デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

14章 記念事業
節 [--]
款 [--] 1. 財団法人渋沢青淵翁記念会ノ事業
■綱文

第57巻 p.841-855(DK570368k) ページ画像

昭和14年5月13日(1939年)

是年、栄一ノ生誕百年ニ当ル。是ヨリ先、当会ノ記念事業トシテ幸田露伴ニ編纂ヲ依嘱セル「渋沢栄一伝」成リ、是日当会、之ヲ栄一墓前ニ報告ス。引続キ当会、財団法人竜門社ト共同主催ニヨリ、飛鳥山旧邸ニ於テ、「渋沢青淵翁記念実業博物館」ノ地鎮祭及ビ生誕百年記念祭ヲ挙行ス。


■資料

財団法人渋沢青淵翁記念会関係書類 【(印刷物) 拝啓 一月二十八日午後四時半ヨリ日本工業倶楽部ニ於テ開催ノ、渋沢青淵翁記念会第六回評議員会ニハ…】(DK570368k-0001)
第57巻 p.841-842 ページ画像

財団法人渋沢青淵翁記念会関係書類     (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 一月二十八日午後四時半ヨリ日本工業倶楽部ニ於テ開催ノ、渋沢青淵翁記念会第六回評議員会ニハ出席員数四十三名(委任状出席共)ニシテ目的事項タル
 議案第一、昭和十二年度事務報告承認ノ件
 同第二、昭和十二年度決算報告承認ノ件
 同第三、昭和十二年十二月末日現在貸借対照表・財産目録承認ノ件
 同第四、昭和十三年度予算承認ノ件
ハ別冊ノ通リ承認相成リ
 議案第五、昭和十三年度事業計画ノ件
    本年度ニ於テ施行スル事業左ノ如シ
     一、青淵翁伝記編纂刊行  本年度予算金参万参千九百五拾弐円
                (但シ予算総額五万円中ノ残額)
       一昨年来ノ継続事業トシテ文学博士幸田成行(露伴)氏ニ依嘱編纂中ニシテ、本年度内完成ノ見込
     二、曖依村荘維持費ノ補助  本年度予算金壱万五千円
       毎年継続ノ事業ニシテ本年度ハ昨年度ニ比シ金壱千五百円増額
     三、社会事業・国際親善事業・女子教育事業又ハ職業教育事業ノ助成  本年度予算金七万円
 - 第57巻 p.842 -ページ画像 
       助成事業ノ選定ハ理事会ニ於テ之ヲ決定スルモノトス
     四、青淵翁記念実業博物館建設費ノ補助
                本年度予算外補助費総額金参拾八万七千五百円
       財団法人竜門社ノ新規計画ニ係ル、青淵翁記念実業博物館建設費金参拾八万七千五百円ノ総額ヲ補助セントスルモノニシテ、建設費予算左ノ如シ
          1建築費    金弐拾四万弐千五百円
          2設備費    金壱万五千円
          3展観設備費  金拾参万円
         総計 金参拾八万七千五百円
     此ノ補助金支出ノ為メ要スル費用ハ其ノ大部分ヲ基金中ヨリ(議案第八基金処分ニ関スル決議案参照)残額ヲ若干年度ニ分割シテ経常費予算中ヨリ支弁スル見込ナルモ、時局ノ関係上実際ノ建設ハ来年度以降トナル見込ナルヲ以テ本年度予算中ニハ之ヲ計上セズ
      備考 本博物館ノ管理ニ要スル経常費ハ竜門社ニ於テ負担スルモノトス
ハ原案承認
 議案第六、評議員一名補欠選挙ノ件
 同第七、理事一名補欠選挙ノ件
ハ何レモ庄司乙吉君当選シ
 議案第八、基金ノ一部ヲ経常会計ニ繰入レ事業費トシテ使用ノ件
       渋沢青淵翁記念実業博物館建設費補助ノ為メ基金中ヨリ金参拾万円以内
       (但シ本補助費ヲ支出シタル後基金ノ残額ガ金壱百万円ヲ下ラザル事ヲ限度トス)支出スルコトヲ得
ハ満場異議ナク之ヲ承認シ、右ニテ評議員会ヲ終了致シ候間此段御報告申上候
  昭和十三年一月      財団法人渋沢青淵翁記念会
                理事長 男爵 郷誠之助
    賛助員各位


(財団法人渋沢青淵翁記念会)第六回報告書 昭和十三年度 自昭和十三年一月一日至同年十二月三十一日 第三―一三頁 刊(DK570368k-0002)
第57巻 p.842-844 ページ画像

