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『竜門雑誌』第329号(竜門社, 1915.10)p.11-19

◎実験論語処世談(五)

青淵先生

▲客に按[接]する二様の見地

論語に就ての談話を申述べることにして置きながら、前回まで御話致したところは、何れかと申せば論語の章句に就てよりも、余談の身の上話になつてしまつたやうな傾きがある。然し、これとても『実験論語処世談』と謂ふ題目の上から観察すれば、必ずしも無益と申すものにも非ざるべく、多少は青年子弟諸君の御参考にならうかと存ずる。又、論語の章句を一々逐ふて逐章講義を致すやうな事は、浅学の私には到底出来ぬのみならず、之をお聞きになる方でも興味が少なからうと信ずる。依て、今後も前回までの如く、論語の章句中で私の最も深く感動しまた私の深く感銘して居るものをボチ〳〵抜いて、私の実験を配剤して談話致す事にする。

一体、人が人と接するに当つて懐く心情には二様ある。その一つは、何んでも赤いものを見たら火事と思へ、人を見たら泥坊と思へ、と謂つたやうな調子で、遇ふほどの人見るほどの人を、悉く皆な自分に損を懸けに来た人、自分を欺く為に来た人だと思つて接する心情で、今一つは恰度之と反対に、遇ふほどの人見るほどの人を総て皆な誠意あるものとして遇し、自分も亦誠意を披瀝して之に接する心情である。人によつて客に接する法が斯く二つに別れる。

▲虚偽欺瞞の接客法

他人から何事か依頼せらるれば、十中八九までは依頼した方には利益になるが、依頼せられて引受けた当人には、多少とも損失が懸る事になるのである。損失とは必ずしも金銭上の損失を意味するので無いが、時間を損するとか。或は又、直接自分の利益にもならぬ事の為に特別の注意を払つて、面倒を見てやらねばならぬといふ事になるものである。

又、多くの人に接するうちには、表面だけは如何にも敬虔を装ふて所謂巧言令色、仮令ば、私が論語の談話でもすると之に相槌を打つて、至極難有さうに謹聴して厶るが、内心は侮蔑を以て視『渋沢も馬鹿な事ばかり曰つてる男だ、勝手に話さして置けば悦んでるから聴いてやるんだ』と云つたやうな心情で、外と内との違つてる方が無いとも限らぬ。更に一層甚しい邪な心を持つた人になると、那個人を一つ騙して之を煽てあげ自分の利益を謀るやうにしてやらうなぞと、計らぬとも限らぬ。沢山の人のうちには、斯る宜しからぬ方も多いので、遂に『赤いものを見たら火事と思へ、人を見たら泥坊と思へ』といふ如な[き]諺までが、出来るやうになつたものと思はれる。

然し赤いものを見さへすれば、総て之を火事と思ふやうに見るほどの人を悉く泥坊と思つて接することになれば、自分の心情にも亦誠意が無くなり、那個人は己れを瞞しに来たのだから、瞞されぬやうに一つコチラからも其裏を搔いてやれと、偽に接するに偽を以てし、巧言令色を以てするやうになる。斯く互に瞞し合つて背後で舌を出してるやうにでもなると、世の中は全く治りが着かぬ事にも相成り、世道人心に悪影響を及ぼす事夥しく、世間の風潮が甚だ面白くないものになつてしまう恐れがある。

▲私は門戸開放主義

私は、人に接し客を見るには、悉く之を泥坊と思ふが如き心情を以てせず、誠意を披瀝して客に接し、誠心を体して人を引見することに致して居る。决して疑ぐらずに誠を以て総ての人を遇するのが、私の主義である。

