デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

13章 追悼会
節 [--]
款 [--] 16. 実業之世界社主催渋沢栄一翁七年祭記念時局大講演会
■綱文

第57巻 p.820-824(DK570364k) ページ画像

昭和13年11月13日(1938年)

是日、日比谷公会堂ニ於テ、実業之世界社主催ニヨリ、渋沢栄一翁七年祭記念時局大講演会開カル。


■資料

帝都日日新聞 第二二七一号 昭和一三年一一月一四日 渋沢栄一翁七年祭 記念講演会の盛況 三宅博士等故人を追懐(DK570364k-0001)
第57巻 p.820-823 ページ画像

帝都日日新聞  第二二七一号 昭和一三年一一月一四日

図表を画像で表示帝都日日新聞  第二二七一号 昭和一三年一一月一四日

    渋沢栄一翁七年祭     記念講演会の盛況      三宅博士等故人を追懐     実業之世界社主催    本 社 後 援 



僚誌実業之世界社主催、本社後援『渋沢栄一翁七年祭記念時局大講演会』は昨十三日午後六時より日比公会堂に盛大に挙行された、定刻前より熱心なる愛読者をはじめ、一般フアンは吹きすさぶ寒風を物ともせず、長蛇の列を作り、いやが上にも大会を煽り立てる、整理員を手こずらせて、定刻前開門すればなだれを打つて会場を
 埋め る、定刻実業之世界営業部長永井耕一氏マイクを通じて開会
 - 第57巻 p.821 -ページ画像 
を宣すれば拍手の嵐だ、プログラムに従つて実業之世界社長、本社々長野依秀市氏は全身を熱気に包んで登場、別項の如き豊富なる体験と含蓄ある開会の挨拶を述べ、つづいて経済学博士服部文四郎氏が学究的立場から世界の
 動向 と経済界の流れを率直に述べて、時局下に於ける国民の態度を教へて、更に温顔に笑をたゝへた文学博士三宅雪嶺氏は野依秀市氏の紹介で現はれる、渋沢翁について嘗て学んだ当時の渋沢翁の思ひ出話を語り「翁は何かといふと、論語で説かれた」と渋沢翁を髣髴とさせ、翁の日常生活と性格の偉大さを賞め讚へる、最後に法学博士穂積重遠氏は渋沢翁の
 心願 五ケ条について述べ、いづれも聴衆に多大の感銘を与へた、最後に時局ニユース映画を上映同九時五十五分盛会裡に閉会した、
 尚ほ前記諸氏の開会の辞並に講演は次の如くである
    開会の辞
            実業之世界社長
                     野依秀市氏
            帝都日日新聞社長
御承知の様に現在は千載一遇否、三千年来一遇とでも申す時であります、さて、この時に当りまして渋沢翁を想ふに切なるものがあります若し翁をして政界にでもあらしめたならば、まさに公爵にもなられたことゝ思ひます
 去る 二十日に私は旅行をいたしました、たまたま尾崎行雄氏と汽車でお会ひいたしました、其時私は明治維新の三傑は西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通であるが、私は維新三傑以後の三傑として、渋沢栄一・福沢諭吉・伊藤博文と思ひますが如何でせうといふと『それはさうだ、だが伊藤が一番おとるな、まあ渋沢が一番ぢやらう』とかう言つて居られた、尾崎氏は更に『野依君は変りものだが二十五年の間よく渋沢翁が面倒をみた、又現在では三宅雪嶺先生に可愛がられてゐるが、自分も大いに御世話をしたいのだがどうもつづきさうもないよ、嘗て自分が東京市長をやつてゐた時に、実は渋沢翁が半分は助けてくれたのだよ』と語られてゐた
 私は 今芝公園に経営してゐる仏教真宗会館の屋上に渋沢神社を経営してゐる、私の神といふのはキリスト教の言ふ様な神とはちがふ、人間でも偉い人は神に祀つてもいいと思ふ、そこで渋沢神社が建設されたのである、今この故渋沢翁が御在世であつたなら、必ずや銃後の大後援会でも作つておいでになることと思ふ
 各国 では植民政策には少くとも四十年或は五十年を費してゐる、日・満・支はこの意味から言つても今後のことをしつかりと計画しなければならない、しかし一番大切なことは気力である、この気力がなくして何が出来るか、この際渋沢翁のあの偉大なる精神を学んで一致団結して進みたいと思ふ
    渋沢翁の後を憶ふ
               文学博士 三宅雄二郎氏
 自分が始めて渋沢翁の話を聴いたのは翁が東京大学に講師として来られた時であつた
 - 第57巻 p.822 -ページ画像 
とその時の話が上手で、日本人離れした渋沢翁の態度を語つて満場を笑ひに誘つた後
 明治十七・八年頃、渋沢翁は何かといふと論語で説かれる、論語をよく暗誦をなさつてをられすぐに論語を話すと同時に、花カルタが好きでやられた、併し翁は根気がよく、或る時は負けても夜通しやられて、負けた時は銀行へ使ひをもつて金を取りにこられた
と語り、翁は博奕をやるのみでなく
 博徒 の仲間にでも入る性格を持つてゐたと断じ、侠客の親分肌であつた翁の性格を語り
