子爵ニハ此ノ問題ニ就テ打合セノ必要ガアル場合ニハ、何ンナニ忙シクテモ必ズ繰リ合セテオ目ニカヽル機会ヲ作リマセウ、又コチラカラ出向イテモ差支ヘアリマセント申シ上ゲタノデアリマシタ。老子爵ハ非常ニ勢ヒコマレテ着着御計画ヲ進メラレタノデアリマシタガ、折悪シク不景気襲来ノタメ暫ク此事ハ行悩ムデヰタノデアリマシタ。
 然ルニ昨年ノ夏私ハ宮内大臣カラ、畏クモ皇太后陛下ニ於カセラレマシテハ、老子爵ノ此ノ計画ヲ聞コシ召サレテ、御奨励ノタメ特別ニ御手許金ヲ御下賜下サルト言フ御内意ヲ受ケマシタノデ、取敢エズ老子爵ヲオ訪ネシテ、ソノ畏キ御思召ヲ御伝ヘ申シタトコロ、非常ニ感激セラレテ、其ノ後間モナク予テノ計画ヲ進メル決心ヲセラレ、私モオ約束ニ従ヒマシテソノ実行ニ就テ及バズナガラ尽力ヲ致スコトニナツタノデアリマス。
 ソレカラ一ト通リ各方面ヘノ了解モ進ミ賛成モ得マシタノデ、愈々今年ノ正月コノ国民的総意ニナル癩予防協会ノ発会式ヲ内務大臣官邸ニ挙ゲマシタ。ソノ際ハ随分寒イ折デアツタニモ拘ハラズ、老子爵ハ態々老躯ヲ運ンデ其処ニ出席セラレタノデアリマシタ。当時親シクソノ温容ニ接シ、ソノ熱意ヲコメラレタ御挨拶ヲ伺ツタ来会者ノ胸ニハ如何ニ深イ印象ヲ刻ンダコトデアツタラウト感ジタコトデアリマシタ従テコンナ時節デアルニ拘ラズ、全国ニ於ケル募金モ段々集マリ、ソノ事業モ着々ト緒ニツイタ今日、アンナニ熱心デアツタ老子爵ニモ早ヤ此ノ世ニ相見エテ御報告スルコトノ出来ナイト言フコトハ返ス返スモ遺憾デアリマス。
 然シ子爵ノ霊ガ喜ンデ之ヲウケ、更ニ今後ソノ事業ノ発展ヲ見護ツテ下サル事ヲ思ヒマスルト、誠ニ心強ク感ズルノデアリマス。
 尚ホ同ジク国民衛生ニ関スル問題デアリマスガ、老子爵ハ予ネテ結
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核予防協会ノ会頭ヲシテ居ラレマシタ関係上、結核ノコトモ平素考ヘテ居ラレタヨウデアリマシタ。
 結核ハ数カラ言ヘバ癩以上デアリマスルシ、又実際国民保健ノ上カラ見テ一日モ早ク何トカセネバナラヌ問題デアリマス。
 従ツテアノ絶エズ国ヲ思ヒ人ノ為ヲ考ヘラレタ老子爵ガ、之ヲ心ニ懸ケラレナイ筈ハナイノデアリマス。果セル哉、遠イ慮アル老子爵ハ癩ノ問題ガ或程度マデ捗ツタラ、今度ハ是非結核ノ対策ヲスヽメ度イソノ為ニハ先ヅ結核ニ就テノ権威者デアリ且ツ結核予防協会ノ理事長デモアル北里博士ト逢ツテ懇談シヨウト言フ意向ヲ洩シテ居ラレタ由デアリマス。北里博士モ子爵ノ斯ウシタ御意向ヲ伝ヘ聞イテ非常ニ喜バレ、一日モ早ク親シク会見シテ、何等カ適当ナ方途ヲ講ジ度イト期待シテ居ラレタソウデアルガ、未ダソノ機会ヲ作ルトコロマデ行カヌ中ニ、図ラズモソノ北里博士先ヅ不慮ノ病ニ罹ラレテ遽ニ逝去セラレ次デ子爵マタ永ヘノ眠ニツカレタ事ハ誠ニ惜シミテモ余リアルトコロデアリマス。夫丈ニ残ツタモノヽ責務ハ一層重大デアルノデ、私共トシテハ此問題ニ就テ故人ノ霊ノ前ニ一層深ク考ヘ、大ニ努力シナケレバナラヌコトヲ痛感シテ居ルノデアリマス。
 尚昨年ノ暮ノ或ル寒イ日デアツタ、私ハ突然渋沢子爵カラ面会シタイトノ電話ヲウケマシタ。寒イ折デモアルシ、殊ニ引籠ツテ居ラレルコトヽ承知シテ居ツタノデ、御用ガアレバ私ノ方カラ伺ヒマセウト申シタトコロガ、「イヤ私ノ方カラ頼ム用事デアルカラ此方カラ伺ヒマス」ト言フコトデアツタ。
 私ハ今更ノヨウニソノ礼譲ニ厚イ老子爵ノ上ヲ思フテ御待チシテヰルト、間モナク訪ネテ来ラレマシタ。キチント羽織・袴ヲツケテ居ラレマスケレドモ、オ髭モ生エタマヽデ、病中ヲ無理ニ押シテ来ラレタ痛々シイオ姿デアツタノデアリマス。
 扨テ老子爵ハ、今日全国ノ方面委員ノ代表者ガ訪ネテ来ラレテ、目下全国二万ノ方面委員ガ世話シテヰル無告ノ窮民ガ約二十万近クアツテ、ソノ人達ガ甚シイ窮乏ニ陥ツテ居ル、之ヲ救フタメニ已ニ制定サレタ救護法ガアルノデアルカラ、是非ソレヲ実施シテ貰ヒ度イト、一生懸命当局ヘ御願ヒシテヰルノデアルガ、財政窮乏ノ折柄中々六ケ敷イ様デアル、ト言ツテ此ノ人達ヲ餓死セシムルコトハ誠ニ偲ビナイコトデアルカラ、私ニモ是非加勢ヲセヨトノ懇望デアツタ、勿論私モ直接多少社会事業ニ関係シテ居ルノデ、夫ハ方面委員諸君ニ頼マレル迄モナク、私ノ責任デモアルト申シテ御引受ヲシマシタノデ、引籠中コンナムサクルシイ風ヲ致シテ居リマスガ、敢テ直グコチラヘ罷リ出タ次第デアル、何ウカ当局大臣トシテ此ノ弐拾万ノ同胞ヲ飢餓カラ救フタメニ、是非救護法ノ実施ニ尽力サレタイ、ト熱誠ヲコメテ申サレマシタ。私ハ思ハズ頭ヲ下ゲマシタ。実際アノ老躯デ此ノ寒中病ヲ押シテ同胞ヲ救フタメニ、我ガ苦痛ヲ忘レ態々訪ネテ来ラレタソノ至誠、ソノ熱情ヲ思フト、心底敬意ヲ表サズニハ居ラレナカツタノデアリマス。ソノ救護法モ老子爵始メ方面委員諸君ノ願ヒガ叶ツテ、愈々之ヲ実施サレル運ビトナツテ、其ノ日モ来月ニ迫ツテ居ル今日、私ハソノ当時ヲ思ヒ出シテ感慨無量デアリマス。
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 今ヤ内外多事、国歩艱難ナル時、斯クノ如ク真ニ国家ヲ思ヒ、同胞ヲ念トシ、至誠ヲ以テソノ生涯ヲ一貫セラレタ偉大ナル人格者ヲ失ツタコトハ、誠ニ我帝国ノ一大損失デアツテ、今更ニ痛惜ノ念ニ堪エナイノデアリマス。夫丈私ドモト致シテハ、斯ル機会ニ深ク此ノ偉人ヲ追憶シ、ソノ輝ケル人格ニ触レテ霊感ヲウケ、其ノ真ノ精神ヲ会得シテ、ソノ遺サレタル徳業ノ完成ニ努メ度イモノデアリマス。

 和服姿で床次竹二郎氏が原稿片手に壇上に進み、公衆に呼びかける如く語り出し出した。
    講演
                      床次竹二郎
 私も渋沢子爵を敬慕することの厚い一人でありまして、さながら父の如く思つて居ります。あの温和なる容貌に対しては自然に敬慕の情が起るのでありますが、又人間として死ぬまで仕事をして居られた尊さを考へますと、出来るならば私もその真似がして見たいと思ひます扨て私は協調会の事業と子爵のことを申上げたいと思ひます。
 協調会は大正八年十二月二十二日創立されたのであるが、玆に創立当時のことを回想するに、協調会の生れたことは、畢竟その時代が之を孕んだもので、その産婆役を務めたものが故子爵で、亦たこれを哺育成長せしめ、今日あらしめたのが、故渋沢子爵その人であります。同時に故和田豊治氏も渋沢子爵を扶けて本会の創設、事業の遂行に多大なる力を尽されたことも想ひ起されます。