世間には、又客の来訪を受けても、之に接するのを頗るオツクウなものに考へて、初めて来訪した人などに対しては、力めて遇はぬやうにせらる〻方々もある。殊に、相当世間に名を成しでもした豪い方などになると、一層この傾きが甚しい。私が知人の宅を訪ふてる際なぞに、これは親しく実見するところであるが、来訪者があるのを召使が主人に取次でもすると『今日は忙しいから遇はれぬ』とか、『何時遇へるか解らぬ』とか、乃至は又『当分遇へる日が無い』とかと、格別の忙しい事や故障が無ささうであるのに、強ひて来客を断り、何んだか人に遇ふのを、大変面倒な事にして居らる〻方を見受ける塲合が多い。少し、名のある人は、成るべく客に遇ふのを避けやうとするのが、一般の傾向である。

然し、私は、既に前回までにも申述べて置いた如く、誰様にでも病気とか止むを得ざる支障でも無い限り、决して御面会を謝絶せず御来訪下さる方には、必ず御目にか〻ることにして居る。これは、昔も今も変らず、明治四年或はそれ以前より今日までに実行し来つた所である。

▲人物観察法

斯んな風で、世間に多少名を成して顕れてる方々のうちで、容易く簡便に来客に接せらる〻方は先づ少ないやうであるが、大隈伯丈けは、稍〻私と同じ御店の張り方で、来るものは拒まず、誰でも之を引見して面談せらる〻やうに御見受け申すが、其他には私と同じやうな門戸開放主義の方が余り無いらしく思はれる。私を訪問せられる方々のうちには、私に交りを求められる為めの方もあれば、又不肖なる私の談話でも聴かうといふ御篤志の方もあり、又、私によつて用便を達さうといふ方もある。実に、いろいろであるが、私はそれに対して何れも誠意を以て御応対申し上げ、誠心を披瀝することに致して居る。私を御訪ね下さる多くの方々のうちには、私が如何に誠心誠意を以て其人に対しても誠心誠意を以て私に対して下されぬ方もあるか知れぬが、人間と申すものは不思議なもので、コチラから誠意誠心を以てすれば不思議に先方も亦誠意誠心を以て対して下さるやうになり、偽り得なくなるものである。

私は、斯く誰様にでも厭ふところなく御面会し、誠意誠心を以て御応対申上げ、交りを求められる御方には交り、談話を聴かうと仰せらるる方には不恙ながらも談話を致し、用便を達されやうとする方には及ばず乍ら出来る丈けの御便宜を計るやうにはして居るが、其間にも又私で、私の人物観察法といふものがあつて、御来訪下さる多くの方々に就て一々識別を致すことにして居る。然し、人物を識別若くは鑑別するといふ事は却々以て難渋なもので、古人も人物観察法に就て、種々の意見を述べられて居る。

▲私の人物観察鑑別法

佐藤一斎先生は、人と初めて会つた時に得た印象によつて其の人の如何なるかを判断するのが、最も間違ひの無い正確な人物観察法なりとせられ、先生の著述になつた「言志録」のうちには「初見の時に相すれば人多く違はじ」といふ句さへある。初めて会つた時に、能く其の人を観れば、一斎先生の言の如く多くは誤たぬもので、度々会ふやうになつてからする観察は考へ過ぎて却て過誤に陥り易いものである。初めて御会ひした初見の時に、この方は大抵斯んな方だな、と思ふた感じには、いろ〳〵の理屈や情実が混ぜぬから、至極純なところのあるもので、その方が若し偽り飾つて居られるれば[らるれば]、その偽り飾つてられるところが、初見の時にはチヤンと当方の胸の鏡に映つてアリ〳〵と見えることになる。然し、度々御会ひするやうになると、アヽで無いカウであらう、など〻、他人の噂を聞いたり理屈をつけたり、事情に囚はれたりして、考へ過ぎることになるから、却て人物の観察を過まるものである。

又、孟子は「孟子」巻五七[巻七]離婁章句上に「存乎人者。莫良於眸子。眸子不能掩其悪。胸中正。則眸子瞭焉。胸中不正。則眸子眊焉。[」](人に存するものは眸子より良きは莫し、眸子は其の悪を掩ふこと能はず。胸中正しければ則ち眸子瞭かなり。胸中正しからざれば則ち眸子眊し)と、孟子一家の人物観察法を説かれて居る。即ち、孟子の人物観察法は、人の眼によつて其人物の如何を鑑別するもので、心情の正しからざるものは、何となく眼に曇りがあるが、心情の正しいものは、眼が瞭然して淀みが無いから、之によつて其の人の如何なる人格なるやを判断せよといふにある。この人物観察法も却々確的の方法で、人の眼を能く観て置きさへすれば、その人の善悪正邪は大抵知れるものである。