(財団法人渋沢青淵翁記念会)第六回報告書 昭和十三年度
             自昭和十三年一月一日至同年十二月三十一日  第三―一三頁 刊
    財団法人渋沢青淵翁記念会第六回報告書
        東京市滝野川区西ケ原千参拾六番地
                財団法人 渋沢青淵翁記念会
財団法人渋沢青淵翁記念会寄附行為第二十六条ニ拠リ、昭和十三年一月一日ヨリ昭和十三年十二月三十一日ニ至ル本財団事務ノ要領並ニ収支決算書・財産目録・貸借対照表ヲ添ヘ報告スルコト左ノ如シ
○中略
      二、評議員会ニ関スル件
昭和十三年一月二十八日午後四時三十分日本工業倶楽部ニ於テ第六回評議員会ヲ開ク、評議員総数五十名、当日ノ出席員四十三名(委任状
 - 第57巻 p.843 -ページ画像 
共)ニシテ、評議員会々長郷誠之助君欠席ニ付常務理事佐々木勇之助君議長席ニ著キ、左ノ議案ヲ附議ス
○中略
      三、諸事業ニ関スル件
一、青淵翁伝記ノ編纂
   昭和九年以来継続編纂中ノ同伝記ハ明年度中ニ完成スル見込ナリ
二、曖依村荘維持費ノ補助
   本年度分維持費トシテ昭和十三年十二月廿六日附ニテ金壱万五千円ヲ補助支出セリ
三、社会事業・国際親善事業ノ補助
    (1) 中央盲人福祉協会ニ於テハ、ヘレン・ケラー女史来朝記念事業トシテ東京盲人会館建設計画中ニテ、本会ニ対シ援助方申出アリタルニ付、其ノ趣旨ニ賛シ十二月二十九日附ニテ該建設資金中ニ金弐千五百円ヲ補助支出セリ
    (2) 昭和十四年米国紐育・桑港万国博覧会開催セラルヽニ付同協会ニ於テハ、青淵翁ガ日米親善ニ尽サレタル御功績ヲ日米人間ニ周知セシムル趣旨ニテ、本会ニ対シ本会発行ニ係ル小畑久五郎氏著渋沢青淵翁英文小伝ヲ頒布致シ度、右寄贈万申入アリタルヲ以テ、時局柄日米親善ノ上ニ適切ナル企ト認メ、金五千円ヲ限度トシテ出版シ得ル部数ヲ寄贈スルコトヽセリ
○中略
    昭和十三年度収支決算書(自昭和十三年一月一日至昭和十三年年十二月三十一日)
  ○基金会計之部 ○略ス
  ○経常会計之部 ○略ス
    貸借対照表(昭和十三年十二月三十一日現在)
  ○基金会計之部

      貸方
  科目        金額         備考
                 円
基金      一、二八二、〇〇〇・〇〇
 合計     一、二八二、〇〇〇・〇〇
      借方
  科目        金額         備考
                 円
有価証券    一、〇七六、九〇一・〇〇
定期預金      二〇〇、〇〇〇・〇〇
特別当座預金      五、〇九九・〇〇
 合計     一、二八二、〇〇〇・〇〇
  ○経常会計之部
      貸方
  科目        金額         備考
                 円
本年度収支残余金   六七、七六二・六七
 合計        六七、七六二・六七
      借方
 - 第57巻 p.844 -ページ画像 
  科目        金額         備考
                 円
定期預金       一〇、〇〇〇・〇〇
特別当座預金     五七、七六二・六七
 合計        六七、七六二・六七

    財産目録(昭和十三年十二月三十一日現在)
  ○基金会計之部 ○略ス
  ○経常会計之部 ○略ス
○下略


財団法人渋沢青淵翁記念会関係書類 【(印刷物) 拝啓 一月三十日午後四時三十分ヨリ日本工業倶楽部ニ於テ開催ノ渋沢青淵翁記念会第七回評議員会ニハ…】(DK570368k-0003)
第57巻 p.844-845 ページ画像

財団法人渋沢青淵翁記念会関係書類     (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 一月三十日午後四時三十分ヨリ日本工業倶楽部ニ於テ開催ノ渋沢青淵翁記念会第七回評議員会ニハ出席員数四十七名(委任状出席共)ニシテ目的事項タル
 第一、昭和十三年度事務報告承認ノ件
 第二、昭和十三年度決算報告承認ノ件
 第三、昭和十三年十二月末日現在貸借対照表・財産目録承認ノ件
 第四、昭和十四年度予算承認ノ件
ヲ順次附議致シ候処(別冊)承認相成リ
 第五、昭和十四年度事業計画ノ件
    本年度ニ於テ施行スル事業左ノ如シ
     一、青淵翁伝記編纂刊行 予算金参万弐千九百五拾弐円(予算総額金五万円ノ残額)
       昭和九年以来継続事業トシテ文学博士幸田成行(露伴)氏ニ委嘱編纂中ノ同伝記ハ本年中ニ完成ノ見込
     二、曖依村荘維持費ノ補助 予算金壱万五千円
     三、青淵翁記念実業博物館建設費ノ補助 予算金参拾万円(予算総額金参拾八万七千五百円ノ内)
     四、社会事業・国際親善事業・女子教育ノ振興又ハ職業教育事業ノ助成 予算金六万円
       助成事業ノ選定ハ理事会ニ於テ之ヲ決定スルモノトス
ハ原案承認相成リ
 第六、基金処分ニ関スル件
    (一)払込未済寄附金処分ニ関スル件
       寄附申込総額中、五拾口金壱万九千八百四拾円ノ内壱万八千円(一口)ヲ除キ、他ハ死亡・転居先不明等ニテ収入ノ見込ナキヲ以テ、寄附総額中ヨリ切捨テ、他日払込アリタル場合ハ雑収入トシテ、経常会計ヘ受入ルヽモノトス
    (二)基金ノ一部ヲ経常会計ニ繰入ノ件
       寄附行為ノ規定ニ基キ従来毎年実際支出額ヲ基金会計ヨリ経常会計ニ繰入レ来リタル青淵翁伝記編纂刊行費ノ残額並ニ昨年評議員会ニ於テ基金会計ヨリ支出スルコトヲ決議シタル青淵翁記念実業博物館補助金ノ支出方法ヲ改
 - 第57巻 p.845 -ページ画像 
メ、将来ノ分ハ通シテ金参拾万円トシ、本年一時ニ之ヲ経常会計ニ繰入ルヽコトヽス
       「備考」右繰入金額ニテ不足ノ分ハ経常会計ノ経費中ヨリ補足セシムル趣旨ナリ
ハ満場異議ナク之ヲ可決シ、右ニテ評議員会ヲ終了致シ候間此段御報告申上候 敬具
  昭和十四年一月三十日
               財団法人渋沢青淵翁記念会
             評議員会々長 男爵 郷誠之助
    賛助員各位