 当時は未だ一般に社会問題に関する理解が薄く、社会事業といへば慈恵救済事業であつて、専ら恤救規則、罹災救助基金法、軍人家族救護法其他の救済法規によつて運用されてゐたのである。これらの実務に当る部局も始めは内務省に於いて府県課内の一係が主管する事項に過ぎなかつた。それが大正六年八月初めて救護課と云ふ一課が新設され、翌七年六月には救済事業の調査機関として救済事業調査会(後の社会事業調査会)の設置を見たのでありました。
 この頃は我国に於ても欧洲大戦によつて経済上にも社会上にも急激な変動が起り、社会的施設は時勢の進運と相俟つて一層その必要を感ぜしむるに至り、所管事項の拡張増大せること、並びに旧来の慈恵救済の観念は被救恤者の人格尊重の上からも適当でないと云ふことが唱へられて、其の名称も改められ、意義も拡大せられて、今日の所謂社会事業として取扱はれるやうになり、大正八年十一月には救護課は社会課と改称せられたが、更に大正九年八月には内務省に社会局が設置されて社会事業行政の中央機関となつた。これは恰も私の内務大臣就任中のことであるが、当時私が地方長官に対する訓示中に「社会政策」と云ふ言葉を使用せんとしたが、これは穏当でないと云ふ大部分の意見で「社会の協調偕和」と改めたやうなこともあつた。これなども当時の時代思潮の一端を偲ばしめる思ひ出であります。
 而して世界大戦の末期から全世界の産業界に捲き起つた所謂産業不安の時代に際会して、本邦に於ても労働争議は激増し、殊に阪神地方に於ては未曾有の大争議が起り、その争議に際して労働運動者乃至社
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会主義者の資本家攻撃の運動は、宣伝ビラの撒布に、演説会の開催に熾烈を極め、階級闘争の思想が猛然として擡頭風靡せるかの感がありました。
 これは我国が明治維新の変革を経て手工業時代から工場工業時代に躍進し、漸く産業が大組織となつた結果、資本家と労働者との関係は単に昔の主人奉公人の温情主義では成り立たなくなつて、新たな道徳規準が要求せられるに至つた為であり、玆に我が日本は欧米流の社会道徳を以て進むべきか、将又東洋に於ては東洋一流の方法で進むべきかの追分時代に際会したのであります。
 凡そ産業の進歩発達は、労働資本の対立により階級闘争の下に於て期し得らるゝや否や。労働は神聖なものであつて、資本に相対して考へる場合に、相互の闘争によるに非ずして、相互の協調提携こそ産業を進歩発達せしむる所以でなければならぬ。この点については故渋沢子爵も全然同一の意見であり、当時に於ては、まづかゝる問題を決定して対策を樹立せねばならぬ時機に臨んでゐました。
 而してまた他の方面では、この際労働組合法を制定することが何よりも先に講ぜられねばならぬと云ふ議論もあつたのであります。
 吾々はかゝる中にあつて労資協調の主義を唱へて、先づ根本的にここから旗を押したてゝ進むことが、我国将来の産業発展のために必要欠くべからざることゝ決心したのであつた。之を例へば、家屋に於ても天井あり、柱・敷居・床板あり、各々独立した別個のものであるが然し相寄り相扶けて家を造つてゐるのであつて、宇宙の森羅万象皆独立した存在であるけれども、之が互に相協調してこの世界を形成してゐるのではないか、対立しては労働資本別個のものなりといへども、之を国家の産業といふ点より観るときは、一にして不二なるものであるのだ。故に之が西洋流の闘争によつては、一つの組織である産業の発達は期し得られない、嘗つては自由競争の個人主義が産業発達の原則であると考へられたこともあるが、最早今日の産業の進歩発達は、各方面の相互の協調によるに非ざれば絶対に期し得られないのであります。
 この根本原則を以て考へ出された一の考案が現在の労働委員会制度であつて、政府筋の事業に於ては大正八年設立せられた国有鉄道現業委員会がその嚆矢である。この国有鉄道現業委員会は当時鉄道従業員約十二万人に対して設けられたのであつて、その創設の際には、他の諸官業に対してもこの委員会制度の設置を勧奨したのであつたが、その際には、かゝる制度を設けることに賛成せるものは一もなく、唯僅かに鉄道のみに之を実行することには反対しないと云ふに止まつた位であつた。また以て当時の官界の思想の一班を察知するに足りよう。然しながら今日この労働委員会制度は最も重要なる産業平和の維持促進の方策として、我国産業界に於て普ねく活用されてゐることは玆に改めて述べる迄もありません。
 かゝる間に於て大正七年十二月、前に述べた救済事業調査会に於ては、資本家労働者の協同調和を図るため適切な民間の機関を設置することに関し、政府に於て調査を遂ぐべきである旨を掲げた答申を為し
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政府に於てもこの種の機関の設立が緊切の必要であることを認めて、貴族院議長徳川家達公爵・枢密院副議長清浦奎吾子爵・衆議院議長大岡育造氏、並びに渋沢子爵等の熱心な活動によつて、協調会の設立が発起せられたのであるが、当時に於ては一般に協調会の如き機関の設立に対して理解少く、諸方面に於て反対の意見も尠からず起つてゐました。
 当時私は某社会事業家と協調会の設立に関して、次の如き問答をしたことを記憶して居ります。
 某氏は『協調会如きものを設立しても、それでは今日の労働問題は解決し得るものではない。それよりは先づ労働組合法を制定すべきである』と主張した。之に対して私は『労働問題に処するに、闘争によるに非ず、労資の提携協調、共存共栄の主義を以て臨むことが道理の上に於て間違つてゐるや否や』と訊した。某氏は『道理はそれに相違ないが、実際に於てそれは出来るものではない』と答へたので、私は『君は道徳家ではないか、実際に於てむづかしいことであるから成し遂げなくても好いといふ道徳家があるか、実際にむづかしくても、道理に叶つたよいことを進んで行はずして真の道徳が何処にあるか』と云つたこともあつた位で、学者の間にもあまり評判は好くなかつたが僅かに松岡均平・桑田熊蔵・故戸田海市等の諸氏の支持を得、更らに気賀勘重・神戸正雄・塩沢昌貞・河津暹氏等の共鳴尽力を得たのであります。
 かゝる中にあつて渋沢子爵は、卓見洞察の明を以て率先実業家の間を説得諒解に多大の労を払はれ、約一箇年以上の日子を準備に費して漸く協調会の成立を見るに至りました。