▲孔夫子の人物観察法

子曰。視其所以。観其所由。察其所安。人焉痩[廋]哉人焉痩[廋]哉。(子曰く、其の為す処を視、その由る処を観、その安んずる処を察すれば、人焉んぞ隠くさんや、人焉んぞ隠くさんや。)

初見の時に人を相する佐藤一斎先生の観察法や、人の眸子を観て其人を知る孟子の観察法は、共に頗る簡易な手つ取り早い方法で、是れによつて大抵は大過なく、人物を正当に識別し得らるるものであるが、人を真に知らうとするには、斯る観察法では臻らぬ処があるから、茲に挙げた論語「為政」篇の章句の如く、視、観、察の三つを以つて人を識別せねばならぬものだといふのが、孔夫子の遺訓である。

「視」も「観」も共に「ミル」と読むが、「視」は単に外形を肉眼によつて見るだけの事で、「観」は外形よりも更に立ち入つて其奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見る事である[。]即ち、孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まづ第一に、其の人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相し、それより其の人の行為は何を動機にして居るものなるやを篤と観、更に一歩を進めて、その人の安心は何れにあるや、其の人は何に満足して暮してるや等を知ることにすれば、必ず其人の真人物が明瞭になるもので、如何に其の人が隠くさうとしても、隠くし得られるものでないといふにある。如何に外部に顕れる行為だけが正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、その人は决して正しい人であるとは謂へぬ。時には、悪を敢てする事無しとせずである。又、外部に顕れた行為も正しく、之が動機となる精神も亦正しいからとて、若しその安んずるところが飽食暖衣逸居するに在りといふやうでは、時に誘惑に陥つて意外の悪を為すやうにもなるものである。故に、行為と動機と、満足する点との三拍子が揃つて正しくなければ、其人は徹頭徹尾永遠までも正しい人であるとは申しかねるものである。

▲祖先崇拝は温故知新

子曰。温故而知新。可以為師矣。(故きを眸[温]ねて新しきを知れば、以て師となるべし。)

兎角、新しきを追へば、故きを忘れて沈着なる処なく、之に反し故事にのみ拘泥して居れば、新しきを取らずして因循姑息に流れ、固陋に傾き易いのが、万人の陥る通弊である。青年子弟諸君は、深く此の消息に注意し、新しきを追ふも故きを忘れず、故きを温ぬるも進取の気性を失はず、故きに就て新しきを学ぶやうにせねばならぬものである。

祖先崇拝といふことも、其精神とする処は、畢竟するに温故知新に外ならぬもので、祖先のした偉業に就て学び、大に自ら啓発せられんとするにある。長上を尊敬せねばならぬといふ事も、是又温故知新の一種で、自分より先きに此の世の中に出て此の世の中に働き、自分よりも久しい経験のある人々に就て学び、新に進まんが為めの資料を得んとする趣旨に外ならぬ。

▲大蔵省改正掛の事業

私が新政府に仕官して後に、大隈伯の所謂八百万の神々をして神はかりにはからさせる目的で設けられた大蔵省の改正掛に於ては私なぞ主として種々の提案を致したものであるが、その精神とする処は一に孔子の論語に教へられた温故知新の義を体し、明治御新政の運転を円滑ならしめ、所謂「為師」整然たる制度を立てんとするにあつたのである。改正掛に於て私が発案した種々の改正事業のうちでも、最も困難に感じたのは、従来租税が現物即ち米穀で納入せられて居つた制度を改正して、現金で納入せしむるやうに致さうといふのにあつた。

