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◎人物の観察法

 佐藤一斎先生は、人と初めて会つた時に得た印象によつて其人の如何なるかを判断するのが、最も間違ひのない正確な人物観察法なりとせられ、先生の著述になつた『言志録』のうちには、『初見の時に相すれば人多く違はじ』といふ句さへある、初めて会つた時に能く其人を観れば、一斎先生の言の如く多くは誤たぬもので、度々会ふやうになつてからする観察は考へ過ぎて、却つて過誤に陥り易いものである、初めてお会ひした其の時に、この方は大抵斯んな方だなと思ふた感じには、いろ〳〵の理窟や情実が混ぜぬから、至極純な所のあるもので、その方が若し偽り飾つて居らるれば、その偽り飾つて居らる〻所が、初見の時にはチヤンと当方の胸の鏡に映つてあり〳〵と見えることになる、併し度々お会ひするやうになると、あ〻でない斯うであらう抔と、他人の噂を聞いたり、理窟をつけたり、事情に囚はれたりして考へ過ることになるから、却つて人物の観察を過まるものである。

 また孟子は『存乎人者、莫良於眸子、眸子不能掩其悪、胸中正、則眸子瞭焉、胸中不正、則眸子眊焉』と、孟子一家の人物観察法を説かれて居る、即ち孟子の人物観察法は、人の眼によつて其の人物の如何を鑑別するもので、心情の正しからざるものは何となく眼に曇りがあるが、心情の正しいものは、眼が瞭然として淀みがないから、之によつて其人の如何なる人格であるやを判断せよといふにある、この人物観察法もなかなか的確の方法で、人の眼を能く観て置きさへすれば、その人の善悪正邪は大抵知れるものである。

 論語に『子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉庾[廋]哉、人焉庾[廋]哉』、初見の時に人を相する佐藤一斎先生の観察法や、人の眸子を観て其人を知る孟子の観察法は、共に頗る簡易な手ツ取り早い方法で、是によつて大抵は大過なく、人物を正当に識別し得らる〻ものであるが、人を真に知らうとするには、斯る観察法では到らぬ所があるから、茲に挙げた論語為政篇の章句の如く、視、観、察の三つを以て人を識別せねばならぬものだと云ふのが、孔夫子の遺訓である。

 視も観も共に「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によつて見るだけの事で、観は外形よりも更に立ち入つて其奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見ることである、即ち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、先づ第一に其人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相し、それより其人の行為は何を動機にして居るものなるやを篤と観、更に一歩を進めて、其人の安心は何れにあるや、其人は何に満足して暮してるや等を知ることにすれば、必ず其人の真人物が明瞭になるもので、如何に其人が隠さうとしても、隠し得られるものでないといふにある、如何に外部に顕はれる行為が正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、其人は決して正しい人であるとは言へぬ、時には悪を敢てすること無しとせずである、また外部に現はれた行為も正しく、これが動機となる精神も亦正しいからとて、若しその安んずるところが飽食暖衣逸居するに在りといふやうでは、時に誘惑に陥つて意外の悪を為すやうにもなるものである、故に行為と動機と、満足する点との三拍子が揃つて正しくなければ、其人は徹頭徹尾永遠まで正しい人であるとは言ひかねるのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.13-17

出典:実験論語処世談(五)(『竜門雑誌』第329号(竜門社, 1915.10)p.11-19)

サイト掲載日:2024年11月01日