 さて会の名称を如何にするかといふことになつても種々の説が持出されたが、故子爵の選択によりて労資の協同調和と云ふ趣旨を表現するため協調会といふことになつたのであります。
 かくて大正八年八月二日発起人会を催したのであるが、徳川公爵を座長とし、渋沢子爵が自ら設立の趣意について所懐を熱心に述べられたのであつた。子爵はその際、社会の変化と協調の必要について力説され「夕に死すとも朝に道を聞いて務と致さなければならぬことゝ考へます処から、自ら奮つて所謂斃れて已むの所存を以て此会を組織したいとて企てた所以である」と云はれた。
 幸ひにしてこの発起人会は列席者の満腔の賛意を得、本会の基金応募も良好の成績を以て実収総額五百五十余万円の巨額に達し、政府も亦二百万円を本会の事業に補助せらるゝに至りました。
 これらの基金の管理については、渋沢子爵の用意深き監督の下に、現在に於ては五百万円を以て基本積立金とし、残余を特別積立金とし原則として年々の事業を基本積立金の利子によつて支弁することゝなつてゐる。
 もともと本会はその宣言書にも云つてゐる通り『社会に於ける各階級特に労資両者が平等なる人格の基礎の上に立つて、自他の正当なる権利を尊重すると共に、社会の秩序の為に公正合理なる自制互譲を為し、以て相共に力を協せ、産業の発展、文化の進歩、国家社会の安寧
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福祉を最も有効に促進すべきことを主張する』協調主義に立ち、『階級闘争を否認すると同時に、階級の調和融合を図らんとする』が故に『一方に於て資本家の謙抑自省を促すと共に、他方に於て労働者の地位向上、福利の増進を図る』ことを其の最も重要な任務と致します。
 故にその設立についても、一方に偏することを避け、大体に於て所謂円卓会議の方法によつて事業を遂行してゆく心組みを以て、役員の選択に於ても労資双方学者官吏等各方面の人士を網羅する予定で、渋沢子爵も当時最大の労働団体であつた友愛会の会長鈴木文治氏などの参加を勧説せられたのであつたが、労働者側の人々は協調会を目して資本家側の機関なりとして之を拒んだのであります。
 然しながら其後に於ける協調会の飽く迄も中立不偏の態度は、漸く労働者側の人々の誤解を氷解せしむるに至り、近年は協調会館は常に労働組合大会の会場として専ら利用さるゝのみか、諸調査研究に本会を頼るもの多く、反つて本会が労働側化したと云ふ疑念を抱く人も現はるゝに至りました。
 また本会は元より其の性質上、前述の如く政党政派にも超越して存在せねばならぬのであるから、この点には充分の注意を以つて、当時の政党首領の加藤高明伯爵・犬養毅氏・大隈重信侯爵・後藤新平伯爵等も特に本会の顧問に就任せられたのである。然るに本会設立後今日迄世人は動もすれば、本会の役員が或は政友会に偏し、或は民政党に偏すると疑ひ、屡々非難攻撃を蒙つたのであるが、この間に処して渋沢子爵は、円満なる徳望を以てよく会の事業を育成し、その趣旨を諒解せしむることに力を致されたので、漸次かゝる疑念は消滅し去りました。
 斯くて協調会は本邦に於て民間に於ける唯一の労資問題に寄与する一大機関として、着々事業を遂行しつゝあるのである。欧米諸国に於ても戦後の産業不安時代に於ける大争議の頻発、革命的空気の瀰満に脅かされて以来、産業界の安定の真の方法は労資の協調に外ならぬことが漸く一般の空気を支配するに至り、労働争議の際に於てもストライキ又は工場閉鎖開始前に、まづ労資双方が与ふ限りの方法を以て交渉商議を遂ぐるの方法に出で、唯争ふことのみが双方の利益を進める所以でなく、産業の発達進展は双方の完全なる理解の下にのみ図り得るので、之が結局相互の利益である、といふことが強調されるに至り現に北米合衆国に於てもN・I・C・Bの如き有力な協調機関も設立されてゐるのであつて、この点から見れば我国産業界に於ては、早くも欧米のそれに先んじて協調主義を樹立した訳であつて、大いに快とするに足ることであると思ひます。
 この機会に於て本会の現状を一瞥しませう。
 先づ本会の資産状態を見るに、寄附金実収総額五百五十万六千三百円、之に加ふるに政府の補助金二百万円あり、現在の資産は有価証券五百十一万八千円、預金十八万二千九百十八円、土地家屋百二万七千六百十円、合計六百三十三万八千五百二十八円、これが本年三月末現在の状態であります。
 次に本会の行ひつゝある事業を見るに、社会政策に関する諸般の調
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査研究を骨子となし、之が実行を図り以て事業主と労働者との協同調和の促進に努力することを目標としてゐるので、その事業は調査研究主義の宣伝普及教育、争議調停、其他労資の諮問相談に応ずる等極めて多岐に分れてゐる。今その主なるものを挙げると、第一に調査研究の方面に於ては内外の産業関係・社会運動・労働運働・労働事情・労働争議・農村問題・小作争議、其他諸般の社会制度施設等夫々の分課に於て組織的に分担して調査研究を為し、其の結果は随時之を機関誌「社会政策時報」その他の刊行物によつて社会に提供してゐます。
 社会政策時報は大正九年九月創刊以来、常に中正なる立場に立脚して資料の紹介及び問題の批評を行つて来たので、現在に於ては発行部数毎月五千部に達してゐる。又本会の刊行図書も既に百余種の多きに達し、社会政策並びに協調主義の普及に努力してゐる。就中創立十週年を期して刊行したる「最近の社会運動」の如きは社会に貢献する所尠くなかつたと考へます。
 尚調査研究に関しては絶えず内外の機関と密接な連絡を取り、外国の労資団体のみにてもその刊行物の交換送附を受けるもの百二十団体の多数に上つてゐる。現在外国の定期的刊行物にして寄贈を受くるもの並に購入するものを合算すれば毎月約二百七十種であります。
第二には、社会政策の普及、協調主義の宣伝等教化的方面の事業であるが、これが為めに本会はその創立以来社会政策学院・工業専修学校労働学院等の学校の経営、図書館の開設、其他講習会・講演会等を全国の各重要産業地区に開催して間断なき努力を為して来ました。
