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道徳は進化すべきか

 道徳といふものは、他の理学化学のやうに、段々進化して行くものであるか、詰り道徳は文明に従つて進化すべきものであるかと云ふのである、一寸了解し難い言葉であるが、前にも言ふ如く、宗教信念を以て道徳を堅固にするが宜いか、さなくとも論理の上から徳義心は維持出来るものであると云ふやうに、追々其の解釈が進化し来りはせぬか、蓋し道徳といふ文字は、支那古代の唐虞の世より、王者の道といふのが即ち道徳の語原である、故に道徳といふ文字は余程古い。

 進化は生物のみでは無い、若しもダーヴヰン氏の説に拠りて、古いものは自然に進化すべしと言は〻゙ 、科学の発明、生物の進化に伴つて、追々に変更するといふことになつて然るべき訳ではないか、但し進化論は多くの生物に就て説明したやうであるけれども、研究を重ねて往つたならば、生物でなくても追々推移変更するものではないか、変るといふよりは寧ろ進み行く有様がありはせぬか、何時頃の教であるか知らぬが、支那で唱へる二十四孝は、種々なる孝行の例を二十四挙げてある、其の中に最も笑ふべきは郭巨といふ人が、其の身貧にして親を養ふ資財なく、為めに吾が児を生埋にしやうと思つて土を掘つたら釜が出た、其の釜の中に多くの黄金があつたので、吾が児を生埋にせずとも親を養ふことが出来た、即ち孝の徳であると云うて居る、若し今の世の中で、親孝行の為めに我が児を生埋にすると云ふたならば、馬鹿な事をする、困つたものだと人が評するに相違ない、即ち孝の一事にしても、世の進歩に伴れて人の毀誉が異ると云つても宜いと思ふ、更に一の例を云へば、王祥が親を養ひたい為に、鯉魚を捕ふるとて、裸体になつて氷の上に寝て居つたら、鯉が飛出したといふことがある、是は戯作かも知らぬが、若し事実としたならば、如何に孝道なればとて、其の心の神に感通する前に身体が凍死したならば、却つて孝道に反するであらう。

 想ふに二十四孝の教旨の如きは、仮設のものにて的例にはなり難きも、善事といふことに就ては、見方が世の進歩と共に色々に変るといふことがありませぬか、若し或る物質に就て考へたら、即ち電気もなく蒸気も無かつた時のことを今日から回想して、殆んど並べ較べにならぬやうになる、故に道徳といふものも左様にまで変化するものであれば、昔の道徳といふものは余りに尊重すべき価値は無くなるが、併し今日理化学が如何に進歩して、物質的の智識が増進して行くにもせよ、仁義とか云ふものは、独り東洋人が左様に観念して居る許りではなく、西洋でも数千年前からの学者、若くは聖賢とも称すべき人々の所論が、余り変化をして居らぬやうに見える、果して然らば古聖賢の説いた道徳といふものは、科学の進歩に依て事物の変化する如くに変化すべきものでは無からうと思ふのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.189-192

参考記事:竜門社秋季総集会に於て(『竜門雑誌』第320号(竜門社, 1915.01)p.14-18)

サイト掲載日:2024年03月29日