中外商業新報 第一九一五二号 昭和一四年五月五日 渋沢翁を偲ぶ実業博物館 生誕百年祭を兼て十三日曖依村荘で地鎮祭(DK570368k-0004)
第57巻 p.845 ページ画像

中外商業新報  第一九一五二号 昭和一四年五月五日
    渋沢翁を偲ぶ実業博物館
        生誕百年祭を兼て十三日曖依村荘で地鎮祭
わが実業界の巨頭青淵渋沢栄一子逝いて早くも八年、故翁の遺業を偲んで昭和八年設立された財団法人渋沢青淵翁記念会では、紀念事業として故翁の銅像を彫刻家朝倉文夫氏の手で昭和八年十一月、日銀前新常盤橋橋畔に建設、更に伝記の編纂と故翁記念実業博物館の建設を企て、伝記は幸田露伴博士が苦心執筆の末この程脱稿、博物館建設も準備整ひ、故翁の旧邸だつた滝野川区飛鳥山の曖依村荘内に敷地を定め故翁の薫陶を受けた人々で組織する財団法人竜門社と共同して、十三日午後一時十五分から同村荘で故翁生誕百年の記念祭を行ひ、併せて地鎮祭を執行することゝなつた
 この実業博物館は、故翁の意志を継いで、渋沢家で蒐集したわが実業界発展に関する明治初年以来の貴重なる文献資料を始め、故翁の遺愛の品数千点を陳列、躍進著しきわが商業・産業・金融各部門の一大鳥瞰図とすることになつて居り、予算は約卅万円の予定であるが、建築資財統制の折柄着工は未定である


渋沢栄一伝 幸田露伴著 奥付 昭和一四年五月刊(DK570368k-0005)
第57巻 p.845 ページ画像

渋沢栄一伝 幸田露伴著  奥付 昭和一四年五月刊
    昭和十四年五月九日  印刷
                   (非売品)
    昭和十四年五月十三日 発行

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      版権所有  著者        幸田成行     東京市滝野川区西ケ原千三十六番地  発行者  財団法人渋沢青淵翁記念会       代表者理事長       男爵   郷誠之助     東京市小石川区久堅町百八番地  印刷者       大橋光吉     東京市小石川区久堅町百八番地  印刷所      共同印刷株式会社 



   ○右ハ布表紙、洋装菊版一冊、三六九頁。


子爵渋沢青淵翁記念建造物 はしがき 刊(DK570368k-0006)
第57巻 p.845-846 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

子爵渋沢青淵翁記念建造物 第六頁 刊(DK570368k-0007)
第57巻 p.846 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢青淵翁生誕百年記念祭招待状 【(印刷物) 拝啓 益御清適奉賀候、然者本年ハ渋沢青淵翁御生誕一百年ニ相当候ニ付テハ…】(DK570368k-0008)
第57巻 p.846-847 ページ画像

渋沢青淵翁生誕百年記念祭招待状   (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 益御清適奉賀候、然者本年ハ渋沢青淵翁御生誕一百年ニ相当候ニ付テハ、翁ニ因ミ深キ両団体相謀リ、来ル五月十三日(土曜)午後一時十五分ヨリ滝野川区飛鳥山曖依村荘(翁ノ旧邸)ニ於テ、別紙ノ通リ記念祭ヲ挙行致度ト存候間、御差繰リ御賁臨被下度候
右御案内申上度如此御座候 敬具
 追テ御手数恐縮ナガラ御都合来ル五月八日迄ニ同封葉書ニテ御一報被下度願上候
 - 第57巻 p.847 -ページ画像 
  昭和十四年四月二十八日
               財団法人渋沢青淵翁記念会
                理事長 男爵 郷誠之助
               財団法人竜門社
                理事長 男爵 阪谷芳郎
          殿


渋沢青淵翁生誕百年記念祭次第 【(印刷物) 渋沢青淵翁生誕百年記念祭 昭和十四年五月十三日(土曜)於曖依村荘】(DK570368k-0009)
第57巻 p.847 ページ画像