 社会政策学院の如きは、大正九年四月開設以来本年七月迄に二十七回、その修了者二千九十三人に及び、これらの人々は社会政策並びに社会問題に関する優秀なる知識を具備して、現に社会の各方面に活動してゐる次第であります。
 また東京工業専修学校に於ては創立以来修了生合計一万三百余名を出して、工業技術者の中堅を為しつゝあり、更に本会が年々各主要産業地並びに主要工場鉱山等に於て開催する短期社会政策講習会・工場鉱山職長講習会・労務者講習会等の講習を受けたる人員は累計約四万人に上り、其他各地への講習のための講師派遣の如きも毎年数十回に及び、多い年は八十一回にも達してゐます。
 尚図書館について云へば、現在蔵書約三万、すべて社会政策の研究に資するを目標として蒐集せられたるものであり、多数斯道の学徒に貢献して居ります。
 第三には、労働争議・小作争議の調停に関する事業であるが、元来協調会はこれら争議の調停を中心目的として設立された機関ではないのであつて、寧ろ之を未然に防止する意味に於て、諸般の解決方策を講ずることを主眼としてゐるのであるが、争議当事者の依頼を受け之が調停解決の労を執つたものも極めて多数に上り、その中には住友別子鉱業所(大正十四年)、共同印刷(大正十五年)、日本楽器(大正十五年)、大日本紡績橋場工場(昭和二年)、野田醤油(昭和二年)、柏原紡績(昭和五年)、星製薬(昭和五年)、日本ゼネラル・モータース(昭和六年)等社会を震撼した大争議もあり、其他小工場等に於け
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る争議の調停、争議を未然に防いだもの、或は又斡旋の労を執り、又は相談相手となつた争議等を合算すれば三百件を超過してゐる状態であります。
 いまや如斯協調会の事業は一般に理解され、理事其他の職員は調査に講演に労資問題の協議に殆んど間断なく忙殺されてゐる有様であります。
 以上述べたる如く本会は苟しくも社会問題に関しては、政府に於ける社会局と相並んで民間に於ける最も重要有力なる大機関であり、之を国際的に見るも、本邦に於ける社会事情・労働事情に関しては常に本会の調査回答を俟つものでありまして、本会も亦常に本邦の労働界情勢を海外労資団体其他に報道し、緊密な連絡を採りつゝあるのであります。
 創立以来十二年の歳月を経て基礎全く定まり、上述の如き状態に到達し、今後愈々協調会の効果を上げんとするの時期に至つたのでありますが、この現在の活動振りを見るに当つて、渋沢子爵の永年の献身的な丹精努力が偲ばれて、心から感謝を禁じ得ないのであります。たしかこれも、大正八年八月本会設立発起人会の席上であつたと思ひます。子爵は立つて「私は最早甚だ老齢ではありますが、この事業については全く若い者の心になつて実務に従ふ所存であるから、年寄だから何も出来まいと云ふやうな御軽侮を下されずに、十分信任せられたい」と云ふ意味のことを繰返して云はれたことを記憶して居ります、子爵はその後全くこの言葉通り実行せられたのでありました、唯今私は協調会の事業の成果を追憶することに於て子爵の徳を偲び、改めて深く感謝する次第であります。

 次に東京市長永田秀次郎氏が、いと朗らかに悠つくりした態度で語り始められる。
    講演
                      永田秀次郎
 厳粛な追悼会を終つた後でありますから、私は肩のこらぬお話を致します、尤も渋沢子爵にお目にかゝつて居ると、少しも肩がこらぬ、誠に好いおじいさんでありましたから、此の写真の前でお話をするにも窮屈でない方が、渋沢さんのお話らしいのであります。私は幼い時「男子七人の敵あり」などゝ教へられ、外へ出ると沢山な敵があるから要心せねばならぬと云はれましたが、渋沢さんを見ると一人の敵もない「仁者に敵なし」と申すこともあるから、孟子は数千年の前に、早くも渋沢さんのために此の句を作つて置いたものでありませう。真に子爵は春風駘蕩、会つて居ると此方がよい気持になります。安達さんは子爵が病気であるのに、頼むのだからとて出かけて見へたと云はれました、私はこれで東京市長を二度務めますから度々お目にかゝりましたが、その度誠に御叮寧で此方が恐縮する程で気持よく市長を尊敬して下さる、これで見ても市長を尊敬せぬと長生は出来ません。
 扨て渋沢子爵は市の参与として養育院長を五十七年も務められました、よく考へて見ると、私がまだ生れない前から養育院を世話して居
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られた。何んでもないやうに口では五十年・六十年と申しますけれどよく胸に手を当てゝ考へて見ると、驚くべき事実であります。そして此の爺さんは頗る進歩的な頭脳を持つて居まして、弱い子供を房州の船形へ療養所を設けて転地させるとか、不良ぢみて居る者を感化するために特別の施設をするとか、又癩の予防であるとか、進歩的なことを順々に考へて、それを一つ一つ養育院で実行して来たのでありますその間五十七年、考へては実行しました。更に毎月十三日には必ず養育院へ行かれる、そして子供達に菓子をやつたりして、色々の為めになる話をして聞かせる、何故十三日と日を限つて養育院へ行くのかと云ふと、それは十三日が子爵の崇拝して居る松平楽翁公の命日だからであります。然らば楽翁公と養育院とどう云ふ関係があるのかと申しますと、さきに清浦伯爵がお話になつたやうに、楽翁公が遺された七分金と云うもので初め養育院が出来たと云ふのでありまして、子爵はこの命日十三日を養育院の記念日とされて居たのであります、これは些細なことのやうでありますが、その事が総ての感化を与へる教育の行為となるのであります。また白河に南湖神社と云ふ楽翁公を祀つた神社が出来て居ります、これはまた子爵の御配慮によつて出来たものであり、更に公の正伝を遺すべく、三上博士に委嘱されてその完成を見るばかりになつて居ました。斯様に子爵は大変楽翁公を崇敬して居られましたが、思ふに子爵と楽翁公とはよく似て居たのでありませうたぶん渋沢子爵を苦味走つた人にしたのが楽翁公でありませう。まるで公の魂が子爵に乗り移つて居ります。
 また子爵は一面教育家でない教育者でありました、例へば十三日に養育院へ行かれて、子供に話される事柄を二・三御参考に申上げて見ますならば、先づこれは昭和二年十一月十三日八十九歳の時のことですが、子供達に向つて斯う云はれた。