御維新後と雖ども、私が大蔵省に入つた時は、まだ租税が総て米穀によつて納入せられ、また米を官庁が官庁の手で船を艤装し、之に積み込んで東京とか大阪とかの都会まで持ち出し、東京で申せば浅草蔵前の米倉だとか又大阪には大阪で同じく官庁所属の米倉があつて、之に入れ、それから、当時「札差し」と称せられた御用商人に命じて、総て之を売捌かしめ、漸く現金になつたところで、初めて国庫に現金が入るといふ組織であつたのである。

▲租税現金納入制度の発案

然るに、俄に米穀で租税を納入する制度を廃し、総て現金で納めさせることにすれば、地方の米穀産地では、租税に向けるべき米穀を其地方で売り捌いてしまふ事が困難な為に、地方に於ける米穀の値段は、供給過剰で自然下落することになる。又、東京とか大阪とかの都会では、従来の如く米穀がドシ〳〵移入せられて来ぬので供給不足となり、米穀の値段が非常に差を生ずるに至る恐れがあつた。

この心配を取り除かうとすれば、地方に於ける過剰米穀を東京とか大阪とかの都会に移出して売捌く事の出来るやうに官庁が米穀運搬の世話を民間の為に焼てやるまでにして船なども凖備せねばならぬ、といふ事情もあり、旁々現物納入を廃して現金納入に変ずる新租税制度は、私の発案したものではあるが、却々実行が六ケしく、そのうち私も明治六年には官途を退くことになつたものだから、現金納税制度は良い方法であると知られつ〻も実施せられず、私の退官後明治七年に至り、故陸奥宗光伯が租税頭となるに及んで漸く実施せられる事になつたのである。これによつて考へて見ても如何に故例を壊さず新しきに進むといふ事が、困難のものであるか〻゙ 、知り得られるだらうと思ふ。

▲器ならざりし大久保利通

子曰。君子不器。(子曰く、君子は器ならず)

孔夫子は、君子は器物の如きもので無いと、仰せられてある。苟も、人間である以上は之を其技能に従つて用ひさへすれば、必ず其用をなすものであるが、箸には箸、筆には筆とそれぞれ得意の一技一能があるのみで、万般に行き亘つたところの無いものである。然し、非凡な達識の人になると、一技一能に秀いでた器らしいところが無くなつてしまひ、将に将たる奥底の知れぬ大きなところのあるものである。

大久保利通卿は私を嫌ひで、私は酷く卿に嫌はれたものであるが、私も亦、大久保卿を不断でも厭やな人だ、と思つて居つたことは、前回に申述べ置いた如くである。然し、仮令、大久保利通卿は私に取つて虫の好かぬ厭やな人であつたにしろ、卿の達識であつたのには驚かざるを得なかつた。私は大久保卿の日常を見る毎に、器ならずとは、必ずや卿の如き人を謂ふものであらうと感歎の情を禁じ得なかつたものである。

大抵の人は、如何に識見が卓抜であると評判せらるるほどでも、其の心事の大凡は外間から窺ひ知られるものであるが大久保卿に至つては、何処辺が卿の真相であるか、何を胸底に蔵して居らるるのか、不肖の私なぞには到底、知り得るもので無く、底が何れぐらゐあるか全く測ることの出来ぬ底の知れない人であつた。毫も器らしい処が見えず外間から人をして容易に窺ひ得せしめなかつた非凡の達識を蔵して居られたものである。私も之には常に驚かされて「器ならず」とは大久保卿の如き人のことだらうと、思つてたのである。底が知れぬだけに又、卿に接すると、何んだか気味の悪るいやうな心情を起させぬでも無かつた。之が私をして、何んとなく卿を「厭やな人だ」と感ぜしめた一因だらうとも思ふ。

▲幕政廃止の意なかりし大西郷

西郷隆盛公は、是れも却々達識の偉い方で、器ならざる人に相違ないが、同じく器ならずでも大久保卿とは余程異つたところのあつたものである。一言にして謂へば、頗る親切な同情心の深い人で、如何にせば、他人の利益を計ることが出来やうかと、他人の利益を計らう〳〵といふ事ばかりに、骨を折つて居られたやうに、私は御見受け申したのである。