渋沢青淵翁生誕百年記念祭次第     (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
  渋沢青淵翁生誕百年記念祭
        昭和十四年五月十三日(土曜)於曖依村荘
      次第
 渋沢青淵翁記念実業博物館
一、地鎮祭  午後一時十五分
二、記念祭  午後二時
   開式挨拶           司会者 西野恵之助
   宮城遥拝
   国歌斉唱
   戦歿将兵ノ慰霊並ニ皇軍将士ノ武運長久祈願 黙祷
            財団法人竜門社
   式辞          理事長 男爵 阪谷芳郎殿
            財団法人渋沢青淵翁記念会
               理事長 男爵 郷誠之助殿
   講演      「渋沢栄一伝」 著者 幸田露伴殿
            内閣総理大臣 男爵 平沼騏一郎殿
   謝辞              子爵 渋沢敬三殿
   閉会
三、園遊会  午後三時
                     以上


中外商業新報 第一九一六一号 昭和一四年五月一四日 故渋沢翁生誕百年祭 朝野の名士六百名参列 けふ曖依村荘の盛儀(DK570368k-0010)
第57巻 p.847-848 ページ画像

中外商業新報  第一九一六一号 昭和一四年五月一四日
    故渋沢翁生誕百年祭
      朝野の名士六百名参列
        けふ曖依村荘の盛儀
既報=渋沢青淵翁記念会及び竜門社では今年が故青淵渋沢栄一翁生誕百年に当るので、十三日午前十一時半から上野寛永寺墓地で墓前祭を行つた後、午後一時十五分から滝野川区飛鳥山の故翁の旧邸曖依村荘で生誕百年記念祭を行つた、渋沢敬三子一門を始め平沼首相・徳川家達公・大久保利武侯・郷誠之助男・阪谷芳郎男・浅野総一郎・大橋新太郎の諸氏等政界財界其他各方面の名士約六百名が参列、先づ故翁を記念する実業博物館の地鎮祭を挙行、続いて記念祭に移り、宮城遥拝戦歿勇士の慰霊と皇軍将士武運長久の黙祷を捧げ、竜門社理事長阪谷男及び青淵翁記念会理事長郷男の式辞があり、故翁伝記の著者幸田露伴博士及び平沼首相が講演を行ひ、渋沢子の謝辞があつて式を閉ぢ、
 - 第57巻 p.848 -ページ画像 
午後三時園遊会に移り、故翁生前の遺徳を偲んで、午後五時ごろ散会した