  私は来年九十になる、八十九から一つ年を取る、お前方も正月が来ると一つづゝ年を取る、処が私は九十だから九十分の一だけ年を取るのだ、然るに諸君は十五の人は十五分の一、十の人は十分の一取るのだから、まるで年を取る率がちごう、だから私よりももつともつと沢山君方は勉強せねばならぬ。
 この話を聞いて私は、西洋の諺に、若い時の年月は金、中年は銀、老ひては鉛と云ふのを思ひ出した、そして成る程、子爵は算盤の人であると面白く感じました、斯う云ふ話を聞くと、子供達も忘れられません、別に皆さんを子供扱ひにする訳ではなく、また十分の一、十五分の一の歳を加へる人は此処には居られず、皆三十分の一か、四十分の一か、五十分の一位でありませう、しかし九十分の一の人も居られないであらう、其処で子爵の御肖像の前で、我々にも時を惜んで勉強し御希望に添ひます、と申し上げませう、これは時は金なりの実話であります。
 また何時かは大阪夏の陣の話をされて、紀州の殿様の御先祖頼宣公が十四歳の時であつた。出陣はしたが後の方に置かれて手柄を為すべき機会がないので不平であつた、従つて侍者が「貴方はまだお若いのですから、此際御手柄を立てなくてもまた何時でも機会があります」
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と慰め顔に申した処、頼宣公は「年は十四だ、しかし十四が二度あるか」と答へられた、などゝ所謂「成年再び来らず」の諭へを話されたのであります。更に智慧が働くよりも誠実が物の根本だと云ふことに就て、御自分が維新前徳川民部公子に従つて仏蘭西へ赴いた時、帰つて来てから、その費用の全部を明細に書いて余つた金を返した、その時分誰でも不足すると云ひ出すが、余ると云はぬと云ふのが通例であつたのに、精密な計算書をつけて上役に出したから、大変此の上役が感心して、当時直ちに静岡藩の勘定組頭に取立てられた、これが自分の出世の緒であつた、と云ふやうな話をされるのだから、誰にでも忘れられぬ、実にそうした実際的な教育者であつたのであります。
 色々な会場などでの御挨拶を度々聞きましたが、その頭の働くことは驚くばかりで、実際スマートな頭の持主でした、而もその席上で起つたことを巧みに取つて挨拶をされる、それで少しも人に嫌な気持を与へない、それも誠実が外へ現はれて少しもよどむ処がなかつたためであります。
 此の御写真に対しても、皆さんは少しも窮屈には感ぜられないでせう、まるで春風に吹かれて居るやうで、夏の風でも秋の風でも、まして冬の風でもありません、従つて子爵に向つて居ると何んでも協調するやうな気分になる、だから何か起ると御骨折を願ふべく、この爺さんの処へ奔せつけて解決を御願ひして居たのであります。子爵の外には爺さんと云つてお願ひに行くやうな心持の人がありません、そのことを追悼会に臨んで遺憾千万に存じます。

 次に荘重そのまゝの鎌田栄吉氏が講演を初められる。
    講演
                      鎌田栄吉
 私は簡単にお話申します、渋沢子爵の薨去になりましたことは誠に哀悼に堪へませぬ。私思ひ出しますれば、子爵が七十七歳にて実業界を隠退され、社会事業や教育事業に従事しやうとされました時、交詢社へ御招きしたことがありました、その時私は「子爵は明治の天海僧正であると思ふ、その徳望、その智慧、その年齢何れも似て居られる天海僧正は百六歳まで長寿されたから、子爵もそれまでの寿を保たれるであらう」と申しました。すると子爵は「鎌田君は私を百六歳位の寿命しかない短命の人間と思ふか」と云はれました、勿論此御言葉は一種の諧謔でありませうが、また実に子爵は百六歳はおろ二百歳までも生きられやうと考へて居られたのであつて、九十二歳は短かつたと御感じになつて居られると思ひます。
 子爵は実業家であつたが、利を営むことのみを以て終始せられず、常に国家のため国民啓発のために尽されたのでありまして、銀行の如きは子爵があつて初めて出来たものであります、従つて私は曾て銀行とは何処から名づけられましたかと御たづねしたことがありました、すると支那では商売をする店を行と云ふ、処で両替屋とか両替店と云ふのでは意味をつくさぬし、それかと云つて従来の座とも云へず、金を扱ふ店だから、金行としやうとも云つたが、金行では感心せぬので
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銀行にしたのださうであります。
 新日本の生れる前までは一般に儒教に依る教育で、それは利を卑み義を尊ぶことが極端で、勢ひ実業とか商業経済は卑しいことだと云はれて居ました、然るに子爵は国を開いて欧米諸国と競争して行くにはそれでは不可であるとして、終生論語を座右から離されないで、よく利と義とを共に発達せしめねばならぬとされ、経済道徳の結びつきを唱導された、実際この利を卑み義のみを尊ぶ思想は、寧ろ儒教の堕落でありまして、孟子時代になつて特にその説を云ふやうになつたが、儒教の本旨は其処にない、たゞ利に走り過ぎて仁を忘れてはいけない「仁ならんとすれば富まず、富まんとすれば仁ならず」などゝ云ふのは間違つて居る、経済と道徳とは両立するものだ、と云ふことを強く主張されて、全生涯を貫徹したのが渋沢子爵であります。またそれが日本の国家を発展せしめたことは非常なもので、国際聯盟に於ける最近の状勢を見ても、維新当時の日本と思ひ合せて、その地位に雲泥の相異があるを感じませう、これ一つに経済の発展が子爵の御啓発に依つたことと、経済を道徳と結びつけて、文明を一方のみでなく、物質精神両方面から開発され、八方尽力された賜でありました。
 又子爵は実業界に下られる前には、大蔵省にあつて国家財政の為めに働かれたが、当時の役人の話によると、渋沢さんは決して印を曲つて押されたことがないさうである、当時の高官連中は、何れも維新の大業を為さしめた豪傑のみであるから、不軌磊落をよしとして、印などどちらへ曲つて居ても平気であつた、その中に渋沢さんのみは真直ぐに押された、さらに私は渋沢さんの手紙を色々見て敬服した、その中でも陸奥伯の処へ出されたものには感じ入つた、陸奥伯は沢山偉人の手紙を持つて居られたが、多く維新当時の人々のものは大きな字が立派に書いてあるのに、渋沢さんのは細字で立派に書いてある、それは伊太利の生糸のことが論ぜられてあるもので、その事柄と云ひ、論法と云ひ、文字と云ひ、豪傑流の時代には珍らしい叮寧な手紙でありました。斯くの如くでありますから、福沢先生なども、実業家の地位の低いのを歎息せられ、「商工業の品位を上げて新文明を作るべきものである、日本の商人は利にのみ走る素町人魂生ではいかん」と云はれたが、たゞ「渋沢は偉い、あの人は両刀使ひで、文武を兼備して居る」と私共に申して居られましたが、実に種々と後進の誘導、社会道義の確立のために尽された言行一致こそは、それが論語を活用した処にあるので、かゝる人は他にはないのであります。その年齢も天海僧正の百六歳以上、二百歳までも保つて居ていただきたかつたが、これも人間の命数で致し方のないことであります、しかし九十二歳の高齢で、光風清月一点の曇りもなく、又一視同仁人を見れば友であつたのであります、或はそれが長寿の基礎であつたかとも思ひます。