彼の山岡鉄舟先生が、江戸城からの使者で駿府の征東総督府を訪ひ、隆盛公に会つた時に、慶喜公を備前に御預けにしやうといふ提議に対し不承知を唱へると、公が山岡先生の情を酌み即座に山岡先生の議を入れて、備前に御預けの事は廃めにしよう、と快く一諾の下に引受けられたなぞは、全く隆盛公が凡庸の器で無く、深い達識のあつた器ならざる大人たるの致したところだらうと思ふが、畢竟するに、他人の利益を計つてやらう〳〵との親切な同情が深くあられたからの事であらうと存ずる。又、私の観るところを以てすれば、隆盛公には其始め幕府政治を全く廃止してしまはれやうとの気もあられなかつた如うに思はれる。

▲大西郷は賢愚に超越せり

西郷隆盛公とても、素より徳川幕末の制度組織では、到底今後の政治を円滑に行つてゆかれるもので無い事には気が付かれて居つたに相違ないが、唯、幕府に従来あつた御老中制度を廃止し、之を年寄制度に改めて、諸藩の新しい人材を年寄として召し集め、幕府政治を行つてゆきさへすれば、それで容易に国政の改革を断行し得られるものと信ぜられ、強ひて幕府を倒す必要が無い、と考へられて居つたやうに思はれる、私が前回までのうちに申述べ置いた如く、一旦徳川幕府が倒れても、今日となつて観れば誠に畏れ多い次第だが、御親政の御代とならず、必ずや豪族政治になるものだらうと愚考して、一橋慶喜公が第十五代の征夷大将軍になられるのに反対したのも、実は西郷隆盛公に、如何しても徳川幕府を潰してしまはねばならぬとの御意志が無いものと看取したからの事である。

隆盛公の御平常は至つて寡黙で、滅多に談話をせらる〻ことなぞの無かつた方であるが、外間から観たとこでは、公が果して賢い達識の人であるか、将た鈍い愚かな人であるか一寸解らなかつたものである。此点が西郷隆盛公の大久保卿と違つてたところで、隆盛公は人に馬鹿にされても馬鹿にされたと気が付かず、その代り他人に賞められたからとて、素より嬉しいとも悦ばしいとも思はず、賞められたのにさへ気が付かずに居られるやうに、見えたものである。何れにしても頗る同情心の深い親切な御仁にあられて、器ならざると同時に、又将に将たる君子の趣があつたものである。

▲文雅な木戸公と器に近き勝伯

木戸孝允卿は、同じく維新三傑のうちでも、大久保卿とは違ひ、西郷公とも異つたところのあつたもので、同卿は大久保卿や西郷隆盛公よりも、文学の趣味が深く、且つ、総て考へたり行つたりすることが組織的であつた。然し、器ならざる点に於ては、大久保、西郷の二傑と異るところが無く、凡庸の器に非ざるを示すに足る大きな趣のあつたものである。

勝伯とても素より達識の方で、凡庸の器でなかつたには相違ないが、大久保、西郷、木戸の三傑に比すれば、何れかと謂ふに、余程、器に近かいところがあつて、器ならずとまでは行かなかつたやうに思はれる。

其他、伊藤公、或は現に御存命の山県公にしろ井上侯にしろ松方侯にしろ将た大隈伯にしろ、あれまでに成られる方々のこと故、何れも凡人と違ふ秀でたところのある人々であられたに相違ないが、維新三傑の如く、器ならざる方々にあらせられるや否や、之れは現下私から申述べるのを、御遠慮申上げることにする。なほ、是等の方々の外に、現今の政治界にも実業界にも器ならざる大人物があるのは必定で、器ならざる大人物は、維新の三傑に限られたわけでないが、現在の人物に就て批評がましい愚見を述べるは憚るべきことであらうから申上げぬ事に致し、維新の三傑は流石に三傑と崇められるだけあつて、異つたところのあつたものだ、といふことだけを申述べて置く。

(実業之世界掲載)

人物の観察法(処世と信条)

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