竜門雑誌 第六〇八号・第一一九―一二六頁 昭和一四年五月 青淵先生御生誕百年記念祭(DK570368k-0011)
第57巻 p.848-850 ページ画像

竜門雑誌  第六〇八号・第一一九―一二六頁 昭和一四年五月
   青淵先生御生誕百年記念祭
  支那事変勃発してより聖戦既に一歳半、然も東亜の風雲尚ほ暗澹として国歩愈々重大ならんとするの秋、吾等はゆくりなくも、その昭和十四年二月十三日を以て青淵先生御生誕百年の当日を迎へた。時艱にして偉人を憶ふの念、一入に切なるものあるに就けても、本社はこの光輝ある「世紀の吉辰」を一層意義深く記念せんものと、渋沢青淵翁記念会と協同主催の下に、わけても青淵先生の御生誕を記念するに相応はしき首夏新緑の候を択び、五月十三日を卜して心からなる祭式を挙げた。
  この日先づ午前中には上野寛永寺なる先生の御墓前に於て報告式を修し、午後先生御生誕百年記念祭を挙行すべきの件並に先生の御伝記を完成したる趣を泉下の英霊に告げ参らせたるに引続き、午後には曖依村荘に於て「渋沢青淵翁記念実業博物館」の地鎮祭を兼ねその意義深き記念祭を執行した。将来、二百年・三百年、否千年の記念祭が如何に催さるべきかを遥に想ひやり、久遠に顕彰せらるべき先生の御遺徳を偲びつつ、玆にその次第を叙する次第である。
    御墓前報告式
○中略 予て渋沢青淵翁記念会の依嘱により文学博士幸田露伴氏が数年の久しきに渡つて、苦心の末漸く完成製本せられた「渋沢栄一伝」が御墓前近くに供へられ、その前の白木の台には香炉が添へられ、渋沢家及両主催団体より献上の供花合計三対が飾られた。かくて午前正十一時、御墓前向つて左側に子爵渋沢敬三氏をはじめ渋沢武之助・渋沢正雄・明石照男の諸氏列席せられ、相対して両団体の役員諸氏即ち佐々木勇之助・植村澄三郎・渡辺得男・庄司乙吉・膳桂之助・西野恵之助中村元督、(以上記念会)、西条峰三郎・白石喜太郎・塩沢昌貞・大沢佳郎・清水釘吉・木村雄次・大橋進一(以上本社)の諸氏参列し、先づ寛永寺門主大僧正長沢徳玄師の厳なる読経があげられ、渋沢子爵をはじめ一門の諸氏、其他参列者一同順次焼香礼拝をなし、終つて西野氏は左の報告文を朗読した。
      報告文
 青淵渋沢栄一先生薨去セラレテ玆ニ八星霜、算フレハ此年正ニ御生誕百年ニ当ル、時偶々先生ノ御一生ヲ録スルノ書成ル、文学博士露伴幸田成行氏畢生ノ文業タリ、先生ノ音容偉業コレニ依ツテ百世ニ炳カナラム
 マタ本日ヲ卜シ、先生御遺愛ノ曖依村荘ニ於テハ、渋沢青淵翁記念会並ニ竜門社ノ共同主催ニ依リ、記念実業博物館ノ地鎮祭ニ併セテ御生誕百年記念祭執行セラレ、故旧門下相集ツテ御遺徳ヲ追慕景仰スルノ念ヲ新ニセムトス
 門下西野恵之助両団体ヲ代表シ玆ニ謹ミテ之ヲ先生ノ御墓前ニ報告シ奉ル、在天ノ英霊希クハ照鑑ヲ賜ヘ
 - 第57巻 p.849 -ページ画像 
  昭和十四年五月十三日          西野恵之助
 之に対し、渋沢子爵は遺族一同を代表して鄭重に謝意を表された。かくて記念撮影の後、一同曖依村荘にむかつた。
    実業博物館地鎮祭及御生誕百年記念祭
 記念祭の会場に充てられた曖依村荘は ○中略 正面を入つた左側の受付で、来会者は各自に署名して会員章並に「子爵渋沢青淵翁記念建造物」のパンフレット及祭典の次第書を受取る。パンフレットには「実業博物館」の全景着色刷りの図絵をはじめ、常盤橋公園内に聳え立てる先生の銅像及び京城奨忠壇公園内に設立せられて居る先生の頌徳碑の写真に次いで、「博物館」の透視図と設計概要とが要領よく輯載されてゐる ○中略 来会者を送り込んだ自動車が門前両側数丁に亘つて駢列して居る間を、平沼首相が威儀を正して乗込んで来られる。続いて、「渋沢栄一伝」の著者幸田露伴博士が珍しくフロック姿で来会せられる。
      実業博物館地鎮祭
 定刻一時十五分振鈴の合図に、参列者一同は踵を接して式場に入る ○中略 中村元督氏の序次によつて先づ地鎮祭の式が開始せられる。参列者一同斎主の修祓を受くるや、荘厳なる神楽吹奏の裡に降神の事あり献饌の儀に次いで斎主は恭しく祝詞を奏上し、撒米・鎮物の行事があつた後、玉串拝礼が行はれる。渋沢子爵をはじめ、渋沢青淵翁記念会理事長郷男爵、本社理事長阪谷男爵以下、両団体の役員大橋新太郎・佐々木勇之助・植村澄三郎・西条峰三郎・白石喜太郎・西野恵之助・明石照男・庄司乙吉・渡辺得男・膳桂之助・尾上登太郎・塩沢昌貞・清水釘吉・大沢佳郎・木村雄次・佐々木修二郎・大橋進一・中村元督の諸氏並に工業関係の代表者清水一雄氏等、夫々に玉串を捧献して拝礼せられた。かくて撤饌・昇神の儀を了し、芽出度く地鎮祭の式典は終了したのである。
 次いで膳桂之助氏は両団体の役員を代表し、両団体が協力して青淵先生を永遠に記念する為め、曖依村荘内に「渋沢青淵翁記念実業史博物館」の建設を決定するに至つた由来を披露して、一場の挨拶を述べられた。 ○中略
      青淵先生御生誕百年記念祭
 会場はその儘にして愈々「渋沢青淵翁生誕百年記念祭」に移る ○中略 定刻二時より記念祭が開始せられた。先づ司会者西野恵之助氏が開式の辞を述べられる。
○中略
 次いで一同は起立し、謹んで宮城を遥拝した後厳粛に国歌を斉唱し戦歿将兵の慰霊並に皇軍将士の武運長久を祈願する為め黙祷を捧げたそれより本社を代表して阪谷男爵、記念会を代表して郷男爵前後して登壇、夫々に式辞(別頁「青淵遺芳」欄所載)を述べられた。 ○中略 講演に移り、先づ幸田博士は矍鑠たる老躯を壇上に現わし ○中略 次に首相平沼男爵は颯爽と長躯を演壇に運び ○中略 約十五分間に亘る雄弁を結ばれた。(平沼首相並に幸田博士の講演速記録は次号に掲載の予定)
 斯くて渋沢子爵は遺族一同を代表し、この盛儀に対して謝意を表す
 - 第57巻 p.850 -ページ画像 
べく熱誠を罩めて左の謝辞を述べられた。
○中略 これにて祭式は盛大厳粛裡に滞りなく終了した。時に三時四十分であつた。
○中略
    園遊会
 記念会終了後、引続き村荘内の庭園に於て園遊会が開かれ ○中略 歓を尽して、退散したのは五時過ぐる頃であつた。


竜門雑誌 第六〇九号・第一―六頁 昭和一四年六月 渋沢翁に就いての所感(於青淵先生生誕百年記念祭) 幸田露伴(DK570368k-0012)
第57巻 p.850-855 ページ画像