○下略


国際知識 第一二巻第二号・第一四―二一頁 昭和七年二月 渋沢翁と国際平和 本協会理事法学博士農学博士新渡戸稲造(DK570357k-0002)
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国際知識  第一二巻第二号・第一四―二一頁 昭和七年二月
    渋沢翁と国際平和
               本協会理事法学博士農学博士新渡戸稲造
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  (編輯者曰く、本文は東京市・協調会・中央社会事業協会、及び吾が国際聯盟協会の四団体の共同主催にて、昭和六年十二月十二日、東京市政調査会館に開催の故渋沢子爵追悼講演会に於て、吾が協会側を代表して、新渡戸博士の講演せられたるものゝ速記である。)
 昨日の新聞で見れば御承知の通り巴里で開かれて居つた国際聯盟の理事会も首尾よく済みました。首尾よくと云ふのは我帝国の為めに首尾よく済んだのである。此国際聯盟と云ふものは今更説明する必要もございますまいが、五十五ケ国の即ち国家の組合である。然るに言はば此組合員は国の政府である。動もすると民間には国際聯盟の活動がよく分らない。又政府の国際聯盟に対する態度も必らずしも明かでない。此恨みを除かんが為めに、各国で有志が計つて国際聯盟協会と云ふものを設けて居ます。英吉利のやうにデモクラシーの盛んな国では国際聯盟協会と云ふものに七十万人以上の会員が這入つて居る。恐らく民間の随意の会合としては日本にある赤十字社と同じやうに、こんな盛んな英吉利の会は外の国にも例が少いと言はれて居る。日本に於ても所謂民間会合の機関とでも申しますか、同じ目的を以て国際聯盟協会と云ふものを立つて居ります。それは先刻御演説の中にもありました通り、渋沢子爵が其創立者であられ、最後迄其協会の為めには御尽力下すつた訳でございます。今日私が此席を涜す其理由は此国際聯盟協会を代表してのことであつて、渋沢子爵は聯盟協会の会長を創立以来ずつと続けて勤めて居られたのでございます。さうして副会長には阪谷男爵が居られるのでありますが、阪谷男爵は近頃御身体が余り御自由でない。縦し御身体に異状がなくても、御親戚の関係上此席に御出になつても御講演をなさることは多分御遠慮になることだらうと推量致しまして、不束なる私が国際聯盟協会を代表して子爵の追悼会の講演をする名誉を荷ふことになつたのでございます。
 先刻から子爵があらゆる方面に活動されて居られたことを承はりました。或は慈善のことに、或は教育に、或は経済に、実業に、皆さん御聴きになつた通りである。然るにどの方面で御活動になつても日本と云ふ国家全体の考へに亘らなかつたことはない。教育に、或は実業に、労働問題に、日本の国と云ふ此自覚、国家観念、日本と云ふ認識が非常に強かつたと云ふことは、先刻来の御演説でも御聴きになつた通り、清浦伯爵の御話の中にも養育院の創立に関したことがありました。其養育院を設立されるに付いても、明治七年の頃外国との交際が段々盛んになつて外国人が日本へ来る、其時に貧困の者が東京のあらゆる方面に出て居ると、国の体面にも係はると云ふことが養育院を設立せられるに付いての一の動機であつたと云ふ御話、独り日本の体面之を重んずることは言ふまでもありませぬ。けれどそればかりに止まらない。日本の国の体面に対しては子爵を刺戟したと云ふことを承りました。又清浦伯の御話の中にも、高い役に就かれて居つたのを辞職されて、当時人が見下げて居つた民間の事業に就かれた、其動機は何処にあつたか、世界の大勢を見て、唯政府ばかりが強くなつたのでは国は保てない、世界の大勢に鑑みてと云ふ一言がございました。此点
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から推しても、如何に子爵の眼光が唯日本のみに捕はれないで、海外に迄行渡つて居つたかと云ふことが察せられるのであります。又近頃癩患者に付いての救済、之は殆んど最後の御務の如く思はれる。非常に御尽力になつたと云ふことを聞いて居りますが、それも国の体面と云ふことがあつたと承つて居ります。又労資協調の事業に付いても又経済上の円満を計ると云ふばかりではない、国の名誉、進んでは国の存在、斯う云ふことを始終心に思はれて居つたから、あの大事業も今日の成功を見ることになつた。殆んど何事に依らず、恐らく養育院の子供達に御話になる其中にも、日本と云ふ国家観念は子爵の脳裏を離れたことはなかつたらうと思ふ。
 此人にして国際聯盟の創立された時に、直ちに民間の有志と計つて此国際聯盟の目的を貫徹させよう、此を助長しようと此事業を企てられたと云ふことは、之は余りに分り切つた御考へのやうに今は思ふのであります。唯玆に面白いことは、渋沢子爵は元より此の如く国際的の聞のあつた人ではない。若い時には非常な攘夷家である、二十幾つの年に故郷を飛出して江戸に出られた時には異人共を追払つてしまへ片端から斬つてしまへと云ふ元気で出京されたのである。此事は私は二度も三度も子爵の御口から直接聴いたことである。お父さん、私を勘当して下さい、之れから異人共を斬棄に行くのだ、各国の公使館に火を放けに行くのだ、そんなことをすると一家に迷惑を来すから勘当して頂きたいと言ふて、お父さんに迫つたと云ふ御話迄も伺つたのである。それはどういふ所から来たかと云ふと、若い時にあの阿片戦争の書物を読まれて、実に英吉利と云ふ国は酷い国だ。然も自分の尊敬して居る孔子の国なる支那を掠め取らんとしてゐる。