 併し博奕以上に偉大な才気を持つてゐて、絶えず人間としてよくならうといふ心掛けがいつも離れなかつた
又ソクラテスを引用して渋沢翁の何事にも打ち克つ偉さを説き、続いて翁をランボツクやロツクフエラーに比して
 成る程ロツクフエラー当人の才能もあるが、アメリカは資源に富んだ国家であつたからあんな金満家になつたが、日本に来ては渋沢翁程の仕事もむづかしかつたであらう、日本も島国でなく、或ひは無限の資源を開発するかも知れぬならば
 翁は アメリカの無限の富で大きな進歩したロツクフエラーに劣らぬ大なる事業をなされたかも知れない、いま支那事変に当つて支那では渋沢翁のやうな人が必要と思ふ、翁亡きいま翁に似た人でより大なる事業をなす人を出すことが肝要である
と万雷の拍手を浴びて降壇
    世界の統制経済の将来
               経済学博士 服部文四郎氏
支那を治むるものは日本であるといふことは今更決つてゐることであります、今や事変は一段落したのであるなどと思つたらそれこそ大変なことであります、しからば一体日本の経済はどの様な方向に向つてゐるかといふことになるのでありますが、御承知の様に統制経済が行はれてゐるのであります
 長期 建設とは単に戦争といふよりも建設であるのです、資源の豊富なものを開発してゆくこと、これが真の長期建設なのであります、最近の伊太利では日本に似てゐるところがあります、伊太利はエチオピアを合併してその開発につとめつゝあり、統制経済を行つてゐるのであります、これは長期にわたるのであります、従て北支・中支或は満洲国を開発するためには莫大なる費用を要することは、勿論であります
 日露 戦役では二十億の費用がかゝつたが、この中十億は借金である、借金と言つても次第につきつめると金で外国と取引をすることになる、日本には現在五億円ある、独逸などは僅かに九千万円である、それでゐて、世界の列強国を圧倒してゐる、だから必ずしも金のみが物を言ふとも言へないわけだ
 日本 では更に一歩進んで戦時経済にまで到つてゐる、この大きな経済の動きに常に指導者となられた故渋沢翁を思ふとき誠に感慨深きものがあります、益々翁の御意志を忘れず我々は経済界に在つて愈々
 - 第57巻 p.823 -ページ画像 
努力を致したいと存じて居ります
    渋沢翁の心願五ケ条
              法学博士 男爵 穂積重遠氏
先づ渋沢翁の孫である自分が玆に登壇した所以を諧謔交りに語り、講演の日に当てられた当日十三日が如何に渋沢翁にとつて縁故の深い日であるかを説明し
 翁の誕生日が十三日で、又忙しかつた翁が十三日には必ずお土産を持つて養育院へ話をしに行く日であつた
続いて白川楽翁公の話に及び、一命を賭けて心願した楽翁公に渋沢翁が信服してゐた所以を云ひ、一つ一つ説明し乍ら五ケ条の渋沢翁が心願してゐたことを徐々に話して行く、即ち
 第一条は皇室の御栄えと国家の隆盛を祈ることであり、第二条は実業の振興、而も経済と道徳を合一させようとした、今日実業の隆盛のさきがけをなしたのは渋沢翁であり、実業に道徳を持ち来たすことに及ばず乍ら力を致した
第三条は日米親善で
 如何 に翁がこの為に尽したかを種々と例を上げて語り
 又翁の親善はただ単に親善ではなく、正しくないことは大いに攻撃すると翁が排日移民法に大反対を唱へた、第四条は日支の提携といふことで翁は始めから論語で勉強した人であるし、政治外交は暫らく措き、経済に依つて日支手をつないで行かうといふので努めたがどういふものか支那の人間には渋沢翁の本当の気持が理解出来なかつた
と云ひ、続いて第五条の
 社会 事業に移り
 社会事業を何とかして充分やりたい、これが渋沢翁の最後の仕事であつた
その中でも癩の予防と救護法に特に力を注いだ翁を語り、又翁の長寿法は六十・七十以後実業界の仕事をやめ社会事業に
 本当 に心身共に打ち込んだ為である
 翁は書を読み自分のことを磨くと同時に一方で手を差し延べて人を救つて上げたいといふ、これが長生きの原因であり、若さの原因である
と喝破し
 渋沢翁は若い者の気持が判り、吾々のところまで下りて来て膝を組んで話せる人で、自分は翁のやつたやうな、あんな大きな仕事はやれんが気持だけは学びたいと思つてゐる
と結んで降壇



〔参考〕実業之世界 第三五巻第一号・第一八頁 昭和一三年一月 【○上略 因みに、渋沢栄一翁…】(DK570364k-0002)
第57巻 p.823-824 ページ画像

実業之世界  第三五巻第一号・第一八頁 昭和一三年一月
○上略
 因みに、渋沢栄一翁が、日本財界の育成に尽された功績、並にわが「実業之世界」に寄せられた厚誼を感謝し、併せて、翁の徳望に対す
 - 第57巻 p.824 -ページ画像 
る敬慕の情を具象するため、我社に於ては、昨年五月の創立三十周年を機会に、本社屋上に「渋沢神社」を奉建した。翁の遺徳を顕彰敬仰するに於て志を同じうせらるる人々は、随意に参拝せられたい。