竜門雑誌  第六〇九号・第一―六頁 昭和一四年六月
    渋沢翁に就いての所感(於青淵先生生誕百年記念祭)
                      幸田露伴
 閣下、紳士諸君、只今より故子爵渋沢青淵翁御生誕百年祭に当つて故子爵の伝記の刊行せられるに際しまして、御事蹟に関する所感を述べたいと存ずる次第であります。
 人には色々ありまして、生れつき体の大きい方もあり、小さな方もあるといふやうに、心の大小もあるものであります。若し己の一身だけを思ふて一生を送るならば、それは詰り小さい人であります。又それよりも大きく自己の親族一族の為を思ひ、又それよりも大きく一町一市の為を思ひ、又それよりも更に大きく、其心、精神の及ぶ所、一国の為に世界の為に努力するといふのは、それは大きな人であります斯ういふやうに人には自然と大小がありまして、其大いなるものを昔から大人として尊敬愛慕するのであります。故子爵の如きは、一面から云へば誠に幸福にお生れ合せられたとも云へるし、又一面から云へば難しい、幸福でない世にお生れになつたとも云へるのでありますが自然と具へられた偉大なる性格は早くも幼少の時から現はれて居りました。誰しも一番初りは唯父母の愛の下に育てられて来るものであります。併し段々と大きく成長致すに連れて、自分の目の及ぶ所、耳の及ぶ所、それから延いては、其心の及ぶ所の範囲が段々大きくなります。大きくなりますに連れて――それでもまだ小さな自分だけのことを思ふ人もありますが、偉大なる性格を持つて生れた人は、段々と其耳目の及ぶ所、智識の及ぶ所が拡大さるゝにつけ、自分の精神といふものがそれに応じて引付けられ、そして自ら小さな一身のことのみをしてゐられなくなり、それから進んで国家の為、時代の為に働らくといふことになるのが順序であります。故子爵の如きは特別に高等なる所の教育を受けられたといふ訳ではありませぬけれども、其当時の教育を完全に受けられ、そして自己が発達なさると同時に、其観る所の世界が大きくなり、大きくなるに従つて其接触する範囲が自然に拡充されたのでありました。
 故子爵もまだお若かつた時には、老年になられてからのやうに思慮が熟し、見識が透徹して、それでどうかうなされたといふのではありませんでしたが、早くから大きく動き出されたのでした。当時国内は外国の圧迫を蒙る為に紛乱し、又一方には旧い形式の政治が段々と頽廃して其用を為し難くなつてゐるといふやうな時代に際会されたので年齢も若く又勇気の壮なる所から、自分及び其同志の人々と謀つて、
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極めて小人数、無力無地位であつたにも拘らず、直ちに実際行動に移りまして、其当時の問題であつた攘夷を計画して、そしてよしんば其事がどういふ結果にならうとも、全く陳渉、呉広のやうな勢ひで起つて、上州の高崎城を、取らうなどといふことを考へられるに至りました。世の中に対しての最初のことが即ちさういふ風で、それ即ち国家に対して起つたことであります。自己に対して何等かの利益がそれに依つて生ずるなどといふ吝なことで以て始められたのではなく、それで高崎の城を取らうなどといふ其当時で云へば即ち政権に反抗する、先づ極端に云へば不逞の企てであります。其事は実行にならなかつたのでありまするが、さういふ企てをされたことが因になつて、静かに郷里に於て良き家の子となり、良き妻の夫となつて、安穏にして居ることの出来ぬやうな状態を生じ、そこで、事は我が思ふやうに運ばず徒らに当時の政権の為に強い圧迫を蒙つても仕方がないと云ふ所から一方には大きな精神の発動の已み難いところから、遂に当時の政治上の種々なる複雑な運動の根源地であります所の京都の方に出られて、それから予て知つて居られた平岡円四郎といふ人の許に見えたのが機縁になりまして、遂に徳川慶喜公に随身せられるに至られました。ここで、今までの血気に逸り、勇気のみあつて余り多く思慮のない、又世の中の実際に対してどうするといふ修業もなかつたのが、此時からして世間の実際といふものに目の辺り当られて、そして持つて居られた所の才能は、そこに輝き出したのであります。此平岡円四郎といふ人は非常に立派な人で、これまで詳しく知られて居りませんが、当時の記録には慶喜公の臣下でありながら、慶喜公よりも実権を持つて居ると人に言はれた位の人であります。此人に見出され慶喜公の側に於て御信用を得られてから、一橋家の為に徴兵の事に当り、或は一橋家の経済を有利に展開させるといふことに骨を折られた。即ち其結果一意物に当つて実際の智識をぐんぐんと得られた。それまでは、これ程の大人物であつても実際の事に暗かつたのであります。勿論生家でやつて居られた商業とか農業とか、さういふことに付ては、もう既に立派な才能を現はされ、独りとしてはそれまでは進んで来たのでしたが一橋慶喜公に仕へてから段々と大きい世界に自己の才能を目覚められたのであります。其中に徳川昭武公――清水昭武公其他の欧羅巴に行かれるに付て、詰り随行者であり、又財務の取締であるといふやうな位置を以て外国へ行かれた。これが運命で、其時に外国へ行かれなかつたならば、どういふことになつたらうか、これは誠に想像が出来ぬことでありますが、機縁といふものは不思議なものでありまして其時初めて国外に出られた為に、いよいよ大きな世界に立つて、種々なる所の観察を遂げ、そして智能をずんずんと進められたのであります。元来一意誠実なる方でありました所から、同じものでも誠に能く観察されました。先進文明国の成立ちはどういふものであるかといふことを隅から隅まで観察され、又其途中東洋の未開の儘で残つて居る国々の様子をも見て歩かれたのであります。それで色々なる所の感じを得られた。例へば玉も種々なる磨きを掛けられゝば、段々と其本然の美しい光を発するものであります。又鉄の如く槌に会ふことが多ければ