斯う云ふけしからん野蛮人は日本の国へ入れないと云ふ考が強かつた。之は単り英人に対する敵愾心ばかりではない。一方露西亜人が北海道へ南下する有様を見て、此奴等も英吉利と同様であると云ふやうな考へ、もう外国人といへば必ず国を狙う奴であると云ふ猜疑心と云ふか、或る偏狭なる愛国心に魅せられて居つた。故にペルリが日本へ来た。何でも亜米利加人は英吉利人の親類みたやうなものだ。日本を乗取らうと云ふ目的を以て来たに違ひない。今度亜米利加人が来たらやつてしまへ。或は其後に日本に最初の公使となつて来たハリス、之も片端片付けるに如くはないと云ふどうもゑらい攘夷家であつた。所が或時何でも先刻御話を伺ひましたが、仏蘭西へ徳川公に付いて行かれた時、其途中の船の中の御話を私は承つたのである。それは仏蘭西へ御出になる時のことであつたか、御帰りの時のことだか、そこは私伺ひ損つたが、兎に角船中で田辺と云ふ方と親しみを結ばれた。其田辺と云ふ方は長くハリスに付いて居られた人であつた。そこで船中でどうも亜米利加人といふものは怪しからん。彼等も日本から早晩放逐しなければ国の為めにならぬと云つて激論をされた。所が田辺氏の言ふには、それは君大分考へが違ふだらう。決してそんなものではない。自分も長い間ハリスと云ふ人に付いて居た。護衛をして居つた。朝夕一緒に居つて彼の私的生活も能く知つて居る。公けの席でも即ち徳川の役人と交渉をした其席にも居つて能く知つて居るが、仲々君の思ふやうなものでは
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ない。実に親切なものである。条約をするに付けても斯う云ふ個条は御気の毒だが日本には非常に不利益だ。けれども私の国として外の国と条約をする時には此個条を入れて居る。支那との条約も暹羅との条約もさうである。即ち治外法権を条約に入れる。此の点は消すことは出来ない。此個条を入れなければ私の国の議会と云ふものが承知しない。残念ながら御気の毒ながら之は入れなければならぬ。併し日本の国が進歩するに従つて段々さう云ふことはなくなるだらう。其時分は幕府の役人は国際的の条約などは一向知らない。国際公法と云ふことの意味も分らない。そこで種々様々の奇態な質問を致したさうであります。さうするとそれを懇切に説いた。同じ戦をするのでも唯勝てば宜い。乱暴狼籍をするやうなことは今は許さない。さうですか、戦するに敵さへ殺せば宜いと云ふのではいけませぬか。今はそんなことは許さない。誰が許さない、国際公法と云ふものが許さない。さうか、国際公法、それは一体どんな人だらうと云ふやうな話。尤も其時分に国際公法と云ふ文字はなかつた。一体どんなものだ、成程御国では外国と交際の法を御存知あるまいが、支那では之を漢語に訳したインターナシヨナル・ローと云ふものがある。此の翻訳を支那から取寄せて上げよう。さうしてそれを見たら分るだらう。そこで幕府の役人は其本を上海から取つて貰つて始めて国際公法なるものを知つた。支那では之を万国公法といつて居る。戦の時に規則がある。成程我々は武士道で習つて居る所だ。戦をするにも相当の道がある。それは武士道の教へる所であるが、国際的の戦争にも法があるとは実に面白い。それは啻に戦争の時ばかりではない。平和の時にも国際的の関係を支配する法があると云ふので、実に万国公法と云ふものはゑらいものだ。儒教と云ふものは孔子の立つたものである。仏教と云ふものは釈迦が立つたものだ。国際公法はグロチユースが立つたものだが、儒教と仏教と同じやうに起つたものらしい。それ程国際公法を重んずると云ふ所から、公法と云ふ言葉が日本の高い方の役人の仲間に段々流行つて来た。遂に五ケ条の御誓文の中にも、天地の公道と云ふことのあるのも今のことゝ関係がないことでもない。是程に万国公法と云ふものが世界の平和を維持するに必要なものであると云ふことを、懇々とハリスが田辺氏に説いたことがある。其事を渋沢子爵に一伍一什田辺が伝へたのだ。
 子爵はそれを聴いて始めて西洋人必らずしも野蛮人ではない。ガリガリ亡者ではない。殊にハリスの如きは東洋人の立場から見ても稀に見る紳士であると云ふ考へを深く持たれてからと云ふものは、攘夷思想がガラリと変つて開国進取となり、殊に米国と日本は結ばなければならぬと云ふことが五十年・六十年前から子爵の脳裏に宿つた。其縁故で薨くなられる前迄日米関係に付いては一方ならぬ御心配、又単り日米関係ばかりでなく、国際上の親和に付いては先刻申上ぐる通り国際聯盟協会を立てられて一方ならぬ心配をされて居られたのであります。殊に日米関係に付いては、実業家を大勢連れられて亜米利加へ御出になつたことが二度もある。又ワシントン会議の時には態々自身御出掛になつた。或は東京に御住ゐの時に少し有力な或は有名な人が来
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れば、必らず外の用を棄てゝ御自分の私邸へ招待されたり、或は芝居なり或は紅葉館なり、何処と云ふことなしに外国の来賓を歓待することに努めた。然もそれは外国語が自由に話せる御方ではなかつた。仏蘭西語を少しなされて、英語の如きは微かに分るかと云ふ位である。御自分では御話は出来ないのでどれ程御不自由であつたらうと思ふ、分らない言葉を使ふお客さんが大勢やつて来る。それを歓待するのは容易ではない。我々長く外国に居つた者さへ、西洋人のお客さんに対して十分に歓待は出来ぬ。何だか物足りぬやうに思ふ。然るに外国語を更に解せないと言ふても宜い位、然も年の相当に寄られた御身でありながら、必らず外国人を呼んで之を歓待し、日本の事情を説かれ、又先方の話を聴かれたと云ふ御苦労は、今考へれば実に御察しするに余りある次第である。それでこそ真に日本の国のことを考へ、真に日本を認識されたことゝ思ふ。我々は随分日本国家のことを論じます。けれども子爵の如きは日々の行に一個人の不自由を棄てゝしまつて此の如く接待をされた。如何にも小さいことのやうであるけれども、一個人の御身に取ればどれ程御不自由であつたかと思はざるを得ない。こゝが我々の学ぶべき所であらう。天下国家の事を演説会で饒舌ることは誰でも出来る。愛国的の議論ならば皆さんも相当なさるだらう。私もやつて居る。併し尚ほ日々の行に国際親善を計ると云ふことは、之は余程達した人でなければ出来るものでない。