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益々鍛はれるが鉛の如く槌を逃げるものでは鍛はれない。欧羅巴諸国及び東洋各国に於ける様子を見て歩かれても、少しでも苦労を厭ひ、安逸を貪り、差当つた所だけの浅薄狭小の観察を遂げられたに終るのならば、故子爵と雖も、後の子爵のやうに立派な方にはなられなかつたのでありませう。欧羅巴へ行つて社会の美しい華やかなる所ばかりを見ても無論感じもあり、商工業の盛なる様子を見ても無論色々感ぜられた所もありませうが、それのみならず彼の地に居られる間に、下水道の内にまで入つて都会の不潔水の処理が何様さるゝかといふこの視察をも遂げられたといふことが記録に見えて居りますが、外の国へ行つても其当時の日本人の考では、中々下水道などへ入つて、どんな様子であるかといふことを見る程、視察を遂げる人はゐなかつたらうと思ひます。然るにさういふやうな有様で、石が水に沈んだやうに周囲に良いものがあつても、それを吸収せずに居る人もありますが、スポンジは水に入れゝば必ず其水を吸収する、それのように故子爵の頭脳といふものは上等のスポンジのやうに、殆ど有ゆる社会組織、有ゆる政体の運用状態、商業状態、工業状態、それ等をすつかり見て吸収され、そして、帰朝の後には、今度は我が物として其知識を漸々と我国の為に繰りひろげ、伸ばし充たされたのであります。
 併しそればかりではありませぬ。元来東洋の学問でありまするが、これは実質に於ては決して西洋諸国の文明国にも劣らぬ所の孔孟の道それを最初に会得して居られ、又人道はさうあるべきものだといふ信仰を持つて居られたが為に、今度はさういふ諸外国の進歩した色々の状態を見られたに当つて、以前持つて居られたものと相合して違つた形を以て現はれるやうになり、そして日本支那等の大きな人が兎角実に遠く、虚を貴ぶ――何も実を貴ばないといふこともありませぬが――商業などはどうしても賤しいものゝやうに取り、低いものに見る、さういふ通弊を一皮切り破つて、そして本当の社会といふものはどういふものからどういふ結果を生じて行くかといふことを能く御自身に体得され、東洋学流の精神の結構なところへ社会の実際の処理――詰り内容を入れられたやうな工合に商工業の発達進歩といふものは、其国家に取つて非常に大切なものであるといふ考を煉り合せられたのでありました。論語などを見ますと、人間の真の道を教へたのでありまして、別に経済財利の話などはないのであります。論語の何処を見ましても斯様すれば経済状態が良くなる、福利が生ずる、と云ふやうな実際の手続などは殆ど説いてないのでありまして、財といふ字なども繋辞伝に至つて初めて見えて来る位で、もとより儒教は個人に対しては人道、国家に対しては王道を説くのみで中々財利経済のことなどは表面には説いてないのであります。が社会の実際に就いて学問すれば又観察すれば、それから又行動しようとすれば、どうしても経済の裏打といふものがなくては何事も遂げることが出来ないのは明かなことであります。支那の古い書物には唯僅に、孔子から褒められたり、又賤しまれたりして居る斉の管仲などの書に、少し財利のことが書かれてあるばかりであります。然るに渋沢子は儒学で腹をこしらへ、正大仁義の教を身に体して、そして、それを実際の社会に具現すべき道を
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取ることを怠らず、常に空虚的で無く、具象的に人世の幸慶を増進せんことを念にし、西方文明先進国で得られた所の知識を、東洋の道義の精神を拡充するものとして取入れられて日本に帰つて来られた。
 丁度其時に国家の状態が変遷しまして明治政府が新に出来て、今まで色々なる所の人が骨を折つて政体は一変して、本来の国体に副ふ所の良い状態になりましたが、其時に当つて、今お話した管仲のやうな実際知識の豊富な人が多くゐた訳ではないのでさて政権を取つて見ても実際に当ると――武士道的、或は尊皇のこと、国体といふやうなことに付ては、確実に十分な知識があつたけれども、毎日の日常のことに当ると、立派な武人でも一向知らない。日常のことを知らないのは何も賤しいのではないが、実際生活の真に徹したことを知らないといふのは、どうも精神の方面に卓越した人にはあり勝ちなことであります。所で明治政府の出来た最初は皆尊王愛国の立派な精神の人々から成立つたのでありますが、中々立派な軍人としての智能のある人も沢山あつたでありますし、朝廷儀式等に付ては非常に詳しく知つて居る人も沢山有りましたらうが、先づ差当りの本当の世界と云ふものに対し、民に臨み国を治め、財を理め政を布く実際の知識が割合に乏しかつた。それは其筈で、今までさういふ経験が無かつた人達が、局に当つたのでした故です。ここで明治の初りの時といふものは、随分恐るべき形勢であつたのであります。斯う云ふことを無遠慮に申すのも如何でありまするが、後醍醐天皇の時に鎌倉幕府を滅し、一時は国体に副ふ所の立派な状態になりましたが、さて其後又暫く経つと余り良くない状態になつて来て、足利氏の難かしい長い時代が続くことになりました。斯ういふのは皆何であるかといふと、表面は一時立派になりましても、経済の裏打がしつかりしなかつた故であります。即ち農商工、人民といふものゝ実際生活に即する経済のことが旨く処理されないと、斯ういふ悪いことになるのであると思ひます。丁度明治の初年といふものは能く行つたから宜しいけれども、中々危険なものでありまして、何とも分らなかつたのであります。さういふ時に若し徳川氏の残臣などの中に、器量のある者が有つて、別に政権を得んと欲するような企をする者がありましたならば、これは誠に宜しくなかつたのでありましたが、慶喜公は御承知の通り醇忠の方でありまして、決して自己の家を思ふといふやうな小さい方ではない、これもやはり大人であります。それが為に何等の反対的の事実は何処にもなかつた。けれども、経済のことなどには種々難かしいこともあり、人民は一時は新しき政府を謳歌致し兼ねたのでありました。かゝる時、故子爵は召出されて伊達宗城侯、大隈侯、それ等を助けて、頻りと国家の経済上危機に瀕した場合を善く処理された訳であります。
 さういふ訳で明治政府に対して経済上種々貢献され、遂に其後明治六年に至り下野されるに及んで――これも自ら下野されたのであります。そして第一銀行を興し、それから遂に段々と人民の実際生活の側の為に尽されたのであります。其最も著しい好き例は実業教育を最初に興され、実業界の素質といふものを向上することに骨を折られ、それから又官業を興して民間の工業をリードするといふようなこともさ
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れ、遂に製紙や紡績といふものも段々と先進諸国に追付くやうに進歩した。それから日本の海運界をも進歩せしめた。其当時ピー・オー会社といふのが日本・香港・印度、東洋方面残らず自分の航路にして居つた。それを棉花の輸入地の印度航路を取り、各地を皆ピー・オー会社から取り、それと戦つて日本の航路を初めて印度まで延ばして行くやうにせられたのも故子爵であります。其時の如きはピー・オー会社と我が日本郵船との競争の結果、ピー・オー会社に至つては其財力を頼んで甚しい運賃割引、十分一位までの引下を致し、我れを屈せしめんと図つたのでありますが、其時我が商人はピー・オー会社の低い運賃を利用すれば差当り利益があるに拘らず、子爵の教化と努力に依つて、我が商業者が皆利益よりは徳義を重しとして、ピー・オー会社に取引荷物を少しも託さなかつた為に、ピー・オー会社も遂に自ら退くの已むを得ざるに至り、日本の海外航路はそれで初めて成立つやうになつたのであります。それの如きは所謂論語と算盤とを併行し、否、算盤の中に論語を入られ論語を以て算盤を持たれたのでありました。さういふやうな実例は故子爵の伝記には少からぬことで、子爵は当時の実業界に在つて、唯単に自らの道を行はれたのみでなく、他人をも段々と化導し、我が実業界をして健全な発達をなさしむるに至つたのであります。
 尚ほ申上げたいことは幾らでも際限なくありますけれども、総括して申しますと、故子爵は元来が大きな人に生れつかれたばかりで無く常に自ら修めて自己を大きくし、年積もつて遂に愈々甚大を成されたといふことです。大体に於て最初は勇気に燃えられたが、其時は勇が余り有つてまだ智が足らなかつた。併し一旦事破れて、真の世の中といふものに体当りをしてからは、――そして西に行つて慶喜公の下に仕へるに至つては、もともと大智の人であつたので急速に智能が発達し、勇気に加ふるに智を以てして、後に諸外国を観、それから我国に帰られるに及んでは、今度は愈々円熟して、中年より後は事を為すに総べて違算のなからんことを期し、事に当られては其間に何等の不都合はなく、それから又新しく興した諸種の事業も皆順調に行つて発達した。それで其最も美しいことは仕事を興し、為されるに当つては、必ず道を以てせられた、論語を以て仕事をせられたといふ御自身のお言葉通りであつて、そして関係し、触接せられることの多くは困難なることが幾らでもあつたにも拘らず、それを切抜けられ、其困難を忍んで尽力し、当時の商工業を進歩せしめられて、当時の社会に於て渋沢家は丁度一つの大きなる中央停車場のやうな状態にまでなられたのであります。其後七十歳に至るまでの間、道に依つて終始され、自然と仁徳を以て世に臨むやうになられた。七十歳の後に至つて直接に実業方面には当られなかつたが、社会は猶故子爵を手離さなかつた。これは故子爵の成徳といふものが、子爵と社会とを引付けたのであります。遂に九十歳余りで他界されるに及んで尚ほ其遺徳余薫は後に及びこれから後々も猶翁の志を承けて、翁の如くならんと欲する人が非常に多いことは明白の事実であります。既に故子爵は天に翔る方となられても、其遺せし仁徳は長く人々の肺腑に浸みて居らるゝことを疑ひ
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ません。此処に見える方々の中にも、故子爵と同じやうに、真に国家の為に力を尽されてゐらるゝ所のお方が沢山ありますが、此処に見えない方々でも故子爵の風を聞いて立ち、国家の為、社会の為に力を尽さるゝに至らん方々の有るべきことを疑ひません。日月永久、今後幾歳を経過するも翁の偉大なる精神に感激を新たにして、翁を愛慕するの精神に益々燃えられん事を希望して止まない次第であります。