自分の国のことを自分の一身のことのやうに思はれると云ふそれは誠心誠意溢るゝが如き人にあらざれば出来るものではない。私は子爵に最後に御目に掛つたのは此の十月の六日の日でありました。十月の中旬に上海に於て太平洋問題調査会と云ふものが開かれる。十四ケ国から代表が出て会合をする。私は子爵が御病気であると云ふことも知つて居つた。けれども兼々此太平洋問題調査会のことに付いても御心配になつて居られたことを承知して居りましたから、明後日立ちますといつて玄関に名刺を置きにいつたのであります。さうすると取次の人がよく子爵の御心の分つて居る人と見へて、「一寸御待ち下さい、或は御目に掛ることが出来るかも知れませぬ」と言はれる。私は強ひて何も申上げることはございませぬ。今度の会のことは子爵も十分御承知であるから、改めて御話することもございませぬ。帰りましたら御報告に上りますが、今はほんの出立すると云ふ御通知に参つたのでございますと言つたが一寸待つて下さいと言つて奥へ行かれた。私は其儘待つて居つた所が是非遇ひたいから這入れと云ふことであつた。そこで御目に掛ると、私は何も言ふ程のことはない、太平洋問題調査会には種々の問題が出る。今度は満洲問題が必らず出るだらう。さういふ時には十分に日本の立場を弁明してくれと、恰も子供に教へる如く……それは年輩からいへば私は子供に当る位なものである。嘗て或人が私のことを噂をして、新渡戸君はあの老躯を引提げてと言つたところが、新渡戸君を老躯とは何だ。俺は子供みたやうに思つて居るがと言はれたと云ふ話であるが、実際さう云ふ御考へであつたらう。懇々此の会議に於て一方に満洲問題に関することを明かにし、一つは亜米利加人も大勢来る会だから、移民問題に付いて、再び亜米利加人の反省を促すやうにと云
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ふことを、教へるが如く頼むが如く御話になつた。それから私は愈々御暇をして出ようとすると、もう一つあなたに願ひたいことがある。何です。実は彼の支那の洪水の為めに二千万人とか被害者があるさうだ、実に気の毒に思ひます。それで日本から相当の金銭も或は物資も集めて、船を一艘借りて上海迄やつたのですが、排日感情が余りに高いが為に受取らないと云ふことで、見す見す先方迄行きながら其儘持つて帰つて来たのであるが、実に之は遺憾である。政治上の争とか軍事の争ならそれは別として、人間として此の艱める者、苦しめる者に同情を寄せるは至当のことである。政治上の関係を抜きにして、さう云ふ苦んで居る者を助けやうと云ふのであるから、幸ひあなたが上海へ行かれるなら、先達て持つて来たものを又先方で受けて呉れるやうに尽力して呉れぬかと云ふお話であつた。私は承知しましたと御受けをした。翌日それに関係する書類を私の宅まで届けられた。私は其書類を持つて若し出来るならば食料其他のものを被害者の手許に届くやうにと、上海へ行つてからいろいろ尽力して見ましたけれども、其時分には愈々排日思想が盛んであつて、之に耳を傾ける支那人はなかつたのであります。故に子爵が私に最後に委托された事柄は其一部も之を達することが出来ずして、空しく帰つたと云ふことは子爵に対して甚だ済まないやうな気分も致します。然るに上海に居る間数多の米国人に遇つた。其米国人の中にも彼の有名なシヤーレン・バーグと云ふ人が居る。此人は排日法の制定に付ては最も有力な人であつた。所が幸にも此人は一昨年太平洋問題調査会が京都で開かれた時に出席しました。それが日本へ来る時に米国の友人に、お前が日本へ行くと暗殺されるぞと迄言はれた。所が日本へ来て日本の事情を見て、種々の点に亘つて研究をし、あちらこちらの工場なども視察して、自分の考へが引つくりかへつた。掌を返すが如く考へが変つて親日家となつた。帰つてから二年間移民法の改正と云ふことに尽力して居る。幸ひ其人も今度の会議に来て居つた。其他ローエル、ケルン、亜米利加で相当有力者が来て居つた。どうぞ移民問題に付いてもう一奮発して呉れぬかと云ふ話をした。彼等は曰く、我々は尽力する、君に頼まれなくても尽力する。併し今満洲事件が起つたので今年はどうか知らぬ。少しむづかしいぞ。何もなかつたならば亜米利加議会は五日ばかり前に開かれて居りますが、此議会で移民問題は撤回される見込になつて居たが、満洲事変の為めに今年は覚束ない、斯う言ひました。私は其時にもさう言つた。君等は渋沢さんに遇つた時のことを記憶して居るか。何れも日本を通過した時に、或は一昨年京都の会議の時に日本に来た人達だから、渋沢子爵に御目に掛つて居る。其時に子爵は君等に言はれたかどうか知らぬが、僕には一度となく二度となく、亜米利加の排日移民法が改正されるか撤回される迄は私は死なれませぬと言はれて居る。もう渋沢さんは九十二だ、急いで呉れんかと云ふ話をしたのであります。其時は彼等は即ちローエル氏もシヤレン・バーグ氏もケルン氏も必らず帰つたら一層尽力する。今の所では今年は覚束なく思ふが我々は出来る丈けのことはしやうと云ふ話でありました。然も私は今朝こちらへ参ります前に亜米利加より受取つた手紙に依ると、此問
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題はまだまだ今年は駄目だと云ふやうでもなささうである。或は此冬に撤回或は改正になるかと思ふやうな望みもあると云ふやうな手紙を受取つたのであります。唯々遺憾なのは、渋沢子爵があれほど思ひ焦がれて居つた其事が実現される前に永眠されたと云ふことで、之は実に遺憾に堪えぬことであります。併し先刻からの段々の御話に、子爵の寿命は未だ終らぬ。子爵の霊魂は百年・二百年で日本人に忘れられることはあるまいと思ふ、日本の国の歴史の一の大いなる飾として、或は後進者には一種の鏡となり我々を刺戟し我々を指導される。それが百年・二百年では終るまいと思ふ。仮令彼の問題が未決の内に目を閉ぢられたと雖も、子爵の霊魂は永久に我々の中にあつて、長く我々を指導され、それに依つて我々も奮起して或は国際聯盟なり、或は其他の機関を用ひて、日本の国威と日本の国の信用が高まることを御覧下すつたならば、決して九十二歳で此世を去つたと云ふことは無駄であつたと云ふ御考はなからうと私は固く信ずるのであります。永久に子爵の御心を継いで国の為め社会の為め、殊に我国の国際関係の親善の為めに計りたいと思ふのであります。(文責在記者)